スルタン未だ没せず

平井敦史

第1話

※1/19大幅に加筆修正いたしました。

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 その日、アイユーブ朝第七代スルタン・アル=サーリフが身罷みまかった。

 時に西暦1249年11月22日。この時、エジプトアイユーブ朝は存亡の危機に瀕していた。


 遡ること20年、サーリフの父アル=カーミルと神聖ローマ皇帝フリードリヒ二世との間で結ばれたヤッファ条約により、聖地エルサレムはキリスト教徒の手に渡った。

 しかし、モンゴルに滅ぼされたホラズム朝の残党から成る傭兵集団ファーリズミーヤの暴走により、エルサレムは陥落。再びイスラム教徒のものとなる。

 この一件に激怒したのが、フランス王ルイ九世。彼はフランス一国で十字軍を催し、エジプトへと攻め寄せてきた。


 今、第七回となる十字軍と、イスラム王朝アイユーブ朝は、ナイル川流域のマンスーラにて、ナイル川の支流を挟んで対峙している。

 しかし、アイユーブ朝のあるじたるサーリフは、肺の病に侵されて重病の床にあり、今まさにその生命の火が燃え尽きたのであった。


 このことはまだ、一部の重臣たちしか知らない。しかし彼らは、この危急存亡の時にあって、ただおろおろするばかりでなすすべも持たなかった。


 一つには、後継者たる王太子トゥラーン=シャーが遠くメソポタミアの地で辺境警備の任にいており、この場にいないという事情もあった。


 そんな中にあって、ただ一人冷静な人物がいた。

 それは、三十代半ばの美しい――といっても、その美貌はベールの奥に隠されているが――女性。サーリフが愛した妃、名を真珠シャジャル・の木アッ=ドゥッルと言う。

 元は奴隷の身の上であったが、サーリフの寵愛厚く、ついには正式なスルタン妃の地位にまで成り上がった女性である。


「落ち着かれませ、各々方おのおのがた。陛下はまだ亡くなられてはおりませぬ」


 澄み渡った良く通る声でそう宣言する。困惑し、中には、この女錯乱したのか――そう言わんばかりの眼差しを投げかける者すらいるのも気に留めることなく、彼女はさらに言った。


「陛下はご健在です。そう――王太子殿下がメソポタミアの地よりご帰還あそばすその時までは」


 それでようやく、群臣たちも彼女の真意を理解した。

 王太子の到着まで、スルタンの死を秘匿する。その方針が、今この場で決せられたのだ。


 重臣たちの中には、王妃に主導権を握らせてしまったことに思うところありげな者もいる。

 カーミルの寵臣であり、サーリフのもとでも重きをなしてきたファクルッディーンなどもその一人だ。


(何か言いたそうじゃな。されど、そなたはとやかく言える立場ではなかろう)


 露骨に敵対心を向けるわけにはいかず、目をそむけたが、真珠シャジャル・の木アッ=ドゥッルとしても彼には言いたいことがある。

 彼はサーリフに港湾都市ダミエッタの守備を任されながら、十字軍が攻め寄せて来るやこれを放棄し、逃げ帰ってきた男なのだ。

 真珠シャジャル・の木アッ=ドゥッルにしてみれば、その一件がスルタンの心労を深め、死期を早めたとの思いすらある。


 アイユーブ朝の宮廷は、非常に複雑な権力闘争が渦巻いている状況だった。

 アイユーブ一門の軍人貴族たちと、スルタン直属の解放奴隷軍人、すなわちマムルーク。そして、マムルークの中でも、古参の連中と、新たに組織されたバフリマムルーク(バフリーヤ)との対立が顕在化しつつある。


 そんな連中を率いて、十字軍という強大な敵と向き合い、自身の病とも戦ってきた夫の苦労を思いやり、真珠シャジャル・の木アッ=ドゥッルはぐっと涙を噛みしめた。

 今は悲しんでいる場合ではない。


 サーリフがスルタン位にくと同時に育成を開始した虎の子のマムルーク兵団。ナイル川の中州なかすローダ島に兵舎が置かれたことから、「バフリ(海、転じてナイル川の意)マムルーク」、あるいは「バフリーヤ」と呼ばれる軍団の隊長アクターイを、王太子召還の使者とし、軍全体の総指揮は引き続きファクルッディーンに任せる。


 そして、筆の達者な者を抜擢し、スルタン直筆の命令書を偽筆させ、切れ目なく発行し続ける一方、スルタンの食事もこれまで通り用意させ続けた。

 レンズ豆のスープ、香辛料を効かせた羊の焼き肉、蜂蜜漬けの果実など――生前の夫の好物を見るにつけ、また真珠シャジャル・の木アッ=ドゥッルの胸に悲しみが去来するが、彼女はその思いを払いのけ、宦官かんがんに代わりに食べさせて、スルタン健在との偽装を続けた。


 スルタンの影武者を立ててはどうか、と意見するものもあったが、その案は却下した。小細工が過ぎるとかえって怪しまれる――というのが彼女の言い分であったが、いくら偽装のためとはいえ、他の人間に愛する夫の振りをさせることに抵抗があったから、というのも、理由の幾分の一かではあったろう。


 そんな涙ぐましい努力にもかかわらず、スルタンはすでに亡くなられているのではないかとの噂は次第に広まっていった。

 このままいけば、十字軍側にも知られてしまうのは時間の問題――。


 そのような状況の中、ついに両軍の均衡は破られた。

 年明けて1250年2月8日未明、十字軍の一団がナイルの支流を渡河、アイユーブ朝軍に奇襲を仕掛けてきたのだ。

 司令官たるファクルッディーンは討ち取られ、マンスーラにも陥落の危機が迫った。


キリスト教徒フランクどもの奇襲により、わが軍本隊は大打撃を受け、総大将殿も戦死なされたよし。ここは一刻も早く町の城門を閉ざさねば、敵が攻め込んできて御身おんみにも危険が及びましょう。どうかご決だおわ!?」


 真珠シャジャル・の木アッ=ドゥッルに急を告げていた宦官が、首根っこを掴まれ、後方に投げ飛ばされる。

 王妃の前で無礼を働いても全く悪びれる様子の無いその男は、赤銅しゃくどう色の髪に瑠璃るり色の瞳の偉丈夫。しかし、その片眼には、白内障の白い斑点があった。


「まったく、乱暴な男よな。して、何用じゃ?」


 苦笑しながら、真珠シャジャル・の木アッ=ドゥッルは問うた。

 男の名はバイバルス。バフリーヤの副長で、臨時の隊長となっていた人物だ。年齢はまだ二十代前半。サーリフ直々に目を掛けられ、一時期は衣装係という名目でそばに置かれていたこともあるので、妃である彼女も、彼のことはよく知っている。


 バイバルスはひざまずき、マンスーラの城門を開放して敗残兵を受け入れるよう上申じょうしんした。

 起き上がった宦官が、そんなことをすれば敵兵も一緒に乱入してきてしまうではないかと抗議したが、バイバルスは一睨みでそれを黙らせる。

 真珠シャジャル・の木アッ=ドゥッルはその様子を面白そうに眺めながら、言った。


「敗残兵を救うため……というわけではなさそうじゃな。なるほど。この町をおとりにしようてか」


「御意」


 うやうやしく答えるバイバルスに真珠シャジャル・の木アッ=ドゥッルはすぅっと目を細め、冷ややかな声音こわねで問うた。


「それは、わたしの身も含めて、ということかな?」


 それに対し、バイバルスは全く動じることなく答える。


「恐れながら。されど、わが命に替えましても、この御座所ござしょにはキリスト教徒フランクどもを、一歩たりとも踏み込ませはいたしませぬ」


 しばし冷ややかな眼差しを向け続けていた王妃は、ふっと笑って言った。


「よかろう、バイバルス卿。そなたを重用なされし我が君の目に誤りなきこと、そのつるぎもて証明して見せよ」


「御意!」


 バイバルスは短く、しかし力強く答えた。



 マンスーラの町に突入してきた十字軍騎士はおよそ290騎。しかし彼らは、バイバルスとその手勢の待ち伏せにい、狭い路地で反撃もままならぬまま、頭上から降り注ぐ矢や投石により命を落とした。生還者、わずかに5騎のみ。


 バイバルスから勝利の報告を受け、真珠シャジャル・の木アッ=ドゥッルは安堵しながらも、ふと胸のうちを漏らした。


「陛下の崩御はすでに皆の知るところとなり、キリスト教徒フランクどもが攻め寄せてきたのも、おそらくはその情報を得たからであろう。……そなたのおかげで救われはしたが、結局、わたしのしたことに大した意味はなかったのであろうか」


 必ずしも返答を期待していたわけではない。だがバイバルスはひざまずいたまま、こう答えた。


「王妃陛下のご気丈なお振舞いを見て、兵たちも申しておりました。あの方がおられる限り、不安はないと。少なくとも、頼りない重臣の方々よりは、ずっとマシでしょう」


 歯に衣着せぬその物言いは、彼の本心なのか、気まぐれの慰めなのか。真珠シャジャル・の木アッ=ドゥッルには判断がつきかねたが、彼女自身もそう考えて自らを慰め、夫に顔向けできることを、素直に喜ばしく思うことにした。



――Fin.


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※この作品は史実を元にしたフィクションです。

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