(二)-1

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 荒い足取りで室内に踏み込んだ信吾が「一蔵さあ! 軍議が始まいもんで」と思わず出した大声に、相手はひどく緩慢な動作で振り向いてきた。信吾は息をのんだ。

 藩の重役から一蔵の所在を尋ねられ、たまたまその場にいた従僕が、海を見下ろせるこの小部屋に一蔵が入っていくのを見かけたというので案内させてここまできたのだ。

 呼び声に振り向いたその顔は険しかった。一蔵が正助といったころから信吾が見慣れてきたあの穏やかさはかけらもない。だがそれは、今のこの薩摩では誰もが同じだ。

 唐突に現れた信吾に眉一つ動かさず、一蔵はやや表情を鎮めてかすかに口を開いた。

「人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり」

 何の前触れも説明もなく唇から流れ出る詞章に、信吾はふたたび息をのむ。しかし考えるよりも先に唇が動いた。

「ひとたび生を享け、滅せぬものの、あるべきか」

 男二人の唱和する声はからみあって暗い諧調と情念を現出し、風雨と闇のなかにあとかたもなく溶けていった。

「なんをゆわれちょっとですか」

 従僕の困惑した声に、一蔵はすぐには答えず身をひるがえし、信吾たちが来た方に歩き出した。背を向けたまま無造作な口調で言い放った。

「昔の偉か武将が、生きるか死ぬかの大戦に出陣された時に口にした謡の文句じゃ。意味は……まあ、煎じ詰めてゆえば『泣こよかひっ跳べ』ちゆこつじゃな」

 廊下を速足で進む一蔵を追いながら、信吾は慄然としていた。

 泣こかい、跳ぼかい、泣こよかひっ跳べ。

 高い所から水中に飛び込む時をはじめとして、何か覚悟を決めてことをなすとき薩摩の少年が口にする決まり文句だ。だがあれは、これほどに恐ろしい真意を秘めたものであったのか。

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