赤い靴

久々原仁介

赤い靴

 あなた、さては旅のお人でしょう。


 わたしを見て「ああ! 足だけが歩いている! 化け物だ!」と、わめき散らすような失礼な方は、ここにはおりませんから。


 そうです。まずは落ち着いてください。別に取って食ったりなどはいたしません。何せわたしには、口がありません。足だけなのですから。


 ならどうしてわたしがお話できるかと言われれば、それは努力の賜物としか言いようがありません。あなたが言葉に聴こえるそれは、わたしの赤い靴が奏でるステップなのです。ほら、アン・ドゥ・トロワ。アン・ドゥ・トロワ。


 お時間はありますか? 少し踊りながらわたしの与太話にでも付き合って頂けないかしら。


 ちょうど昔のお話を誰かにしておきたいと思っていたところです。覚えておこうにも、わたしには頭がありませんから長くは覚えていられないのです。ですからたまに、昔の話を誰かに聞いてもらって忘れないよう努めているんです。


 もう何年も前で、わたしに太ももより上のカラダがあったころの話になります。

わたしはカーレンという村娘の両足でした。カーレンは仕立て屋の一人娘です。決して裕福な家ではありませんでしたが、寡黙な父親と、心優しい母親がいて、毎日のちょっとした幸せを大切にして、イエス様に感謝する。つつましい家族でした。

カーレンは赤い靴を履いて舞踏会に出ることを夢見る女の子でした。彼女はとにかく、走ることと踊ることが大好きで、近所の子どもたちを集めて舞踏会の真似事などもしていたんですよ。


 ですがカーレンがまだ小さい頃に、彼女の父親は死んでしまいました。

 イェギリスの海軍がコペンハーゲンに撃った砲撃が原因でした。誰がそんなに憎かったのか、わかりません。大砲をあの街中に落とした、ただの海兵にはきっとそこまで大きな憎しみがあったわけではないと思うのです。その海兵に支持を出した船長も、きっとそうです。でもそういうよく分からない悍(おぞ)ましいもので、カーレンの父親は死にました。それは事実です。


 カーレンと母親の生活はみるみるうちに貧しくなりました。日に三回だった食事は二回に減り、一度になる日もありました。


 母親はカーレンを娼婦に育てようとしました。街を歩くときも、物を食べるときも、男にこびへつらうことを忘れないように釘を刺しました。遊びたい盛りの子どもには酷なことです。


 しかし身売りに出される前にカーレンの母親が亡くなると、彼女は隣町の裕福な家の下女になりました。


 家の主である男はカーレンには寛容でした。彼女には住む場所を与え、教養を与えてくれました。


 しかし男は、カーレンが十三になるのを待つと有無を言わさず彼女を犯すようになりました。


 男は酒癖が悪い人でした。酒瓶を片手にカーレンを犯した次の日には、青い顔をしながらカーレンの望むものを買い与えました。カーレンはそうして赤い靴を手に入れたんです。


 しかし男は、カーレンが舞踏会に出たいという願いだけは聞き入れませんでした。次第に男はカーレンを部屋へと閉じ込めるようになり、カーレンもまた食事を口にしなくなりました。


 カーレンは段々とやせ細っていきました。パンも食べずに、アヘンを吸う日が増え、彼女の顔は骸骨のように縮んでいきます。


 このままこの子は死んでしまうだろうと思ったんです。哀れな子だと思いました。

けれどカーレンは夜な夜なベッドの上で体育座りになり足を抱えると、わたしに語りかけてくるようになりました。


「舞踏会にいき、たいわ。わたし、舞踏会に、いきたいわ」

カーレンはまだ父親が生きていたときのことを鮮明に覚えていて、そしてそれを諦めきれていない様子でした。


 カーレンは行きたいところを口にするようになりました。それはデンマークという小さな国を飛び越えるときもありました。スカーイェンのほそぉい海岸沿いを歩きたいとか、ニューハウンに着いてるハイカラな船の上で踊りたいとか。


 わたしは彼女の独り言を聴いて、「よし、それならいっそカーレンを連れ出してあげよう」と思ったんです。わたしはカーレンの足ですから、彼女が行きたいと言えば行かせてあげるのが役目だとまったく独りよがりなことを思いました。


 わたしはそれから、イーエスコウ城で月に一度開かれる舞踏会にカーレンを連れていこうという計画を立てました。


 舞踏会の日にわたしは鍵のかかったドアを蹴り破って、男の家から抜け出しました。あの男の間抜けな顔のこと! きっとカーレンも喜んでいるだろうと思いました。


 イーエスコウ城の舞踏会にたどりつく前から、わたしはもう楽しみで踊っていた。城を守る長い髭を生やした衛兵さんは、赤い靴と、わたしのステップをとても褒めてくれて嬉しかったわ。これ以上ないほどにね。


 だって、カーレンが褒められることはあっても、わたしのことを褒められることなんてなかったんですもの。


 赤いカーペットの上をわたしが魚みたいに跳ねるんです。いまでも、わたしはあの光景を夢に見ることがあります。みんなカーレンではなく、わたしを見て歓声をあげました。舞踏会が終わるころにはすでに、わたしはカーレンのことなど忘れていたことに気が付きました。


 ただ、まだ踊っていたい! という気持ちが電撃のように走っていて、それならいっそ彼女が行きたいと呟いていた場所に行ってやろうという気分でした。

シルケボーの丘を越え、グゼノーの川を越えたところした。カーレンは叫び出しましたのです。わたしは何事かと思いました。目の前には、斧をもった男がいたのです。


「この足を切り落としてしまいなさい! さあ! さあ!」


 わたしは途端に裏切られたような気持になりました。わたしはあなたが行きたいと言っていた舞踏会に連れて行っただけなのに、この仕返しは何なんだと怒り狂うようにステップを踏みました。


 でもわたしの抵抗もむなしく、あっさりと足は切り落とされてしまいました。

唯一救われたのは、わたしの足を切り落とした男は処刑人で、斧の扱いに慣れていたことでした。切口が綺麗だから助かりました。


 いまにして思えば、あのときカーレンはアヘンでだいぶおかしくなっていたようでした。


 斧の男は実直な人で、カーレンのわめくような叫びにも一言、一言、丁寧に返していました。彼女はわたしがいなくなって歩けなくなると、今度は足が欲しい、義足がほしいと口にするようになりました。


 斧の男は、最後によくできた義足をつくってカーレンにもたせると、馬車を雇ってもといた村の近くまで送ってくれました。


 幸いなことに、斧の男はわたしの話もよく聞いてくれ、そして深く同情をしてくれた。このままでは生活に不便だろうと、知り合いの雑技団を紹介してもらい、しばらくわたしはそこで生計を立てていました。


 雑技団の人も、きっと足だけのわたしを気味悪がるだろうと思いました。しかし彼らはわたしの踊りの才能を認め、大きく祝福してくれました。


 雑技団はデンマークを飛び越え、戦時中の国々を回りました。でも、サーカスを開くのはほんの少しなんです。団長だったチャーリーは、戦争で家を失くした人たちのためにサーカステントを貸し出しました。


 敵国の砲台兵士も、赤白のサーカステントだけは撃ちませんでした。チャーリーがその敵国だと呼ばれる国へと訪れたときも、同じようにサーカステントを貸し出したからです。


 ですからわたしたちは、踊るときいつも青空の下でした。チャーリーはお洒落な杖をもって、よくわたしと踊ってくれました。


 たしかに最初は、奇妙だ奇妙だと言われましたが。踊り終えたあと、それらは一切合切が歓声に変わります。それがあまりに快感で、わたしはすぐに雑技団を、そしてチャーリーを愛するようになりました。


 指輪は、足の薬指にはめています。わたしはこのとき初めて自分が足でよかったと思いました。もしわたしが目や鼻では誓いをたてることもできませんから。


 チャーリーは、わたしと踊っていると君のカラダが見えるようだと言います。彼が想像するわたしのカラダは、不思議なことにカーレンそのもののように感じられました。


 そういうとき、わたしはなんだか少しだけあの子の足に戻りたいなぁと、どうしようもなくなるときがあるんです。


 わざわざお話を聞いてくれてありがとうございます。


 実は先日、風の噂でカーレンが天使様の手によって召されたことを聞いたのです。カーレンは最後、教会で息を引き取ったそうです。


 だからわたしは、ああこれは誰かに話さなくてはならないと思ったわけです。

わたしを裏切った彼女を寂しい人だとは思いましたが、憎んではいません。彼女は、わたしに掛け替えのない足をくれました。


 今にして思えば、あの子もきっと何かにすがりたくてしょうがなかった。戦争もそうです。宗教もそうです。あの裕福な家の男も、舞踏会も、赤い靴も、彼女の足であるわたしも。みんなそうです。じつのところ彼女には、それに気付くことができるほど、大人になることができなかったんです。


 わたしには、雑技団がありましたから。


 イェギリスの大砲で父親が焼け死んだときに、きっとカーレンの心の一番やわらかいところに、大きな穴が穿たれたのです。


 彼女の両足だったわたしには、それがどうしようもなくわかるのです。

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