第4話 怠惰王の秘密
「……ねぇ、あんたさ」
「俺はティルナート・ローレンスってちゃんとした名前があるんだよ」
「どうでもいいわよ。……あんた、なんでだらだらしてるのよ」
怠惰王という呼び名は、その噂は、フローラも知っていた。地位を持っている者はただ怠惰に生きればいいのかと、ティルナートから学んだところもあった。うらやましいとも思っていた。
他人から羨まれる地位にあり、与えられるままに自堕落に生きる。
そんなティルナートと実際に会って、見て、話して。
フローラの中にあった「怠惰王」の像が揺らぎ始めていた。
ただの自堕落なら、フローラに結婚を申し込む必要なんてなかった。
妻なんて不要だと突っぱねればよかった。
それくらい、フローラにだってわかる。
そして今、ティルナートは、気のせいでなければ心から楽しそうにフローラ自身をいじっていた。話すことが楽しいと、からかうことが楽しいと、人と関わることが楽しいと、そう言いたげだった。
そんなティルナートがなぜ、のらりくらりと人と接し、怠惰な日々を送っているのか。
その問いに、ティルナートは表情を消す。ずっと張り付けられていた微笑は掻き消え、そこには、虚無のごとき闇が垣間見えた。
「……君が相手だ。俺も本音を話そうか」
「本音?」
「俺とて、怠惰に生きるのは趣味じゃない。毎日だらだらと生きるなんて気が狂いそうだ。だが、これが最も確実だった」
何が確実なのか――怠惰王の仮面をはぎ取ったティルナートが、フローラにはわからない。自分とは違う、大義を秘めた人間。そう、思った。
光のうかがえない黄金の瞳が、じっとフローラを映す。その心まで見透かすような視線は、フローラには人のそれには思えなかった。
「王宮の料理なんて食えたものじゃない。真面目に統治などやれない。……もしそんなことをしていれば、俺はとっくに死んでいる」
「死、んで……」
「ああ。俺の両親も、兄弟姉妹も、近しい血縁者も、皆が死んだ。病死で、襲われて、溺れて、毒殺されて……ここ十年程のことだ」
指折り数える動きは、十を超えたところで止まる。それ以上は数える気にもならないと肩をすくめる。
曲がりなりにも長く続いたローレンス王国の正統な血統者がティルナート一人になるなど、偶然のはずがない。
「ある日、俺の食事にも毒が盛られた。兄はそれで死に、俺はかろうじて一命を取り留めて……悟ったのさ。この国の王族を皆殺しにしたい奴がいると。ただまあ、当時の俺には何もかもが足りなかった」
地位も、学も、権力も、観察眼も、頼れる知人も、情報も、年齢も。
「全てが足りないなら、時間を稼ぐしかない。だから、父王が死んだその瞬間から俺は、無能になった」
それこそが怠惰王ティルナートの正体だと、肩をすくめて告げる。
「……それ、で」
問うフローラは舌がもつれてうまく言葉を口にできなかった。
体が、震えていた。恐怖に、あるいは、ティルナートの異様な気迫に飲まれて。
「どうしてわたしに、そんなことを言うのよ」
「全部計画の上だったからだよ。魔女とか悪女と言われるまだ幼い君は、実に好条件な存在だった」
一つ、幼すぎるがゆえに、自分と結婚しても数年は子どもが期待されないこと。
二つ、無知であり傲慢であるがゆえに、怠惰王と組み合わせても害にならないと判断されるであろうこと。
三つ、フローラが、間違いなく王族殺しに関与していないであろうこと。
四つ、それは三つ目にもつながることで――
「君は魔法使いだからね。君が垂れ流す魔力によって、料理から毒が消える。浄化される。君がいれば、僕の体内に蓄積した毒さえも消え去る」
それは、魔法使いたちにのみ伝わる秘密。
だが、初代国王が魔法使いであったローレンス王国には、魔法使いの知見がある。王族にのみ伝わる、魔法使いの有用性を、ティルナートは知っている。
だから、魔法使いであるフローラが、毒殺のために送られてくる可能性はないといえた。
もっともこれほど痛手を負うことは想像していなかったと、折れた両腕を挙げて苦笑する。
そんな風に笑えるのが、フローラには理解できない。
命を狙われて、毒を盛られて、周りは誰が信用できるのかもわからなくて――気がくるっていない理由がわからない。
「毒……もしかして、料理に」
「ああ、今日も入っていただろうね。けれど毒の味がしなかった。それに、今の俺の体はずいぶんと軽いんだ」
怠惰王の生存は、相手にとっては不完全。だが、相手もまた時間が欲しかったのか、あるいはティルナートが警戒している可能性を考えたのか。
体内に蓄積する微量な毒を料理に混ぜていた。
その毒は、草木を食べて飢えをしのいでいたティルナートに少しずつ蓄積していった。毎回料理を残せば怪しまれるから、食べる以外の選択肢がなかったから。
「完璧なタイミングだったよ。君は俺を救った。そして、この国を救うことになる」
だから――と。
ティルナートは真摯な目で、真っすぐにフローラを見て告げる。
「俺と結婚してほしい。妻となり、俺を支えてほしい。国母として、この国を守ってほしい。……これは、魔法使いである君にだから頼めることなんだ」
「わた、しは……」
乾いた喉で、かすれるように告げる。
グラグラと視界が揺れる中、ティルナートの黄金の瞳だけは、揺らぐことなくフローラの視界にあり続けた。
「わたしは……」
「まあ、君がなんと言おうと、俺は地の果てまで追って君に結婚を承諾させるけれどね」
「何よそれ……そんなの、逃げるだけ無駄じゃない」
すっかり牙を抜かれたフローラは、くしゃりと笑ってティルナートを見つめ返す。
それが、フローラにできる精一杯だった。天邪鬼のできうる限りの答えだった。
ここで逃げないのが、答え。
よくできましたと、ティルナートは笑って。
ギプスで固定された腕を、そっとフローラへと向けた。
「これからよろしくね、俺のフローラ」
「……ふんっ」
「……痛いんだけれど?」
ぺしん、とティルナートの手を叩いたフローラは、このまま流されるものかと指を突きつける。
「わたしが上、あんたが下よ。わかった!?」
「もちろん。俺の考えていることがよく分かったね?」
「……はぁ?」
「怠惰王が突然真面目に動き出したら相手が警戒するだろう?だから君が俺を叱咤激励して、俺は愛する君のために仕方なく馬車馬のように働くんだ」
それなら少しは相手の目を欺けるかもしれないとウインクして。
「俺は怠惰王で居続けるからこれから頼むよ。俺のご主人様?」
「……あんた、怠惰に生きることに味を占めてない?」
その言葉に、ティルナートは何も言わずに笑った。
よくわかったね――フローラにはそう聞こえた。
のちの歴史書には、最も偉大にして最も愚かな王として、ティルナート・ローレンスの名は刻まれる。
彼は怠惰を尊ぶ王で、けれど愛する妻に尻を蹴られて仕方なく政務を行う怠惰王。
彼は常に妻のためだけに働いた。妻がよりよく生きるために王国を切り盛りしたのだ。
衰退をたどっていたローレンス王国を回復させた怠惰王ティルナートのそばには、いつだって彼の愛しい魔法使いにして妻、そして彼の主人たる「女王」がいた。
彼女こそが、魔女とも悪女とも呼ばれた、魔法使いフローラ。
ローレンス王国存続の本当の立役者なのだ。
『ローレンス王国の変遷 ――怠惰王のご主人様――』より
怠惰王のご主人様 雨足怜 @Amaashi
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