一章③ 超記憶症候群


 最古の記憶は、水の中にいる記憶だった。


 目の前に水面があり、濁った水が絶え間なく波打っている。水の中にいるはずなのに、不思議と息苦しくないのは、これが羊水の中だからだ。

 母親の胎内にいた時の記憶。まだ自我すら芽生えていない、赤子の時に見たものも、啓明は覚えていた。


「瞬間記憶能力。いや、この場合超記憶症候群ハイパーサイメシアかな。聞いたことはあるけど、実際にお目にかかるのは初めてだな」


 鞠緒が感心したように呟く。雪子は何も言わず、じっと啓明を見つめている。二人共、特に引いた様子はない。


 ――良かった。


 ホッと安堵の息を吐く。脳裏に蘇ったの苦い記憶を、そっと脳の片隅に追いやる。


「雪子さんが読書感想文に選んでた本は、俺の愛読書で……読書感想文の内容も、とても共感出来て、一体どんな人が書いたんだろうって気になってたんです。そんな時、図書室の先生が雪子さんと話している声が聞こえて、ああこの人がって……そこで雪子さんの顔を見たんです」


 正確には、図書室の先生は宗茂さんと呼んだだけだった。けれど当時の三年生の中で、宗茂という苗字の生徒は雪子以外いなかった。校内で見聞きした会話すべてを思い出して調べたから間違いない。


「でも学年も違うし、話しかける勇気がなくて。中庭でもほとんど喋れなかったですし、そうこうしてるうちに雪子さんは卒業しちゃったから、もういいかなって思ってたんです。でも今日入学式で雪子さんの姿を見て、居ても立っても居られなくなって……」

「ちょっと待った。在校生は入学式に参加しなくてもいいはずじゃ?」

「二年は各クラスから一人、入学式の手伝いをする人を選ばなくちゃいけなくて、一組で選ばれたのが俺で……」

「ははあ、君はあれか、頼まれたら断れないタイプとみた」


 図星すぎて、ぐうの音も出なかった。誰も立候補する人間がおらず、クラスメイトに頼まれ仕方なくやる羽目になった手伝いだが、結果的にこれでよかったのかもしれない。


 おそるおそる雪子の顔を見る。どこからどう見ても人間の少女にしか見えない。けれど人間の記憶を奪う姿も、半透明の腕を生やす姿も、確かにこの目で見た。何より雪子が一年生として入学してきている以上、学生生活を繰り返している事は疑いようのない事実だ。


「いやー、それにしても、記憶を消す能力を持った少女と一度見たものは忘れない少年か。僕ほどじゃないけど、なかなか運命的な出会いじゃないか。いいね、青春してるね~」


 呵々と笑い、鞠緒が二人の肩を叩く。


「別にそんなんじゃ……」

「明石くんの謎も解けたし、これで雪子も納得しただろう?」


「……いや」


 ややあって、雪子が頭を振った。


「やはり解せないな」


 腕組みをしながら、啓明をまじまじと見つめる。


「完全記憶能力を持っているから、私の力が効かなかったと? そんなはずはない。私の力にそんな理屈は通用しない」


 険しい顔で、そう断言する。


「そうは言っても、現に明石くんは君の事を覚えているわけだし」

「だから解せんと言ったんだ」


 ギロリと啓明を睨みつける。迫力に気圧され、後退ろうとした瞬間、胸倉を掴まれた。


「明石啓明、だったな」

「は、はい」


 至近距離で凄まれ、思わずどぎまぎしてしまう。綺麗な顔だ、と思ったが、流石に口には出さなかった。


「秘密を知られた以上、お前をただで帰すわけにいかない」


 胸倉から手を離し、啓明の目の前に指を突きつける。


「私の力が他人の記憶を消すだけだと思ったら大間違いだ」

「雪子、さん……」

「お前の正体を見極めさせてもらう。私が納得するまで、とことん付き合ってもらうぞ」

「付き合うって……何に、ですか?」


 おっかなびっくり訊ねると、雪子は制服のポケットに手を突っ込んだ。神妙な顔で雪子が取り出したのは――スマートフォンだった。


「とりあえず、連絡先を教えろ」

「へ」

「電話番号でもメールアドレスでも、ラインでも何でもいい。早く教えろ」


 ほら、とせっつかれて、啓明は渋々自分のスマートフォンを取り出した。


「スマホ、持ってるんですね」

「ああ、鞠緒がくれた」

「スマホがあった方が何かと便利だと思ってね。勿論費用は僕もちだ」


 あっけらかんとした顔で鞠緒が言う。


「時代は常に進歩し続けている。あまり古臭いと変に疑われかねないからな。これを持っていれば私も今どきのというわけだ!」

「……はあ、そうですか」


 だが雪子が持っているのは、老人向けのスマートフォンだった。操作が楽で、最低限のアプリしか入っていないものだ。


 ――これは……指摘しないでおこう。


 無言で連絡先を交換する。案の定、雪子の電話帳には、鞠緒の名前しか登録されていない。


「お前で二人目だ!」

「ですね」

「これでいつでも連絡できるな。お前もいつでも連絡してきていいからな!」


 ――なんでちょっと嬉しそうなんだろう。


 心なしか、さっきより表情が明るくなっている気がする。


「じゃあ早速、今夜0時、校門の前に集合だ。創立百周年の石碑があるだろう? あそこの前でいい」

「えっ、今夜ですか」


 ――今夜はバイトを入れてたんだけど……。


「今日は金曜だ。多少夜更かししても問題ないと思ったんだが……何か用事でもあるのか?」


 憂いを帯びた表情で見つめられ、言葉に詰まる。

 さっきまであんなに尊大だったのに、何故こういう時だけ殊勝な態度になるのか。これでは、断るに断れない。


「……いや、用事はないです」


 ――同僚に連絡して、シフトを変わってもらおう。

 小言を言われるだろうが、こうなっては仕方がない。


「そうか!」


 雪子の顔が、ぱあっと華やぐ。


「今夜0時、絶対に遅れるなよ!」

「――わかりました」


 振り回されていると思う。とんでもない事に巻き込まれてしまった、とも。

 でも何故か恐怖心はなかった。むしろ、気分が高揚している自覚がある。

 心が浮き立つのを感じながら、啓明はスマートフォンを仕舞うのだった。


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2024年11月16日 00:00
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学園のムネーモシュネー ~雨乞いをする悪魔~ 春峯蒼 @harumineaoi

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