其の二、月の夜の笛
「ミチハルに頼みたいことが二つあるんだ!」
先日、料理を振舞った小妖怪に頼みごとをされた。一つは、料理人、狭井へのお礼として花を渡してほしいとのことだった。近くに咲いていた綺麗な花を三つほど束ね、手渡された。
「俺たちはこれくらいしかお礼が出来ないから」
と言っていた。
そして、頼み事はもう一つ。
「探してほしい奴がいるんだ」
◇◇◇
「ふむ。人探しならぬ、妖探し……」
道晴は夜道を散歩がてら、頼みごとを思い出す。
「ほら京ってさ、月に一度、結界の張り替えを行うだろ?あの時に外から京に忍び込んだ奴がいてさ。一度も帰って来てないんだ」
「あー……もしかすると、出られない、なんてこともあるかもな」
傍にいた八千彦が思案する。
京には、対妖用の外部からの侵入及び、内部からの脱出が出来ない結界を張っている。噂によると、結界を生成した際に生じた、内部からの脱出不可は想定外の副産物である。しかし、特段困ったこともなかったようで、放置されているとか。
「特徴は?」
「女の子だ!琵琶を抱えた童女。多分、見た感じは霊だったから、家に戻りたかったのかもしれないけど……俺の友達なんだ!」
小妖怪が真剣な眼差しで道晴たちを見る。この妖は運がいい。何せ、この道晴。頼まれたら何でも請け負う性格である。
「分かった。探してみるよ」
「本当か!助かるぜ!」
そうやって頼みごとを聞いたはいいものの。
「うーん。どうやって探すべきか……琵琶を持った少女、琵琶を持った少女……」
楽器を嗜んでいたのなら、どこか名のある家の出だったのだろうか。それならば簡単なのだが、自ら琵琶を学んだ平民かもしれない。後者の場合はより難しい問題になりそうだ。
「音が鳴っていたら手っ取り早いんだけどなあ……」
そう、あんな風に。
そこまで考えて、何かの音が聞こえてくることに気が付いた。琵琶のような弦楽器の音ではない。
「川の方からかな……?」
道晴は川の方へ足を運ぶ。近づくにつれ、はっきりと楽器の音色が鮮明になる。涼やかで、繊細な息遣い。どこか物悲しい音色は、寂しさにも似たもので胸を締め付ける。
いや、これは緊張や不安が入り混じっているのだろうか。
一歩、また一歩。音に近づくたびに、音に乗せた想いが伝わってくる。
緊張と不安。すぐにでも折れてしまいそうに繊細で、何かを恐れている。
しかし、それでもなお、まっすぐに。
「……綺麗な音色だな……」
川に掛けられた橋の上流側の欄干にもたれかかり、ただ心を空っぽにして音に耳を傾ける。
最近は色々と考えていたからか、何も考えないこの時間が心地よい。
笛の音が宵闇に溶ける。不思議なことに、辺りに潜む妖たちが姿を現し、塀や木にもたれかかって音を楽しんでいた。
その時。
びゃん……
琵琶の音が聞こえた。道晴は下流側を振り向く。川岸の大きな石に腰かける、童女の姿があった。
だが、声をかける隙は無い。笛の音と琵琶の音が会話している。星の煌めきが闇を強調するように、異なる楽器の音は混ざり合い、静寂を惹きたてる。
今はただ、この調べに身を委ねたい。
道晴は近くにいた妖を手招きした。鞠のように跳ねて近寄ってきた妖を抱き、座り込んで音色に耳を傾ける。その様子を見ていた小妖怪たちが、続々と道晴の周りに集まる。
妖もあったかいんだな。
道晴と妖達は演奏が終わるまで、寄り添いながら二つの音色を楽しむのだった。
治部省。皇が主催するという「東宮披露の宴」の要綱が道晴たちの元にも届いた。治部省は管轄下である、
「雅楽寮から鼓二名、琴一名、笛二名を派遣するようにとの仰せだ。最終決定は私が決めるが、視察と推薦を二人に託す」
上官である治部卿、
「観察力には長けている藤道晴。それと、藤為助。お前は藤道晴の監視役だ」
「御意」
「か、監視役……」
やる気に満ち溢れる道晴とは対照的に、為助は顔を引きつらせた。
「嫌か?」
「い、いえ。別に嫌というわけではないのですが、その……」
「ないとは思うが、万が一問題や揉め事が起こった際、お前が仲裁すること。良いな?」
「は、はい……」
あと、と為家が付け加える。
「公私を混同しないように。今目の前にいるのはお前の父親ではなく、『治部卿、藤為家』だということを忘れるな?」
「……御意」
為助は、仕方なさげに項垂れた。為家は一つ頷くと、その場を後にした。
「為家様はやはり、人をよく見ていらっしゃる」
感心するするように道晴が何度も頷くその傍らで、為助は不服そうに口をとがらせていた。
「そうかなあ……友人だから、っていう理由にしか思えないけど。俺、お前の付き人かなんかだと思われてない?」
「いや、実際お前は仲裁力というか、仲を取り持つのが上手いぞ?この間も官人の喧嘩を宥めていただろう?それに、仕事に不備があれば補っているじゃないか」
誉め言葉に照れ臭さを覚えながらも、為助は思う。
道晴も、なんだかんだ人のことをよく見ているあたり、治部省の人間だよな、と。
「ま、そういう能力を褒めてくれたんだと、素直に喜んでおくか……」
納得のいく形で処理できた様子の為助を見て、道晴は微笑んだ。
雅楽寮には近々顔を出そうかと考えていたのだ。饗応の料理人は一旦保留ということで、狭井の返事を待っている。
次に誰が必要なのかを考えたときに、手帖に記していたのは楽師の存在だった。
姫の霊が言うには、誰かと共に琴を弾きたいとのことだった。詳しく聞けば、生前、一人で弾くことが多く、誰かと合わせるという経験がなかったらしい。
少し前は童女の琵琶と合わせたりしていたが、出来ることなら、笛の名手と奏でてみたい。と要望を受けている。
「そういえば、雅楽寮って入り辛いことで有名だろ?大丈夫かなあ」
「?そんなに入寮するのが難しいのか?」
「いや、そういうことじゃなくてだな……なんでも、雰囲気がなんかこう、凄いらしい」
雅楽寮に近づくにつれて楽器の音が聞こえる。更に近づくと、舞師が練習している音も聞こえる。治部省や、この間訪れた大炊寮のような人の行き交いが全くない。皆、部屋の中だ。
「う……これは確かに入り辛い……」
「同感。でも、今回は私用じゃなくてちゃんとした仕事。入るしかない」
為助がそう言って中をちらりと覗く。が、すぐに道晴の隣に帰ってきた。
「さっきの言葉撤回するわ。これは無理」
その言葉に、道晴もそっと中を覗いた。真剣な眼差しで練習している楽師が数名。それを厳しい目つきで指導している
「一曲終わるのを待つか……?」
「その方が良いかもな」
ふと、音が止んだ。代わりに話声が聞こえる。
「
雅楽頭らしき人物が次々と指摘する。はっきり言って、道晴たちにはどれも同じ音にしか聞こえなかったのだが。
「そして……
「うわ、厳し……」
為助が辛口評価に絶句する。そんなことも気にせず、一区切りついた隙を見逃さなかった道晴は、声をかける。
「失礼します。雅楽頭、少しだけお時間よろしいでしょうか。東宮披露の宴の件で参りました、治部省の者です」
「ええ。構いませんよ。お入りください」
返答がもらえると、道晴は為助に向かってぐっ、と親指を立てた。
流石、交流力お化け。と為助が心の中でぼやく。
二人は部屋の中に入ると、一礼した。
「治部省の藤道晴と申します」
「同じく、治部省の藤為助です」
「道晴殿と、為助殿ですね。東宮披露の宴について、とは?」
「皇から治部省に鼓二名、琴一名、笛二名を派遣して欲しいとの文が届きました。本日はその視察と推薦を兼ねた任を、治部卿から仰せつかって参りました由にございます」
ふむ、と雅楽頭は思案する。心なしか、楽師たちの背筋が伸びた気がする。この場にいるのは笛師十名。ここから二名が選ばれるのだ。
熾烈な実力争いなんだなあ、と埒もないことを為助は考える。
「少し、要綱を見せてもらっても?」
「どうぞ」
要綱には曲の指定がある。音楽は疎い道晴には聞いたことのない曲だが、雅楽頭ならこの曲を選んだ意味合いなどがわかるのだろうか。
「ありがとうございます。そうですね……お二人と共に判断するのですね?」
「あ……でも、我々は素人ですので……」
「出来ることなら、
雅楽頭、多俊秋は一つ頷いた。
「ええ。もちろん協力させていただきます。今回の曲は祝いの曲です。送る相手は勿論、皇一族。一族の繁栄、東宮のご健康、明るい未来が訪れるように、という祈りを込めて奏でる曲です。そんな曲にふさわしい音色を、人物を、お二人には直感的に選んでもらいたい」
「直感的、でよろしいのですか?」
為助が問う。道晴も同じ疑問を持っていたようだ。俊秋は表情一つ変えずに淡々と告げる。
「ええ。皇も皇妃も、東宮も、大臣の方も皆、音楽に特段詳しい方ではありません。それに、楽は技術だけではなく、聞き心地というものも重要です。そう、教えてきましたから」
つい、と視線を十人の楽師へ滑らす。否、と言わせない圧に、楽師どころか道晴たちまでつられて返事をする。だが、それほどまでに日々の鍛錬に自信があるのだと思い知らされる。
「で、では今日は二人ほど実力を拝見してもよろしいですか?」
「ええ。二人ずつ聞くのがよろしいでしょう。実際に吹くのは二人ですので」
では、と手前にいた二人を別室へ連れ出す俊秋。道晴と為助は、今までにない緊張感を覚えながら後を追った。
呼び出された楽師二人はきびきびと俊秋の後ろを歩く。まるで衛士のような足さばき。おそらく、笛の腕にも自信があるのだろう。それとも負けられない、という熱意の表れだろうか。
「祈り、か……」
まだ宴や行事の経験が浅い二人にとって、どのような雰囲気で演奏されるかという想像がつきにくい。
これは治部卿からの腕試し、と言っても過言ではないだろう。主に人事を掌る治部省では、適切な人材を派遣することが求められる。それ以外の事務作業的な役割もあるのだが、道晴たちは人員派遣の管轄に振り分けられている。治部省に所属して二年、まだまだ下っ端の二人だ。
「ここなら集中できるでしょう。二人はこの曲を吹いたことがありますね?六十数えるので、その間に譜を見て思い出してください」
「はい」
「治部省のお二人にも譜をお渡ししましょう。このような譜を覚えて演奏します」
譜を渡された二人はあんぐりと口を開ける。見開き十頁ほどの紙に、よくわからない言葉と記号が記されている。
「数え始めます。一、二、三……」
部屋には俊秋の数える声と、譜を捲る音だけが鳴る。吐息を漏らすのも憚られるほど、張り詰めた空気が部屋を満たしていた。
道晴は楽師たちを注意深く観察する。
左の楽師は譜を捲る速度が速い。何度も何度も繰り返し確認し、流れを重視しているのだろう。
一方で、右の楽師は譜を捲る手つきが丁寧だ。教わったことを思い出しながら、譜を辿っている。ここまででの道晴の見立ては、二人とも実力的には変わらないとふんでいる。ならば、道晴が気にするべきは、やはり音だ。
「五十八、五十九、六十……そこまで。二人とも、では演奏を始めてください」
笛を構える。怖ろしいと思ってしまうほどに揃った呼吸音の後に、甲高い音が響く。淡々と、音が続く。為助が冷や汗を流した。
これは、選ぶ側の腕にかかっている。と。
一方の道晴は、一音も逃すまいと演奏を聞く。
一つの音かと思うほど、二人の音はよく似ている。いや、溶け合っていると言った方が正しいか。明るい未来へ、二人が共に手を差し伸べてくれている。そんな音色を感じる。息があった音は、二人の仲の良さからか、もしくは共にいる年月の長さか。
祝いの曲だと言っていたからか、速度はゆったりとしているものの、曲調は明るい。
これは個人の好みが反映されやすい故に、選出が難航しそうだ。
最後の一音の余韻が消え、ふ、と部屋の空気が軽くなった。緊張感、音圧が唐突に失われたからだろう。
「いかがでしたでしょうか」
「とても息の合った演奏でした。二人分の音があるはずなのに、一人の音に聞こえるほどに溶け合っていて。双子とか、二人三脚で人生を歩んできていたような音色で……全部、素人の耳の意見ですが」
と、道晴は苦笑する。すると、俊秋と楽師二人は軽く目を見張った。
「よくわかりましたね。彼らは双子です」
「え」
予想外の正解に、流石の道晴も絶句する。楽師の二人は顔を見合わせて微笑んだ。
「道晴殿は、とても耳が良いのですね。是非楽器を嗜むことをお勧めします」
「ええ。その審美眼、いえ、審美耳ともいうべき才能、活かさなければもったいない」
「これは……選出は心配なさそうですね」
そう、雅楽頭が微笑んだ。
翌日。残りの八名の音を聞きに、道晴と為助は雅楽寮を再び訪れた。
「そういえばお前、妖達に人探しを頼まれているんじゃないのか?」
「ああ。この間川の方で見かけたんだが、笛の音と琵琶の音に思わず聞き入ってしまったから、声をかけることが出来なかったんだ」
「笛の音と琵琶の音?」
「琵琶の音はその探している妖なんだが、笛の音は誰か分からなかった」
「ふーん……そんな噂は聞いてないなあ」
「東の方だからな。貴族も少ないし」
京の東はどういうわけか貴族が住んでいない。上流貴族は皆西の方に住宅を構えている。一番の理由は、川の氾濫の危険性もあり、水はけも悪い土地だからだろうか。空き家や民家ばかりである。
少し離れた場所にあると、噂好きの貴族も聞いたことが無いのだろう。
なんだか少し、得した気分になる道晴だ。あのような美しい音色を聞いていないとはなんと勿体無いことか。
「さ、仕事仕事。宴まで時間もないし、さっさと決めようぜ、道晴」
「そうだな。審美耳と頭からお墨付きを頂いてしまったわけだし」
そう言って、二人は雅楽頭の部屋に声をかけた。
そこからは早い。用意周到な雅楽頭である俊秋はあらかじめ順番を決めておいてくれたらしい。そこには何の意図もない、無作為に選んだ組み合わせだという。
ならば、道晴と為助は座して聞くだけだ。
一組目は名家の嫡男と由緒ある笛師の孫。二組目は俊秋と同じ多家の青年と気真面目そうな40代前半の男。三組目は自己陶酔型の音色が耳に残る青年とそれに振り回されていた可哀そうな男。四組目はおそらく雅楽寮の中でも経験が長い、50代前半の男と、気の弱そうな青年。
一組目は思いのほかあっさりと終ってしまった。可もなく不可もなく、と言ったところだ。道晴の耳には、譜通りに弾いてはいるが、あの双子よりは音色の深みに欠ける、なんて素人ながら思っていた。
衝撃を受けたのは二組目。多家の青年は圧倒的だった。音圧、音色、表現、どれにおいても抜きんでている。気真面目そうな楽師を導くかのように、良い意味で自由だった。
気真面目そうな楽師が下手なわけではない。彼も十分な実力を兼ね備えている。さらにその上を行くのが、多家の青年だった。
「すご……」
「これは……素人でもわかる……」
道晴と為助はその音に圧倒される。たった一人の音だというのに、十人もそこにいるかのような刺激を体感する。
二組目が演奏し終わり、彼らが出ていったのを見て、雅楽頭は口を開いた。
「お二人に助言ですが、一番上手な楽師を選ぶというよりは、今回の宴にふさわしいであろう人物をお選びください。技量のほどは重視されますが、彼らは皆その基準を満たしていますので」
「なるほど……」
続いて三組目。この組は言うまでもない。自己陶酔型の男の演奏に、相方である男が完全に振り回されていた。これはこれで面白いのだが、今回に限っては無しだ。余談だが、後で振り回されていた男は、多家の青年に慰めてもらっているのを見かけた。
最後の四組目が入る。雅楽寮で一番経験が長い男と、明らかに自信なさげにしている気弱そうな青年。流石、経験が長い男は多家の青年とまた違って、音に深みがある。貫禄、と呼べばよいだろうか。洗練された音は無駄がない。そこに祝いの念が込められると、思わず聞き惚れてしまう、そんな音だった。
一方で、気弱そうな青年。道晴はやけにこの青年の音が気になった。音が小さく、男の音にかき消されそうなほど儚い。譜通りにも奏でている。技量も申し分ない。素直でまっすぐな音だというのに、音が小さいのが惜しい。緊張しているのか、よく見ると手が震えている。
道晴は苦笑した。確かに、近くで自分の演奏を聞かれるのは緊張するよなあ、と。
昨日、俊秋から厳しい指摘を受けていたのは彼か。
曲が終わる。二人は難しい顔をして唸った。
「む、難しい……」
「どう選ぶ……?」
最後に演奏した楽師の二人は、部屋から一礼して去っていく。
残された道晴と為助、そして俊秋は向かい合って話し合う。
「やっぱり、あの一番上手だった青年と、最後の組の人かなあ……」
「道晴殿はどうお考えですか?」
道晴はしきりに悩んだ末、納得のいったように一つ頷いた。
「最初に聞いた双子の楽師が良いと思います」
「その理由は?」
俊秋がじ、と道晴を見つめる。その気迫に負けまいと道晴は平静を保って答えた。
「雅楽寮には個性豊かな楽師たちが揃っていましたが、今回の宴は何といっても二人で演奏される曲ということで、より息の合ったお二人が望ましいのではと思いました」
自分は宴の人事の一端を任された。それは成長させるためでもあるが、采配の実力をある程度見込まれているからだ。ここは自分を信じるしかない。それが俊秋と異なる意見だったとしても曲げてはならないと、道晴は考える。
僅かな沈黙の間で、道晴と俊秋に緊張が走る。
ふと、その緊張はすぐに和らいだ。
「では、道晴殿の采配通りに。当日は彼らに任せましょう」
「良いんですか?」
「ええ。彼らなら問題ないでしょう。東宮披露の宴であるならば、主役はあくまで東宮及び皇一族ですので、二人なら食ってしまうこともないかと」
ふむ、主役か。と道晴は独り言つ。主役を立てる宴。その精神は饗応にも使えそうだ。
「さ。無事決まったことだし、とりあえず治部卿に報告しに行かないと」
「そうだな。俊秋様。ありがとうございました」
一礼する道晴と為助に、俊秋は淡く微笑んだ。
「礼には及びません。こちらこそ、宴への参加の機会を頂きありがとうございます、と治部卿にお伝えください」
はい。と二人は返事をする。二人は部屋の入り口で再度礼を言うと、雅楽寮を後にしようとした。
そのとき、道晴の耳に雅楽寮生の声が入ってきた。
「明日……、……よ」
「……はい」
小さな声は内容が聞き取れない。道晴は話声が聞こえた部屋を、通り際に戸の隙間から覗く。自己陶酔型の男が、気弱そうな青年に何かを言っている。青年は傍から見ても委縮していた。あまり気の良くない光景に、道晴の目が据わる。
「道晴―、置いていくぞー。……って、お前がそんな顔するなんて珍しい」
「ん?ああ、ちょっとな……」
他寮の者が口を出せることではない。告発するにも時間が短すぎる。内容も聞き取れていないうえに確証もない。
だが、あの構図は誰が見ても気分の良くないものだった。
明日、という単語が引っかかる。
そういえば、饗応のための楽師を探すことをすっかり忘れていた。
「……また明日、顔を出してみるか……」
帰宅後、道晴は父、道康に呼び出された。
「どうされましたか?父上」
「来月に行われる東宮披露の宴については知っているな?」
「はい。存じております」
「その宴には皇直々に招待された客と、その客の付き人一名までが列席を許される」
宴に招待されるのは殿上人。つまり大臣、神祇頭、省の最高位である卿だ。その他、招待ではないものの、駆り出される人材として警備のための衛士、妖や呪詛から守るための神祇官、雅楽のための楽師、舞師、配膳のための大炊寮頭と数名の大炊寮生などが出席する。招待客ではない彼らには席は用意されず、代わりに控室として、普段は薬師や侍医が控えている福殿が使用可能になるのだ。
「私の付き人として、皇、皇后直々にお前が指名されている」
「はい。……はい!?指名!?」
道晴は思わず前傾姿勢をとる。皇はおそらく饗応のことで何か話があるのだろうが、皇后に指名される理由に見当もつかない。
「皇は饗応についてお前と話をされたいとのことだ。皇后は……何を考えているのかよくわからないが。藤家に説教か、東宮の従兄として挨拶しに来いのどちらかだろうな」
げ、と道晴は呻く。後者は問題ないのだが、前者は勘弁してほしい。叔母とは数回しかあったことが無いが、身内への当たりが強いことはよく知っている。
皇后であり、道晴の叔母であり、道康の妹である藤の御方は、藤家の中でも一二を争う自尊心の強い人物である。出世に必死な兄や父を見て育ち、自ら皇妃への入内を望み、待望の東宮を出産、今の藤家の地位を確立させたのが藤の御方だ。故に、道康を始め藤家の人物は皆頭が上がらない。そして、皇后の親戚という立場であるということを忘れないために、何か粗相をした場合は皇后直々に呼び出し、説教をすることで有名なのだ。
「理由は何にせよ、お前は来月、私と一緒に内宴に参加する。その予習と言ってはなんだが、一つ、明日の宴に出席してきなさい」
「宴?」
「式部少輔、菅氏の小さな私宴だ。本来私が誘いを受けていたのだが、明日は生憎用事が入っていてだな。代わりに様子を見てきて欲しい。そのついでに、宴の雰囲気に慣れてきなさい」
「分かりました」
明日は京外に出かけることが出来なさそうだ。八千彦と八千梅に、代わりに妖達と親睦を深めてもらっておこう。それに、琵琶の童女と接触しなければならない。
「あともう一つ」
「?」
道康が剣呑な表情を浮かべた。ただならぬ雰囲気に道晴も姿勢を正す。
「近頃あちこちで種火が燻っているらしい。
「兄上たちから……」
兄たちから道康に報告が届くということは、藤家になにか害をなす可能性があることだろう。
「特にお前は妖饗応の件で派手に動いているからな。気を付けなさい」
「はい。ですが父上」
道晴は自信ありげに笑みを浮かべた。
「俺には、あの二人がいますので」
ではおやすみなさい。と道晴が部屋を後にする。道康は一つ息をついた。
「慢心は足をすくわれかねないのだが……」
あれくらい肝が据わっているほうが、人は付いて来るのだろうな、と思う道康であった。
翌日。道晴は雅楽寮へ訪れる予定が、思わぬ足止めを喰らっていた。東宮披露目の宴の件がついに全官僚に知れ渡り、宮が慌ただしい雰囲気に包まれていた。治部省、そして道晴も例外ではない。通常業務に加えて、準備や手配で各寮を駆けずり回っていたのだった。
「い、いくら何でも忙しすぎるだろ……!」
片手に準備物や手配書などの山、反対側の手には巡回しなければならない寮や部署の名前と配布物が記された手帖。この量を他に二人で分けることになっていた。
結局、割り当てられた寮全てを回るのに一日費やしてしまった。道晴は事務仕事をしていた為助の元へ転がり込んだ。
「つーかーれーたー!」
「はいはい、お疲れお疲れ」
為助は素っ気なく道晴をあしらった。通りすがる先輩達が、道晴の困憊ぶりを見ては苦笑して通りすぎていく。
「良いじゃないか。他寮との繋がりもできただろ」
「そんな暇ない」
いつもは明朗な道晴の声に覇気がない。よほどの激務だったのだろう。
「そういえば、お前今日は式部少輔の宴に出席するんだろ。早く帰って準備した方が良いんじゃないか?」
「遊びだから服装は問わないってさ。珍しい花を観て楽を楽しむだけらしい」
ふーん、と為助は生返事をしながら手を進める。最後の一枚が漸く書き終わった。
「ん?楽?俊秋様来るのか?」
「さあ?そもそも俺は誰が来るのか知らない。ま、妖饗応の助人探しがてら楽しんでくる」
伸びて気合を入れなおす道晴を見て為助は、目的はそれか、と突っ込みを入れるのだった。
「一度楽師が見つかったら、第一回目の饗応祭を開きたいんだよなあ」
「もう?早くね?」
「いやあ、もう既に妖達とは仲良くなってるしたくさん協力してもらったから、そのお礼として。感謝祭みたいな感じで開こうかなと」
そして、道晴はじ、と為助を見た。
「お前も来るか?妖達と仲良くなれるぞ」
為助はうーんと、しばらく悩むと手を横に振った。
「俺はいい。饗応に関わってないし、お前の分の仕事やらなきゃいけないし」
「うぐ、頭が上がりません」
痛いところを突かれ、呻く道晴。為助はまあ、と続ける。
「興味ないわけじゃないし、いつかお邪魔しようかな」
そう、付け加えた。
貴族の開く宴には二種類存在する。立派な行事として開かれる宴と、個人が知り合いを呼び開かれる宴がある。
前者は官位を貰った、役職に就いた、国規模で何かめでたいことがあった時に天皇や大臣を中心に開かれることが多い。そして細かい礼儀作法を覚えなければならないのだが、これがまたややこしい。道晴は覚えることを早々に諦めた。
一方で、今回道晴が呼ばれた宴というのは、酒を飲みながら管絃を楽しみ、ある時は花見を楽しみ、ある時は詩歌を嗜む。所謂「飲み会」である。
「おおー!これはこれは、道康様のご子息ではないか!」
「聞いているぞ、なんでも殿上の間に入ったと」
「そして、妖饗応などというばかげた話を持ち出したと」
あっという間に、道晴は酒に溺れた官人たちに囲まれる。よほど毎日の出仕に疲れているのか、皆口調が荒れに荒れている。
肩を組まれ、絡まれ、乱れた服や烏帽子を直しながら、道晴は官人たちの相手をする。
「皇は寛大な御心でお許しくださったので、何とか首が飛ぶことは免れました」
「やはり今代の皇はお優しい!先代はとんでもなかったと聞く」
「よせよせ、先代の悪口なんて言うもんなら祟られるぞ」
はは、と道晴は乾いた笑いを漏らす。先代とはいえ、皇族の愚痴をこぼすとは何と不用心なことか。謀略の罪で濡れ衣を着せられても知らないからな、と道晴は心中で毒づいた。
今更ながら、貴族同士の付き合いも大変だなあ、と遠い目をする。
その時、手を叩く音が鳴り響いた。主催の菅氏である。
「皆さま、よくいらしてくださった。今宵は花見の宴でございます。こちらをご覧ください」
手燭を菅氏が掲げる。ぼんやりと浮かぶのは桃色の桔梗だった。普通、桔梗と言えば紫か白を思い浮かべる。
「昔、大陸から渡ってきた苗を庭に植えて放置していたのですが、今年、初めて桃色の桔梗が咲いたのですよ」
おお、と参加者たちから歓声が漏れた。異色の桔梗は、手燭の火を反射し、ゆらゆらと色が揺らめいているように見える。
「そこで、今夜は花に加えて、管絃で宴を飾って頂こうかと。我が家の女房に加えて、雅楽寮の笛師の方に来ていただきました」
笛師、という言葉に道晴が反応する。
雅楽寮からということは、先日会った雅楽寮生の誰かなのか。
すると、笛を持って階に腰かけたのは、自分の音に酔いしれた演奏をする男と、気弱そうなあの青年だった。皇の宴の笛師を選んだあの後、何か話していた二人か。
「此度は宴に呼んでいただきありがとうございます。私の隣に居るのは後輩の雅楽寮生です。良い機会なので、勉強がてら連れてまいりました」
ぺこりと気弱そうな青年が一礼する。
たしか、あの青年は緊張からか、小さな音しか出なかった笛師か。
今も手が震えているようだが、大丈夫だろうか。
道晴は一抹の不安を覚える。心の底で、がんばれーと祈るばかりだ。
二人が笛を構えると同時に、参加者が息を呑む。静寂の中、一音が鳴り響いた。その演奏に琴と琵琶が合わせる。
雅楽寮は一流の楽師が集まる。それ故皆優秀である。参加者らはほう、と感嘆の声を漏らした。青白い月、揺らめく灯を映す薄桃の花弁。華やかかつ艶めかしい音色が宵闇を満たす。
だが、優美な音色の裏で、か細い音が動いている。それは決して上手いとは言えない音だ。
演奏が終わると、参加者は盛大な拍手を奏者たちに送った。
「お見事!さすが雅楽寮の笛師だ!」
「いやあ、まだまだ未熟者です」
そんな一連のやり取りを聞いていた道晴は、一つ息をついた。
先ほどの演奏、確かに素晴らしいものではあったが、この宴にふさわしい音色であるかと言われると疑問を覚える。
もっと繊細な音色を期待していたのだが。あの青年の方がふさわしかったかもしれない。
「宴も、統一性を出したらもっと面白いのになあ……」
酔っ払いから解放された道晴は、ひとりぼやいた。
「貴殿も勉強途中とは思うが、良い先輩に恵まれたな」
「あ……いえ……」
「緊張していたのだろう?仕方ないことだ。失敗は成功の基、というではないか」
「次は期待しているぞ」
貴族たちが声をかけては自分の席へと戻っていく。気弱そうな青年も席に戻ろうとしたとき。もう一人の笛師が声をかけた。
「せっかく呼んでやったのに、お前は相変わらず音が小さいなあ。おまけに音間違いときた」
「……お力になれず、申し訳ございません」
笛師の男は通りすがりにそっと囁いた。
「いい加減下手なんだから、笛自体辞めたがいいかもなあ」
心無い言葉に、青年は持っていた笛を握りしめた。
そんなやり取りが行われているとはつゆ知らず、貴族たちは満足したのか、思い思いに宴を楽しむ。まだまだ酒を飲む者、歌を詠み始める者、楽を求める者、女房に目移りする者。
気弱そうな青年は主催者である式部少輔に挨拶を済ませると、菅邸を後にした。青年が退出したことに道晴が気づいたのは、少ししてからだった。
成人したとはいえ、宴自体が初めてなのだ。少し疲れてしまった。
「式部少輔。私はそろそろお暇させていただこうかと」
「おお。もう帰るのか。道康様に感謝の意を伝えておいてくれ。貴殿も是非、また参加してもらえるとありがたい」
「はい。またいつか。それでは失礼いたします」
一礼すると、道晴は帰途へ着く。そういえばここは、あの琵琶の少女がいる橋の近くだ。熱気にあてられた火照りを冷まそうと、道晴の足は自然に川へと向かっていった。
『酒の席はやっぱり慣れないな。飲んでないこっち迄酔った気分になる』
頬を撫でる夜風が気持ち良い。この涼しさももうすぐ終わってしまうのが恨めしいが。
びゃん……
琵琶の音が聞こえた。そして、あの綺麗な笛の音も。
道晴は橋に駆け寄ると、欄干から顔を覗かせた。
先日は笛師の顔を見ることが出来なかった。もし、饗応に協力してくれそうなら勧誘したいところではある。
だが、橋の下にいるのだろうか。視認できるのは琵琶の少女だけである。
涼やかな笛の音が風に乗る。それに合わせて琵琶が返答を返す。まるで和歌の贈り合いのようだ。
道晴は橋から土手へ移動する。橋の下に、誰かが座っているのが見えた。
笛と琵琶が音色で会話している。
今日はどんなことがあったの?
今日も笛を吹いていたよ
私も琵琶を弾いていたの。でも、今日はなんだか悲しそう。
ちょっと失敗しちゃったんだ。
道晴が河原へそっと降りたつ。月に少しだけ掛かっていた雲が退き、月光が増す。
思わず、息を呑んだ。
童女は楽しそうに琵琶を弾く。
笛の音は、一層透明度を増す。この音色は、もしかすると雅楽寮の誰よりも上手かもしれない。
奏者の顔を見るまではそう思っていた。
何を隠そう、今道晴の目の前で笛を吹いているのは、あの気弱そうな青年だったのだ。
足の下の河原の石が、じゃり、と音を立てた。
刹那、ぴゅっ、と笛の音が裏返る。
「だあれ?」
琵琶を弾いていた童女が振り返った。
「す、すまない!邪魔するつもりはなかったのだが……」
「あれー?貴方、もしかして桜の大臣のご子息?こんなところまでどうしたの?」
「実は京の外の妖達に、琵琶を弾く童女を探すように頼まれたんだ。もしかしたら君じゃないかと思って」
「あっ!いっけなーい!あの子たちに物語を弾き語る予定だったんだった!でも……出れるかなあ?私、幽霊だし……」
童女は困ったように眉を曇らせる。道晴もうーんと首を傾げた。
「おそらく次の結界の張り替えの時しか出ることができないだろうなあ……一応神祇寮には掛け合ってみようと思う」
「そっか……まあ、いっか!それまでここでお兄ちゃんと弾いてればいいだけだし!」
「お兄ちゃんっていうのは、あそこにいる笛師のことか?」
「そーだよ!」
おにーちゃん!と童女は元気に手を振る。しかし、青年は橋の下から出てこない。袖で顔を隠している。
道晴は苦笑した。おそらくこの青年はよほど人見知りなのだろう。ふと、雅楽寮を訪れた初日に呼ばれていた名前を思い出した。
「あー……。たしか、豊殿でしたっけ。雅楽寮の時はお世話になりました」
「……もしかして、治部省の道晴様ですか?」
はい、と明るく返事をする。すると、恐る恐る袖口から顔を覗かせた。
「そ、そんなに怯えないでください。あと、俺のことは様付けで呼ばないでください。俺もそんなに官位高くないですし、年下なので」
「う……、あんまり人のことを殿付けや呼び捨てで呼んだりしないので……」
青年は顔をひっこめた。加えてかたかたと音を立てて震えている。
これはかなりの重症かもしれない、と道晴は絶句する。
それとも自分が怖がられているのだろうか。
「えっと、俺、そんなに怖いですか?」
「す、すみません……。初対面の人と話したり、人前に出るのが苦手で……」
その言葉に道晴は眼を瞬かせた。
初対面ではないのだが、という言葉は飲み込む。
やはり緊張しいな性格なのだろう。笛を吹く時に手が震えていたり、音が小さかったのはそう言うことか。
「大丈夫ですよ。貴方にも丁度伺いたいことがあったので、少し隣失礼します」
「え」
よいしょ、と道晴は青年の隣に腰を下ろす。すると、その隣に琵琶の童女もちょこんと座り込んだ。
「道晴、わたしの名前はびわ!そのままだけど。よろしくね!」
「ああ!びわ、よろしく!豊様も、よろしければお名前をお伺いしても?」
「……はい。
香に久しいとかいて、よしひさ。と漢字と読みを説明する。珍しい名前だなあ、と道晴は関心を持つ。少しだけ慣れてきたのか、香久は袖で顔を隠すことを止めた。
「先ほどの演奏、とっても美しい音色でした!思わず聞き惚れてしまうほどで」
「あ、ありがとうございます。でも、本番で実力が出せないのなら、意味がありません……」
ぎゅ、と笛を握る手に力がこもる。それを見逃さなかった道晴は敢えて問い続けた。
「どうして?」
「笛は楽の花形ですから……どの楽器も主役を張ることはあっても、やはり音的に目立つのは圧倒的に笛なのです。笛は、芯のある音を求められます。透き通った音を求められます。伸びやかな音を求められます。私みたいに、弱弱しい音はらしくないのです」
表情が曇っていく香久に、びわが必死に元気づけようと明るい口調で話す。
「でもでも!いつもお兄ちゃんの音はすっごく綺麗だよ!私はお兄ちゃんの音がすき!」
びわの言葉に、香久は笑みを浮かべた。
「ありがとう。君にはいつも元気づけられてばかりだね」
でも、と言葉を続ける。
「緊張しいなこの性格は、治らないんだ……」
笛を習い始めて二十年は経った。だが、一度も人前で満足のいく演奏をしたことはない。いつも失敗して、落ち込んで、親には叱られて、師には呆れられて、同僚たちからは嗤われて。努力だけは続けてきたものの、それが報われることはなく。常に、自分で自分の足を引っ張ってしまっていた。
それ故に、人前で演奏をするのが怖い。
「ついさっき同僚の笛師にも、下手なんだから笛なんてやめてしまえって言われちゃったし……」
「お兄ちゃん……」
びわが心配そうに香久を見つめる。
「……なら、人の前じゃなければいいんじゃないか?」
道晴の独り言に香久とびわはきょとんとした表情を浮かべる。
「……はい?」
「香久殿。夢はありますか?」
香久は唐突に問われた内容に少し困惑したものの、まっすぐな道晴の瞳に、目を伏せてしばし考える。
「……ちゃんと、演奏したいです。自分の音で誰かの心を動かす演奏をすることが、幼い頃からの夢でした」
その言葉を聞いた道晴は、香久の手をがしっと掴んだ。
「では、その夢をかなえるためのお手伝い、俺にさせてください!」
香久は目を丸くする。だが、今の師である雅楽頭も頭を悩ませている事案を、どう解決するというのか。さらに言えば、二十年間克服できていない難題である。
しかし、道晴は得意げに鼻を鳴らした。
「実は今、妖饗応という計画の準備をしている最中でして。そこで、妖達をもてなすための楽師を探しているのです!」
「は、はあ」
「香久殿は、人前だと緊張するとおっしゃっていましたよね。で、あれば人ではない妖達の前で演奏してみるのは如何ですか?」
香久は言葉を失った。あまりにも暴論すぎないか、と。
人前とは言ったものの、人間でなければ問題ないとかいう話ではないと思うのだが。
「妖達は皆素直です。気に入らないものは気に入らないと言うまっすぐな感想がもらえると思います。それに、俺の従者二人もいますし。徐々に観客の数を増やしていけばいいと思うのです」
確かに、と思わず首肯する香久。
「で、でもやはり、上手くいかなかったときは道晴殿に迷惑がかかるのでは……?」
「あ。言い忘れてましたが、この計画自体の良し悪しを皇が判断されます。おそらくいつか、偵察にいらっしゃるかも」
皇、という言葉に香久が身を固くする。皇は雲の上の存在だ。そんな人物が関わっているのなれば、責任重大ではないか。
でも、と道晴は言葉をつづけた。
「俺は先ほどの演奏を聞いて、香久殿の音色を妖達に聞いてほしいと思いました。いや、妖達だけではなく、雅楽寮の方にも、なんなら和国の人々に!」
道晴はびわの頭を撫でた。
「現時点で少なくとも、二人はあなたの音色に魅了されていますからご安心を。な?びわ」
「うん!お兄ちゃんなら出来ると思うな!」
びわがぐ、と親指を立てる。道晴は香久に手を差し伸べた。
「ぜひ、貴方の音色で饗応を彩ってほしいのです、香久殿」
満面の笑みが月光に照らされる。月光は冷たく涼やかであるはずなのに、道晴が受ける光だけは、暖かな陽の光に見える。
ああ、なんて眩しいのだろう。
この機会を逃しても、自分は変われるだろうか。
否。
まだ、勇気を出して踏み出してみてもいいのかもしれない。
「勇気を出すのに、『遅すぎる』なんて無いんですよ」
道晴の言葉に、決意は固まった。
「道晴殿。こちらこそよろしくお願いします。必ず、全身全霊を込めた音を届けて見せます」
道晴は軽く瞠目する。あの気弱そうだった青年が、ここまで真剣に、まっすぐに返事をするとは。
やはり、この青年は根は努力家でまっすぐな人なのだ。少し臆病なだけで。雅楽寮で聞いたときの音の端々に、彼の性格が滲み出ていた。
気合十分な意気込みに、道晴は年相応の無邪気な笑みを返した。
「と、いうことで明日から一緒に行動することになった香久殿だ。二人とも、よろしく」
あれよあれよと、香久は道晴に連れられて、八千彦と八千梅の二人に顔を見せることになった。二人が出かけていた牡丹門まで移動してきたのだ。
「よろしくお願いします、香久様!道晴様の従者の八千梅と申します」
「よろしく。俺は八千彦。八千梅の兄だ」
そっけなく挨拶する八千彦の脇腹に、八千梅の肘打ちがめり込んだ。
「いだっ!?」
「お兄ちゃん!道晴様はもう諦めたけど、他の人にはちゃんと敬語使って!狭井様も増えるかもしれないのに!」
「だ、大丈夫ですよ。八千梅さん」
人見知りである香久も、流石に二人を宥めに入る。この様子ならすぐに打ち解けられそうだな、と道晴は安心する。ふと、妙案が思い浮かんだ。
「そうだ。これから俺たちの間では敬語を禁止にしよう!そうすれば誰も気にならないだろ?」
「お。いいなそれ」
「お兄ちゃん」
八千梅がじろ、と八千彦を睨んだ。なんだよ、と八千彦が睨み返す。そんな二人の様子を見ていた香久は、くすりと笑みを溢した。
「仲良いですね、二人とも」
「どうだ?やっていけそうか?香久」
道晴が親し気に話しかけてみる。香久も最初は面食らったものの、一つ咳払いをして緊張をほぐす。
「では、僭越ながら自分も。……うん。僕も妖饗応計画、益々楽しみになってきたよ、道晴」
道晴が満足げに顔を綻ばせた。
「……そうだ、饗応の際の楽師名として、香久耶という名前はどうだろう?」
「楽師名……?」
「うん。別の名前があった方が、新しい道は踏み出しやすいと思うし」
かぐや、と道晴に貰った名前の音を口で繰り返す。
光り輝くという意味だが、そんな大層な名前をもらっても良いのだろうか。
しかし道晴は、其の名がしっくりくると感じていた。香久の笛は、月夜が1番映える。
「……ありがとう。其の名に恥じない演奏ができるように頑張るよ」
香久が名前を噛み締める。
圧を感じてしまうかとも心配したが、そんなことは無かったようだ。
「ねえねえ!私笛の音聞いてみたいなあ!
「妖達もちらほらいるし、ちょうどいいんじゃないか?」
顔なじみの妖達が姿を現す。道晴が手を振ると、妖達も手を振り返した。
好奇心旺盛な小妖怪たちはわらわらと集まってくる。
「ミチハルだー」
「笛っていう単語が聞こえたぞ」
「わー!吹いて吹いてー!」
香久の周りで妖達が飛び跳ねる。う、と香久は身構えた。
その様子を見ていた道晴が苦笑する。
「こらお前たち。そんなに詰め寄ったら困るだろ」
道晴と八千彦が妖達を引っぺがす。
「まあ、気負わずに普段通り奏でてくれ。練習練習」
道晴の言葉に、香久は一つ深呼吸をした。
誰かに聞かせようとする演奏は緊張する。失敗すれば観客は離れていく。
楽とはそういうものだ。
けれど。
もっと大切なことがあるはずだ。今は忘れてしまったが、その感覚を取り戻したい。
ぴぃー、と甲高い音が響く。
澄んだ音色に八千彦と八千梅、小妖怪たちが目を輝かせる。
決して上手いとは言えない音だが、今は純粋に楽しんでいる者たちばかり。
たまには、こういう気楽な練習も良いかもしれない。
夜闇、月に照らされる中で笛を聞くことの何とも風情のある事か。
道晴はやはり楽は饗応に必要だな、と一人頷いた。
澄み切った、しかしどこかまだ頼りなく、時々妖怪たちの茶々に惑わされながら、青年の笛の音は夜明けを迎える直前まで、彼らの心を掴んだままであった。
翌日。道晴のもとに二通の文が届いた。一つは東宮披露目の宴についてだ。
正式に父、桜の大臣藤道康の同伴者として認められたのだ。治部省の方でも来月へ向けて着々と手配が進んでいる。正式な形で大臣の息子であることを示す場は初めてだ。思わず肩に力が入ってしまう。
そして、もう一通の文。差出人は一文字で「狭」と書かれている。
「こっちは狭井殿からの返事かな」
狭井は腕の立つ料理人である。先日の重の件も、まだ直接礼を言えていない。何度か大炊寮に顔を出してみたが、一向に会えないのだ。
ぱらり、と文を開けてみた。流れるような柔らかく美しい字に思わずため息が出る。
『いかがお過ごしでしょうか。妖達からの好評とお花、確かに受け取っています。中々大炊寮に顔を出すことが出来ず、申し訳ございません。先日の返事の件、是非積極的に検討したいと考えております。東宮披露目の宴が終わり次第、直接お返事させていただきたいです。お体にお気をつけてお過ごしください。狭井』
文の内容に、道晴はほっと胸をなでおろす。これで饗応の要となる料理人、楽師が揃った。ひとまずは試験的な第一回を開催することができるだろう。饗応用の建物もそろそろ完成する頃だ。
「ようやく形になってきたな……。なんとかなりそうで良かった良かった」
道晴は庭の草木を見やる。
桜は既に散り、緑の葉を付けている。一方で、藤の木が美しく紫色の花を咲かせている。
来月の東宮披露目の宴の吉兆だろうか、それとも。
京は間もなく梅雨入りを迎える。
みちあえ!-妖饗応手帖ー 胡蝶飛鳥 @kotyou_asuka1231
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