第43話 Double the probabilities
三月上旬の肌寒いウィーンの朝、ホテルを出てまず浮かんだ感想は、街の空間に余裕があるということだ。着いた時は夜だったのでよく分からなかったが、ホテルの前の通りは広めの歩道を除いても片側三車線以上あり、さらにその真ん中に広いスペースがある。今から用があるのはその真ん中のスペースだ。道路よりも数センチだけ高い中央分離帯に突っ立って待っていると、それがやってきた。トラムだ。
トラムを直訳すると路面電車だが、日本の路面電車とはいくつかの点で印象が異なる。まず、ウィーンではトラムが移動手段の主役である。正確には地下鉄(U-Bahn)やバスも使われているが、少し大きい通りになると大抵トラムが走っており、よく風景に馴染んでいる。
そして、これはドイツ語圏の特徴だと思うのだが、地下鉄もトラムも改札の類がない。僕はYさんから言われていて初日に市内交通機関の七日間乗り放題チケットを買っていたが、特にそれを使うことも誰かに見せることもなかった。ただし注意としては、切符はトラムの中にある機械でガチャっとやって有効化(Validate)する必要がある。僕は最初の数日この有効化をせずに乗っていて、三日目ごろにそれに気付いたYさんに「それは無賃乗車だ」と指摘された。僕は遭遇しなかったがある程度の頻度でチケットチェックがあり、そこで切符を持っていないと罰金を払わされるらしい。ただし、後に出会うベルリン工科大学の博士学生は「チケットチェックの頻度と罰金の額を考えると期待値的には無賃乗車した方が得なので自分は買わないことにしている」と言っていた。都市にもよるだろうが、流石に彼の期待値計算が間違っていることを祈ろう。
目的地の近くでトラムを降車すると、ちょうどスーパーを見つけたので朝食を買うことにする。パンコーナーが豊富で、かなり大きいパンが一ユーロしなかったりと非常に安い。大きなパンと飲み物を手に持って、やや浮かれた格好で目的地へ向かう。
契約しているイギリスの回線は、月に3GBまでならヨーロッパでも無料で使える。ヨーロッパ滞在中は普段はWi-Fi生活だが、一瞬ローミングをオンにしてYさんに到着を知らせると、しばらくして建物の扉が開いた。
今日から一週間ほど滞在するのは、IQOQI Viennaという研究所だ。ウィーン大学物理学科の隣にあって、空中で繋がっている。IQOQIはInstitute of Quantum Optics and Quantum Informationの頭文字で、量子光学と量子情報の研究所である。ロゴを見るに、名前を左右対称にしたかったのだろうと思う。
滞在中に割り当てられたデスクで朝食をさっと済ませた後、研究所の中を簡単に案内してもらう。キッチンにコーヒーマシンがあるということで着いていく。先客がいて、Yさんに紹介してもらった後、「コーヒーを入れてあげよう」と言うので何があるのかと聞くと「エスプレッソかダブル・エスプレッソかどちら?」と言われる。ダブル・エスプレッソというのは聞いたことがないが、量が多いのかなと思ってそれでお願いすることにする。もらったものはダブルという割に少なかったが、一口飲むとカフェインが濃くてウッとする。
正直なところ、エスプレッソが何なのかよく分かっていなかった。そもそも日本にいた頃はカフェに行っても勘で全てを頼んでおり、ラテはミルクが入っていて美味しい、ミルクが入っていないものはコーヒーと呼ぶ、くらいの解像度だった。エスプレッソというものは名前は聞いたことがあったが、スーパーでマウントレーニアのフタ付きのコーヒーを買う時に遭遇するくらいで、あまり深く考えたことがなかった。
オックスフォードに来て二年目、カレッジのメインサイトにあるコーヒーマシンが人生の一役を占めるにあたって、コーヒーは豆と入れ方の組み合わせで決まるということがうっすらとわかり始めていた。寮のマシンの横には色々な産地の豆のカプセルが置かれていて、それを一つマシンに入れるとエスプレッソ、ルンゴ、アメリカーノという選択肢から選ばなければならない。それぞれの選択肢のボタンの下にはカップの絵が描かれていて、エスプレッソが一番小さく、ルンゴがその倍くらい、アメリカーノはさらに大きい。つまり、エスプレッソは量が少ないので選ぶと損である——というのが僕の理解であった。実際には、このマシンの場合、豆の量が同じでお湯の量が違うというだけだと思われる。
さて、僕はよく分からないままダブル・エスプレッソを入れてもらって後悔したわけだが、現地の人はコーヒーにかける情熱が強く、ラボの人とランチの後にカフェに行くと、ダブル・エスプレッソを二杯頼んでいる人がいた。あるいはカフェイン中毒なのかもしれないが。
そろそろ本題——共同研究の話に戻ろう。こうやって共同研究のために別の機関に滞在する、というのが実際には何をするものなのかよく分かっていなかったが、単に毎日議論の時間を設けて何か出来ないか話し合いましょうということだった。廊下のホワイトボードを使って、手始めにYさんから量子計算について軽い説明があった。今でもきちんと理解しているとは言い難いが、少し説明してみることにしよう。
まず、量子ではない計算とは、現在我々の使っているコンピュータで行われているような計算である。「計算?何も計算してないけど?」という人も多いと思うが、コンピュータ科学においては足し算や引き算だけではなく、例えばウェブの検索やゲーム画面の描画で行われているものも一定のプログラムに従って動いており、「計算」と呼ぶ。
では何が行われているのか?もちろん物理的にはコンピュータを動かす電気信号だとか回路だとか、トランジスタだとかそれを作る半導体だとかに言及しなければならない。僕の理解の及ぶ範囲でもう少し単純化すれば、計算とはコンピュータ上の「メモリの書き換え」である。誤解を恐れずに言えば、コンピュータはたくさんの箱(これをメモリと呼んだりする)から出来ていて、それぞれの箱にはなんらかの情報が入っている。この情報は数値であったり単語であったり、あるいは他の箱の場所だったりする。計算とは、これらの箱の情報に基づいて新しい箱に情報を書き込んだり、既存の箱の情報を書き換えたりする手続き——アルゴリズム——に沿って行われる。
この「箱に入った情報」というのが曖昧で、どのくらいの情報までが「箱」に入るのか、と思うかもしれないが、箱に入れられる情報の種類数は決まっていることにしよう。パソコンを買うときに32ビットだとか64ビットだとかを聞いたことがあるかもしれないが、これが箱のサイズを示していると思えばいい。箱の最小単位では0と1の二種類しか入らず、これを1ビットという。市販のパソコンでは、1ビットの箱を32個や64個繋げて一つの大きな箱とみなして使っているので、2の32乗や64乗の種類数の情報が入る。とても大きな数などを扱う場合は、市販のパソコンの箱でも収まりきらないので、さらに箱をいくつか繋げて使うことになる。より一般に、N桁の01列で表されるような情報をNビットであると呼ぶことにしよう。Nビットの情報とはつまり、2のN乗のうちの一通りを指すことになる。これはNが増えると急激に大きくなる。Nが10なら1024だが、Nが30まで増えると1073741824とはるかに大きい。
さて、量子計算ではこのビットが「量子ビット」になる。N量子ビットでは2のN乗のうちの一つのみならず2のN乗個それぞれにわたる確率分布を情報として持つことができる(厳密には複素確率振幅としてさらにより多くの自由度を持つが、ここでは立ち入らない)。ここでの確率分布というのは、直感的に言えば、引き直せないくじ引きだと思えばいい。N古典ビットの場合、一つだけ入ったくじの中身は公開されていると思おう。対して、N量子ビットの場合は箱に1から2のN乗までの数が書かれたくじが無数に入っている——デパートの抽選と同じく、レアな数字やありふれた数字があり、確率は均等ではない。これが確率分布である。そして、我々はこのくじ引きを一度しか行うことができない。引いたら結果が「確定」してしまう。量子の世界では、このくじ引きを「観測」と呼ぶ。
では、そのくじの箱はどこから来るのか?我々はくじの箱を開けないまま——量子ビットの状態を観測しないまま——箱の中身を操作することができる。欲しいくじが出るくじ引きをいかに設計するかが、量子アルゴリズムの要である。
オックスフォード数学記 サトシ @shykwa
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