蛇とアスモデウス

石衣くもん

蛇とアスモデウス

「いいこと、食欲は罪なのですよ。肝に銘じてお食べなさい」


 食事中に、得意げにそんなことを言ってきた姉様は、私と十五も年齢が離れているとは思えないくらいに幼い笑顔を浮かべている。


「それを言うならば、暴食は罪なのではないのですか」


 口にものを運ぶのを止め、訂正の言葉を吐きながら彼女を見遣る。愛しい姉様の発言とはいえ、間違いは正しておかなければ。このまま放っておいて、恥をかかせるわけにはいかない。

 けして、貴女も食事をしているこの状況で、どうして私だけを非難できると思ったのか、などという皮肉ではない。


「いいえ、食欲です。第一、自分の考えこそ正しいなどというのは傲慢ですわよ。改めなければなりません」


 私の指摘に怯むことなく、姉様は言い返された。無知ほど傲慢なものはないと思っていた自分にとって、姉様の理論は聴き新しいもので、流石姉様だと敬服してしまう。つまり、姉様は今、自身のことも傲慢だと戒めているのだ。


 そんな姉様は、一度結婚をして、家事をハウスキーパーに任せきった所為でその若い女と旦那様が浮気してしまい、嫉妬と憤怒に塗れて我が家に戻ってきたという。僕が生まれる前の話だそうだ。


「ならば姉様、僕は罪の子なのですね」

「馬鹿なことを言わないで頂戴。お前は獅子頭ししず家の長男、跡継ぎだというのに、もう少し自分の立場を自覚なさい。獅子頭家の家督がそのように卑しい言葉を口にしてはなりません」


 ぴしゃりとそう言い放つ姉様はなんと美しいことか。

 凛とした顔つきも真っ直ぐな姿勢も、気高く孤高な姉様によく似合う。

 我が家の規律を重んじ、一体我が家の何が凄いのかよくわかっていないのに、とにかく凄いのだと盲信し、とっくに家業のピークは終えているからこそ、金持ちに嫁がされたにも関わらず、自身の役割も心得ずに、一途な思いで出戻ってきた姉様。


 そんな貴女の罪は、貴女のいう罪とは。


「姉様は何を以て罪だとお考えなのですか」

「よくわからないことをおっしゃる人ね、私に何を言わせたいのかしら」

「例えばの話を致しましょう。姉様」


 自分の妹に、歪んだ愛情を抱いた一人の男がいました。その男は妹に恋人ができたことで自分を見失い、欲望のままに妹を襲ってしまう。その所為で彼女は妊娠してしまったのです。さあ、


「彼の罪は、何でしょうか」

「なんです、その鬼畜のような男の話は。あと、その試すような口調はおやめなさい。不愉快ですわ」

「申し訳ございません。姉様」


 もしかしたら貴女は私の言わんとしていることをすでに察しているのでしょうか。頭の良い方だから。賢く、そして愚かな貴女だから。


「それでは違う話に致しましょう。ある家に仕えている女中がおりました。彼女は永らくその家で働いてきた故、その家のことはなんでも知っているのです。

そんな彼女がその家の子供に子守歌の代わりに聞かせてくれる話は非常に興味深い。その家の歴史、主の人柄、奥方の行動の意味、そして」


 その子供の出生の秘密。


「そのような出鱈目、誰から聞いたのですか!そんな侮辱許しませんわよ、その者に暇を出します、名前をおっしゃい!」

「何をお怒りになるのか。これは例え話の続きですよ。それに、憤怒も罪でしょう、姉様」


 食卓から離れ、部屋を出ていこうとする姉様の手首を掴み、引き留めた。逃がしはしない。


「手をお離しなさい! 片桐ね、あの女よくも」

「姉様」


 手首を握る指先に力を込めれば、圧迫される白い肌と青く透ける血管。麗しい貴女と同じ血が流れているというのに、どこまで自分は穢らわしいのだろう。

 力を込めたことを非難と捉えたのか、小さな子供のように剥れる姉様に、苦笑を漏らす。


「そのようにはしたない言葉、子供の教育に良くないですよ」

「お黙り! はやくこの手を」

「離しません」


 漸くこちらを向いた彼女に、更に続けて告げる。


「私は貴女のことを愛しているのです」

「おやめなさい! 貴方、私たちは血の繋がった家族なのですよ、そんな」

「何故です? 人に好意を寄せることは罪ではなく、善行でしょう。それに」


 貴女だけは、私を咎められない筈だ。

 そう言った瞬間、私の手を解こうとしていた彼女の抵抗はぴたりと止んだ。そして、その場にへたりこむように座り、譫言のように謝罪の言葉を繰り返す。


「謝らないで、姉様。私は貴女のことを」

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめん、

なさい」


 お父様。


 その単語を聞いた刹那、充たされた幸福感を燃やして、今まで以上に肥大した罪の欲望が、再び私の中でその首を擡げた。


「血は争えませんね、姉様。いや、母様」


 そう言って姉様のことは見ずに、食卓へと踵を返した。

 

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