短編:故郷へ帰る
のいげる
故郷へ帰る
ホテルの高層階から眺める眼下の街は闇の底に沈んでいた。
わずかに主街道に沿って弱よわしい光の列がまばらに並んでいる。生き残っている太陽電池の力ではそれが精いっぱいなのだろう。
老人はしばらくその光景を眺めていた。若い頃にはさぞや偉丈夫だったことを思わせる体格だが、今は肉が落ちて背の高さばかりが目立つ。白髪の下で前を見据える目の力だけがただの人間ではないことを感じさせる。
「寂しい光景ね」
妻がソファから身を起こし、そっと老人の横に立つと感想を述べた。頭一つぶんだけ老人よりも背が低い。まだ腰は曲がっていない。柔和な貴婦人。そんな印象だ。
「静かだ。初めて故郷を出たときを思い出す」老人が呟く。
「あのときは希望があった。でも今は絶望しかない」
老婆がそう答えると老人の手が伸びてその体を引き寄せた。
「大丈夫。大丈夫。きっと故郷は私たちを受け入れてくれる」
そうは言うが、老人にも自分の言葉に確証はなかった。
しばらく二人で外の光景を眺めていると、背後のドアにチャイムが鳴った。老人の返事に応えてドアが開く。
ロボットの支配人が入って来ると完璧なお辞儀をした。
「お客様。誠に心苦しいことなのですが、一週間後までに、当ホテルを出立していただきたいのです」
老人の問いかけの視線を受けてロボットは話を続けた。
「当ホテルの備蓄が尽きかけているのです。街全体からも徴収しましたがそれでも足りません。このままでは遠からず今のサービスは維持できなくなります。新しい補給品を作れる生産工場はすでに一つも残っていません」
「それは分かった。明日にでも出立することにする。空港はどうなっている?」
ここまでは老人も予想していたことだ。今はどこも似たような状況だ。人間がいなくなった後にもロボットたちはさまざまな施設を維持しようとよく頑張っている。
街の中央サーバーとの通信にわずかに時間をかけてからロボットは答えた。
「まだ動いている旅客機が一機残っています。すでに連絡済なのでいつでも飛び立てます。また携帯食料なども用意してあります。どうかお使いください」
「ありがとう」
「どういたしまして。ロボットなれば人間に仕えるのは当然のことです」
「最後に一つ教えてくれ。生き残った他の人間の情報は何かあるか?」
「国際情報集積サーバーが停止する前に問い合わせておきました。知る限りではこの世界中で生き残っている人間はあなた方二人だけです」
ロボットはドアの前まで後ずさりした。
「ではよい旅を」
「これから君たちはどうするんだ?」
「万一どなたか新たなるお客様が訪れたときのためにホテルごと封鎖し、我々従業員はスリープモードに入ります。計算では二十年と三か月はその形で維持できるはずです」
それを最後に、また見事なお辞儀をして支配人たるロボットは部屋を出て行った。
大西洋を越えるフライトは夜にかかってしまった。
他に誰も乗っていない旅客機のファーストシートから窓の外に広がる暗闇を眺める。
陸地に光はない。海だけは生物発光によりほの暗く光る部分がある。
「人がいないというのは本当ね」老婆が感想を述べる。
そうこうしている内に老婆は静かな寝息を立て始めた。老人はいつものようにその寝顔を覗き込み毛布を掛けなおす。そして窓の外を一人で見つめていた。
そうしているうちに遠くの陸地に青く光る部分が出現した。
老人はCAロボットを呼ぶとあれは何かと尋ねた。あそこに人が居るのかと。
常に笑顔を絶やさないCAロボットは老人が示す先を見つめた。
「記録によると四年前に核ミサイルを積んだ衛星があの場所に落下しました。あの光は放射能によるチェレンコフ発光です」
返って来たのは絶望の答えだった。
アフリカ大陸へは行けなかった。航路も空路もすべて停止していたからだ。
代わりにこの巡礼の旅はヨーロッパへと向かった。人類文明の最後の残光をその目に焼き付けていく。
わずかに生き残っていた交通機関が二人の旅を助けた。それも二人を最後の客として次々に活動を停止していく。
どの街にもどの道にも、人影は無かった。
エッフェル塔は蔦に覆われていても不思議はなかったが、ロボットたちはそれを善しとはしなかったようだ。頑強な植物たちとの飽くなき戦いをロボットたちは繰り広げていた。塔の周囲には戦いに敗れて朽ち果てたロボットの残骸がいくつも転がっている。
この戦いに負けたピサの斜塔はかなり昔に倒壊していた。
二人は名所を手早く見て回ると、また次に向かった。じきに旅客機は使えなくなり、代わりに一機のセスナ機が用意された。
パイロット・ロボットは手配できなかったが、老人が昔取った飛行免許のお陰で問題は生じなかった。長い人生の間に学ぶ時間はいくらでもあったのだ。
新国連ビルの正面には誰かがスプレーで落書きしていた。
それはラテン語だったが老人は読んで見せた。
「この門を潜る者すべての希望を捨てよ」
「どうしてロボットたちはこれを消さないの?」老婆が不思議そうに尋ねる。
「それはね。お前。あれは人間の行ったことであり、ロボットたちは人間の意思を尊重するためだよ。誰かがあの落書きを消せと命じない限り、ロボットはあれを消しはしない」
この街でたった一台まだ動くタクシーに乗り、空港へと急ぐ。
「子供たち。みんな死んでしまったわ」
窓の外を流れていく人の気配のまったくない街路を見ながら老婆が嘆く。永久素材のはずの道路のあちらこちらはひび割れ、見たこともない草が勝利を納めつつある。
「嘆いてはいけない。これが人類の運命だったんだ」
老人が諭した。
戦争で、資源消耗で、病気で、内部闘争で、絶望で、愚かさで、あれほどの繁栄を誇った人類は滅んでしまった。
これは呪いなのか、それとも最初からの定めなのか。
もはや老人に悲しみは無い。長い歳月の間に涙は流し尽くしてしまったから。
後にたった一つだけ残った希望は駆け落ちして出て来た故郷に帰ることだけ。
二人は旅を続けた。
オンボロのセスナ機のエンジンが最後の息を漏らして停止したときはすでに目的の飛行場の真上だった。穴が開いたピストンがギアから自由になりガラガラと音を立てる。
今回もまた危うい所で助かったな。
そう思いながらも老人はセスナ機を滑空させて着陸コースに乗せる。
セスナ機は恐ろしく安定性が高い名機だ。エンジンが停止しても何の問題もなく滑空できる。
隣の座席で毛布に包まって眠る伴侶の顔をちらりと見て老人は安心した。心配性の彼女に今のこの状況を報せる必要はない。若い内ならともかく歳を取ってからの苦労は味わわせるものではない。
飛行場のメンテナンス・ロボットたちは滑走路の一つだけは小石一つ転がらないように整備することに決めたらしい。
慣れた手つきで操縦しながら、滑らかな滑走路の上に恐ろしく静かに機体を降ろす。
周囲には朽ち果てかけている大型ジェット機や今や錆の塊へと変じている高級カスタム機が放置されている。
セスナ機が着陸すると、管制室から生き残っているロボットが並んで出て来た。全部で五体、その内の一台は目の前で転ぶと動かなくなった。
まだいくつか稼働している太陽光パネルのお陰でネルギーは賄えても、保守部品が手に入らない状態では動けるロボットの数も少なくなっていくばかりだ。
「いらっしゃいませ。お客様」
タブレット端末を手にしたロボットの一台が声をかけてきた。
「入港審査を受けていただけますか?」
老人はニコリともしなかった。代わりに素早く言った。
「優先コード。ラグナロク1128。認証を」
「認証しました。どうか滞在をお楽しみください」
ロボットにとっては最高位優先認証コードを持つ客に対してはいかなる法も適用せず、ただその命令だけが有効となる。
十五年ぶりの人間の命令を受けて、ロボットたちが回れ右をする。
「行く前に一つ聞きたい。まだ動くタクシーは存在するのか?」
少しだけ動きを止めて、タブレット持ちのロボットが答える。
「一台だけ使えます。空港入口に待機させておきます」
そう答えながらもセスナ機から降りて来た老婆に目を向けた。
「補助は必要ですか?」
「いや、いい。私たちだけでできる。君たちは業務へ戻りなさい」
彼らの業務とは誰も来ない空港でひたすら客を待ち続けること。
ロボットたちはその虚しさを理解しているのだろうか?
老人の眼差しには同情があった。
わずかな手荷物を詰めたスーツケースを引きながら、空港前に止まっていたタクシーに乗り込む。
毒々しい色のペンキが塗られたタクシーだ。かろうじて手に入れた材料で何度も補修され、このような無残な姿になった自動運転タクシーの成れの果てだ。エンジンがかかると黒い排気ガスが背後から噴き出した。ガソリンの精製施設もすでに死んでいるので、ロボットたちが手持ちの材料で合成した代用ガソリンだ。
すでに自動車のエンジンは製造されていないから、恐らくはロボットたちが手持ちの材料で切り貼りして作り上げたエンジンに換装されている。
これが人類文明の最後の名残であった。
それでも目的の丘まではたどり着くことができた。
動かなくなった自動タクシーをテント代わりにして、その晩はそこで一夜を明かすことにした。幸い季節は春だ。
小さな火を焚き、丘の上から夜景を二人で見つめる。
夜景と言っても消えかけた街の灯がちらほらと眼下に見えるだけだ。ここはまだ小規模な発電装置は生きている。それにくらべて夜空に広がる満天の星の方が遥かに明るかった。
ロボットたちは今も必死で頑張っているが、あらゆる機械は最後の寿命を終えつつある。
老婆が横に座る老人の胸に頭を預けた。老婆の頭はほとんどの部分が白髪へと変わっているがまだごく一部に金髪が残っている。
老人は静かにその髪を撫でた。
「あなたと駆け落ちした最初の晩に見た面影が残っているわ」
老婆が感想を述べた。
「あれから随分と経つのにな。山も川も姿は変わらない」老人が答える。
「あれから、たくさんの子や孫が出来た。どの子もうまくやれると思ったのだがなあ。結局最後は私たちだけになってしまった」
「駆け落ちを止められたのはまだあたしたちが若かったからかしら。その挙句に産まれた子をすべて失うなんて」
老人はその質問に答える前に少し間を置いた。
「そうでもないさ。きっと我々人間という種には何か欠陥があるのだろう。どの子も自業自得としか言えない終わりを迎えている。きっとこうなるように最初から決められてたいのではないか」
老人の口調には苦々しいものがある。
「今ではまたあたしたち二人だけ。あの子たち、いったいどこへ行ってしまったのかしら」
「ワシらよりも一足先に神の御元へ」
老人が答えたのはそれだけだった。
「そうだったらいいけど」
「そして最後がワシらだ。明日になればわかるだろう」
「明日には故郷を見ることができるのよね?」
「そうだとも。愛しい人」
老人はそっと老婆の肩を抱くと、故障した自動タクシーの中へと入り、遮音シートを落とした。
朝が来た。
携えて来た最後の食料を食べると、遠い記憶の中にある道を逆に辿る。
木々の姿は当時と様変わりしているが、道自体の姿は変わっていなかった。
誰も通らない道のはずなのに草さえ生えない。ここは永遠に変わらぬ祝福の輝きに満ちている。
老婆の体を支えながら老人は進む。一歩ずつ。懐かしき故郷への道を。
「あたしたち。受け入れて貰えるかしら?」
ふと老婆がつぶやいた。
「大丈夫さ。どこに行っても、最後の船や飛行機が残っていた。偶然ではない。私たちは故郷へと導かれている。きっと受け入れて貰える」
「強いのね。貴方。いつものように」
老婆が縋っている老人の腕を強く掴む。
「信じなさい」それだけを老人は返す。
長い道の果てについに始まりの場所が見えて来た。
「ここからは服は不要だ。さあ、お前」
二人は服を脱ぎ捨てて全裸となった。皺に覆われた年老いた体のすべてが露になる。
二人は歩き続けた。
やがて眼前に輝ける門が姿を現した。その横に手に炎の剣を持った大天使が立っている。
「おかえり。アダム、そしてイブ。世界はどうだった?」
「もの凄い、その一言です」老人は答えた。
「わしらはまたここに受け入れて貰えるのでしょうか?」
大天使はにっこりとほほ笑むと門への道を開けた。
「もちろんだとも。迷える子羊が家に帰って来たのだ。受け入れぬ親はおらぬよ。さあ、御方が首を長くして君たちの帰郷をお待ちだ。行きなさい」
二人が輝く門を通り抜けると、長い間に二人の上に降り積もった歳月はたちまちにして洗われた。
今やエデンの園を出立したときの若い姿へと戻った二人の迷子は、故郷へと足を踏み入れた。
短編:故郷へ帰る のいげる @noigel
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