猫よ、猫よ!

雨足怜

あの夏はもう遠く

 じりじりと照り付ける日差しの中、悠然と歩道を横切る一匹の黒猫がやけにはっきりと目に焼き付いた。

 青色の瞳をしたその猫は、ちらと私のほうを見て、それから重心を少し後ろに寄せる。

 後ろ足に力をため、伸びあがるように跳ぶ。それはまるで、力を溜められていた弾性体が急激に変形、地面を押して飛んだかのよう。

 美しい放物線を描いて跳ぶ猫を見ながら思ったのは、すごいジャンプだ、などというものではなくて。

「……ああ、夏だな」

 思わずつぶやけば、隣を歩いていた妻が「また言っている」と笑う。苦笑を返しつつも、意識の半分は視界の端にとどまる猫に向いている。

 大きく跳躍する猫を見ると、いつも夏だと感じる。たとえ、雪が降り積もる真冬の日で会っても。

 いや、さすがに言いすぎかもしれない。そもそも冬に大きく跳びあがる猫を見かけることは稀だ。

 じっと私を見つめていた黒猫が大きくあくびをする。炎天下の中、その猫は暑さなど全く感じていないように、塀の上、後ろ足でのんきに頭をかいている。

 その姿を見ながら、なんとはなしにポーの黒猫を思い出す。

 だからだろうか。その猫の姿は、いつになく不吉なものに思えた。


 かつての上司の訃報が届いたのは、暑さに負けない黒猫の優雅な跳躍を見た翌日のことだった。

 転職前の、日本の終身雇用を象徴したような上司だった。淡々と仕事を続け、身を粉にして働き続けた男。

 正直、当時の私の心には反感もあった。自分のほうが彼よりも優秀だと思っていたし、実際に会社への貢献度でいえば私のほうが上だったはずだ。

 開発部長を務めていた彼は、経理畑の人間だった。人事異動によって開発部の部長のポストに就いたのは、当時代替わりした社長の、社内融和政策によるものだった。

 開発のかの字も知らぬ男は、けれど人望が低いというわけでもなく、真摯にこちらの話を聞き、予算の調整に走るできた上司であったのだと思う。

 ――すでに彼と会う機会などとんとなく、当時のことなどほとんど覚えていない。

 それでも唯一、決して忘れられぬ記憶こそが、その上司に命ぜられて猫を探した夏の日のことだ。

 新社長の無理難題に忙殺され、開発であるにも関わらず他部門に駆り出されるあの夏、限界を感じて転職を決めた。もうやっていられるかと、心から思った。

 たとえ給料が下がろうが、この生活を続けるよりはましだと、始業前に息せき切って部長室に乗り込んで転職を望んでいることを告げた。

 その時、彼が言ったのだ。

 ――猫を探してきなさい、と。

 仕事はしなくていい。今日の君の業務は、猫が跳びあがる姿を観察してくることだ。

 とうとう頭がおかしくなったかと思った。私がおかしいのか、上司がおかしいのか。

 大真面目な顔をする上司の目は、ひどく真剣だった。くたびれた男は、けれど確かな芯をもって私におかしな業務の遂行を求めていた。

 猫の跳ぶところを見る――そんなことに、何の意味があるというのか。

 批判の言葉は口を出ることはなく、ただこれ以上の禅問答も惜しいとばかりに、後ろ手にたたきつけるように扉を閉ざして部屋を後にした。

 それから、炎天下、三時間に渡る猫の捜索業務が始まった。

 これまで、私の生活に猫というものはいなかった。父と妻が猫アレルギーであったため、猫を触ろうという発想がなかった。

 興味がなければ、知ろうとしない。野良猫がどのような場所にいて、ふだんどうやって生活をしているのか。

 わからないから、ただ歩き回るしかなかった。

 あの日も、じりじりと照り付けるように厳しい陽光が降り注いでいた。陽光を反射するアスファルトはまぶしく、額ににじむ汗は滝のように顎を伝って流れ落ちていった。

 蜃気楼のごとく景色は歪み、目がちかちかして。

 日陰に置かれていた瓶ビール運搬用のプラケースに腰を下ろして頭を抱えた。

 自分は、何をやっているのか。激しい徒労感が胸の中で荒くうねる。肩の重さを感じ、次第に背中が曲がる。影の中、両足の間のアスファルトをさらに黒く染める汗を、じっと見つめた。

 その時、猫の鳴き声が聞こえた。

 幻聴のように思われたそれは、けれど確かに猫のものだった。

 顔を上げれば、そこにいたのは一匹の三毛猫。ほっそりとしたそれは、私から五メートルほど先、ビルの間の隘路の入り口あたりで体を丸めてじっと私を見ていた。

 こげ茶の瞳は興味深げに私を見ていた。

「……こんなところにいたのか」

 猫は私の声にこたえることなく、後ろ足で耳の後ろあたりを掻き、流体のように滑らかに立ち上がる。くるりとその場で回るように起き上がり、軽く背中をそらして体を伸ばす。

 糸のように細くなった目が再び開き、けれどもう興味なさげに私を一瞥するだけにとどまる。

 ふいと背中を向けたそれは、ぐ、と後ろ足で強く地面を踏みしめ、大きく跳躍して室外機の上に乗り、さらに跳んで突き出した屋根の上に姿を消す。

 目を閉じ、頭の中で先ほどの動きを繰り返す。

 ただ、それで何かがわかったということはなく。

「……帰るか」

 ミッションを果たし、重い足取りで会社に戻ることになった。


 果たして、会社に戻ってすぐに訪ねれば、上司は猫がジャンプするその動きを私に問うてきた。

 何を言いたいのか、困惑しながらも頭の中にある先ほどの光景を思い浮かべる。

「……こう、後ろ足に力を溜めて、勢いよく跳びあがっていました」

 それ以外に、なんと答えればいいだろう。ただ、それで十分だったらしく、彼は腕を組み、しきりに頷いた。

「そうだ。跳ぶには力を溜めないといけない。それは、転職であっても同じことだ」

「…………はぁ」

 まさか、それだけか?それだけのために、この真夏に、三時間も猫を探させたのか?

 彼は、それ以上何も言わなかった。言いたかったことは、本当にそれだけらしかった。

 まるで狐につままれたような気持ちになりながら業務に戻った。

『跳ぶには力を溜めないといけない――』

 頭の中から、彼の声はなかなか消えてくれなかった。


 それから半年後、私は転職し、上司とはそれきりだった。


 葬式の会場には、思ったよりも多くの懐かしい顔があった。先輩、後輩、同期。かつて会社で共に汗を流した仲間たちは、時の流れを感じらせながらも確かにそこに集まっていた。

 ――そこにはもう、かつての上司はおらず、けれど人の輪は今もそこに残っていた。

 帰路。

 そのことが話題に上ったのは、やはりすぐそばを通った一匹の猫が理由だった。

 茶トラの若い猫が塀に跳び乗る姿を見たかつての部下が、思い出したように語り始める。

「そういえば昔、木下さんに猫を探して来いって言われたことがありましたね。雪が降っている中、あちこち歩き回ってやっとのことで猫を見つけて、戻ってみれば『力を溜めることが大事なんだ』って、それだけのために猫を探させたらしくて」

 訥々と語る彼に、すぐさま「私も」という声が上がった。それは、一人ではなかった。

 顔を見合わせ、譲り合いながらも話し始める。

 秋ごろ、転職の相談をしたら猫を探してくるように言われて、公園のベンチに跳び乗るブチを見たこと。ずんぐりと太ったやつで、やや緑がかった金色をしていた――

「私もです。夏ごろ、汗だくになりながら三毛猫が室外機に飛乗るのを見ました」

 実におかしなことに、私を含めてその場にいた全員が、同じように猫を探してくるように言われ、実行したという。

 誰からともなく笑い始めた。涙が出るほどに笑う者、腹を抱えて声を上げる者。

 共通するのは、誰もが、晴れやかな声をしていたこと。

 その声の中に、あの上司の笑い声と、猫の鳴き声が混じっていた気がしたのは、私の気のせいだったのだろうか。


 数か月後、母校の高校の創立記念の式に呼ばれた。

 私の母校では創立記念日に卒業生を呼び、在校生に向けて語る行事があった。在学時代に聞いたおぼろげな内容では、過去に開発に携わった製品についてだとか、業界についてだとか、あるいは卒業後の進路だとか、多種多様であった。

 どうしてこのタイミングで自分が選ばれたのか、一回りほど若い卒業生と世間話をしながら首をひねるばかりだった。

 何を話してもいいということで、准教授を務めているというその女性は自身の研究について発表するということだった。先に登壇した彼女の話を聞きながら、私は用意した資料を思い出していた。

 自分が話す予定だったのは、就活、その際の人生設計について。

 己の経験と、失敗談、人事部の同僚から聞いた話。プレゼン資料の内容を頭の中で順に負いつつ、ふと、脳裏に猫の姿がよぎった。

 後ろ足に力を溜めて、跳びあがる。

『跳ぶには力を溜めないといけない。それは、転職であっても同じことだ』

 あの日の上司の声が、ふっと頭の中によみがえった。ひどく鮮明で、おかしくなって笑みをこぼす。

 目の前にいる後輩にとってどれほど意味があるか、心に届くか、それはわからない。

 けれど、彼が普及したように、わたしもまた、猫の話をするべきなのかもしれない。

 鳴り響く拍手を聞きながら前の女性と交代で壇上に上がる。

 拍手が終わり、波を引くように音が消える。

 マイクをとって、息を吸って。

「もう二十年近く前になりますか、かつて転職を決意して上司に相談に行った際に、猫が跳びあがるところを見てこいと言われたことがあります――」

 彼は、天で私の話を聞いているだろうか。

 懐かしむように一瞬目を閉じたその時、どこからともなく猫の鳴き声が聞こえてきた。

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