祝宴の酒とひみつ

幸まる

高級ワイン

領主館の厨房は一日中忙しい。

中でも一番忙しいのは昼前だ。


領主一家は八人だが、厨房では、それに加えてこの館で働く多くの人々の食事を作る。

更に、昼は領主の仕事を補佐する、通いの文官達の食事も出す決まりだ。

それで、一日の内で最も準備する食数が多いのは昼なのだった。




「もたもたするなよ! 今日は気を抜くと間に合わないぞ!」


厨房で、副料理長がげきを飛ばした。

今日は、料理長と女料理人オルガの結婚式の日。

二人は街の教会で式を挙げる為、一日休みなのだ。


料理長の分は、自分が穴を埋められるのは分かっている。

しかし、女料理人オルガが常に仕切っているベーカリー部門は、少し心配だ。

今日は急に冷え込んで、発酵が思うように進まなかったらしい。

普段ならこういう時は、オルガが早目に調整するのだが、彼女を除く料理人ではそこまでの微調整が難しい。

製菓担当のハイスが補助に入ったので、何とかなっているが、余裕はない。



副料理長が、パン生地を扱っている者の方へ向いて、再び声を発した。


「オルガがいないんだからな。フォローを期待するなよ!」

「ここにいるわよ」

「え? はぁ!? オルガ!?」


振り返った副料理長の横を、調理服を着たオルガがスタスタと歩いて行く。


「え。ええっ!? ちょっと、何やってんの? 結婚式は!?」

「終わったわよ。ほら、そこ、手が止まってる!」


一瞬ポカンとした仲間達に気合を入れ、オルガはさっさと作業台の前に陣取った。

言葉もない副料理長の横に、調理服の袖をくりながら料理長が立つ。


「お、お前まで、何で来てんの!?」

「オルガだけ来させるわけにいかんだろうが」

「そりゃそうだ…、じゃなくて! 来るのは夜のはずだろ?」

「……仕方ないだろう。オルガが酵母の発酵具合が心配だと言い張ったんだ」


二人は式を終えれば、新居に帰るはずだった。

これまで領主館の使用人宿舎で暮らしてきたが、結婚を期に小さな一軒家を借りたのだ。

これからは、通いで働くことになる。

忙しい仕事の合間を縫って荷物を運び込み、何とか住めるようにはなったが、昨夜はまだ宿舎で過ごした。

今日は、初めて二人で新居で過ごす日になるわけだ。


……それなのに。


諦めを滲ませて、料理長が深く溜め息をつく。

副料理長は同情の眼差しで料理長の厚い肩を叩いた。





夜、夕食の片付けも終わった頃。

厨房横の広間には、明日の仕込みを早目に終えた厨房の仲間達が集まっている。

昼間は仕事があって結婚式には参列出来なかったが、これからここで、二人の結婚を祝うのだ。

領主には、前々から許可を貰っている。


こうして使用人達が宴をすることが認められているのは、基本的には年に一度、収穫祭の時期だけ。

長く勤める二人の結婚とあって、今回は特別に許可されたものだった。



「もう! オルガさんは主役なんですから、座って下さいって」

「いいじゃない。手はいくらあっても困らないでしょ」

「そうですけど…」


下働きの下女エルナが料理を長テーブルに運ぶ横で、オルガは皆に皿を配る。

夜になって来るはずだったのに、結局昼前に厨房に来てから、オルガも料理長も普段通り働いたのだった。



ひょいとオルガの手から皿が奪われた。

見上げれば、背の高いハイスが皿を持ち、困ったように眉尻を下げる。


「オルガ、もういいから座りなって」

「でも……」

「分かってるよ、落ち着かないんでしょ? でも、料理長一人で座らせてちゃ可哀想でしょ」


目線で示された方を見れば、長テーブルの上座に料理長だけが座らされている。


「ほら、あの横は誰の席?」


笑って背を押され、オルガは躊躇ためらいがちにそちらへ行って、料理長の隣に座った。




チラと横を向けば、彼と目が合う。

僅かに上がる口端と、柔らかさを増す彼の瞳。

オルガはドキリとして視線を逸した。


本当は、昨日からずっと緊張している。


付き合い始めてから、何度も一緒に夜を過ごした。

いや、そうでなくても、毎日朝から晩まで一緒に仕事をしてきたのだ。

今更何を緊張することがあるのだと、自分でも思う。

でも、明日からあの人の妻となり、二人だけの暮らしが始まるのだと思うと、昨夜は少しも眠れなかった。


オルガはそっと胸を押さえる。

この祝宴が終われば、帰るのは二人だけの家で…。



「領主様!」


入口近くで上がった声に、皆が一斉にそちらを向いた。

この場に不釣り合いな上等なスーツを着た領主が、開け放っだ扉の側に立ち、軽く手を上げた。


「ああ、皆そのままで構わない。これを持って来ただけだ」


領主の言葉で、側に控えた従僕が広間に入って、長テーブルの上にワイン瓶を並べ始めた。

次々と並べられる見たこともない高級ワインに、思わず皆がざわめく。


料理長とオルガが傍に行き、揃って礼をすれば、領主は硬質な雰囲気を緩めてふと笑う。


「おめでとう、二人共」

「領主様、ありがとうございます。お陰様で新居も整いました」


二人の新居は、領主館の程近くに建つ平屋だ。

領主のはからいで、格安で即借りられた。


「なに、君達の日々の努力に報いただけだ。……だから、これからも他所へ移ろうなんて考えてくれるなよ。特にオルガ、我が妻と娘は、君のパンがなければ夜も日も明けないのだからな」


領主の言葉に二人は微笑み合い、重ねて礼を述べた。



今夜は楽しめと言葉を掛けて領主が去ると、皆は並べられた高級ワインを囲んで喉を鳴らす。

そして料理長に視線が集まった。

料理長が苦笑してから、声を張る。


「せっかくのご厚意だ。皆で頂こう!」


ワッと声が上がって、宴が始まった。

酒と料理を手に笑顔が溢れ、主役の二人に次々と皆が声を掛ける。

多くの祝福で、広間は賑やかで幸せな雰囲気に包まれた。





宴が始まってどれ程経っただろうか。

席を立ち、厨房寄りの窓際で囲まれて話していた料理長の肩を、グイと副料理長が引いた。


「おい、オルガって、下戸げこだったのか?」

「いや、聞いたことがないが…、どうした?」

「ちょっと不味まずそうだぞ、来い」


焦り気味に呼ばれて、料理長が顔色を変える。

そういえば、彼女が酒を口にしたところを今まで見たことがない。


「オルガ」


皆に囲まれて、心なしかだるそうに椅子の背に身体を預けたオルガの後ろ姿が見え、料理長が名を呼ぶ。

ゆっくり振り返った彼女を見て、思わず言葉に詰まった。


彼女の頬は上気し、瞳は潤んでとろりと宙を泳ぐ。

結婚式が終わってすぐに厨房に来た為、薄化粧を施したままの顔は、酒気を帯びてやけに色気を増した。


「どれだけ飲ませた!?」

「あれに半分も入ってなかったんですけど…」


エルナが指したグラスには、まだ濃紅のワインが三分の一は入っている。

半分も入っていなかったのなら、一口か二口飲んだだけなのではないだろうか。


これは、本当に下戸げこなのかも、と思った料理長の前で、オルガは調理服のボタンを外し始める。


「暑いわ……」

「ま、待てオルガ」


とろり、とオルガの濡れた視線が料理長の顔を撫でた。

次いで、体温の上がった指が料理長の袖を引き、その厚い胸に身体をしなだれる。


「……ヒューベルト…、早く二人の家に帰りたい…」

「!」



周囲の温度が一気に数度上がった。




料理長が黙ってオルガを抱き上げる。

目付きの悪い目を更にすがめて、彼は言葉を失くして目を丸くしている周囲をざっと見回した。


「……俺達は帰る。後は任せた」

「任された、行け行け」


目が合った副料理長がシッシと手を振ると、料理長は目にも止まらぬ速さでオルガを連れて出て行った。




「オルガさんって、あんなに色っぽい人だったんだ!?」

「オレ、料理長の名前初めて知ったんだけど!」

「ってか、料理長の顔、赤くなかったか!?」


一斉に多くの言葉を発せられる中、カンカンとスプーンで瓶を叩いた副料理長が、皆の視線を浴びて眉を上げた。


「先に言っとくぞー。今見たこと、今夜で忘れとけ。でないと料理長あいつ、……怖えよ?」


厨房に、料理長が本気で怒った時を知らない者はいない。

あの冷えた目を思い出し、誰もが口をつぐむ。

静まったところで、副料理長が手にした瓶を高々と持ち上げた。


「んじゃ、口止め料ってことで、ぜーんぶ頂いちゃおうぜ!」


高級ワインの瓶がキラリと光を弾き、皆にワッと笑いが戻った。




「えー、なに? なんの盛り上がり?」


遅れてやって来た侍女のコリーが、エルナを捕まえて目を輝かせた。

噂好きの彼女がさっきの状況を見ていたら、明日には領主館の全員が婀娜あだっぽいオルガの姿を知ることになっていただろう。


「んー? さあねぇ?」


エルナは笑って、コリーの手にグラスを持たせてワインを注ぐ。

キン、とグラスを合わせた音は、皆の幸せな笑い声に溶けた。



《 終 》

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