セルフレジと私
じゃが猪
セルフレジと私
これは、私が窮地に陥った話であるが、くわしく説明するには少々時間をさかのぼらなければならない。
「カレールー買うの忘れたから買ってきて」
すべては母上のひと言から始まった。
カレーを作るうえでカレールーを忘れるとは何たることか!と文句の一つでも言ってやろうかとも考えたが、我が家の台所事情の全権を掌握する母上に逆らうことは自殺行為に等しいと理解していた私は、言われるままに家を出た。
夕暮れ時の寒空。冷たい風が骨身に染みる。
たいていの物事にはアバウトな母上であるが、カレーについては一家言あるらしく、3つの他社製カレールーをブレンドするのがこだわりのようだ。
「カレールーは1つの種類で完成するように企業が努力しているのだから、混ぜたりするのはよくない」
と何度かアドバイスのような抗議のようなことを伝えたことがあるが、
「あんたはずっとこのカレーをおいしい、おいしいって食べてきたのよ」
などと言われてしまえば、何も言い返すことはできない。
というわけで渡されたメモには「このルーはどこどこのスーパー」だとか「これはコッチのドラッグストア」など記されている。
私とて日本男児の端くれなので、この程度のおつかいは朝飯前だ。
日ごろからよく行く2つのスーパーで迅速かつ的確に任務をこなした私は、最後の目的地へと向かった。
突然だが私は好きなものは最後に食べるし、いやなことは最後まで残してしまうタイプだ。なので、目の前にそびえるドラッグストアは、当ミッションの最初にして最大の難関であると言えるだろう。
なぜかと問われれば、単純に赴いたことが無いからだと答える。誰もが初めては緊張するものだ。私の心臓は早鐘を打つ。
店内の客はまばらだった。私は足早にカレールーの置かれた商品棚に向かう。初めてなのに場所がわかるのか?と思われるかもしれないが、問題はない。母上の用意するメモはいつだって万全だ。
メモに書かれたとおりの商品棚にそれはあった。いつも見るパッケージの辛口カレーだ。
母上のカレーは中辛2つ、辛口1つで構成されるので、こいつが無ければ、あのガツンと来る感じを再現することはできないだろう。
レジに向かう途中でプロテインバーにも手を伸ばす。カレーだけを買うカレー野郎と思われないためだ。
レジは2つあるうち、片方しか開いていない。客が多く並べばヘルプで開放するのだろう。合理的である。
レジ袋を断り、母上から預かったポイントカードを差し出し、あとは支払いを済ませるだけだ。
しかし、ここで事件が起きた。つまり、冒頭で述べた窮地である。
日ごろ、外の世界で生活を送る諸君らは肌で感じていることと思うが現在、スーパーマーケットをはじめとする、あらゆる小売店でセルフレジ化が進んでおり、バーコードの読み取り作業からセルフのフルセルフレジスタイルや、支払いだけがセルフのセミセルフレジスタイルなどが登場している。
人手の効率化に新入社員やアルバイトの負担軽減、精算ミスを減らしたりなど、様々なメリットがあるセルフレジだが、重大な問題が隠されていることを私は伝えたい。
それは多くのセルフレジで色がある。つまり統一規格ではない、ということだ。わかりにくいと言い換えることもできる。
「ややこしいなんて、俺は迷ったことないぜ」
「普通にやればできるじゃない」
などとおっしゃる
なぜそのようなことが断言できるのかと言えば、私がそうだからだ。
「こっちのドラッグストアのほうが安いけど、いつもの店のほうが慣れてるし、こっちでいいか」
と何かにつけて言い訳して避けてきた。
さながら陸に揚がったサンタマリア号。開拓精神を忘れた1人の男。
私はそんなかつての自分に怒りを覚え、ひどく後悔した。
なぜ一度として母上と、ここへ買い物に来なかったのか!
なぜ事前にセルフレジの使い方を調べてこなかったのか!
ここまで言えばお気づきだろう。私が瀕した窮地というのは、セルフレジでの支払い方法がわからないということだ。
正確には、札を入れるところがわからないこと、と言える。
とりあえず私はここまでのすべてを顧みることにした。まず、このドラッグストアに置かれたセルフレジはセミセルフスタイルだ。
バーコードの読み込みを店員さんが行い、
「一番でお支払いお願いしまーす」
とかわいらしい声で通される。お耳が幸せな気分だ。
タッチパネル画面には支払い方法と支払金額が表示されている。現金払いをタッチした私は、小銭の持ち合わせが15円しかなかったので千円札を取り出した。
いまココ!である。
結局、なにも打開策は浮かばなかった。が、少し落ち着いた私は、冷静にセルフレジを見た。前に行った2店舗のうち、1つは以前からの常連であり、母上から託された支払機能付きポイントカードをかざすだけだったので参考にはならない。もうひとつは、
プチパニックだ。心臓の鼓動がさらに早くなる。
「さっさと店員に聞いちまえよ」
「困ったのなら助けを呼べばいい」
などとおっしゃる
なぜそのようなことを断言できるのかと言えば、私がそうだからだ。
とにかく、改札口を通るときでさえ緊張するほどのシャイボーイである私が、店員さんに助けを求めるなど出来るわけがない。
ちなみに、有能な相棒である我がスマートフォンは「お腹がすきました」と訴えていたため、あたたかい家でコードに繋がれ、お留守番をしている。
つまり、自分で何とかするしかない。
そうこうしている間に、私の後ろに並んでいたマダムのバーコード読み込みが終わった。幸いセルフレジは2つあるので邪魔はしないで済む。
そのとき、プチパニックによって停滞していた私の灰色の脳細胞がひらめきを見せた。このマダムが支払いをしているところを参考にすればよいのだ。
おお、神様。このマダムを遣わせてくださったあなた様に感謝します。
私は小銭やカードを探す振りをしたり、「あれ?あれ?」とわざとらしく呟いたりして時を待った。
そしてマダムは、慣れた手つきで財布からカードを取り出すと、読み取り口にかざし去って行く。その颯爽たる姿たるや、目で追うのが精一杯だった。残ったのはマダムの残り香と支払い完了のピロリンという音だけだ。
神様はいなかった。そもそも神様がいるのなら、このような状況にはなっていないだろう。
マダムが去ってから数秒?数分?数時間?わからない。時間の感覚がぶっ飛んでいる。並んでいる客はおらず、店員さんは手持ち無沙汰にしているが、時折ちらちらとこちらを見ている。ような気がする。
背中が熱い、頭皮からドッと汗が噴き出すが、そのくせ足は冷えついていく。私はいよいよパニックになった。手に持った千円札を手当たり次第に隙間という隙間に差し込んでいく。
ここじゃない。ここでもない。ああ、どこだ、どこだ。逃げたい。でも万引きになってしまう。商品を返せば許してもらえるだろうか。ああ、ああ。どうしよう。ああ、ああ、あああ!
千円札に写る野口英世の顔が皺くちゃになり、桜は曲がり、富士山に天変地異が起き始めたころ、私の耳に天からの声が届いた。
「あのー、お客様。お札はこちらに入れていただけると大丈夫ですよ」
「えっ? あっ、え? あ、そうなんで、えっ? あっ」
そこからの記憶はあいまいだ。気がつくと暖かい家でカレーを食べていた。わずかな甘みとしっかりとしたコク。それを引き締めるように、あとからガツンと鋭い辛みがやってくる。やはり母上のブレンドカレーは絶品だ。
夕飯も終わり、しばしテレビやパソコンでリラックスした後、ほのかにカレーの臭いを漂わせつつ、床に就いた。
暗闇に目が慣れ始めたころ、記憶が鮮明になっていく。
私は少し泣いた。
社会の難しさに泣いた。
母上のカレーのおいしさに泣いた。
自分の情けなさに泣いた。
しかし、私は成長したのだ。あのドラッグストアは開拓され、もう迷うことなく買い物をすることが出来る。
この世界の形が、まだ多くの未知で覆われていた時代。夢を追い続けた開拓者たちも、こうして枕を濡らす日々があったのだろうか。
私はかつての先達たちに思いをはせ、また少し泣いた。
セルフレジと私 じゃが猪 @dashimaki-syougun
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