(二)-2
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人間の顔を一目見ただけで、その者の細かな内心、それにともなう人生の真理を刹那に悟ってしまうということが本当にあるのだ。
信吾は二十二年間のこれまでの人生で、人間のあれほど恐ろしい顔を見たことがなかった。
ただ表面上のことなら、今の薩摩ではもっと顔面を歪め、目を血走らせ者たちが大勢いる。
そんなことではなく、ごく短い間に凡人には到底かなわない極度に濃密な内省をし、一気に深化を遂げた人間の精神を形にすればあのような、目を見張り、やや険しくこわばった顔つきになるしかない。そういう貌だった。
あの「人間五十年」の文句は、それに付随する逸話も含め武士ならだれもが知っている。『敦盛』は十六歳の若者を討つ羽目になった熊谷直実の悲傷と厭戦感を描いたものだ。それをあの武将は、国の存亡をかけた大戦に出陣する前に己を鼓舞する歌に選んだ。
なぜあんな後ろ向きな内容の歌を選んだのか。それがようやく今分かった。
国を守る立場として、勝って生き残るのはできて当然、しかし死を恐れていてもならない。相反する二つの使命を全うするには方途は一つしかない。
心の容量を暴力的なまでの剛腕で押し広げ、生と死を同時に収めるのだ。ひとたび生を享け、滅せぬものの、あるべきか―――の文言は、その境地が言葉と化して外部に流れ出たものにすぎない。
腹の底から熱く迫上ってくるものを感じ、それは自然にのどを通って外に放たれかかる。信吾は慌てて口を抑えた。薩摩の武士が血気にはやる時に口にする「チェストー!」の掛け声が出そうになったのだ。
今この場で叫んでも不謹慎ではまったくない。だが、意気は外に出さず内側に込めたい。そうすることで今眼前を歩くこの人の領域に、わずかでも近づけるかもしれない。
信吾がこの世で最も大人物だと思っているのは彼の長兄だった。一蔵も、その長兄の友として信吾の前に現れた。しかしこの十年間、長兄は家にはほとんどの期間不在で、一蔵がもう一人の兄のように信吾たちの世話をやいてきた。
恩義は感じても、時にはうっとうしく、また反発したこともあった。
しかし種々の激動を乗り越えてこの未曽有の危機に直面した今、鎧と陣羽織を着込んですら細い男の背中が、あの長兄の背中よりも巨大に、ゆるぎなく感じるのだ。
今、双方の軍備を均した上であの武将が攻めてきても、負けないかもしれない。あの武将に匹敵する、拮抗しうる魂を持った男がこちら側についているのだから。
現実のイギリス軍を無視して埒もない空想に昂揚する。誇大妄想だとは頭の片隅で理解しつつも、信吾は震撼を伴う熱狂を抑えられなかった。
文久三年七月二日寅の刻。
一八六三年八月十五日朝五時。
イギリス艦隊による薩摩船の奪取作戦が開始された。これを宣戦布告として、鹿児島湾の海上において我が国初の激烈な近代砲撃戦が展開されることになる。
(完)
魔王 小泉藍 @aikoizumi2022615
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