エピローグ ようやく手に入れた存在

 心地のよい疲れと満たされた心に、もう少し眠っていたい気持ちを抱えながらも、朔は体を起こして隣で眠る愛しい人を確認してからベッドを出た。

 雪乃も疲れているのか、ベッドが軋んでも起きる気配はなく、規則正しい寝息を立てている。

 

「スウェットのズボン……どこやったかな」


 恥ずかしげもなく裸のままで寝室を歩き回ると、ベッドの足元に乱雑に四方八方に投げられている衣類を見つけた

 その冷静さの欠片もない様子に、朔は笑いたくなる。

 

「まったく、余裕がなさすぎだろ」


 自分がこんなにも性に溺れ、毎日でも求めるタイプだとは思わなかった。もちろん、これまでの相手は雪乃じゃないのだからしかたがない。

 朔にとって、今も昔も本気で好きだと思うのも、愛しているのも雪乃しかいなかった。

 誰もが、小鳥の雛みたいに刷り込みが起こっただけだと言った。

 最初に親しくなった相手だから、好きだ、大切だと勘違いしているのだと──。

 初めの頃は、その言葉を無視して雪乃の側から離れなかった。

 けれど、自分が側にいることによって、彼女に危害を加える輩が出てきて近すぎず遠すぎない距離を保つようにした。

 だから、気に入らなくても、祖父の留学をしろという命令に従うことにしたのだ。

 その結果が、どんなことを招くかなんて知りもしなかった。

 いくら会えなくても、手紙のやり取りが続けば、関係が切れることはない。

 彼女の近況も知れる。

 そんな思いから、手紙を書いて出した。

 返事が来ないことも、黙って留学してしまったことを怒っているからなんだろうと思って、彼女の機嫌がなおったら返信してくれるだろうと深く考えずに毎週送った。

 けれど、何通、何十通と送っても、雪乃からの手紙は一枚も返ってこない。

 半年が経った頃、祖父の誕生日のパーティーがあるからと帰国が許されて、その日を今か今かと待ちながら一日を過ごすようになり、ついに日本の地を踏んだ時──真っ先に雪乃の家へと行ったのだ。

 けれど彼女はいなかった。

 アメリカに留学したと雪乃の母親に言われ、送られてきたという写真を見せられ、目の前が真っ白になったのを今でも朔は覚えている。

 そこに写っていたのは、一人の男から頬にキスされて笑っている雪乃の姿。写真には『ジェイクとデート』という文字が書かれていた。

 どうやって祖父の誕生日パーティーをやり過ごしたのかすら分からない。

 とにかく、次の日には飛行機に乗ってイギリスに帰ったが、その後は最悪の人生だった。

 裏切られた気分だった。

 目的も、大切な存在も失った朔は、爛れた日々を過ごした。

 自分から女性に声をかけることはないが、誘われれば一切断らない。

 一夜限りの相手とセックスを楽しみ、胸の痛みと心の隙間を埋めようとした。

 そんな生活も、一年ほどすれば虚しいものに思えて、今度は逆に禁欲的になっていた。

 女性の誘いを断るようになり、学業にのみ時間を割くようになったのだ。

 おかげで、きちんと卒業もでき、一度関連企業に就職も果たし、色々なことを吸収し成長した。

 そうして、帰国をしようと考えていることを祖父に告げても、反対されることはなかった。

 爛れた生活をやめてから、朔はやはり雪乃だけが自分の感情を動かすのだと理解していて、帰国したら胸を張って会おうと思っていた。

 これは、刷り込みで大きくなる気持ちではない。

 彼氏がいようが、考えたくはないが夫がいようが、自分の気持ちに向き合い奪う気であった。

 だから、手始めに卓馬に連絡したのだ。

 たまたま寄ったバーで、向島に出会ったのは幸運にも偶然。

 そこで話を聞けば、卓馬に言われることのなかった同窓会の誘いだ。

 寄った向島は饒舌で、滅多に参加しない雪乃が珍しく参加するということを語ってくれた。

 これは行くしかない。

 そんな思いで、向島にだけ参加することを話し、当日実際に行けるか微妙だから、他の人には言わないでほしいと釘を刺すのを忘れない。

 軽く酔っていても、そのへんはしっかりしているのか、後日きちんとメールで『黙っとくから』という一文が送られてきた。

 誤算だったのは、その前日に酷く酔った様子の雪乃に会ったことだ。

 胸が焦がれるほど思っているのに、雪乃は朔に気がつくこともなかったことに腹の奥にどす黒い感情が湧き上がってきた。

 カラカラ笑う雪乃をわずかに憎らしくさえ思った。

 危機感のない彼女を、誰かに攫われないように滞在中のホテルに連れて行ったのだ。

 いっそうのことこのまま一夜の過ちをおかしてしまえと心の奥にいる悪魔が囁いたが、どうにか無視をしたのに──。

 あの日、酔った雪乃は「お風呂……」とむにゃむにゃと言いながら、下着にも手をかけた。

 その瞬間、上掛けをかけて朔はベッドルームから逃げ出した。

 とにかくソファに腰を落ち着けて、愛しい人の下着姿を頭の中から追い出す。

 これまで女性の下着姿なんて何度も見ているのに、雪乃の姿はまったく別物だ。

 シンプルな物なのに、彼女だというだけで、一気に下半身にも熱が集まる。

 朝までの数時間を朔は悶々として過ごした。

 そして、寝ても冷めない熱を冷ますために、シャワーを浴びている時に雪乃は目を覚ました。

 出て行く直前の姿に、どうにか捕まえたがその目に映る自分を雪乃は、やはり認識していなかった。

 他人に対する怯えを向けられ、正直堪えた。

 自分ではそこまで、見た目の変化があるとは思っていない。

 だから、少しだけ困惑したものだ。

 今となっては、それもいい思い出なのかもしれないと思いながらキッチンに入り、冷蔵庫からミネラルウォーターを二つ手に取り、寝室へと戻った。

 一本をサイドテーブルに、自分の分はすぐにキャップを開けて喉を潤す。

 水分補給をして欲しい雪乃は、未だにその魅力的な背中を晒しながら、うつ伏せで穏やかに寝ている。

 思わず触りたくなるその場所には、自分の独占力の強さを示すかのようにキスマークがいくつか散りばめられていた。

 残念なことに、背中が開いた服を着ない雪乃では、誰にも誇示できない。


「あー、早くお披露目パーティーしたいな」


 そんな誰も聞いていな呟きに答えるように、朔のスマートフォンが震えた。


 画面が見えるように置いていた液晶には、まさに待っていた相手の名前が表示されていた。


「おはようございます……?」


「んん……おはよう、朔。なんだ、機嫌が悪そうだな」


「機嫌? 最高の一夜を迎えたのに、機嫌が悪い訳ないでしょう?」


 電話の向こう側にいる祖父は、小さくため息をついた。


「恵理子さんからは聞いている。お前に手紙の事に関して話したと、電話をもらったからな」


「でしたら、話は早いですね」


 ベッドの雪乃の隣に腰を落ち着けて、のんびりと言いながら、ようやく手にした幸運へと手を伸ばした。

 ずっと焦がれたハートの欠片。

 何をしていても完成しなかった魂のピース。

 それが、朔にとっての雪乃だ。

 彼女抜きでは、たとえ人生は送れたとしても、ずっと不完全のまま。

 一生、満たされることはない。


「もう、引き離そうだなんて考えないでくださいね? ヒナのためなら、どんな仕事も成功させてみせますけど」


 朔は、ゆっくりと雪乃の髪を撫でた。


「また引き離そうと画策するなら、もしかしたら会社の不利益になることをしてしまうかもしれませんから」


 そこまで言えば、祖父は声を上げた。


「わかった、わかった。そもそも、今更お前たちを引き離す気はない」


「そうであるのなら良かったです。今後も、一族の為に微力ながら尽力しましょう」


「何が微力だ。まったく……時間ができたら、二人で顔を見せに来なさい」


そうして軽い挨拶を交わして通話を切った。

早く婚約者としてでも、妻としてでもいいから確実にしたい。

 けれど──。


「まだ雪は降っているし……まだ、この時間を大切にしても許されるか」


 二人だけの時間を満喫すべく、朔は上掛けの下に潜り込んで夢見ていた雪乃の寝顔を見つめた。

 目を覚ましたら、第一声に何を言うのだろうか。  

 そんな小さな幸せを噛み締め、温もりに身を浸して微睡みに身を任せて目を閉じた。

 もう毎夜、夢見ることを願わなくていい。

 どんな悪夢を見ようが、目を覚ませば雪乃はすぐそこにいるのだから──。









 

 


  

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記憶の中の羊はオオカミだったようです 大神ルナ @blackwolves

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