一章③ 超記憶症候群
最古の記憶は、水の中にいる記憶だった。
目の前に水面があり、濁った水が絶え間なく波打っている。水の中にいるはずなのに、不思議と息苦しくないのは、これが羊水の中だからだ。
母親の胎内にいた時の記憶。まだ自我すら芽生えていない、赤子の時に見たものも、啓明は覚えていた。
「瞬間記憶能力。いや、この場合
鞠緒が感心したように呟く。雪子は何も言わず、じっと啓明を見つめている。二人共、特に引いた様子はない。
――良かった。
ホッと安堵の息を吐く。脳裏に蘇った九年五ヵ月十三日前の苦い記憶を、そっと脳の片隅に追いやる。
「雪子さんが読書感想文に選んでた本は、俺の愛読書で……読書感想文の内容も、とても共感出来て、一体どんな人が書いたんだろうって気になってたんです。そんな時、図書室の先生が雪子さんと話している声が聞こえて、ああこの人がって……そこで雪子さんの顔を見たんです」
正確には、図書室の先生は宗茂さんと呼んだだけだった。けれど当時の三年生の中で、宗茂という苗字の生徒は雪子以外いなかった。校内で見聞きした会話すべてを思い出して調べたから間違いない。
「でも学年も違うし、話しかける勇気がなくて。中庭でもほとんど喋れなかったですし、そうこうしてるうちに雪子さんは卒業しちゃったから、もういいかなって思ってたんです。でも今日入学式で雪子さんの姿を見て、居ても立っても居られなくなって……」
「ちょっと待った。在校生は入学式に参加しなくてもいいはずじゃ?」
「二年は各クラスから一人、入学式の手伝いをする人を選ばなくちゃいけなくて、一組で選ばれたのが俺で……」
「ははあ、君はあれか、頼まれたら断れないタイプとみた」
図星すぎて、ぐうの音も出なかった。誰も立候補する人間がおらず、クラスメイトに頼まれ仕方なくやる羽目になった手伝いだが、結果的にこれでよかったのかもしれない。
おそるおそる雪子の顔を見る。どこからどう見ても人間の少女にしか見えない。けれど人間の記憶を奪う姿も、半透明の腕を生やす姿も、確かにこの目で見た。何より雪子が一年生として入学してきている以上、学生生活を繰り返している事は疑いようのない事実だ。
「いやー、それにしても、記憶を消す能力を持った少女と一度見たものは忘れない少年か。僕ほどじゃないけど、なかなか運命的な出会いじゃないか。いいね、青春してるね~」
呵々と笑い、鞠緒が二人の肩を叩く。
「別にそんなんじゃ……」
「明石くんの謎も解けたし、これで雪子も納得しただろう?」
「……いや」
ややあって、雪子が頭を振った。
「やはり解せないな」
腕組みをしながら、啓明をまじまじと見つめる。
「完全記憶能力を持っているから、私の力が効かなかったと? そんなはずはない。私の力にそんな理屈は通用しない」
険しい顔で、そう断言する。
「そうは言っても、現に明石くんは君の事を覚えているわけだし」
「だから解せんと言ったんだ」
ギロリと啓明を睨みつける。迫力に気圧され、後退ろうとした瞬間、胸倉を掴まれた。
「明石啓明、だったな」
「は、はい」
至近距離で凄まれ、思わずどぎまぎしてしまう。綺麗な顔だ、と思ったが、流石に口には出さなかった。
「秘密を知られた以上、お前をただで帰すわけにいかない」
胸倉から手を離し、啓明の目の前に指を突きつける。
「私の力が他人の記憶を消すだけだと思ったら大間違いだ」
「雪子、さん……」
「お前の正体を見極めさせてもらう。私が納得するまで、とことん付き合ってもらうぞ」
「付き合うって……何に、ですか?」
おっかなびっくり訊ねると、雪子は制服のポケットに手を突っ込んだ。神妙な顔で雪子が取り出したのは――スマートフォンだった。
「とりあえず、連絡先を教えろ」
「へ」
「電話番号でもメールアドレスでも、ラインでも何でもいい。早く教えろ」
ほら、とせっつかれて、啓明は渋々自分のスマートフォンを取り出した。
「スマホ、持ってるんですね」
「ああ、鞠緒がくれた」
「スマホがあった方が何かと便利だと思ってね。勿論費用は僕もちだ」
あっけらかんとした顔で鞠緒が言う。
「時代は常に進歩し続けている。あまり古臭いと変に疑われかねないからな。これを持っていれば私も今どきのぎゃるというわけだ!」
「……はあ、そうですか」
だが雪子が持っているのは、老人向けのスマートフォンだった。操作が楽で、最低限のアプリしか入っていないものだ。
――これは……指摘しないでおこう。
無言で連絡先を交換する。案の定、雪子の電話帳には、鞠緒の名前しか登録されていない。
「お前で二人目だ!」
「ですね」
「これでいつでも連絡できるな。お前もいつでも連絡してきていいからな!」
――なんでちょっと嬉しそうなんだろう。
心なしか、さっきより表情が明るくなっている気がする。
「じゃあ早速、今夜0時、校門の前に集合だ。創立百周年の石碑があるだろう? あそこの前でいい」
「えっ、今夜ですか」
――今夜はバイトを入れてたんだけど……。
「今日は金曜だ。多少夜更かししても問題ないと思ったんだが……何か用事でもあるのか?」
憂いを帯びた表情で見つめられ、言葉に詰まる。
さっきまであんなに尊大だったのに、何故こういう時だけ殊勝な態度になるのか。これでは、断るに断れない。
「……いや、用事はないです」
――同僚に連絡して、シフトを変わってもらおう。
小言を言われるだろうが、こうなっては仕方がない。
「そうか!」
雪子の顔が、ぱあっと華やぐ。
「今夜0時、絶対に遅れるなよ!」
「――わかりました」
振り回されていると思う。とんでもない事に巻き込まれてしまった、とも。
でも何故か恐怖心はなかった。むしろ、気分が高揚している自覚がある。
心が浮き立つのを感じながら、啓明はスマートフォンを仕舞うのだった。
次の更新予定
学園のムネーモシュネー ~雨乞いをする悪魔~ 春峯蒼 @harumineaoi
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