隔離居住区の災厄
宇多川 流
隔離居住区の災厄
「本当にごめんなさい。一緒に行けなくて」
声はこもりヘルメットの透明フィルムの内側は曇っていたが、俺には彼女が泣いているのが分かった。
「きみのせいじゃない。むしろ、俺はきみを巻き込まなくて良かったと思っているよ。もちろん、別れるのは寂しいけれどさ」
少なくとも彼女はいつ死ぬともわからない病原菌に侵されることはなかったし、おかげで地下シェルターに隔離される憂き目にも会わずに済んだ。この惑星はテラフォーミングされてまだ数十年。年に一度、地球からの輸送船による物資補給があるだけで必要最低限以外のものも少なく、人口一万程度が住める狭い居住区にもまだ緑は少ないとはいえ、透明なシールドから透かし見える空は地球のそれに似て青く美しく、少なくとも分厚い壁に囲まれた地下シェルターよりはマシな風景に囲まれて暮らせるはずだ。
彼女はこの地上で、幸せに暮らしていく。そう信じている。別の誰かと一緒になる彼女を想像すると面白くはなかったが、どうにしろ地下深くに封じられる俺に確かめる術はない。
「俺のことは気にしないで、生きたいように生きてくれ。できるだけ長くな」
「あなたこそ、長生きしてね」
そのことばには苦笑するしかない。なにしろ治療方法などわかっていないのだ。専門家の言うことには、テラフォーミングされる何年も前、調査隊が一隊、同じ病気によって壊滅したらしい。とにかく言えることは感染力が異常に強いということで、空気感染するために感染者以外は白い甲冑のように厳重な防疫スーツを着込んでいた。
「運が良ければ、多少は長生きできるだろうな」
運が良ければ、あんなコンサートには行かなかったな、と内心で付け足す。
仲の良い同僚が急な用事で行けなくなったからと、コンサートのチケットを一枚くれたのが始まりだった。娯楽の少ないこの惑星の居住区では、高価な上に金を出してもなかなか手に入らないチケットだ。俺は彼女にあげるつもりだったが、運悪く外せない仕事があるということで、俺が一人で行くことになったのだ。
この惑星唯一にして最大のコンサート会場には、学生たちも招待されていた。俺の勤める自然科学研究所の先輩科学者も何人か見えた。観客は満員で、二千人はいたんじゃないだろうか。
人気の女性歌手の歌声は芸術のげの字も知らない俺ですら感動を覚えるくらいのものだったが、あとで聞いた話では彼女の高く整ったビブラートの周波数が眠っていた病原菌を活性化させてしまったのだという。その病原菌はコンサート会場の付近の地中にでも眠っていたのだろう、と医師が言っていた。今までは大丈夫だったのだろうか、と思わないでもないが、歌手が倒れて我々も感染したと判明したコンサート会場以来、研究所にも行けていないし情報端末に触れることもできていないため、判断材料はなかった。それに、専門家が皆そう言っているならそうなのだろう。
「あなたが回復するように祈ってるわ」
そろそろ、別れの儀式は終わりだ。
この密封状態の部屋にいるのは俺たちだけではない。さすがに二千人は入らないのでいくつかの集団に分かれて順番に送り出されるが、周囲には、俺たちと同じ境遇の者たちがたくさんいる。
送る側と送られる側。泣きじゃくる子どもを抱きしめる親。親兄弟と寂し気に別れを告げる大人。特に子どもたちの多くが感染したというのは悲惨なものだ。このままでは将来の人口が激減する。たぶん、地球から新たな入植者を大勢募ることになるんだろうな。
「ありがとう。きみの幸せを祈るよ」
次の一団が控室で順番を待っている。
俺は立ち尽くしたように見送る彼女の前から、分厚い扉の向こうへと歩き出した。
地下シェルターの生活は、最初の一週間くらいだけは陰鬱したものだった。
かつて同じ菌に感染した調査隊員は数日のうちに発症して死んでしまったと聞いていたので、いつそのときが来ると恐々としていたものの、一週間もすると皆、待つことに飽きてしまうのだ。ある意味、開き直ったとも言える。
もともとは災害避難用のこの地下シェルターは、居住区には丁度二千人ほどが何年も生活できるようにできている。衣食住に不足がない上、公共地区にはスポーツジムやプール、図書館、百年分以上もの映画やテレビ番組が詰まったデータバンクに接続するモニターが並ぶ視聴ブース、巨大モニターのある映画館まである。それに、少しなら私物も持ち込めていた。
そしてシェルターにいるのは約二千人。この惑星の人口の五分の一ほどが暮らしていることになる。外に出てみれば退屈はしない。
「博士、一体いつ我々は発症するんでしょうね」
「さあ。いつかは死ぬんだから、気にする必要もあるまい。それは寿命でかもしれないが」
同じ研究所にいた先輩科学者に尋ねてみるが、彼はそんな返事をする。まあ、病気を治そうと努力するには情報が足りな過ぎた。感染者には学者や医者も多く、シェルターには医療施設もあるが、どうやら無謀な挑戦に取り掛かる人間はいないようだ。
シェルターでの生活が一ヶ月近くになったころには誰が始めたか、大人たちは子どもたちに自分の持つ知識を教えるようになっていた。最初は退屈しのぎのつもりだったが、なかなかやってみると新しい発見もあって面白いものだ。子どもたちも熱心に聞いてくれる。彼の中には地上で暮らしていたときには学校を嫌っていた者もいただろうが、この状況になって授業というものに価値を見出したのだろう。
やがて三ヶ月たち、半年経っても病死者の一人も出なかった。
――本当に俺たちは感染しているのか?
そんな疑問が湧いたのは俺だけではない。やっと医学関係者は病気の研究を始めたが、情報が足りなかった。
「なんとか、外から情報をもらえないものかね。外との通信手段は?」
感染者には役所の人間もいて、このシェルターの機能について教え込まれていた。彼女は俺の質問に、分厚い解説書をひっくり返しながら首を振る。
「地上との通信のやりとりも一切できませんし、一年は経たないと扉は開かないそうです。一年したら、様子を見に来る調査員が派遣されてくるそうで」
それもそうか、と思いながら肩を落とす。壁も扉も地上の真上で火山が爆発しようと音や振動ひとつ通さぬほど分厚く、病原菌が洩れるようなわずかな隙もない。唯一の抜け穴たる扉を開けるタイミングは地上の人間が操作しなければ準備も不可能だろう。
あと半年のうちに発症するかもしれない。しかし、本来ならとっくに死んでいたはずなのだ。俺たちは開き直ってもう半年が過ぎるのを待つことにした。
住めば都、というものか。それからの半年も、それなりに充実した日々が過ぎて行った。結局のところ、一年もの間、俺も含め誰も発症しなかったのである。
「活性化したものの、長い年月の間に菌は弱っていたのでは? もしくは、この環境に何か菌を弱らせる要因があるとか」
「もしかしたら、もう病原菌は消えてしまったのかもしれない。調査員が来たら確かめてもらわなければ」
「それよりまず、家族の様子が知りたいな。手紙くらい欲しいものだ」
若い科学者の純粋なことばに、研究室として使っているこの部屋にいるほかの皆もうなずいた。もちろん、俺もその中に含まれる。研究対象である病原菌にも興味は引かれるが、それでも地上に残してきた者たちのことはずっと心の奥にある。忘れるはずもない。
空はないので時間感覚が地上に比べて鈍いが、時計は午前九時の少し前。それが丁度、九時を表示したとき。
『皆さま、これよりシェルターの出入り口を開放します。重要なお知らせを行いますので、落ち着いてお聞きになってください』
天井に内蔵されたスピーカーから、事前に録音されていたらしい女性の声でのアナウンスが流れた。
『まずは大人の方たちは出入り口前にお集まりください。役所の係員が出入口をお開けします』
来たか、と俺たちは目を見合わせ、口を開かないまま立ち上がって、階段の上の高い位置にある出入口前に向かう。我々には何の準備もいらないらしいが、おそらく入ったときと同じく密閉空間の部屋と接続し、調査員が防疫スーツを着ているのだろう。
その予想は裏切られる。
「は……?」
そこには、草ひとつない荒原が広がっていた。防疫スーツの調査員どころか人の姿ひとつなく、建っている建物さえ何もない。
訳がわからないが、何が起きたのかは一目見れば明らかだった。周囲はただ平らな荒原ではなく、ある一点を中心に大きく落ち窪んでいた。俺は、幼い日に父と一緒に地球から古めかしい望遠鏡で眺めた月のクレーターを思い出した。
おそらく、居住区に隕石が落下したのだ。シールドでも防げない大きさの隕石が。
ここが地球であればどこか安全な場所へ逃げることも、充分な数のシェルターに避難することもできただろう。あるいは、宇宙船で大気圏外に一時避難する手段もあったかもしれない。
「我々は残されるために集められたのか……」
誰かが言う。シェルターに入れる人数には限りがあるのだ。そして地上に安全な環境が整うまで、一年の時間を要したのである。
病原菌なんて最初から存在していなかった。ただ残されただけの俺たちは、しばらくの間、荒原の真ん中で立ち尽くしていた。
〈了〉
隔離居住区の災厄 宇多川 流 @Lui_Utakawa
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