Sheeps Blue

久々原仁介

Sheeps Blue

 僕の通っていた小学校では、五年生の体育で習う「逆上がり」と「木登り」が必修だった。そして僕は、その両方できなかったと記憶している。


 男子生徒が多い学年だったことが災いした。男子の多くは野球やサッカーなどのスポーツクラブに通っていた。だからといって逆上がりや木登りができる理由にはならないが、運動神経はある程度鍛えられている。クラスに数名いる女生徒にいたっても、勝気な子がほとんどで、僕のように教室の隅で読書に耽る男子は下に見られた。


 これは僕の考えが至らない(弱くもある)ところであるけれど、それで他者を憎んだり、憎しみや苛立ちを覚えることはなかった。

ただ、他者と同じ景色を共有できないという刷り込みが、体育の授業がある度に行われた。なかでも木登りは(鉄棒以上に)、そういった僕の寂しさの象徴となった。


 僕が木登りについて語るとき、必ず話さなければならないことがある。それはひとりの女生徒についてだ。


 矢田塔子は木登りと切っても切れない関係にあった。


 彼女は木登りが特別うまかった。跳ねるように桜の木のてっぺんまで登る様といったら、観ているこちらの胸が熱くなってしまうほどだ。


 木の一番上まで登ると矢田は。


「わははっ」


 と、快活に笑う。

 彼女と僕とでは似ても似つかない。僕は運動場で遊ぶより図書館で本の背表紙を眺めている方が好きだったし。人とおしゃべりをするより、黙って人の話を聞いている方が落ち着いた。ひとりで完結する行動こそが美しいと思う子どもだった。


 反対に、矢田塔子について僕が抱いている印象と言えば、「元気なクラスメイト」という程度の認識であった。時折、顔や足にガーゼを貼っている日もあったかもしれないけれど、彼女自身は集団にうまく溶け込めていたし、そこに特筆すべき情報はないように思えていた。それは僕という子どもが抱える、他者に対する理解の欠落そのものであった。


 矢田塔子のことを考えていると、僕らはお互い別の星で生まれた生物なのではないかとさえ思える。


 そんな彼女と僕が接点を持ったのは、小学五年生の七夕の日だった。

 その日は、あまりに木登りと逆上がりができない僕を担任の先生が見かねて放課後に職員室へと呼び出したのだ。


先生は肩幅が本当に大きい50代ほどの男性教諭で、クラスのみんなからは「ゴリラ」と呼ばれていた。どこか有名な体育大学の卒業生だと小学生相手によく自慢していた。いわゆる昭和の根性論を平気で振りかざす人でもあった。逆上がりも木登りもできない僕がよほど腹立たしく映ったのだろう。明日からの体育はプール開きになるため、その前に鍛え直してやろう。おそらくはそんな魂胆だったに違いない。


 職員室の扉を開くと、先生と、何故か矢田塔子がいた。


 矢田塔子はバツの悪そうな顔をして僕の顔をじっと見ていた。


「宿題のプリントしてこなかったんだよね。だから教卓に提出してあったみんなのプリント見て、書き写してたらゴリラ先生に見つかっちゃってさ」


 ゴリラから「校庭へ行って、矢田に木登りを教えてもらえ」と言われれば、なんとなく二人そろって校庭へ出てしまう。「先生は用事ができた」と言って職員室に駆け戻ることへ何の違和感も抱かなかった。それが子どもという生き物だ。校庭の体育倉庫の傍にあるモッコクの木まで行く途中で、どうして矢田が僕の面倒なんかを見てくれる気になったのかを話してくれた。


「意外だね。君はそういうズルとかは嫌いなタイプだと思ってた」

「……わははっ、だって今日七夕じゃん」

「それって何か関係ある」

 どうして笑ったんだろう。そういう記憶ばかりが鮮明だった。

「おとうさん」

 矢田塔子は、僕の言葉をつよく遮った。

「おとう、さんと、星を見にいく約束してたの。居残って宿題とか怒られる」

 ま、自分が悪いんだけどね。と、彼女は諦めたように笑う。


 矢田塔子にとって、「おとうさん」という存在の大きさを垣間見た僕は、彼女に「帰ってもいいよ」と、提案をした。自分に付き合って彼女が怒られる方がよほど申し訳ない気持ちになる。


 僕の提案に、矢田塔子は嬉しさと不安さが入り混じった声でお礼を言った。赤いランドセルを肩にかけてから駆け出しそうになるとまた「本当に、ありがとう」と頭を下げて帰っていった。


 それから30分を過ぎたあたりで、ゴリラ教師がグラウンドに来てひどく慌てた様子で「矢田はどうした」と訊いてきたから「帰りました。おとうさんと用事があるというので」と返した。その後、僕は頭をはたかれた。痛みはなかった。軽く、ゴミでも掃くような動作だった。


 あのときなぜあの人に頭を叩かれたか、よく分からないまま、ゴリラは正門近くにある職員駐車場へと走って行った。


 しかしそれから5分とせずに、彼女はグラウンドに平然と戻ってきたのだ。


 僕が「君のせいで先生に叩かれた」と言ったら、「ごめんね。お詫びに木登り教えてあげるから」と言われたので、手打ちにすることにしたのだ。彼女はなぜか薄く微笑んでいた。


「用事はいいの?」

「うん、もういいって」


 僕らの前に聳え立つモッコクの木はちょうど子ども二人分縦に並べたくらいのところで枝分かれしていた。肉厚の葉っぱは光沢をもっていた。七月ごろにはクリーム色の花がつけると、図鑑か何かで読んだことがあったが、その日はまだ咲いていなかった。


 彼女はさっそく木の幹に手をかけた。

「とりあえず、わたしが登ってみるから。ちゃんと見ててね」


 矢田塔子が触った幹は、緑色の薄い苔に覆われていた。滑りやすそうな幹に彼女は足を置くと、腕を木に回して蹴り上げた。落ちないようしっかりと腕に力をこめているが、蹴り上げるときは腕を離して跳んで登っていた。あっという間にしっかりとした枝に足をかけて、ぶら下がる。


 木登りというよりも木の上を垂直に走っているように見えた。

「わははっ」

 彼女は上機嫌に笑った。

「山羊みたいだね」

 僕がそれとなしに呟くと、逆さの矢田塔子はキョトンとした顔で僕を見下ろしていた。

「ヤギ? サルじゃなくて?」

確かに君のことを猿女だと言う男子もいたけど。


 そして彼女はおおかた、「ヤギは木なんて登れないじゃん」と言うのではないかと思ったら、本当にそう言われた。


「知らないの? モロッコの山羊は、木登りするんだよ」

 ちょっと前、父さんに買ってもらった写真集の中に、アルガンツリーという木に登る山羊の群れを見た。


「うそ。だって羊って草食べておけばいいだけじゃん」

「そんな知識だけじゃ、君が来年の飼育委員長に選ばれたとき後悔するよ」


 学校の飼育小屋には小さな山羊が一匹と、鶏が五匹いる。ちなみに矢田さんは飼育委員だった。


「モロッコはサハラ砂漠地帯だからね。草もあんまり生えてないんだ」

「ふーん……。写真とか持ってないの?」

 ポケットに入ってた二つ折りの携帯電話を取り出して『モロッコ 山羊 木登り』で検索をかけるとたくさんの写真が出てきた。アルガンツリーは地面の根っこに近いところから大きく枝分かれしていて、その枝の先に山羊が器用に立っている。黒の山羊が三、白が二、茶色が三。一番高い枝に立って得意げに他の山羊を見下ろしているのは白色の山羊だ。


 わたしも見たい! と、木から跳び下りた矢田に携帯電話がかすめ取られる。


「矢田は木登りよりも、すり師の才能があるとみた」

「そう? これで食べていけるならそれでいいかも」

「怖いなぁ」

「そうよ。女って怖いんだから」

 矢田は木を登ったときとは別の顔で、ふふっと笑った。


 しばらく山羊が木を登っている写真をみて、ふと何かに気づいたみたいに彼女はぽろっと漏らした。


「短冊みたいだね」

 え? と、僕は彼女に聞き返す。

「いろんな色の山羊をさ、木に引っ掛けてるみたいにみえるから」


 今日が七夕ということもあってか、言われてみればそう見えないこともなかった。

 山羊は神聖な生き物だというのをどこかで読んだことがあった。ネパールだったかな。そう言われている生き物が、木に登るのだから、何か特別な意味があるのではないかと思えてしまう。


 僕らはとうに木登りの練習のことなど忘れてしまっていて、もっと大切なものを探そうとしていた。


「じゃあ、七夕祭りをしよう」


 驚いたような、からかうような、彼女はどっちともとれる顔をしていた。夕日が山に落ちてしまいそうなくらい傾いていて、西日で彼女の表情がよく見えた。


「二人で?」

「二人で」

「でも、短冊とかないよ」


 彼女は何ももってませんよとポケットを叩いて合図する。僕だってペン一つもってない。

「でも山羊はいるから大丈夫だよ」


 僕は真っ直ぐに見つめた、彼女を。矢田も理解したのかケラケラ笑った。


「わたし?」

「山羊は『メェ』としか鳴かないよ」

「メェ」

 彼女には一番大きくて、高い木に登ってもらうことにした。僕らはそれを学校のプール側にある大きな桜の木に決めた。


 矢田塔子は少しだけ「笹じゃないけどいいのかな」と心配していたから「そういう年もあるよ」と僕も自分に言い聞かせるように話した。


 お目当ての桜の木は、学校の並木通りにあるものとは違ってずいぶん大きかった。子どもが抱きついても両手が届かないほど幹は太い。花はもうすっかり落ちて、深い緑が雲のように濃く、広く、伸びていた。見上げると足元から「ぐわん」と吸い込まれそうな眩暈に襲われた。


「お願いは決めたの?」

 矢田塔子は僕に尋ねたから、思わず口を開こうとしたら「やっぱり、やめとく」と返された。

「自分の願いは、自分で届けるべきだよ」

 羊が一匹じゃ、寂しいし。短冊一枚でも、やっぱり寂しいからね。と、最後に付け足した。


 僕は一番痛いところを突かれた気分になって、何も言えないでいた。こんな大きな木に、自分が登れるとは到底考えられなかった。あんなに綺麗に登って見せるから、まるで自分ができるやつになれたかのような勘違いをしてしまった。


 矢田塔子は先に行くねとでも言いたげに桜の木へ蝉みたいに抱きつくと、しばらくじっと動かなかった。


「木とね、一緒になるの。わたしが木になったら、登るも下るもなくなるの。空に伸びる枝も、地面に張る根っこも同じ木なんだから」


 彼女がとても丁寧に、言葉を選んでくれているのが伝わって、僕は思わず聞き入ってしまった。


「わたしね、木になりたかったの」

 少女の言葉が胸の底へ、水滴のように落ちていく。

「メェ」

 彼女は短く鳴くと、蹴り上げるように跳んで、幹をどんどん登って行った。その姿は、木の葉に隠れ、次第におぼろげになっていく。


 とうとう矢田の姿形が見えなくなったとき、僕はいくらか自分も登ってみようと思ったが、一メートルか、二メートルのところで、尻もちをついてしまう。


 彼女はもう木の天辺についただろうかと思って、おーい! と声をあげると「メェ」と帰って来た。あなたも早く来てよ、と。急かしているようだった。


 僕は何とか木を登ろうと四苦八苦しながらも抵抗した。しかし幹を掴もうとすれば指の皮が剥け、足をかけようとしても、ツルツルと靴底はすべるばかりで、気持ちは滅入ってきてしまった。


 もう完全に日は落ちて、辺りは真っ暗になった。見上げると、木の奥はひたすらに闇だった。何も見えない。僕はどこに登ろうとしているかわからなくなった。


「ねえ! もう帰ろう!」


 僕は彼女を呼んだが。何も返事がなかった。「メェ」とも返ってこないことに、僕は酷く恐ろしいことが起きてしまったのではないかと思って怖くなった。


 それから僕は彼女が木から降りてくるのを待っていたが、一向に彼女が下りてくることはなく、何度叫んでも彼女の返事はなかった。


 矢田塔子を待つ僕はいろいろなことを考えた。彼女は一人で帰ってしまったんじゃないかとか、僕はもともと一人で練習をしていたんじゃないかとか。


 僕はあらゆることに納得できなかった。それでも何かを押し殺し、後ろ髪を引かれる思いで、その日は家に帰るほかなかった。


 次の日の朝になっても矢田塔子は学校に来ていなかった。


 どうしてか、朝の出席確認で彼女の名前を呼ばれることがなくなり、彼女の机が教室からなくなっていた。僕の出席番号が、一つ繰り上がっていた。彼女は僕に決定的な秘密を明かさないまま僕の元を去った。


 しかし僕は誰にも、矢田塔子の行方を尋ねなかった。


 矢田塔子の秘密を知らない僕が見る世界と、もう一つ、その秘密を明らかにできた世界がどこかにあるのだろうかと考えていた。矢田塔子がカンニングをしたと嘘を吐いたとき、「おとうさん」のところに遊びに帰ったとき、気付かなっただけで、僕にはあちらの世界に行くための切符があったのではないかと考えてしまう。


 矢田塔子がいなくなった翌日はプール開きの日だった。僕は先生に身体が冷えたと嘘をついて、少しだけあの桜の木のところまで走った。


 走ったまま、僕はそのまま桜の木に跳びついて、彼女のように木の幹を蹴り上がった。コケるかと思ったが、まるで誰かが足元を支えてくれるような安心感があった。


 僕は気づくと木のてっぺんから顔を出していた。きらきらと光るプールにたくさんの小人が見えた。先生もクラスメイトも等しく小人に見えた。木の上には、何の秘密もなかった。苦しみもなかった。青々とした空だけが針のない羅針盤のように浮いていた。


 人って、あんなに小さいんだ。僕も君にとってはあんなに小さな一つでしかないのに、ちゃんと戻ってきてくれた。同じ世界を見せてくれた優しさに、どう向き合っていいのか分からないまま、涙が頬を伝う。


「わははっ」


 良い景色でしょって言いたげに、彼女の笑い声が、遠くから聞こえた。


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