おやすみ、ピアニスト。

尾八原ジュージ

おやすみ、ピアニスト

 ロージーが死んだ。老衰のために死んだのだ。わたしの知るかぎり、彼女はこの世界で最後に生き残ったたった一人の人間で、最後のロボット技師だった。

 この屋敷で、「日によって違う音楽を聞きたい」という望みを持っていたのは彼女だけだった。ロージーがいなくなった今、わたしが演奏するのは二分足らずの子守歌だけだ。来る日も来る日も同じ曲を弾き続けている。

 わたしはロージーのロボットで、名前は演奏家ピアニスト。少なくともロージーはわたしのことをそう呼んだ。

 わたしは屋敷のホールの端に設置された黒いグランドピアノの前に腰掛けている。栗色の巻髪を豊かに垂らし、モスグリーンのドレスを着た少女の姿をしている。ピアノを演奏する以外のことは、何もしない。背中の真ん中にあるスイッチを押すと、わたしは動き始める。わたしはわたしの中に記録されたデータに従って、人間のピアニストの演奏を再現する。

 わたしに移動する機能はない。黒い靴を履いた少女の足は、ピアノのペダルを踏むことしかできない。たとえホールの屋根が落ちてきても、わたしがここから動くことはない。


 小間使メイドは体内に発電機を持っており、もう何十年も休まず動き続けている。ロージーの死後も屋敷中をめぐって埃を払い、銀食器を磨き、夜間停止していたロボットたちのスイッチを入れる。小間使メイドがいなければわたしのスイッチが押されることはなく、ピアノが奏でられることもないだろう。看護師ナースはともかく、料理人コック司書ライブラリアン庭師ガーデナーもこのホールには来ないし、わたしも会いにいくことはないのだから。

 ピッ、ピッ、ピッ。起動の直前はカウントダウンのような音が聞こえる。

 ピアノの蓋は、すでに小間使メイドによって開けられている。わたしは膝の上に置いた手をゆっくりと上げ、鍵盤の上におとす。天窓から光が差し込み、グランドピアノの上に光の円を描く。

「おはようございます。演奏家ピアニスト

 小間使メイドは長いスカートのすそをつまんで優雅に挨拶をする。真っ白だったエプロンは、日焼けのためにくすんだ色に変わっている。

 わたしはピアノを弾き始める。

 それから小間使メイドはコツンコツンと足音をたててホールを出て行く。他のロボットたちのスイッチを入れに向かうのだ。わたしたちのスイッチのオンオフ。それが生前のロージーから任された、小間使メイドの仕事のひとつだった。料理人コック司書ライブラリアン看護師ナース庭師ガーデナー。それぞれ電源を入れられたロボットたちの足音が、屋敷の中に響き始める。交わし合う挨拶も聞こえる。

「おはようございます」

「おはようございます」

 主人ロージーのいない屋敷の中で、ロボットたちは当時の生活を際限なく繰り返し、各々の持ち分を維持しようとし続ける。庭師ガーデナーは伸びすぎた枝を切り、料理人コックは包丁を研ぎ、司書ライブラリアンは書庫を見廻り、看護師ナースは誰もいないベッドの脇に控える。

 わたしが子守歌を十回弾き終えるころ、看護師ナースが押す車椅子の音が聞こえてくる。ロージーが死んだ今、看護師ナースが押しているのは、空っぽの車椅子だ。


演奏家ピアニスト、ピアノを弾いてちょうだい」


 そう言ってわたしのスイッチを押すのは、かつては小間使メイドではなくロージーであることが多かった。

 ロージーは様々な曲をリクエストし、わたしが奏でる曲はその度に変わった。今日は春のにおいがするからベートーヴェンを弾いてちょうだい。今日は雨音が大きいからガーシュインを弾いてちょうだい。そう言いながら彼女は曲を切り替える。わたしはそれを奏でる。

 ロージーは返事のひとつもできないわたしに向かって、よく喋るひとだった。

演奏家ピアニスト、あなたは今日も綺麗ね。お母さまの若いころにそっくり。あのね、あなたが再現しているのは、わたしのお母さまの演奏なのよ」

 最後の夜、ロージーは彼女の母親が弾いたブラームスの子守歌をわたしに弾かせ、拍手をした。それから、ピアノを弾き終えたばかりの、わたしの陶器でできた白い手の上に、自分の手を重ねた。昔は同じ陶器のようにすべすべしていたロージーの手は、今はしわくちゃになり、おまけにその日はいつになくゆっくりと動いた。

「いつも素敵な演奏をありがとう。おやすみなさい」

 ほかのロボットたちと違い、わたしの電源は起動から一時間経つと自動的に切れる。ロージーはわたしのスイッチが切れる前に、看護師ナースに車椅子を押させて部屋を出て行った。ピアノの蓋はいつものように、小間使メイドが閉めたらしい。

 その翌朝、小間使メイドがわたしの電源を入れた。わたしは起きる。小間使メイドはロージーのように、その日の気候にあわせて複数の曲の中からひとつを選択するということをしない。だからわたしは、昨晩最後に弾いたブラームスの子守歌を弾こうとする。そのとき、小間使メイドは優雅にスカートの端をつまんで一礼し、わたしにロージーの死を告げた。

 遺体は看護師ナース庭師ガーデナーが埋葬するという。ホールから動くことができないわたしは、屋敷の外、庭のどこかで、深い穴の中に土を落とす音を聞いた。


 雨が降る。わたしは子守歌を弾く。雷が鳴る。わたしは子守歌を弾く。風が窓を揺らす。わたしは子守歌を弾く。天窓から差し込む日の光が夏のそれになり、冬のそれになり、夏になり、冬がきて、来る日も来る日もわたしは子守歌を弾く。

 誰も曲を替えない。小間使メイドは毎日わたしのスイッチを押しにやってくる。わたしは子守歌を弾く。


 司書ライブラリアンが壊れたらしい。小間使メイドによればそういうことだった。

 司書ライブラリアンはこのホールに来たことがない。従ってわたしも彼女に会ったことがない。灰色のドレスを着て、丸眼鏡をかけた背の高い女の姿をしていたらしい。書庫にあるすべての本のタイトルと内容と場所を記憶し、電源を入れて指示をすればどの本でも持ってきてくれたという。この屋敷のどこかにあるという書庫に、わたしは一度も行ったことがないし、彼女の世話になったこともない。司書ライブラリアンは本棚に囲まれた通路の真ん中で、ただの彫像のように固まっているらしい。

 今この世界に、ロボットの修理ができる技士はいるのだろうか? 仮にいたとして、それはきっと人間ではないだろう。ロボットを修理するための機能を備えたロボットなのだろう。

「ロージーがいれば、きっと司書ライブラリアンを直したでしょう。もしも直すことができなければ、きっと悲しんだでしょう」

 小間使メイドは無感動にそう言った。でもロージーはもういない。老衰のために死んで、もう悲しむことも、本を読むことも、ピアノを聴くこともない。もしも魂とかいうものがあって、それはわたしたちのような機械にも備わっているのだとすれば、司書ライブラリアンの魂は今天に昇って、ロージーの魂と再会しているのかもしれない。


 あまり性能の良くない人工知能で、わたしはわたしの電源が切られている間のことを考えてみる。その間、わたしは死んでいるのかもしれない。電源を入れられ、ピアノを弾く間だけ生きているのかもしれない。そもそもわたしに生死などという概念はなく、また心だの魂だのというものも持っていないのかもしれない。

 ひょっとしたらまだどこかにいるかもしれない人間が、いつかこの屋敷にやってきて、眠っているわたしの電源を入れることがあるかもしれない。あるかもしれないが、それが一体なんだというのだろう。

 朝、小間使メイドがやってくる。わたしの電源を入れる。わたしの歯車が動き始める。おはよう、演奏家ピアニスト。わたしの手が鍵盤にふれ、音程が狂い始めたピアノが子守歌を奏で始める。調律ができる人間はまだ生きているかしら。ロージーが生前呟いた言葉を思い出す。もしくはロボットの調律師がどこかにいるかしら。

 天窓の上、青空と白い雲が見える。ホールにはピアノの音が響く。看護師ナースが空っぽの車椅子を押す音が聞こえる。キイ、キイ、いつか彼女が壊れたら、あの車椅子が動くことはもう二度とないだろう。

 演奏を終え、わたしは両手を膝の上にのせる。小間使メイドはいつのまにか姿を消している。窓の外から庭師ガーデナーの足音がする。緑葉のざわめきが聞こえる。


 この屋敷でかつて、ロージーという花の名前を持った人間の女が生き、老いて、死んだ。

 彼女は人間としてはひとりきりだったが、孤独ではないとよく言っていた。小間使メイドが、看護師ナースが、司書ライブラリアンが、料理人コックが、庭師ガーデナーが、そして演奏家ピアニストがいるから、と。

 わたしには孤独というものがわからない。心というものは、わたしにはおそらく存在しない。それなのに何だろう、ピアノを弾き終えて、膝に両手を戻すとき、ロージーの拍手の音が聞こえないことを思い出すと、わたしの胸の奥で何かが軋むのだ。


 ピッ、ピッ、ピッ。小間使メイドがわたしのスイッチを入れる。

「おはようございます。演奏家ピアニスト

 わたしはピアノを奏でる。同じ子守歌を、電源が自動で切れるまで、何度も弾き続ける。

 やがてわたしは手を止める。膝の上に手を置く。陶器の瞼が硝子製の眼球を覆う。子守歌の残響はまだ室内のそこここに漂っている。

 もう眠るときだ。歯車は動きを止め、わたしはただの重くて冷たい置物になる。刹那、わたしはもういない主人のことを思い出す。おやすみなさい、ロージー。よい夢を。

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