第2話「奇怪な遭遇」

(とにかく進んでみよう……ここで立ち止まっていても仕方ない)


 心でそうつぶやいた巴は、改めて周囲を見渡した。

 茜色に染まった空を背に、電柱から伸びた電線がはるか彼方へと続いている。

 黒く濡れた道路の所々には水溜まりができており、ほんのりとカビ臭いような匂いが鼻につく。

 そんな空間でも美しく咲き誇る紫陽花の葉からは、涙のような露玉が静かに滴り落ち、やがて地面へと消えていった。


「なんか、変な感じ」


 巴の口から無意識にでた一言。ここまで塔のように積み上げられた、違和感の表れだ。

 一見すると、雨上がりの何気ない景色。

 しかし、この空間には蒸し暑さとは違った、圧迫感に近い不快な空気が漂っていた。

 巴がおもむろに鞄からスマホを取り出して画面を確認すると、時刻はあと数分で午後五時を迎えようとしている。

 普段なら既に帰宅して自室で寛ぐか、祖父母の手伝いをしている時間だ。


(二人とも、きっと心配している……)

 

 光の消えたスマホの黒い画面には、不安に満ちた巴の表情が映っている。

 今、自分のいる場所は普通ではない。

 最初に抱いた違和感は、いつの間にか得体の知れない恐怖へと変わっていた。




「誰か! 誰かぁっ!!」

 

 再び歩き始めてから程なくして、誰かの叫ぶ声が耳に届く。


(今のは……!)


 考える間もなく、突き動かされるように巴は走り出した。

 声色からして、おそらく若い男性のものだ。

 もちろん背格好や服装などは分からないが、自分と同じようにこの世界に迷い込んだに違いない。

 巴は声の聞こえた方を目指して何度か角を曲がり、息つく間もなく道を進んでいく。

 やがて、ひとつの十字路に辿り着いた。


「たぶん、この辺りだったと思うけど……」


 そう言って、きょろきょろと辺りを見渡すが、誰もいない。

 所々が錆びた「止まれ」の道路標識が目を惹き、その奥ではカーブミラーが左右反対の世界を映している。


(行き違いになっちゃったかな?)


と巴が首を傾げた、そのとき。


――タッタッタッタッタッ


 彼女の背後で、足音が聞こえた。

 とっさに振り返ると、十字路を横切るように、誰かが走り去っていく姿を一瞬捉える。


「ま、待って!!」


 そう言って巴は、慌てた様子で後を追いかけた。

 途中で姿を見失うが、幸運にも一本道である。クラスの中でも体力と足の速さにはそれなりに自信があり、この調子なら追いつけそうだ。

 そう考えながら走り続ける彼女であったが、ふと道の端であるものと目が合った。

 

(あれは……)


 電柱の影から巴を物珍しそうに覗く、小さな人の姿。

 よく見るとそれは、黒い人のような影であった。


(影? いや、子ども?)


 幼稚園児くらいの大きさに、眼と思しき白く丸い点が二つあるだけの顔。そこに口や鼻などはなく、ただ小さな瞳がじっと巴を見つめている。

 よく見ると、その影は一体だけではなかった。

 塀や垣根の上に座っていたり、自動販売機の影に隠れていたりなど、無数の影たちがあらゆる所に身を潜めているのが確認できた。


(なんだろう? こっちを見ているだけで、今のところ害はなさそうだけど)


 一瞬だけ警戒する巴であったが、今は声の主を追いかける方が優先だと判断し、そのまま走り去っていく。そんな様子でさえも影たちは動く様子はなく、ただ彼女の背中を見送るだけであった。

 程なくして丁字路に突き当たったところで、巴は男性の姿を発見した。

 黒い坊主頭が特徴的な彼は、道路に両手と膝をついており、肩で息をしている様子が見られる。


「はぁ、はぁ……や、やっと追いついた……」


 巴も乱れた呼吸を整えながら、ゆっくりと男性に近づいた。

 よく見ると男性は黒い学ラン姿であり、肩から斜めに掛けている白いエナメルバッグの底が水溜まりに落ちている。

 おそらく巴と同じく学生で、部活帰りの途中であったのだろうと想像がつく。


「あ、あの」

「……がう……じゃない」


 巴が声をかけようとした時、男子学生がぶつぶつと何かを呟いていた。

 不審に思い、そっと横顔をのぞき込む。

 地面に顔を向けたままの彼は、どこか怯えたような目つきだ。


「違う……俺……じゃないんだ……」

「ち、違う? 一体、何のーー」

「俺には関係ないんだっ!!」


 突如、耳元で雷でも落ちたかのような彼の大声に、ビクッと巴の肩が跳ねる。

 そしていつの間にか彼はエナメルバッグを放りだし、逃げるように丁字路の左角の先に消えてしまった。

 ところが。


「う、うわあああぁぁぁっ!!!」


 今度は一際大きな叫び声が、男子学生の消えた先から響き渡った。

 咄嗟に巴は駆け寄ろうとするが、足が動かない。

 彼のものと思しき叫び声から、ただならぬ危機と恐怖を感じ取ったからだ。


「こ、今度は一体何が……?!」


 思考が混乱し、震え声しか出せないまま立ち尽くす巴。

 気づけば十メートル以上離れた曲がり角の方から、黒い影のようなものが見えてくる。


 ガシャ……ガシャ……


 同時に、夕闇が迫る道の奥から奇妙な音が聞こえ始めた。


(な、何かがこっちに来る!?)


 本当は今すぐにでもこの場から逃げ出したい巴であるが、依然として身体が言うことを聞いてくれない。


 ガシャン……ガシャン……


 時間が経つにつれて、音が先ほども大きくなり、影もより濃くなる。

 そしてついに曲がり角の先から、その正体が顕わになった。


「あ、あれって……!」

 

 地面を這いずるように現れたは、巨大な骸骨であった。

 頭蓋骨だけでも巴の身長の五倍以上はあり、迂闊に近づけばその大きな口で一呑されてしまいそうである。ぽっかり空いた眼窩には闇が広がっており、その中で紅い光が二つ、目玉の代わりといわんばかりに妖しく輝いていた。

 何より特徴的だったのが、乳白色の骨全体にまとう黒い煙のようなものだ。先ほど影だと思っていたものの正体はこれに違いない。だがそれは煙というより、オーラや瘴気に近い印象である。

 この世ならざるものと言うべき、目の前の巨大な骸骨。

 やがて骸骨はその紅い瞳で巴の姿を捉えると、ゆっくりと巨大な腕を伸ばしてきた。


(に、逃げなきゃ)


 ハッと我に返った巴は、ようやく身体の自由がきくことに気づく。

 慌てて身を翻し、そのままの勢いで走り出した。

 その瞬間、ドスン、という重々しい衝撃音が背後から響く。

 恐る恐る振り返ると、巴が先ほどまで立ち尽くしていた場所には骸骨の巨大な手の平が振り下ろされていた。

 跡に残っていたのは、大きく窪んでひび割れた路面とエナメルバッグの無残な姿だけである。


(あ、あんなのに潰されたら一巻の終わりだ……!)

 

 そうこうしている内に、再び骸骨の腕が迫っていた。

 今度は振り下ろすのではなく、巴を捕まえようとしている。

 このままでは捕まると判断した巴は、傘に手を掛け、力一杯振った。

 

 カンッ!


 甲高い音を一つ立て、固いものと衝突した感覚が手に伝わる。

 ビリビリと襲いかかる衝撃に涙が出そうになるが、必死にこらえた。

 なんとか腕を撥ね除けることはでき、虚を突かれた骸骨も動きを止める。

 しかし傘の方は完全に折れ曲がってしまい、使い物にならなくなってしまった。

 さらに骨には傷一つついていない。先ほどの衝撃の件も含め、目の前の骸骨は鋼のように硬いことが容易に想像できる。


「よし、今のうちに……!」


 一瞬できた隙を見逃さず、巴はその場に傘を捨てて、途中で見つけた路地へと逃げ込んだ。 路地の幅は人間の大人ひとりがやっと通れるほどの広さであり、今までの道よりも薄暗い


(暗いな。でも今はとにかく、逃げなきゃ!)

 

 心でつぶやいた巴は、構わず奥へと進んでいった。

 同時に、骸骨との距離がどんどん離れていく。

 このまま逃げ切れると少し安堵した、その時。


 カラン、カラン


 背後で、何か質量の軽そうな音が聞こえた。

 まさかと思い振り返ると、それは無数の骨が寄せ集まってできた何本もの細い腕であった。 その様子はまるで、獲物を狙う蛇のように迫り、巴に向かって伸びてきている。


「ウソ!? あの骸骨、あんなこともできるの?!」


 慌てて巴は路地の更に奥へと進み、振り切ろうとした。

 途中で何度か角を曲がるが、振り切ることすらできない。


「このままじゃ追いつかれ……って、ちょっと!」


 焦燥感に駆られていた巴に追い打ちがかかる。

 彼女の進んだ路地の前には大きなコンクリート製の壁が立ち塞がっており、行き止まりとなっていた。


「そ、そんな……こんなことって……」


 ショックのあまり、巴は壁の前でへたり込んでしまう。

 これまで走り続けた疲労が全身を襲い、荒くなった息遣いが思考と判断を奪っていく。

 気づけば彼女の目には涙が浮かびはじめ、全身から吹き出した汗とともに流れていった。




 やがて、巴に追いついた骸骨の腕たちが、彼女の背後にゆっくりと迫っていった。

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ヨヒラノナミダ 和井 零之介 @wai_zeronosuke

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