四彩後宮恋愛事変

花麓 宵

一、夜のお呼び立て

 三ヶ月と十日前、華燕国では、こう帝が新たな皇帝として即位した。


 その煌華帝に、現在后妃はいない。しかし煌華帝は、毎夜必ず後宮にやってきて、必ず毎夜別の妃嬪ひひんを自らの寝室に呼びつける。そして、その呼びつけを受けた妃嬪たちいわく。


「とてもお美しくて」

「優しくて」

とろけてしまいそうだった」

「忘れられない一夜になったわ」


 誰も彼もが一夜限りの寵愛を注がれ、次の皇后は自分だと息巻くのだった。




「馬鹿馬鹿しい」


 別の妃嬪が宮女にそう漏らしているのを聞いたハク玲明レイメイは、ついそう呟いてしまった。


「妃嬪なんて腐るほどいるのに、后妃になれるのは四人だけ。しかもいくら寵愛されようが、男児を産めなきゃ意味もない。そんな家畜みたいな人生、悪夢としか言いようがないでしょ。それなのに陛下の寝室に呼ばれただけで忘れられないとか。確かに人生最悪の日として忘れられないかもしれないけど」

「玲明様、そうおっしゃらず」


 元・珀家の家人にして現・玲明の侍女の愁蘭シュウランが苦笑いしながら茶器を差し出す。


「普通は陛下の寵愛を受けられるとなれば名誉なことこの上ないのです。皆様が浮足立つのも仕方ありません」

「それはそう、それはそうかもしれない、ごもっとも。それでも私は!」


 ダンッ――と玲明は机に拳を叩きつけた。


「陛下の寝室なんて行きたくないの!!」


 何を隠そう、今日は玲明が煌華帝の寝室に呼びつけられた妃嬪だった。


 ハク玲明レイメイ、名門珀家、しかもその本家の長姫だが、その後宮入りは本人の意に真向から反するものであった。そのため玲明は「今すぐ追い出してくれ、さあさあ」と言わんばかりに一切着飾らず、他の妃嬪ともろくに関わらず、当然皇帝に愛想を送ることもせずに過ごしてきた。


 しかし、遂にそんな玲明にも白羽の矢が立った。玲明はその黒曜石のような双眸をカッと開いて「おかしくない? どうして私なの? いえどうして順番なの?」と愕然と打ち震える。


「こういうのは美しい妃嬪から順番に選んでいくものでしょう? それなのにどうして陛下は後宮入り順に選ぶの? っていうか早く后妃を決めて? そして私を解放してよ!」


 華燕国の後宮は、紅梅宮こうばいきゅう瑠璃宮るりきゅう黄金こがねきゅう、そして翡翠ひすいきゅうの四つの宮からなり、「四彩しさいきゅう」とも呼ばれる。妃嬪は各宮に振り分けられており、各宮から后妃――貴妃きひ淑妃しゅくひ徳妃とくひ賢妃けんひが選ばれ、またさらにその中から皇后が選ばれるのが通例だ。そうして4人が定められれば、皇帝が他の妃嬪や宮女に手を出すことはほとんどなくなる(もちろん例外はあるが)。玲明はそうしてただの宮女に成り下がることを望んでいた。


 しかし偏屈な煌華帝は、順繰りに妃嬪に手を出すだけでろくに后妃も決めやしない。後宮入りしてはや数ヶ月、いつまでたっても宮女になれず、玲明はやきもきするしかなかった。


「というか、本当に煌華帝って存在してるの?」

「なんてことをおっしゃるのです、玲明様。ほんの三ヶ月と少し前に即位式が行われたばかりですよ」

「そうだけど、だって誰も煌華帝の顔すら知らないし」


 頬杖をつき、妃嬪にあるまじき態度で、玲明はぼんやりと考えを巡らせる。即位式は外朝で行われるため玲明は見ていないが、知り合いによれば「遠くて顔なんて見えやしない」のだそうだ。影武者どころか別人が出席していても誰も気づかないだろう。


「寝室に呼ばれた妃嬪達だって、美しかったと口を揃えはするけれど、詳しいことは口を閉ざすでしょ。たまに話す妃嬪もいるけれど、凛々しい眼差しがーとか、優しい口元がーとか、誰にでも当てはまりそうなことを言ってるようにしか聞こえなくて」

夜伽よとぎですから。皆様、暗くてお見えにならないのでしょう」

「月明かりくらいあるでしょ? 煌華帝は存在しないか、もしくはとんでもない醜男ぶおとこか……」

「玲明様」


 有り得る、と大真面目に考え込む玲明の両肩に、愁蘭はそっと手を置いた。


「ご聡明な玲明様のご推察ですし、可能性はあるかもしれません。しかし、そんなことをお考えになって時間稼ぎをしてはいけませんよ」


 図星をつかれた玲明は口をつぐむしかなかった。煌華帝の寝室になんて行きたくない、と駄々をこねて既に半刻近く経っているのは分かっているのだ。


「いい加減にご支度をなさいましょう。こちらの耳飾りをおつけになって」

「あ、そうだこういうのはどう、愁蘭。私の代わりに愁蘭が行くの、綺麗な妃嬪が来て喜ばない男はいないし」


 愁蘭は、長く美しい赤みがかった茶髪の持ち主で、しかも胡蝶蘭のように魅惑的な美貌の持ち主だ。珀家の家人という立場と年齢のため玲明の侍女に甘んじているが、そうでなければ后妃筆頭候補だっただろう。


「万が一入れ替わりが明るみになってもそのまま愁蘭が后妃になればいいんじゃ」

「さきほどご自身で家畜のような人生とおっしゃいましたでしょう、玲明様。らしくありませんよ、嫌な役目を他人に押し付けようなど」


 口答えしようとする玲明を無視し、愁蘭は耳飾りをつけ始める。


「それに、噂限りですが、陛下は大変お優しい方のようですし。存外、玲明様も忘れられない一夜になるかもしれませんよ」

「ないない。賭けてもいい、有り得ない」


 ――そうして憮然ぶぜんと言い放ったのが数刻前の話だ。


「……なにこれ」


 寝室に呼ばれた玲明は、思わず呟かずにはいられなかった。


 煌華帝の寝室は、真っ暗闇だった。目が慣れてもなお何も見えないのではないかと思えるほどの真っ暗闇で、寝台がどこにあるのかさえ分からない。香だけは妙に上等なのが焚かれているので、部屋を間違えたわけではないのだろう。


 しかも……、うっすらと、人の気配はする。目ではなく勘を頼りに、玲明は一点を見つめた。


「……陛下ですか?」


 少し驚いたように息を呑んだ気配がした。陛下がいる、ということは、何の手違いでも間違いでもない。他の妃嬪同様、夜伽よとぎの役が回ってきたのだ。


 ここまで来てしまえば、逃げ出すことは叶わない。玲明は覚悟を決め、そっとお辞儀をした。


「瑠璃宮の妃嬪、ハク玲明レイメイと申します。お呼びいただき、光栄の至りです」


 さあ、やるならさっさと済ませろ――心にもない挨拶を口にしながらそう念じている、と。


「……そのまま適当にかけて休め。夜明けには帰っていい」


 まったく噛みあっていないどころか予想外の声をかけられ、そのまま硬直した。


「……はい?」

「三度は言わせるな、そのまま適当にかけて休め、夜明けには帰っていい」


 全く同じ台詞せりふを二度言われても意味が理解できず、玲明は固まったままだった。煌華帝からは玲明が見えているのか、ふん、と鼻を鳴らすのが聞こえる。


「どいつもこいつも、寝室に呼ばれればすることは一つと思い込んでいるようだが、浅慮もはなはだしい。せいぜい隅で静かにしていろ」


 が、そこまで言われて瞬時に理解した。


 誰も彼もが「美しくて」「優しくて」「蕩けてしまいそうで」「忘れられない一夜になった」などと自慢して回っていたが、その誰一人として陛下の髪色にすら言及しなかった原因はこれだ――煌華帝は妃嬪を寝室に招いているが、抱くことはないどころか姿を見せることすらしないのだろう。


 しかし、「陛下に呼び出されたけれど指一本触れられることもないまま夜が明けました」など、妃嬪の自尊心にかけて言えない。なんなら“もし、陛下が抱かなかったのが自分だけだとしたら?”なんて不安が妃嬪に嘘をつかせる。


 なるほど、よく分かった。ただ理由は分からなかったし、まるで“期待してきた”かのような口ぶりに腹が立った。


「……そうですか」


 玲明は思わず、頭に挿していたかんざしを引き抜いた。愁蘭が「寝台では飾り過ぎないほうが」と選んでくれた、まるでくぎのように質素な簪だ。


 はらり、と射干玉ぬばたまのような黒髪が暗闇に広がる――その前に。


「しかしお生憎ですが、私、陛下に愛される気も、陛下を愛する気も毛頭ございませんので!」


 放たれたかんざしは、タァンッと軽快な音を立てて壁に突き刺さった。


 ――珀家は、文武共に優れた名門貴族。玲明はその本家、三人の兄の下、一人の弟の上に生まれた。たった一人の姫として蝶よ花よと育てられつつ、しかし兄や従兄達に可愛がられ、よく弟の面倒も見て育った玲明は、珀家の名に恥じず文共に優れた。


 結果、玲明は非常に男勝りな姫として育ってしまい、他家とのどんな縁談も蹴散らす有様となった。このままでは嫁の貰い手がつく前に悪評が広まりきってしまう、そう頭を抱えた当代および兄達は、煌華帝の即位を機にこれ幸いと玲明を後宮に放り込んだのだ。


 当然玲明は憤慨したし、半ば騙すような形で自分を後宮に入れた兄達を半分恨んでいた。だから煌華帝に気に入られようなどという下心は微塵みじんもない、それどころか、うまい具合に皇帝を言いくるめて解放されたいとまで考えていた。


 煌華帝がこんな悪趣味な夜伽もどきをする理由は知らないが、わざわざこんなことをするということは「后妃を選ぶふり」をする必要でもあるのだろう。しかし玲明のこの態度を見れば、玲明が「煌華帝は実は誰のことも抱いていない」と触れ回ることは目に見えている。つまり、弱味握ったり。


 そう判断した玲明は、見えない煌華帝に対し、こめかみに青筋を浮かべたまま腰に手を当てて向き直った。


「私は父上――ハク戸部こぶ尚書しょうしょの命を受けて後宮に入れられた身、陛下には砂粒ほどの興味もございません。寝室に呼べば妃嬪は皆喜ぶと思い込んでいらっしゃるようですが、軽薄けいはく浅慮せんりょはなはだしうございます。せいぜい暗闇で一人寂しく膝を抱えてうずくまっていらしてください!」


 当てつけとしか言いようのない捨て台詞を吐き、玲明は勢いよく寝室の扉を開けて出て行った。


 以上が、煌華帝と玲明皇后の馴れ初めである。

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