ヨヒラノナミダ

和井 零之介

第1話「異変は雨上がりと共に」

 晴れ間ひとつ見せない鈍色の空の下、三園みその ともえは五月雨に打たれていた。 

 足下に広がる水面では幾つもの波紋が絶え間なく生まれ、地面に叩きつける雨音だけが耳に届く。

 いつも見慣れた町や人の姿などはなく、周囲はすべて霧に包まれている。

 そんな中でも傘を持たない巴は、ただ立ち尽くすだけであった。

 しかし、虚ろな目つきで俯く横顔からは、怯えや嫌悪の類いは感じられない。

 胸元まで真っ直ぐに伸ばした自慢の茶髪も、いつも綺麗に着こなしているセーラー服やローファーも彼女と同じく、びっしょりと濡れていた。


「…………」


 どれくらいの時間が経った後だろうか。

 ふと巴が遠くに視線を向けると、ぼんやりとだが二つの人影らしきものが見えた。

 霧がかかっていて鮮明に見ることはできないが、背格好から成人した男性と女性のものであることが、なんとなく予想できる。

 しかし程なくして、巴は気づいてしまった。こちらを見つめる二つのシルエットが、見覚えのあるものであることに。


「……お父さん? それに、お母さん?」


 微かな望みが口から漏れた瞬間、両親らしき人の姿が霧の中へと徐々に消え始める。

 同時にガラス玉のような緑青色の瞳に光が蘇り、いつもの少し吊り気味な目つきに戻った

 

「ま、待って!」


 そう声を上げた巴は、慌てて二人を追いかけた。

 雨に濡れた身体と衣服の重みからか、思うように身体に力が入らない。

 それでも必死に足を前に出すが、何故か距離は一向に縮まらなかった。

 やがて二人の影は、濃い霧に包まれて完全に消えてしまった。


「置いていかないで!」


 先ほどよりも大声で叫ぶが、それすらも豪雨によってかき消される。

 やがて周囲の霧がさらに濃くなり、巴の視界も白く染まっていった――




「――っ! はぁ……はぁ……」

 

 巴は目覚めるや否や、布団をガバッとめくって飛び出した。

 辺りを見渡すと、そこは雨と霧に包まれた孤独な世界ではなく、見慣れた彼女の自室である。時計に視線を移すと、針は午前五時四十七分を指していた。

 額にはじっとりと汗をかいており、パジャマも髪もほんのりと湿っている。


「また、あの夢……」


 軽く息を整えると、巴は静かに窓の方を見つめた。

 ガラス越しに広がっていた景色は、あの夢で見た空を彷彿とさせる雨模様であった。

 



「あら、ともちゃん。おはよう」

「おばあちゃん、おはよう!」


 浴室で汗を流した巴は台所に向かい、朝食を作る祖母の芳恵よしえとあいさつを交わす。


「巴、おはよう! 朝からシャワー浴びていたのかい?」


 茶の間で新聞を広げていた祖父の源二朗げんじろうが尋ねる。


「おじいちゃんも、おはよう! ちょっと、悪い汗をかいちゃってね」

「ん? 悪い夢でも見たのか?」

「き、気にしないで大丈夫だよ! あ、これテーブルに並べるね」


 そう言って巴は料理や食器を茶の間へと運び、ちゃぶ台の上に並べていった。


「いただきます」


 巴と祖父母の三人は食卓に着き、朝食をとり始めた。

 ほんのりと湯気が立つ白米、豆腐と野菜の味噌汁、丁寧に焼かれた塩鮭、彩り豊かな漬物や梅干し。もちろん、どれも芳恵の手作りだ。

 昨晩に見た夢と不安を払拭するように、祖父母との談笑を交えながら、巴は食事の一時を味わった。

 食事を済ませた後は、巴は学校に行く支度を始める。

 白地に赤いラインとスカーフが目を惹く半袖のセーラー服、紺色のスカートへと着替え、ヘアブラシで長い髪を整える。

 授業で使う教科書などを確認し終えると、黒い革製の通学鞄を手に持った。


「おっと、忘れ物」


 独り言を呟いた彼女は、勉強机に置かれた小さな物体を胸ポケットに仕舞った。

 それは父から貰ったお守り代わりのである。


「学校いってきます!」

「いってらっしゃい、気をつけてね!」


 少し履きつぶされたブラウンのローファーと共に、巴は玄関を後にする。

 その様子を見送った芳恵は茶の間に戻り、源二朗とともに緑茶を啜りながら一息ついた。


「巴、大丈夫かな? 最近、悪夢にうなされているみたいだしな……」

「仕方ないですよ、あなた……それにしても、あれから3年が経つんですね」

「あぁ……」


 二人は巴の身を案じながら、再び湯飲みに口をつける。

 外ではその不安を表すかのように、鉛色の空から小雨が降り始めていた。




「……で表すことができます。つまり、この代入法を使うと……」


 日本のどこかに位置する町、梶宮かじみや市。

 さらにその一角に位置する「市立梶宮中学校」の新校舎二階、ネームプレートに「2-1」と書かれた教室の窓際の席に、巴の姿はあった。

 時刻は午前十時二十一分、現在は数学の授業の時間である。


「それじゃあ、この問題の答えを……三園さん」

「はい! えっと……『x=2, y=7』です」

「おっ、正解! そうです、このようにして……」


 安心した巴は、ふと窓に目を向けた。

 今も外では灰色の空と濡れた運動場を背に、無数の雨脚が見える。


(いつまでこの雨は続くんだろう……)


 そう心の中で呟き、再び授業に集中を戻した。 

 彼女の中学校生活は、普通そのものである。

 学業も運動も、目立った支障はない。

 良く言えば順調、悪く言えば退屈そのもである。

 ある点を除いては……


「巴、一緒に帰ろう!」


 ホームルームを終えて帰る準備をしていた巴に、同じクラスの友人である粟辻あわつじ 恭子きょうこが声をかけた。

 黒髪を黄色のリボンで一つに結っている彼女は、巴の小学校からの友人である。


「ごめん、恭子。今日は無理」

「えーっ、なんか用事?」

「うん……おばあちゃんに頼まれた買い物があるから」

「そっか、それなら仕方ないや。そんじゃ、また明日!」

「ごめんね、また明日!」


 巴は手早く支度を済ませ、恭子に軽く手を振り返してから教室を後にした。

 その様子を見ていた同じクラスの女子の一人が、恭子に話しかける。


「巴ちゃん、やっぱり元気ないよね」

「しょうがないよ。この時期になると、巴はあんな感じだから」

「……確か、今もなんだよね?」

「……巴の両親のこと?」

「うん、だって――」


 巴がいなくなった教室を軽く見渡し、クラスメイトの一人が小声で呟く。


「三年前からずっと行方不明って、いくらなんでも可愛いそうだよ……」




(今日は、あっちの道から回ってみようかな?)


 学校からの帰り、巴は雨傘を片手に寄り道をしていた。

 祖母から頼まれた買い物なんてない。

 ただ、こうやって雨傘を片手に雨の日を散歩していると、両親に会える気がする。

 そんな淡い期待を密かに抱えながら、歩を進めているだけであった。

 

「あっ、ここの公園――まだあったんだ」


 途中、見覚えのある小さな公園の前で立ち止まる。

 幼き頃、両親や祖父によく連れて行ってもらった場所であった。


「ブランコとか滑り台とか、今だと小さく感じるなぁ」


 当時は心ゆくまで遊び尽くした遊具も、今は少し頼りなく、一方で愛おしさ感じる。

 ちょっとだけ感傷に浸った後、公園を後にして再び歩き始めた。


(そろそろ帰ろう。宿題もあるし)


 少し早足になりながら、程なくして帰路へと戻ることができた。


「――あれ?」

 

 しかし途中、巴は一つの違和感を覚え、その場に立ち止まった。

 通り慣れているはずの住宅街ではあるが、一向に家へとたどり着かない。

 それどころか、先ほどから似たよう景色が続いている。

 彼女の背と同じ高さの塀や垣根。等間隔に立ち並ぶ電柱。そして車どころか、ここまで誰一人とも出会っていない無機質な道路。


「何かが、おかしい……」


 ふと、傘を叩く雨音が聞こえないことに気づく。

 雨が止んだのかと傘をつぼめながら顔を上げると、そこには雲一つない黄昏時の空が広がっていた。

 しかし、それは幻想的な美しさとは裏腹に、黄金と闇が混じったような言葉にできない不気味さを含んでいる。


「ここは、一体……?」


 まるで、いつもと違う世界に迷い込んだような感覚。

 似たような景色の中に咲く青色の紫陽花だけが、この世界の中で妖しく輝いていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る