幸せに足りない

深月風花

幸せに足りない


 例えば幸せに人偏をつけても倖せで。なんとなく人偏がつく方は二人の倖せやみんなの倖せを意味しているような気がするのだけれど。スマホで調べると実際そんな感じの意味もあるらしい。

 だけど、幸せに一本、それも土と羊にしてしまっては、最早幸せではない。きっと幸せは逃げて行ってしまう。


 十年前、まだ大学生だった頃、若いながらにも結婚を意識しながら付き合っていた彼がそんな間違いをし続けていた。だから、時々私は「書いてみてよ」と彼にねだっていた。


 その時だけ、めんどくさそうだけれど、彼はスマホから視線をあげて、私を見つめる。

 彼は私が飲めなかったアイスコーヒーのグラスを避けた場所で、水を延ばして線を書く。


「ほら、また一本多い」


 彼は苦笑しながら「どうしても『達』の字とごっちゃになってしまうんだよな」と言い、再びスマホを見つめる。今、何を見ているのかは分からない。オンラインゲームの時もあったし、友だちとのやりとりのこともあった。ただ、まだガラケーと呼ばれるものを持っていた当時の私にはよく分からないものでもあった。


「書き取り困らなかった?」


 やはり彼はスマホから目を離さず、唇だけ苦笑しながら「困った」と言う。

 彼の持つアイスコーヒーのグラスは中の氷に冷やされて、水滴を滴らせ始めていたが、彼はそれにも気付かない。


「はい」


 手近にあった紙ナプキンを彼に渡す。当たり前のようにそれを受け取り、グラスの下の水たまりを機械的に彼は拭いていた。畳まれてあった紙ナプキンが水を含んでさらに丸められる。紙ナプキンは役目を果たしただけなのに、なんだか惨めになった気がした。

 その始終を見届けた後、自分用にもう一枚取って、自分のリンゴジュースのグラスの下に敷く。なんとなく落ち着く。机の上に染み出てしまったあの水の輪っか、あれがなんだか嫌いだった。


 正円を描いているようで、どこか歪に歪んで見える。


 彼は、どこか私とは違う場所にいて、どこか違う時間を生きているような不思議な存在。それなのに、触れることが出来るし、会話も出来るような……。


「やっぱり困ったんだ」

 意地悪に笑いながら、彼を見つめ彼の反応を探る。

「だけど『幸』せって書いて、幸せだと思おうとしても何か足りない気がするんだよな」


 変な理屈だ。幸せに一本多く線を入れてしまったら、それは幸せという漢字ではなくなってしまう。土の下にいる羊なんて、不幸そのもの。お墓みたい。


「幸せの文字ちゃんと覚えたら? そしたら、見慣れてくるかもよ」

 ストローで氷のタワーをクルクル回し、彼を見つめる。

「真穂子には通じるからいいじゃん」

 にかっと笑って彼は私に一瞥をくれた。やっと二度目の視線が合ったのになんだか面白くない。それに、その作られた笑みはあまり好きではない。私が好きだったのは、私にはない長い指。困った人に惜しげもなく差し出される手。立ち上がった時に見上げる程の長身。心配する声。穏やかに笑う目尻。どこまでも嘘のない色。


 それを誤魔化そうとして、溶け始めてちょうどいい大きさになってきているグラスの中の氷を頬張った。頬張っている間は答えなくてもいい理由になる気がする。優しく出来ない私を誤魔化しているだけかもしれないけれど、氷を噛み砕きながら、彼の声を耳に流す。


「それも好きだね」

 彼はそう言って、やっぱり視線をスマホへ戻した。


 彼は分かっていない。私は氷を噛み砕くことが好きな訳ではないのだ。


 大学を卒業し、私はひとり、小学校の教員になった。彼とはもう何年も会っていないどころか、今何をしているのかさえ知らない。

 大きく息を吐き出す。

 ぼんやりと視線を座卓に落とし、洗ったばかりの髪をタオルでガシャガシャと慌ただしく拭いてみるが、否応なしに視界に入ってくるものがある。後回しにしてはいけないものでもあるし最優先事項でもない仕事。そのたびに時間が止まり、その都度自分の時間を動かすための命令を脳が示す。

 その脳が言うのだ。

「そろそろ向き合いなさい」と。


 仕方なく座卓に向かい、パステルカラーのクッションをおしりに当てて、あぐらを掻いた。もう一度溜息をつく。

 悪いことをしているわけでもないけれど、どこか後ろめたい気がした。それもこれも、座卓に置いた葉書のせい。お風呂に入ればいい言葉でも思いつくかと思っていたのに、全く思いつかなかった。

 思い出したのは昔の彼。ため息しか出てこない。

 汗を掻いたグラスの中で氷が崩れる音がしてスマホの画面を明るくすると、入浴前に打ち始めて、そのままの文章が目に映った。


「はぁ」

 アイスコーヒーを口に含むと、苦味が現実を突きつけた。だけど、その苦みを欲する時がある。喉を通る冷たさは身体の火照りにまだ効果はないが、何かに気づけるような気がするのだ。

 いくらじんわり汗を掻こうとも、この時期にクーラーはまだつけたくない。お風呂から上がり、氷をたくさん入れたガラスコップにキンキンに冷えたアイスコーヒー。それで充分。本当はこんな時、ビールでも飲めたらいいのだろうけど、残念ながら、私はどう足掻いても下戸の道から外れることはなかった。


 うーんと唸り、まだ湿っている髪を左手でかき揚げ、痒くもないのに頭を掻いた。

 右手に取った一枚の葉書には憧れの白いドレスと花を散らした髪飾りをつける花嫁がいた。莉桜は最後の独身友達。アイツのことを思い出すのもこの葉書のせいだ。

 幸せそうに微笑む二人。一人は大学時代の友人で一人は私の知らぬ人。だけど、莉桜はこの人に幸せを見つけたのだろう。

『幸せな家庭を築いていきたいと思っています』

 印刷された丸文字に一言。

「真穂ちゃんにも幸せが訪れますように」

 少し斜め上向く癖の強い字が添えられてあった。


 幸せかぁ。

 そう書かれると自信がなくなる。

 教員になって、子どもたちと過ごしていれば、とくに淋しいこともない。彼らの未来を想像し、さらに10年後大人になった彼らがどうなっているのか考えることも楽しみだったりする。

 かわいいと思うことも、鬱陶しいと思うことも、保護者が面倒だと思うことも、保護者に感謝することもあった。「先生」と言われる度に、頼られているんだな。信頼を裏切ることは出来ないな、と思うようにもなってきた。


 嫌な同僚もいるし、世話の焼ける後輩と先輩、また世話を掛けてしまう同僚もいる。

 国語の授業では間違いのない漢字の書き方や覚え方をたくさん考えたり、子どもの頃を思い出したりした。

「土の下に羊がいると幸せにはなれません」

 彼を思いながら、そう教えたこともあった。


 幸せにはなれません。


 式は親戚だけで、報告のみ。最近はそんな結婚報告も増えている。ご時世だもんね、と思いながらグラスと反対側にあるスマホに視線を落とした。嫌みっぽく『お幸せに』と『土に羊』を書きたい気分。だけど、文字だけなら嫌みも伝わらないから、それでもいいのかもしれない。


 だけど、心よりお祝いしたい気持ちはある。別に莉桜の幸せを妬んでいる訳でもない。


 思い出したくないし、縋りたくもない。だけど、忘れようにも忘れられない。あれが幸せの形だったのか、今でもそれは分からない。だけど、幸せを考える機会がある度に思い出すのはあの男のことだ。


 確かに写真の彼らのように私は誰かの横ではにかんだことはないかもしれない。

 それが幸せだというのなら、私の今は幸せのカテゴリーには入ってこない。だけれど、意識しなければ不幸だとも思ったことがない。

 人生いろいろ。以前の首相も言っていたし。アイスコーヒーだって飲めるようになったし。


 グラスの中に積み上がっている氷のキューブの角が丸くなってきていた。もう少しするとアイスコーヒーに包まれながらさらに溶かされていく。少しバベルの塔にも似ている。今はなんとか形を保っているが、いつか限界がやってきて崩れ落ちる。彼との関係もそんなふうにして積み上げた何かの限界値に達したのだろう。


 土に羊の幸せを感じる男だった。ただそれだけの思い出なのだ。


「幸せを探しに行くんだ」

 彼の別れの言葉はそれだった。幸せはここにあるはずだった。それなのに、正しい幸せを書く私ではなく、間違った幸せの彼が幸せを探しに行くと言う。

 不思議で仕方がない。

 彼は幸せになったのだろうか。私は、『今』幸せなのだろうか。

 にこりと微笑む二人を見つめる。


 同じテーブルにあるグラスの跡が滲んできていた。歪に滲んで見えるその染みを私はタオルで拭き取った。



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幸せに足りない 深月風花 @fukahuka

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