おやすみ、ピアニスト。
尾八原ジュージ
おやすみ、ピアニスト
ロージーが死んだ。老衰のために死んだのだ。わたしの知るかぎり、彼女はこの世界で最後に生き残ったたった一人の人間で、最後のロボット技師だった。
この屋敷で、「日によって違う音楽を聞きたい」という望みを持っていたのは彼女だけだった。ロージーがいなくなった今、わたしが演奏するのは二分足らずの子守歌だけだ。来る日も来る日も同じ曲を弾き続けている。
わたしはロージーのロボットで、名前は
わたしは屋敷のホールの端に設置された黒いグランドピアノの前に腰掛けている。栗色の巻髪を豊かに垂らし、モスグリーンのドレスを着た少女の姿をしている。ピアノを演奏する以外のことは、何もしない。背中の真ん中にあるスイッチを押すと、わたしは動き始める。わたしはわたしの中に記録されたデータに従って、人間のピアニストの演奏を再現する。
わたしに移動する機能はない。黒い靴を履いた少女の足は、ピアノのペダルを踏むことしかできない。たとえホールの屋根が落ちてきても、わたしがここから動くことはない。
ピッ、ピッ、ピッ。起動の直前はカウントダウンのような音が聞こえる。
ピアノの蓋は、すでに
「おはようございます。
わたしはピアノを弾き始める。
それから
「おはようございます」
「おはようございます」
わたしが子守歌を十回弾き終えるころ、
「
そう言ってわたしのスイッチを押すのは、かつては
ロージーは様々な曲をリクエストし、わたしが奏でる曲はその度に変わった。今日は春のにおいがするからベートーヴェンを弾いてちょうだい。今日は雨音が大きいからガーシュインを弾いてちょうだい。そう言いながら彼女は曲を切り替える。わたしはそれを奏でる。
ロージーは返事のひとつもできないわたしに向かって、よく喋るひとだった。
「
最後の夜、ロージーは彼女の母親が弾いたブラームスの子守歌をわたしに弾かせ、拍手をした。それから、ピアノを弾き終えたばかりの、わたしの陶器でできた白い手の上に、自分の手を重ねた。昔は同じ陶器のようにすべすべしていたロージーの手は、今はしわくちゃになり、おまけにその日はいつになくゆっくりと動いた。
「いつも素敵な演奏をありがとう。おやすみなさい」
ほかのロボットたちと違い、わたしの電源は起動から一時間経つと自動的に切れる。ロージーはわたしのスイッチが切れる前に、
その翌朝、
遺体は
雨が降る。わたしは子守歌を弾く。雷が鳴る。わたしは子守歌を弾く。風が窓を揺らす。わたしは子守歌を弾く。天窓から差し込む日の光が夏のそれになり、冬のそれになり、夏になり、冬がきて、来る日も来る日もわたしは子守歌を弾く。
誰も曲を替えない。
今この世界に、ロボットの修理ができる技士はいるのだろうか? 仮にいたとして、それはきっと人間ではないだろう。ロボットを修理するための機能を備えたロボットなのだろう。
「ロージーがいれば、きっと
あまり性能の良くない人工知能で、わたしはわたしの電源が切られている間のことを考えてみる。その間、わたしは死んでいるのかもしれない。電源を入れられ、ピアノを弾く間だけ生きているのかもしれない。そもそもわたしに生死などという概念はなく、また心だの魂だのというものも持っていないのかもしれない。
ひょっとしたらまだどこかにいるかもしれない人間が、いつかこの屋敷にやってきて、眠っているわたしの電源を入れることがあるかもしれない。あるかもしれないが、それが一体なんだというのだろう。
朝、
天窓の上、青空と白い雲が見える。ホールにはピアノの音が響く。
演奏を終え、わたしは両手を膝の上にのせる。
この屋敷でかつて、ロージーという花の名前を持った人間の女が生き、老いて、死んだ。
彼女は人間としてはひとりきりだったが、孤独ではないとよく言っていた。
わたしには孤独というものがわからない。心というものは、わたしにはおそらく存在しない。それなのに何だろう、ピアノを弾き終えて、膝に両手を戻すとき、ロージーの拍手の音が聞こえないことを思い出すと、わたしの胸の奥で何かが軋むのだ。
ピッ、ピッ、ピッ。
「おはようございます。
わたしはピアノを奏でる。同じ子守歌を、電源が自動で切れるまで、何度も弾き続ける。
やがてわたしは手を止める。膝の上に手を置く。陶器の瞼が硝子製の眼球を覆う。子守歌の残響はまだ室内のそこここに漂っている。
もう眠るときだ。歯車は動きを止め、わたしはただの重くて冷たい置物になる。刹那、わたしはもういない主人のことを思い出す。おやすみなさい、ロージー。よい夢を。
おやすみ、ピアニスト。 尾八原ジュージ @zi-yon
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