風に針を落とす

ころっぷ

風に針を落とす

          1 


山が燃えていると聞いて、居ても立っても居られず家を出た。

ばあちゃんのママチャリで必死に漕ぎ出す。

去年から密かに吸っているハイライトのせいか、

直ぐに息が上がってしまう。19歳の夏。

これ以上大切な物を無下に失う訳にはいかない。

山が燃えているのなら、

それを撮っておかなければ俺は生きている意味が無い。

ああ、浪人暮らしの肩身の狭さよ。

俺はこんなにも若さを無駄使いしている。

眼前の坂道には薄く煙が立ち込めている。

表通りは既に消防車の隊列で埋まっていてウロチョロ出来ない。

でも心配ご無用。5歳からこの山の獣道には慣れ親しんでいる。

じいちゃんの山菜取りの相棒を長年勤めてきたこの俺だ。

目を瞑っていたって身体が山の輪郭を覚えている。

ママチャリを降りて獣道に分け入る。

煙が濃くなってきた、敵は近い。

禅宗の古い寺の裏手に躍り出ると、火の粉が頭上をかすめた。

ああ、ここか。

開創600年の寺が今まさに火の海に飲まれようとしている。

非力な俺に火を消す事は出来ない。出来るのは撮る事だけだ。

そう、このライカでフィルムに刻む。

それがこの山で育った俺に出来る唯一のはなむけだ。

本堂を包み込む様にそびえる樹齢云百年の御神木に

大きな亀裂が入っている。

激しい火花を散らし、生木が爆ぜる音が耳をつんざく。

俺はライカのレンズカバーを外し、絞りを調節しシャッターを切る。

「ん?」

手応えがまるで無い。すぐさま巻き上げレバーを確認する。

「あっ、フィルム入ってない」

俺は焼け落ちる本堂を成す術も無く茫然と看取る事しか出来なかった。


           2


予備校のクラスで俺の次にやる気の無い女と何故か意気投合してしまった。

数学の模試の時に、空間図式の設問の回答欄にドラえもんの絵を書いたのをカンニングされてしまったのが馴れ初めだった。

女は負けじと回答欄にスネ夫を書いた。当然講師に呼び出され、

2人は詰まらない説教を食らってしまった。

そのフラストレーションを晴らすべく、

予備校のビルの裏通りにあるスナックで酒を飲み交わした。

金は無いので瓶ビールを2人で注ぎ合う。

ニッカポッカのオジサンが歌うカラオケが耳障りで、

俺はずっと染みだらけの天井を眺めていたが、女はじっと俺を見ていた。

いや、正確には俺が首からぶら下げているライカを見ていたのだ。

「ねぇ、何でいつもそのカメラ持ってるの?」

女の質問は至極当然だ。

誰だって俺の胸中に納まるライカを見れば聞きたくなる事だろう。

俺はこの質問に対する答えを常に準備してきていた。

いつ何時聞かれても淀み無く答えられるように反芻していたのだ。

バッチリだ。

「それは風に針を落とす為だ」

俺はライカのレンズを優しく摩りながら言った。

「・・ん?・・・と、言うと?」

「いや、だから風に針を・・」

俺は一声で真意を伝えられなかった事で、完全に心が折れていた。

しかし女は辛抱強い人間だったのだろう、

俺の次の句を真っすぐな視線で待っている。

こうなってしまったら語る他に術は無い。

少々長い話になるかも知れないが。

俺とライカとの出会い。そして風に針を落とすという俺の壮大な夢の話を。 


          3


その夏は、やけに台風の多い夏だった。

地球の裏側ではオリンピックが行われていたが、

俺の目下の目標はこの夏休みの間にすっかりと人生を

悟ってしまう事にあった。

15歳の思春期真っ只中の少年であったのだが、

色々あってセンシティブな内証は過去に葬っていた。

つまりはちょっと変わった奴だったのだと思う。

その原因たる影響元は間違いなく、ロクデナシの親父だった。

誰に聞いたって十中八九ロクデナシと答える、トップクラスのロクデナシ。

一応表向きの職業はカメラマンという事になっていたが、

実際はギャンブル中毒のヒモ男。俺が5歳の時に妻に逃げられ、

俺が10歳の時に借金取りから逃げる為に蒸発した。

俺を祖父母の家に置き去りにして、地球の裏側まで逃げたのだ。

一切の連絡も無く、親戚各位あいつはもう死んだ事にしようと

算段纏まりつつあるあの夏の日に、親父は突然帰ってきたのだ。

まるでオリンピックからも逃げて来たように。

実際そうだったのかも知れない。真相はどうだって良い事なのだが、

問題が一つあって親父は女を連れていた。

やたら背の高い、小麦色の肌をしたブラジル人。

歳は最後まで教えてくれなかったが、名前をジュリアといった。

じいちゃんもばあちゃんも有らん限りの怒りを親父にぶつけてくれたが、

当の親父はプロの人たらしなので、難なく両親を懐柔。

ジュリアと暫く離れの2階に身を寄せる事に落ち着いてしまった。

5年振りの実の息子の俺にはただの一言。

「やっぱちゃんと大きくなるんだな」

だそうだ。早く人生を悟らねば。

このロクデナシの特徴の一つに生き物を集めるというものがある。

地球の裏側からジュリアを連れてきただけでは飽き足らず、

どこからか雑種の犬を2頭拾ってきて、更に近所の野良猫を手懐け、

離れの前庭に囲ってしまった。

新鮮な卵がないとジュリアは生きられないと騒ぎ出し、

鶏まで敷地に放った時には流石にじいちゃんがキレた。

ロクデナシのやる事成す事が常軌を逸していて、

その夏は心休まる瞬間というものがなかった。

ある日の夕餉の時、

ロクデナシがばあちゃんの作った煮物が塩っ辛いと騒ぎ出し祖父と大喧嘩。

有らん限りの罵詈雑言が飛び交い、俺に反抗期が無いのは

このロクデナシという反面教師のお陰なのだなと妙に納得して

二階の自室に引き上げた。

我が一族は先祖代々の農家で、大正末期に建てられた無駄に広い家は

兎に角訳の分からない物で溢れ返っていた。

納戸に入りきらない様々な用途のガラクタが、

居間や台所や廊下に所構わず積み上げられていた。

ここはロクデナシの実家でもある。奴には兄弟が3人いて、

皆家を出て立派に自立しているのだが、

彼らが残していった品々もこのカオスを形成する材料の一部になっていた。

大きな本棚は千葉で医者になった長男の蔵書で埋め尽くされ、

階段下の納戸には長女の埃をかぶった洋服が所狭しと押し込められていた。ロクデナシの弟は隣町で水道工事会社を経営しているが、

彼のコレクションのアナログレコードは、

二階の一部屋を完全に占拠していた。

多感な少年期を前時代の遺跡発掘に費やした俺は、

自然と古き良き時代の遺物を愛するやや風変りな趣味趣向の持ち主になってしまっていた。

その夜も俺は本棚から中島敦の「山月記・李陵」の岩波文庫を

選んでパラパラとページを操っていた。

階下のロクデナシと祖父の言い争いがまだ聞こえてきていたが、

それとは別に隣の部屋から物音がする事に気が付いた。

隣は例のレコードの山の部屋だ。何しろ築百年のボロ屋敷なので、

鼠ならまだしも得体の知れない魑魅魍魎が住み着いていないとも限らない。

俺は恐る恐る隣の部屋の扉を開けた。

薄暗い室内に天窓から一筋、月の光が差込んでいた。

積み上げられたダンボール箱の間に何かの気配がする。

「うおっ、ビックリした!何してんの?こんな所で」

目を凝らすとジュリアが立っているのが見えた。

ゆっくりと俺の方に身体を向け、ジッと見つめて来た。

「これあなたの?」

ジュリアの手にレコードらしきものが見えた。

「えっ?いやっ、俺のじゃないけど、あれ?日本語分かるの?」

そういえばロクデナシとジュリアが転がり込んできてからの数日間、

ジュリアが口を利いたのを初めて聞いた。

「うん。大体分かる。類が教えてくれた」

類(るい)とはロクデナシの名前だ。因みに俺の名前は友(とも)。

類は友を呼ぶという慣用句から付けたらしいが、俺たちは全く似ていない。

「このレコード聴きたい。聴ける?」

ジュリアが手にしていたのは、薄気味悪い強面の男が

ギターを持って睨みを利かせているジャケットだった。

「ロー・リード?」

英語の苦手な俺が言う。

「ルー・リード」

日本語も流暢なジュリアが答える。

確か古いプレーヤーが何処かにあったはずだ。

俺はダンボール箱で足の踏み場も無い室内を探し回る。

本当に尋常でない数のレコードだ。

ぎっしりとレコードが詰められたダンボール箱が優に30個はある。

全部売れば相当な金額になるだろう。

押し入れの奥にトランクケース型のプレーヤーがあった。

「あった。けど、動くかな、これ」

俺が埃を被ったプレーヤをジュリアの足元に置く。

「多分、動くと思うんだけど、俺やったことないんだよなぁ」

「私、分かる」

ジュリアが馴れた手付きでプレーヤーの操作をする。

ジャケットから抜き出されたレコード盤が月明りを反射して

キラっと光った。

無事に電源が入ったプレーヤーにレコードを乗せて、

スイッチを押すと静かに盤が回り出した。ジュリアの細い指が針を落とす。

俺はこの時、妙にドキドキしていた。

埃臭い狭い部屋で、ただレコードを聴こうとしていただけなのに。

どこかそれは秘密の儀式の様な緊張感があった。

薄暗い部屋を天窓から降ってくる月明りとレコードプレーヤーの

赤い電源ランプがボンヤリと照らしていた。

レコードが立てる微かなノイズの音を、土砂降りの日の雨音の様に

大きく感じた。やがて乾いたピアノの音色とドラムスの音が聞こえてきた。

音の一つ一つが脳内に直接響いてくる様だ。

ジャケットの写真の不気味な男の声だろうか。

その声を俺はとても寂しい声だと思った。

「世界一悲しくて、世界一優しい声で歌う人」

ジュリアが俺の心を読んだ様に呟いた。

「これ、何て曲?」

「パーフェクト・デイ」

俺はその曲が終わるまで、体がシビレた様に動けなくなっていた。      


          4


今思うと、その夏は本当に不思議な夏だった。

退屈な日常が一斉に反旗を翻して襲い掛かってきた様だった。

ロクデナシとジュリアが何の前触れも無く突然我が家に現れたのが、

その年最初の台風が伊豆半島に上陸した日。

間髪入れずに後を追ってきた次の台風が関東を直撃するという

タイミングで、今度はばあちゃんが家の階段で足を滑らせた。

土砂降りの雨の中、黄色のカッパを着たじいちゃんが付き添いの為に

救急車に乗り込む光景が夢を見ているみたいだった事を覚えている。

ばあちゃん一人いなくなっただけで、

家の中が信じられないくらい広く感じた。

困ったのは食事の問題だったけど、三日続けて冷凍ピザが食卓に

上ったのを見兼ねたジュリアが見事な手際で料理を拵えた事に一番驚いた。

ばあちゃんのより10倍は旨い煮物を鍋いっぱいに作ってくれた。

ジュリアが料理担当に落ち着くと、俺は買い出しのお供を命じられた。

狭い田舎町だったし、若い女を連れだってスーパーなんかをうろついていて同級生に見られたりしたら事だと思ったが、俺に拒否権などなかった。

じいちゃんは朝から夕方まで畑だ田んぼだで忙しいし、

ロクデナシは大概二日酔いで昼まで寝ていて、

夕方はふらっと何処かに消えてしまう。

一日中暇な俺が一緒に行くしかない。ジュリアは依然無口だったが、

2人だけになるとポツリポツリと喋り出す様になっていた。

中学三年の俺にも、このブラジル人女性とロクデナシの関係性が気にはなっていたが、それを問い質す事を躊躇する位の一般常識は身に付けていた。

が、気を抜いた時に不意に口にしてしまった。

「ジュリアはどうして親父と日本に来たの?」

この頃日課になりつつある夕方の買い出しの帰り道。

高台の公園のフェンスから綺麗な夕焼けが遠くに見えた。

「ある日、父の農園に類が来た。小さなバック一つと首にカメラを下げて。

日本から写真を撮る為に来たと言った。お金無いから働きたい。

父は類を気に入って家に住ませた。その後父は病気で死んだ。

それで類が日本に帰ると言った時に一緒に行きたいと私が言った」 

一つ一つの言葉の感触を確かめる様に、ジュリアは丁寧に話した。

「そうか。親父が何処で何をしているのか俺らは全く知らなかったから。

突然帰ってきて本当に驚いたし。でも無理やり連れて来られた訳じゃ無いなら良かった」

俺は自分でも何を言っているのだろうかと思いながら、

じっと遠くの夕日を眺めていた。

「類の家族は日本にいる。私の家族と仲良くなって、嬉しいけど寂しいみたいだった。類はいっぱい働いてくれて農園助かった。私に日本語教えてくれた。沢山の音楽とカメラの事も教えてくれた」

「ルー・リード?」

「類が好きな曲。私もいつも聴いてた」

あれから俺も毎日聴いてる。

レコードに針を落とす瞬間が堪らなく好きになった。世界が一瞬で変わる。目をつぶると本当にすぐ傍で歌ってくれているみたいだった。

「友、カメラやらないの?」

ジュリアが俺の方を振り向きながら言った。

「うん。やった事ないな。小さい頃は触ると怒鳴られてた」 

随分昔、ロクデナシが肌身離さずもっていた小さなカメラをこっそりいじっていて殴られた事を思い出した。

今でも腹が立つ。

「類はカメラいつも持ってた。そして沢山写真撮ってた。私の家族。父の事。農園の裏の森。壊れた教会。死んだ人達も。類の写真だけ残ってる」

ジュリアの水色のフレアスカートが風になびいた。

着の身着のままでやってきたジュリアに、ばあちゃんが例の階段下の納戸から古着を引っ張り出してきて着せたものだ。

中学三年の俺が言うのも何だけど、

そのスカートはジュリアに良く似合っていた。

もうすぐ陽が落ちる。

俺はこの高台からの景色を数え切れない程眺めてきた筈だったけど、

今日の夕日は格別に綺麗だと思った。


          5


暫く大事を取って入院していたばあちゃんが家に帰ってきた。

幸い骨に異常は無く、退院した翌日には畑に出ていた。

家を空けていたのはほんの一週間程で、ちょっとの間見ないだけだったのに、何だかばあちゃんが少し小さくなった様な気がした。

何事も無かった様に日常が戻り、余り旨くないばあちゃんの手料理が

また食卓に並んだ。また何もする事の無い暇な夏休みに戻って、

安心した様なちょっとガッカリした様な心境だった。

ある日の昼過ぎ、例の部屋でレコードの山を物色していると、

階下から玄関の戸を叩く音がした。

誰も応対に出ないので俺しか家にいない様だ。

中々諦めないので仕方なく玄関に向かう。

そこには派手なアロハシャツを着た男が立っていた。

「ああ、こんにちは。類さんいますか?」

男はハンカチで首の汗を拭いながら、如何にも暑くてやり切れないという様子だった。

「いえ。今は誰もいないみたいで」

ロクデナシを訪ねてきたという事は、

何か良からぬ事が起りそうだと俺は警戒した。

「いないの?今日車を貸す事になってて、表に止めてるんだけど。類さんにどうしてもと言われて無理して来たのに」

男は益々噴き出してくる汗を必死で拭い、顔を真っ赤にしている。

「多分、すぐ帰ってくると思いますが、ちょっと中でお待ちください」

俺は土間に面した上がり框に座布団を引き、男に勧めた。

「ああ、すいませんね。じゃあちょっと待たせて貰おうかな」

男は家の中をキョロキョロと見廻し、

頻りに座布団の具合を直したりしている。

冷蔵庫から冷えた麦茶をコップに注ぎ持ってきてやると、

男は余程喉が渇いていたのか、一気に飲み干した。

「類さんの息子さんだよね?大きくなったねぇ。小さい頃一回だけ会った事あるんだよ。覚えてないか。俺は類さんの仕事の後輩で、昔世話になってた村井薫って言います」

「はあ、そうですか。父がお世話になっています」

俺にも一応の社会性というものはある。ロクデナシの知人・友人の類に

碌な大人はいないと記憶していたが、一応失礼の無い様に振舞っておく。

「でも、びっくりしたよ。一昨日の夜中にさ、突然電話掛かってきて、8年振りだよ。いきなり車貸せって。類さんいつも急だもんね。ブラジルに行ったって聞いてから何の音沙汰も無かったのにね」

どうやらこの人はロクデナシの被害者側にカテゴリーされる人物の様だ。

急に親近感が湧いてくる。

麦茶のお代わりを持ってこようと立ち上がった所で、

玄関の引き戸が勢いよく音を立てた。

ロクデナシがサングラス姿で入って来た。

「おお、薫。表の車、おまえのか?」

「類さん!お久し振りです。うわぁ全然変わってないですねぇ!」

村井が立ち上がって類に歩み寄る。

「寄るな!暑苦しい!おまえ老けたな。それに随分肥えてるし、頭薄くなってねぇか?」

立て続けに他人の急所を付く。やっぱりこの男は俺の見込み通り、

ロクデナシ被害者の会の会員に間違いない。

「あの車四、五日借りるぞ。あとついでに金も貸せ」

息子の目の前で堂々と他人から金を借りる。ロクデナシの本領発揮だ。

「ちょっ、類さん。車も金も貸しますけど、何があったんですか?8年振りですよ?積もる話もありますでしょうが」

村井の言う事は最もだ。俺もそう思う。

「そんな暇ねえんだよ。また帰ってきたら説明すっから。おい友、おまえこれから買い出し行ってこい。ジュリアも連れて。酒とタバコと、食い物。あと水着」

「水着?何で?誰の?」

「明日から海行くぞ。皆で。水着はジュリアのだよ。おい薫、友に金渡せ」

村井が財布から札を出して俺に手渡す。カツアゲされている様で不憫だ。

「海?何で?」

不覚にも俺はロクデナシに最高のパスを出してしまう。

「おい、おまえそんな事も分からねぇのか?夏といえば海だろ」

ロクデナシがサングラスの下でほくそ笑む。


          6 


次の日、村井薫の愛車シボレーカマロの後部座席にばあちゃんと

隣合って座っていた。

俺は生まれて初めてのオープンカーに不覚にもウキウキしてしまっていた。

悔しいくらいの晴天で、これでは全てロクデナシの思う壺だ。

一応じいちゃんも誘ったらしいが、案の定一笑に付してまだ暗い内に

田んぼに出掛けてしまっていた。

ジュリアは助手席でラジオから流れてくる音楽に軽く身体を揺らしている。

幌を全開にして、カマロは国道134号線の海岸通りに差し掛かろうとしていた。

絶え間なくハイライトの煙を吐き出すロクデナシの運転は、

意外にも慎重で乗り心地が良かった。

思えばロクデナシの運転する車に乗ったのは生まれて初めてだった。

「おい、ジュリア。これが湘南だ。日本で一番の海岸だ」

ロクデナシが得意げに言った。

車は材木座から江の島方面へ走る。

海面に反射する太陽の光がキラキラと眩しい。

浜辺は既に多くの海水浴客で埋め尽くされていた。

何故わざわざ車を借りてまで海に来たのか。

唐突で強引な展開に何かあるなと思いつつ、

俺は圧倒的な暇人だったのでノコノコと付いてきてしまった訳だ。

隣に座るばあちゃんはどう思っているのだろう。

派手なオープンカーに揺られ、遠い水平線にじっと視線を投げている様子には妙に落ち着いた雰囲気があった。

息子の破天荒さは昨日今日始まった事ではないが、

何時もならもっと何かと口を挟む所だと思うのだが、

やけに大人しく後部座席に納まっている。

何かの前触れ、嵐の前の静けさ。

俺は皆の様子をそっと観察して一人いぶかしんでいた。

やがて車は大きな橋を渡り、江の島の駐車場で止まった。

「あー、腹減った。飯だ、飯」

車の幌も下ろさずに、さっさと先に歩き出すロクデナシの後を一行が慌てて追い掛ける。

磯料理を出す定食屋の二階の席で、

賑やかな浜を遠くに眺めながら名物のしらす丼を皆で食べた。

「この魚何?」

ジュリアが器用に箸でしらすを摘まんでばあちゃんに尋ねている。

「これはしらす。ホワイトフィッシュ。ブラジルにはいないのかねぇ。こっちのは生で、こっちは茹でてあるの。分かる?」

しらすが英語でホワイトフィッシュなのかは大いに疑問だったが、

ばあちゃんは何時になく楽しそうだった。

「おい友、おまえ今年受験だろ?勉強してんのか?高校落ちたら就職して稼げよ。働かざる者食うべからずだぞ」

本当にお前がよく言えるなと喉まで出かかったが、すんでの所で堪えた。

わざわざ此方から喧嘩を吹っ掛けるのは得策では無い。

ロクデナシの本意が今一つ掴めない状況では、此方も下手な動きは禁物だ。

はたから見れば平和な家族旅行の様に見えるかも知れないが、

水面下では激しい手の内の探り合いが繰り広げられているのだ。

俺は絶対に油断しない。

サングラスで表情を悟らせないのもきっとロクデナシの作戦なのだろう。

「類、何でまた急に海に行くなんて言い出したの?台風がまた来てるって言うのに」

ばあちゃんが食後のお茶を啜りながらロクデナシに尋ねる。

ああ・・ばあちゃん、その台詞は良いパスになっちゃうんだよと、俺は心の中で叫ぶ。

「夏は海だろ。海って言ったら湘南だ。そこに理由なんてねーんだよ」

いや、だからほくそ笑むな。俺は二度目だ。このパターン。

車で浜辺付近の駐車場に移動し、海の家でジュリアが水着に着替えた。

昨日駅前のデパートで買ってきた黄色いビキニの水着だった。

褐色の肌のジュリアにその黄色はよく映えた。浜をジュリアが歩くと、

そばの男どもは必ずと言っていい程振り返っていた。

そんな視線を気にも止めず、ジュリアは見事な泳ぎで波間に消えていった。

ロクデナシは海の家の座敷に転がって昼寝をしている。

その隣で俺とばあちゃんは特にする事も無く海を眺めていた。

台風が近付いているニュースは昨日も見たが、海は落ち着いている様に見える。

まだ遠くにいるのかも知れない。

日陰から日向をずっと眺めていると、

美術館で絵画を見ている様な気になる。

くっきりとした光彩の景色が額縁の中に固定されて、

それを違う世界から見ている様な気持ちだ。

意識がどこか別の所に飛んでいく様で、時間の感覚がボンヤリとしてくる。

レコードがクルクルと回転するのを見つめながら、

あの曲を聴いている時も似た様な感覚になる。

目の前の景色がゆっくりと意識から遠のいていくのを、

その頃の俺は心地好い事に感じていた。

暫くそうしているとジュリアが海から上がってきた。

「友、泳がないの?」

ジュリアがタオルに包まりながら俺に尋ねた。

「ああ、後で行くよ。ジュリアは泳ぎ上手いんだね。あっという間に見えなくなった」

「小さい頃、よく兄妹で泳ぎにいった。海じゃないけど大きな池があった。魚を取ったり、船に乗ったり。こんなに人いっぱいじゃないけど」

「おい、ジュリア、今日はこの辺で花火があるんだよ。見た事あるか?打ち上げ花火」

突然身を起こしたロクデナシが大きな声で尋ねた。

「教会の祝いの日には花火があった。でも花火は夜じゃないと綺麗じゃないよ」

「そうだな。夜やるもんだよな。今日は泊まっていくか。どっかあんだろ。泊まれる所」

ロクデナシの無計画さが露呈する。

「いやっ、今から探すって無理じゃない?夏休みだよ、今」

俺は呆れながらも、どこか少し残念な気持ちもあった。

生まれて初めての家族旅行の様なものに、やっぱりいくらかの浮かれた気持ちがあったのかも知れない。

ロクデナシは勢い良く立ち上がると、

海の家のロン毛の兄ちゃんに近付き何か話し出した。

遠くからその様子を見ていたが、

何やら話が盛り上がって肩を叩きながら笑ってやがる。

「ばあちゃん、いきなり泊まっていくってなったら、じいちゃんキレるんじゃない?一人でご飯とか犬の世話とか出来ないでしょ?じいちゃんは」

自分だけはまともな側の人間であるとアピールする為に俺は言った。

「大丈夫でしょ。おじいちゃんは。一日くらい何とかするでしょう」

驚いた事にばあちゃんは乗り気でいるらしい。

そんな訳で俺たちは海岸通りから少し離れた長谷付近の民宿に宿を取った。

海の家のロン毛の兄ちゃんの実家らしい。

ロクデナシ生来の悪運の強さがここでも底力を発揮した。

4人雑魚寝の大部屋に落ち着くと、ロクデナシは待ってましたとばかりの早さでビールを飲み出した。

ばあちゃんはじいちゃんに連絡するといってフロントに電話を掛けに行った。

じいちゃんの怒鳴り声が今にも聞こえてきそうだと思った。

「おじいちゃん、大丈夫だって。ゆっくりしてこいだって」

部屋に戻ってきたばあちゃんが開口一番言った。

「よし、友、つまみ買ってこい!ばあちゃんもたまには飲めよ。昔はよく飲んでたろ?」

全て目論見通りのロクデナシは当然上機嫌だった。

俺はどこか喉に小骨が引っかかっている様な違和感を感じていた。

展開の不自然な自然さがこそばゆいとでも言うか。

結局その予感は半分当たっていて、半分外れてもいた。

俺はあの日の事を細部に至るまで妙にはっきりと覚えている。

15歳の夏休み。

古びた民宿の縁側で俺はあの時、少し大人になった。


          7


目の前にビール瓶が5本、空になっている。

何かの圧力を感じると思ったら、

ニッカポッカのオジサンの顔が不快なレベルにまで近くにある。

「それで!その花火の夜に何があったんだよ!」

オジサンが酒臭い息を容赦なく俺に吹き掛ける。

「いや、ちょっ、あれ?あの、俺と一緒にいた娘は?何処に?」

語るべき相手だったはずの予備校のクラスメートの姿が見当たらない。

「ああ、さっき帰ったよ。用事あるって。しらす丼の件の辺りで」

オジサンが無精髭だらけの顔でニヤリとする。

「うそ?じゃあ、そこからずっとオジサン相手に語ってたの?まだライカすら出て来てないよ。聞かずに?俺の壮大な夢の話を」

慣れない酒を飲んで酔っ払い、話しに入り込み過ぎたらしい。俺は慌てた。

「いいから、続きを聞かせろよ。ここからだろ、風に針を落とすのは!」

ああ、オジサンはよく聞いている。俺の話をしっかりと。

当初の趣旨とはちょっと違うが語るしかない様だ。

風に針を落とすという事の意味と、

このライカとの出会いを。


          8


花火は予定の時刻に唐突に始まった。

まるで嘘みたいに民宿の前庭からは海岸で打ち上げられる花火がよく見えた。

色鮮やかな花火は海面に反射した像と相まって、

二重写しの様に幻想的で綺麗だった。

蜩の鳴き声の合間に地響きの様な花火の音が辺りに響き渡る。

そこは山間を吹き抜ける風の通り道のようで、

浴衣で縁側にいると涼しくて心地良かった。

「遠くから見る花火ってのも、これで風流だねぇ」

ばあちゃんは久し振りに飲んだビールで少し酔っている様だ。

団扇を扇ぐ手がほんのり赤くなっていた。

「本当に綺麗。日本の花火は色が綺麗」

少し寸足らずの浴衣に身を包んだジュリアが呟くように言った。

「おい、2人そこに立ってこっち見てみろ」

ロクデナシがいつの間にかカメラを構えていた。

ばあちゃんとジュリアがゆっくりと振り返る。

「暗くて写らないんじゃないかい?」

ばあちゃんが団扇で顔を隠す。照れている様だった。

「俺を誰だと思ってる。プロカメラマンだぞ。不可能は無い」

そのカメラには見覚えがあった。

小さい頃、俺がいじっていて殴られた時のカメラだ。

「まだそのカメラ持ってたんだ」

俺がそう呟くと、シャッターを切っていたロクデナシの手が止まった。

「おい、友、お前撮ってみろ」

ロクデナシが小さなカメラを無造作に俺に渡した。

「いや、使い方分かんないし。いいよ俺は」

俺はその時も、5年振りに会う父親に対してどう接して良いのかを

測りかねていたのだと思う。

「ちょっとトイレにいってくるよ」

ばあちゃんがそう言って立ち去るとジュリアも付添う様に付いて行ったので、

急なタイミングでロクデナシと二人きりになった。

一瞬の沈黙の後、ロクデナシが俺の手からカメラを取り上げた。

「友、よく聞けよ。ばあちゃんな、もうすぐ死ぬんだ」

「はっ?何?」

俺はその時、はっきりと聞こえていたロクデナシの言葉に聞こえない振りをした。

そんな事をして意味が無い事も、瞬時に分かっていた。

「この前ばあちゃんが倒れた時、念の為に病院で色んなとこの検査したんだ。じいちゃんと相談して、ばあちゃんには言ってないけどな、もう長くない」

ロクデナシの目はそれまでと変わらず、

本気なのかそうでないのかが分かりづらい。

「嘘だろ。ばあちゃん、あんなに普通で、元気だし、止めろよ。冗談になんないよ」

花火の音がやけに大きく耳に届く。

その一つ一つの音に俺の鼓動は過剰に反応している。俺には分かっていた。

いつか俺は一人になる。それを小さい頃から避けられない運命として

半ば待ち構えていた様に思う。

「友、よく聞け。このつまみを回すと、この蓋が開くから、そこにフィルムを入れる。この巻き上げレバーを回しながら、ここのシャッターを一回切って・・・・」

ロクデナシは急にカメラをいじりながら使い方を説明し始めた。

「長くないって、どの位、何の病気なんだよ!手術とか入院とか、治療しなきゃだろ!何でこんな所に連れてきてんだよ」

俺の声は震えていた。真っすぐ立っているのも難しかった。

「このダイヤルがシャッタースピード。周りの明るさに合わせて調節しろ。シャッターを切ったらこのレバーでフィルムを送る」

ロクデナシはカメラの説明を続ける。

「カメラなんかどうだっていいだろ!どうにかしなきゃだろ!」

俺は我を忘れてロクデナシに食って掛かった。

「友、こんな時だからこそ写真を撮るんだ。いいか、世の中どうしようも無い事ってのは山ほどあんだ。時間は容赦なく何もかも奪っていく。全部無くなっちまうんだよ。でもな、それをアホ面こいてただ見てるだけの奴は本当の馬鹿だ。過ぎていく時間にシャッターを切るんだ。俺は。風の様に流れていっちまうもんをこれで繋ぎ止めるんだよ」

あんな顔のロクデナシを俺は初めて見た。

まるで泣きじゃくる子供の様にクシャクシャの顔をしていた。

「ばあちゃんは多分分かってる。分かっていて何も聞かないし、何も言わねぇんだ。俺はお前に何も教えてやれねぇ人間だけどなぁ、シャッターの切り方だけは教えてやる。それがこの世界への唯一の抵抗だ。無くなっちまうもんをただ失うな。自分のやり方で、繋ぎ止めろ」

ロクデナシは真っすぐ俺の目を見ていた。

俺はその時、ロクデナシの言葉の半分も理解していなかったと思う。

真っ暗な空に花火が開くと、一瞬昼間の様な明るさになる。

遅れて腹に響く爆発音が届く。それが永遠の様に繰り返された。

ばあちゃんとジュリアは中々帰ってこない。

こうしている間にも、時間は流れていってるんだなぁと

俺はボンヤリと思っていた。

「・・・・分かった。カメラ、教えてよ。あとそのカメラ俺にくれ」

俺はその時、

ロクデナシが持っているその小さなカメラを心の底から欲しいと思った。

ただ失い続けるだけの阿呆になるのは絶対に御免だと思っていた。


          9


江の島から帰ってきて、2か月後にばあちゃんは死んだ。

ばあちゃんはとても静かに、しっかりと死んでいった。

皆に囲まれて、とても満足そうだった。

ばあちゃんの葬式の時、親戚や近所の人達は口を揃えて同じ事を言って帰って行った。

「この写真、すごく良いね。おばあちゃん、とっても良い顔してる」

ロクデナシがあの日、ビールで少し紅潮したばあちゃんを撮った写真だった。

ばあちゃんは真っすぐに、息子が覗くレンズを見ている。

古びれた民宿の前庭で、山から吹いてくる風に髪を揺らし、

蜩の鳴き声と花火の音に包まれていたあの時。

そこにばあちゃんは確かに生きていた。

ロクデナシは見事に繋ぎ止めていた。あの瞬間を。

俺は毎日シャッターを切って、毎日ルー・リードに針を落とした。

来る日も来る日も飽きもせず。

シャッターを落としているんだか、

針を切っているんだか分からなくなる位に。

じいちゃんは前と変わらず、朝早くに畑に行き、

夕方帰ると熱い風呂に入り、酒を少し飲んで、一人で寝る。

ばあちゃんがいなくなって、

一人分世界は広くなって、一人分の色を失った。

それから少しして、ジュリアがブラジルに帰る事になった。

ジュリアのお兄さんが結婚して子供が生まれたらしい。

小さな農園を始めるのでジュリアに手伝って欲しいという手紙が届いたのだった。

俺はあれから毎日、学校から帰るとジュリアと買い物に行き、

夕食を一緒に作った。

15歳の夏は本当に忙しく、新しい事を沢山知った夏だった。

あれからロクデナシは一人で日本中を旅していた。

たまに家に帰ると、

旅で撮りためた写真を自分で現像して俺にも見せてくれた。

そこには色んな人や風景が写っていた。

晴れた日もあれば、厚い雲に覆われた日もある。

ロクデナシの写真はそこに吹いている一瞬の風を、

しっかりとフィルムに繋ぎ止めていた。

俺の毎日にも沢山の風が吹いている。

 

俺もいつか必ず、

この風に針を落とす。


          完

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風に針を落とす ころっぷ @korrop

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