今日から、私は。

はじめアキラ

今日から私は。

 ぽかぽか陽気の日曜日。なんとも絶好のデート日和だ、と思う。近くを通り過ぎた店員さんが、こちらを見てちょっとだけ首を傾げたようだった。私は気づかないフリをして、目の前に座る彼に声をかける。


「食べないの?」


 その言葉に、彼はにっこりと笑う。テーブルの上には、手つかずのチーズケーキが。


「いやー、りっちゃんが食べてるのを見るのが好きだから、観察してた。すっごく可愛いだもん。俺はそれだけでおなかいっぱいになっちゃうし!」

「……もう」

「お、照れた?照れた?」

「やめてってば」


 相変わらず彼――龍城たつきは流れるように恥ずかしい言葉を言う。いくら彼女だからっていちいち私のことを褒めすぎなのである、彼は。おかげさまで、甘いイチゴのショートケーキがさらに甘ったるくなってしまうではないか。

 私が好きなのはチーズケーキの方で、イチゴのショートケーキは彼が好きなものだった。それを今日交換しているのはつまり、イチゴを食べるりっちゃんが好きだから!と彼が主張したからに他ならない。

 今日はお店のケーキだが、家では彼がいつも料理を作ってくれる。ラーメンやチャーハンといったものから、シューマイ、餃子、麻婆豆腐に肉じゃが、茶わん蒸しといったものまで。中華が多いのは単純にお互いが中華好きだからに他ならない。

 男の子でも料理をする人は多いが、龍城が料理を本格的に練習し始めたのは私と付き合うようになってからだったと知っている。私が彼よりも遥かに家事能力、特に料理が壊滅的に下手だったからだ。いずれ一緒に住むことになるのだから、少なくとも片方は料理をまともに作れるようにならないと話にならない。そんなわけで、不器用な私にかわって彼が料理を練習し始めたというわけだった。

 元々凝り性で器用なタイプの彼は、一年であっという間に上達。私達が同居を始めた現在は、若い主婦が裸足で逃げ出すくらいにはレパートリー豊富に成長したというわけである。

 本当は、お店のケーキよりも、彼が家で作ってくれるケーキのほうが好き。尤もそんな彼は、私がバレンタインに不器用ながら見よう見まねで作ったお菓子でさえ“世界で一番美味しいよ!”なんて喜んでくれるお人よしであったが。


「甘いもの食べてると、なんか久しぶりに龍城の料理が食べたくなるなあ……」


 私がぼそっと告げると、彼は笑ってまた今度ね、と言う。


「それよりも早くイチゴ食べてよ。俺がなんで料理練習してたと思ってんの。好きな人が、美味しそうにご飯食べるのが最高に幸せだからーって言ったっしょ?」

「もう、わかってますって」


 私はあーん、と大袈裟に口を開けて真っ赤な苺を頬張った。甘酸っぱさが、口の中いっぱいに広がる。龍城は最後まで、それを嬉しそうに見つめていた。

 人が食べているのを見るだけでお腹が膨れるなんて、本当に変わっているなと思う。結局、彼の目の前のチーズケーキも私が食べることになったのだから。




 ***




 デートの終了と同時に、空模様が怪しくなってきた。折り畳み傘を忘れたことに気づき、慌てて家へと走る私である。

 龍城がいなくなると、私の世界は一気に色が褪せたようになってしまう。いつもにこにこ笑っていて、ひっきりなしに面白い話を聞かせてくれる彼。それでいて、私が悩んでいる時は真剣に耳を傾けてくれるし、アドバイスが欲しい時はそうしてくれる。彼がいない場所は、いつだって音も色も足らないのだ。さながら、春の花畑の小道から、一気に冬の坂道に入ってしまったかのように。


――ああ、嫌だな、月曜日。


 日曜日終わりの、此の何とも言えない空気感。日曜日にサザエさんを見ると気持ちが沈む、というのが社会人としては嫌というほど分かるというものである。月曜日が来る。また朝早く起きて、夜まで仕事をしなければいけない。最近、仕事量が多くて忙しいし、残業が続いている。ソファーにダイブしてテレビをつければ、タイミングよく天気予報がやっていた。


『明日は、朝から関東は雨模様となるでしょう。洗濯物は家で干してくださいね。雨は夜まで降り続く見込みで……』


 朝から雨とは、さらに憂鬱な。今度こそ折り畳み傘をバッグにつっこまなくちゃ、と思いながらも私はしばらくその場を動けなかった。

 妙に体がだるい。ケーキを二個食べてしまって胃もたれをしているわけではないだろうに。


――雨かあ。……やだな。朝から濡れるのか。


 週刊予報を見ると、火曜日まで雨マークがついている。明日の予報はまだ変わる可能性があるとはいえ、じっとりとしたため息が漏れてしまう。

 火曜日は、私の誕生日だった。誕生日に一日雨が降るというのか――せっかく、龍城がお祝いしてくれると言っていたのに。


『龍城、明日雨だよー。すっごく嫌。朝から濡れなくちゃいけないなんてー』


 なんとなく、ぼやきのLINEを龍城に送った。

 返信を確認することもなく、そのままスマホをスリープにして目を閉じる。

 晩御飯に買ったコンビニ弁当はキッチンに置いたまま。脱いだコートは散らかしたまま。それを叱ってくれる人もここにはいない。

 落ち込みそうになる気持ちを振り切るように、私は無理やり意識を闇へと沈めたのだった。




 ***




 夢を見た。まだ龍城が親と実家で暮らしていた頃の夢。彼は私に“ちょっと付き合って欲しいんだけど”と言ってデートに連れ出したのである。

 が、その場所が何故か、ホームセンター。お互い用事があって、デートができるのはお昼からだった。ホームセンターの四階のフードコートで一緒に食事して、そこから“買いたいものがあるから付き合って欲しい”と言われたのである。

 それから“今日のお昼、特に好きなものを選んで食べて欲しい。何でも、おなかいっぱい。全部奢るから”とも。ああ、その時も。彼は大食いな私がやたらとハンバーグやらカツサンドやらグラタンやらを雑多に食べているのを観察していたはずである。

 自分の頼んだお蕎麦が伸びてしまっていることにも気づかないまま。


『何で私が食べてるところばっかり見てるの?』


 不思議になって尋ねると、龍城はちょっと照れくさそうに視線を逸らしてこう返してきたのである。


『いや、その……君が、ごはん食べてるの見るの好きだし、それに』

『それに?』

『……君が、一番美味しそうに食べる料理を、最初に練習しようかなあって……』


 なんとも、可愛いことを言ってくれる。思わず、私の方も顔が熱くなってしまったほどだ。その後、自分のきつね蕎麦が伸びてしまっていることに気づいて、慌てて掻きこんでいたことも含めて。

 ホームセンターに来たのも、その“一番最初に練習する料理”のために必要な調理道具などを、私と一緒に選びたかったということらしい。一緒に住みたいから、こういうのも二人の好みで選んだ方がいいと思って、と。まだ、同居を始める時期さえ決まっていなかったというのにだ。

 いつでもどこでも、ずっと前から念入りに準備。そのすべてが私のため。

 彼は、そういう人だった。夢の中の私はどこまでも幸せで――目覚めた時、頬が濡れている事実に気づかぬフリをしたのである。




 ***



 翌日。


『今日も仕事だ、嫌すぎるー!営業部の方はどう?今日も直帰なの?お疲れ様、私もがんばるー』


 仕事中にこっそりと龍城にLINE。スマホをしまって、私はパソコンに集中した。今日中に、出来る限りの商品の出荷手配を済ませてしまおうと決める。三十八件、倉庫で探してきてピッキングして梱包して発送。一件ごとに時間がかかるのがこの仕事だった。定時、他の社員たちがちらほら帰っていくのに挨拶をしながら、私はひたすらパソコンと社内倉庫を行き来している。


――あー……この部品、残り少なくなってる。取り寄せないと、ちょっとまずいかも。


 メモを取りつつ、入力を続けようとした時。ぽん、と誰かに肩を叩かれた。


澤井さわいさん、お疲れ様。また残業?」

「あ、課長、お疲れ様です」

「うん……」


 社員たちからも慕われている、渋沢しぶさわ課長。若い頃は間違いなくイケメンだったのだろうな、と思わせるような渋いダンディな男性である。彼はパソコン画面と私を交互に見て、あのさ、と続けた。


「最近、少し頑張りすぎじゃないかな。その仕事、明日に回しても大丈夫だよ?というか、今日入った注文を今日一日で全部終わらせる必要はないんだし。月曜日だしね。他の人と一緒に君も帰っていいんだよ」

「ありがとうございます。でも、できればすっきり片づけて帰りたいんです」

「それで、連日遅くまで残業しすぎるのはさすがにまずいと思うんだけど」


 確かに、ここのところ私一人で残業していることが続いている。他の社員たちにも、そこまで頑張らなくてもいいのに、と声をかけられることは少なくなかった。

 わかっている、本当は。今日やらなくてもいい仕事を、無理に今日に詰め込んで残業になっているということは。残業を、自分がしたがっているということは。

 何故なら、それは。


「……明日」


 渋沢課長は、ぽつりと呟いた。


「澤井さんの、誕生日なんだっけね。おめでとう」

「あれ、知ってくれていたんですか。ありがとうございます」

「まあね。五十嵐いがらし君から聴いていたから」


 五十嵐、というのは龍城の苗字だ。そういえば、龍城と渋沢課長は結構仲良くしていたっけな、と思い出す。まるで父と子のような関係だ、なんて思ったこともあった。何度も飲みに誘われるんだよーと話してもらったのを思い出す。なんでも、渋沢課長が営業課から営業補佐課に移るまで世話になっていたのだとかなんとか。


「これ」


 そして、課長は。


「お誕生日おめでとう。……私からじゃなくて、五十嵐君からだけど。彼のデスクに入ってたんだ」

「え」


 私に綺麗に包装されたピンクの小箱を渡してきたのである。それには確かに“李緒りおちゃんへ”という手紙がくっついていた。私の名前だ。


「本当は明日渡すべきなんだけど、私は明日一日出張だから。……本当は彼が、自分で渡したかっただろうけどね」

「……え」


 渡したかったって、どういうこと。何で彼は、机に入れて前から用意していたプレゼントを、私に直接渡しにこないのか。

 固まった私に気づいてか。渋井課長は、悲しそうに私を見つめて言ったのだった。


「彼と暮らしていた部屋に、一人で帰りたくないのはわかる。でも、だからって無理に残業して自分を苛めるのは間違っているよ。……五十嵐君だって、それを望んでいるはずだ」


 ああ、そうだ。

 私は唐突に、夢から醒めたような気になった。スマホを見る。――彼へのメールが、届かなくなったのはいつだったっけ。彼へのLINEメッセージに既読がつかなくなったのはいつだっけ。それから。

 一緒にデートをしても、彼がご飯を食べなくなったのは、いつだったっけ。

 そう、一か月前に、彼は事故で。


「……なんで」


 みんなが気を使ってくれていたのだと知る。友達も、家族も。まだ龍城が傍にいるようにふるまう私をどう思っていたのだろう。それに話を合わせながら、何を感じていたのだろう。辛くなかったはずがない。苦しめなかったはずがない。

 わかっている、それが間違っていたことくらいは。それでも。


「なんで、そんな、こと。言うんですか」


 夢から醒めなければ。

 私はまだ、彼の幻と一緒にいられたのに。


「私は会社の上司である以上に、彼の友人だと思っているからだ。そしてその友人が、世界で一番愛した女性に幸せになって欲しいからだよ」


 渋井課長は、しゃがみこんで私に視線をあわせると。私の手に小箱を握らせて、言ったのだった。


「夢は、終わりにしなければいけない。夢を見ながらも人は、結局現実を生きるしかないんだ。……彼が残した“現実”から、目を背けないでほしい。頼む」




 ***




『李緒へ。


 お誕生日おめでとう、李緒!二十八歳の誕生日だね。お互いそろそろアラサーかー、年食ったもんだ。

 大学で出会ってからもう八年も過ぎたんだね。長いね。そろそ俺も給料たまってきたし、二人の同居生活も二年になったし、いいかなあって思ってるんだけど、どうだろ。


 結婚しないかな、駄目かな

 誕生日プレゼントは、りっちゃんが好きそうなペンダントを選んでみたよ。実はおそろいなんだ。それとは別に、二人で指輪も買いに行きたいって思ってる。

 俺全力でりっちゃんを幸せにするし、いっぱい美味しいご飯を食べさせてあげたいんだ。それが、俺の幸せだからさ。


 いやごめん、誕生日の手紙で。今度ちゃんと口でも言うから許して。こればっかりはほんと、俺でも覚悟がないとはっきり言えないというかなんというか。

 大好きだよ、りっちゃん。

 これからも笑顔でいてね。りっちゃんの笑顔がそこにあるだけで、俺はどこにいても幸せです!


 龍城』




「……馬鹿ぁ」


 誰もいないロッカールーム。プレゼントは可愛らしいクローバーのペンダント。一緒に添えられていた手紙を読んだ私は、その場に崩れ落ちた。

 多分、手紙はまだ完成してなかったのだろう。あちこち下書きして、書き直した形跡がある。慌てていたのか、誤字まで残っているのがなんとも彼らしい。几帳面に、当日まで文章を考えるつもりだったのだろう。


「そういうの、ほんと……自分の口で言いなさいよ。なんで死んでんの、馬鹿、馬鹿、ほんと馬鹿……!」


 私の笑顔があるだけで幸せ、なんて。なんとも勝手なことを言ってくれる男だと思う。彼がいない世界で笑っていろなんて、なんとも残酷がすぎるではないか。

 でも。

 私が笑うだけで、本当に龍城が幸せになれるなら。天国でも、そうあってくれるというのなら。それを、信じさせてくれるなら。


――もう、幻に逃げないよ。……ちょっとずつ、ちょっとずつだけど……前を向くから。


 そう。

 今日から、私は。

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