夕暮れ。迫る終焉の時。

わだつみ

第1話

 「昨日の話はなかった事にして頂きたい」

 その言葉が、耳に届いた時、わたしは固まったまま動けずにいた。

 「貴女の告白を、受ける事は出来ないわ」

 先輩はそう言い放つと、いつも彼女がそうするように、スカートをぱっと翻し、ローファーと床が擦れてキュッと鳴る音を鳴らして、こちらを振り向いた。

 放課後、落日の日差しに、赤に染め上げられていく空き教室。校庭では部活に励んでいる生徒達の声がするが、それも、今の心境の私には、幾重にも膜を張った向こうから響くように、遠く、くぐもったように聞こえる。私が受けた、衝撃の大きさを物語っていた。

 昨日、私は同性の先輩である彼女に告白した。

 わたしが、動悸が冷めやらぬ中、恐る恐る彼女を見ていると、彼女は長いまつ毛を伏せて、

 「…明日、私が指定した場所に来てくれる?

返事を聞かせるから」

 そう答えてくれた。その言葉に従い、私は今、ここに来て、さっきの言葉を聞かされた。

 彼女の長い黒髪は、どう手入れしていればああなるのだろうと思ってしまうくらいに、さらさらで色艶がある。それに、こんな時でも見入ってしまいそうになる自分を、現実に引き戻して、わたしは言う。

 「どうしてですか…?私と貴女が、女同士だから?私の事、気持ち悪いって思いましたか…?」

 何とか気丈に振る舞おうとしたが、無理だった。声が震えてくる。もし先輩にそう思われたら、わたしは…。

 「そんな時代錯誤的な理由ではないわ…」

 その言葉を聞き、少しだけ、安堵する。私への嫌悪が本当にない事は、先輩の声を幾度となく聞いてきたわたしには、すぐに分かる。

 「それでは、どうして…?じゃあ、他に好きな人がいるとか?でも、先輩、付き合ってる人なんていないよって…」

 先輩が嘘を言う訳がない。

 わたしが、「他に好きな人が…」と言ったところで、先輩の表情が、凍った。落日の赤い日差しの中、先輩の顔色だけが、青ざめ、血色を無くしていた。

 わたしは、直感的に、自分が、先輩の、一番触れられたくない秘密に触れようとしたらしい事に、気付かされた。

 「それは…!」

 教室に伸びている、先輩の影が大きく揺らぐ。先輩の心の、動揺そのものを現しているかのように見えた。

 「まさか、もう好きな人が、いるんですか…?でも、先輩からそんな話、一度もなかった。お願いです、先輩。本当の理由をせめて教えて。何も分からないまま、フラれたままじゃ、わたしは気持ちに折り合いをつけられない…」

 先輩に、身勝手な事を言い、困らせている。   

そんな事は分かっていても、言葉は、喉元に留まってはくれない。

 絶対に言えないような関係の、好きな人…、一体、先輩はどんな恋にのめり込んでいるというのだろう?一瞬、背広に包まれた、広く逞しい背中に寄り添うようにして、街の雑踏の中に消えていく、先輩の姿が浮かんで、慌てて打ち消した。

 嘘だ、あの優しくて、真面目な先輩が、そんな大人の人と、ただれた交際に手を出すなんて、ある筈がない。

 しかし、わたしの追求への、先輩の反応は、そんな可能性まで想起させる程に、動揺していた。

 先輩は立ち尽くし、青ざめた顔のままで、わたしと向き合っている。その形の良い柳眉、まつ毛、鼻、笑うと花が綻ぶような、顔の下の、一対の花弁-、唇。そして、わたしを見ている、先輩の薄茶色の瞳。どれもこれも、わたしが焦がれたものばかりだ。

 先輩の瞳の中には、わたしが映っている。

 しかし、わたしの姿は先輩の心の瞳にはきっと映ってはいないだろう。わたしを見ながら、先輩は、わたしではない人を見ている。


 -その相手を暴き出したい。先輩にこんな秘密の重荷を背負わせて、先輩と平然と恋をしているような相手がいる。その事に、強い憎しみが生まれ始めていた。

 必ず、その人が誰なのか、突き止めなければならない。

 先輩に重荷を背負わせている相手に会った時、わたしは、自分がどんな行動を取るかも分からない。先輩を救い出す為に、何をするかも。

 「答えてくれるつもりは、ないみたいですね…」

 わたしはポツリと、そう言うと、教室を後にする。先輩を残して。

 しかし、わたしは決めていた。先輩をこれから尾行すると。相手の正体を暴くまで。

 そいつがこの後、先輩の家に来るのなら、張り込みまでやるつもりだった。

 そいつが誰であろうと、どんな手を使ってでも、人生を滅茶苦茶にしてやる。先輩を縛り付ける秘密の恋から、先輩を救い出す。さながら、気分は、囚われのお姫様を救いに行く騎士のようだった。


 彼女に、教室に取り残された私は、何度か大きく深呼吸をして、気持ちを必死に沈める。

 私の恋が、決して暴かれてはならないものらしいと、きっと彼女は気付いていた。

 床に崩れ落ちそうになりながら、何とか踏みとどまり、鞄を肩にかける。

 落ち着け。私が洗いざらい話さない限り、何も起きないのだから。

 家路に急ぐ。教室を去っていく時の彼女の空気が険しさを帯びていたのが、きにかかる。

 家の扉を開ける。

 母が、出迎えてくれる。ここまでは、普通の帰宅風景だ。

 しかし、次の一言で、「普通」は刹那にして崩れ去る。

 「おかえりなさい、『あなた』」

 娘を出迎える言葉ではない。そして、私は、母だった人-、今の『恋人』に抱きしめられる。新婚ほやほやの熱い夫婦のような一幕だ。

 「ただいま…、今日も1日、綺麗でいてくれた?お母さ…」

 言葉を途中で切り、母を、名前で呼んだ。

 母娘の中でありながら、恋人同士となってから、我が家に「お母さん」はもういない。


 「勿論よ。ところで、どうしたの?少し顔色が悪いわ。何か、温かい飲み物、入れようか?」

 「え、ええ…。そうね、いつものココアが飲みたいわ。落ち着くから」

 大丈夫、と呪文のように繰り返す。私が話さない限り、分かる訳がない…。


 そうして、居間に移り、ココアを待っていた時だった。庭の茂みがガサガサと、大きく揺れた。

 「あら?風も吹いてないのに変ね…」

 元母親、今の恋人が、テーブルにココアを置きながら、不思議そうに庭の方を見た。


 温かい屋内にいながら、射抜かれるような、冷たい視線を確かに感じた。胸に痛みが走る。

 ほんの先刻、教室で別れた、後輩の少女の顔が浮かぶ。

 「野良猫か何かでもいたのよ、きっと…」

 一瞬、別れ際に垣間見た、後輩の険しい顔を振り払いながら、私はココアに口をつけ、自らを落ち着かせる。

 あの子が、ここにいる筈がない。

 そうだ。あの後輩の子が気になり過ぎて、単に神経質になっているだけだと、言い聞かせながら。


 

 

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夕暮れ。迫る終焉の時。 わだつみ @scarletlily1125

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