『ひみつ』 明日また、近鉄奈良駅で会いましょう

粘菌

明日また、近鉄奈良駅で会いましょう

 学生時代に通った喫茶店と同じ名前の店。その扉をくぐると、昔見たマスターがいた。

 マスターはカジュアルなネルシャツを着て、昔から変わらない人の良さそうな笑顔を浮かべていた。私は、その笑顔がたまらなく好きだった。

 大和西大寺にあったその喫茶店は、近鉄奈良に移転していた。最近、そんな話を聞いた私は、いてもたってもおられずに、奈良に帰ったついでに昔の友人を呼び出してお参りしたというわけだ。


「よう」


 私の大事な、数少ない友人、修梧は先に来ていた。

 ああ、全く変わらない笑顔。

 でも、その首筋にすこし年齢を感じる。


「待った?」

「いや? そんなに待ってないよ」


 修梧のコーヒーカップは空いていた。

 カップの底も乾いている。

 私は気づかないふりをして周りを見回した。


「うわぁ、ちょっと雰囲気変わったけど……なんていうか、煦露粉くろこだよね……! 何にしようかな」

「っていっても、どうせブレンドでしょ」

「うん」

「マスター、ブレンド2つ」

「あ、それとチビドッグ」

「残念、俺も食べたくて、チビドッグ探したけど、無くなってたよ」


 修梧がメニューをとんとんとやった。


 残念だ。久しぶりに食べたかったけど、まぁしょうがないか、サービスメニューだったし。

 

 マスターがにこにこしながら2杯分の豆を計量し、ミルに入れる。


「ふふ」

「……いいよな」

「うん。……マスターのあの顔、見れてほんとに嬉しい」

「だな」


 10年以上前と全く変わらないのはずるいと思う。普通の人間は……私は、もうだいぶんに変わってしまったのに。


「めぐみが誘ってくれてよかったよ」

「フフ、この時期に奈良に帰ってるなんて、修ぐらいしか思いつかなかったし」

「よく分かったよなぁ」

「『@mold_kappaモルド、カッパ』」

「え?」

「アカウント」

「マジで? アカウントバレてんの?」

「フフ、マジマジ」

「えっ、じゃあフォロワーにめぐさんおるってこと」

「さあて、それはどうでしょうか」

「うーわ、マジできっしょ。昔から変わらんな……」


 関西弁の出てきた友人を見ながら笑う。

 ネルドリップでコーヒーを入れるマスターをふたりで見つめる。

 懐かしい、時間。


「いいねぇ」

「うん」


 コーヒーが落ちるのを待つマスターの顔。

 暖色系の照明。

 昔と全然違うのに。

 違うのに、違うのに。

 何か、上手く言葉にできない雰囲気みたいに何かが、今も、全然変わっていないのだ。


「……どうなの、最近。仕事とか」

「どうって、あんまり変わらないよ」

「どこだったっけ」

「変わってないよ! 横浜の社協」

「あー。めぐさんらしいよね、って昔思ったな」


 私らしいってどういうこと? 私、それっぽいオーラ出てるの?

 

「……いま産後さんのフォローとかやってる。楽しいよ」

「へぇ。時代よね」

「修梧は?」

「俺もあんまり変わんねぇよ。MRは転勤多くてさー。今は彦根だよ」

「仕事始めた時期は東京で何回か会ってたのにねー」

「……転勤族はこうして友人を失っていくのだ!」


 話している間に、すっとコーヒーが差し出された。

 

「ブレンド、です。こちらお下げしましょう」

 

 マスターの声のトーン、とても良い。変わってない。

 たまんないな。

 待ちきれなくて、コーヒーに口をつける。


「……うま!」


「せやろ!」

「フフ、修ちゃん、関西弁出てるよ」

「……しゃあないやん。めぐさんといてるねんから」

「私もそうしよーっと」


 半分ぐらい残し、ふぅーっと伸びをする。


「……」


 視線を感じる。


「いま、ちょっといやらしい目で見たやろ?」

「いやまぁ綺麗になったなぁ、と思って」

「あらま、直接的」

「そら、そう思うやろ」

 修梧が少しもじもじしているのに気づいた。


「たばこ?」

「うん」

「まだ辞めてなかったん」

「いや……最近また吸い出してしまって」


 修梧が前髪を撫でた。

 私はこの癖を知っている。


「なんかあったんやろ」


 修梧が一瞬驚いたようにこっちを見た。

 

「なんでわかるんや」

「修ちゃんいっつもそうやん。フラれるたびにたばこ吸ってた」

「今回はフラれたわけやないんやけどなー」


 へらへらと笑う修梧は、やっぱり可愛い。


 白状しよう。


 私は、修梧が好きだった。

 小さめの身長、ほそい撫で肩。すらっとした首。

 なにより……


「いまのとこ、水に合わんねん」


 相手を選ぶほどの地頭の良さ。

 私は知っている。修梧が評価されにくい理由を。

 私は、ずっと……今も、修梧のことが好きだ。


「修ちゃんのええところは、三年は見とかないとわからんからなぁ」

「三年見といたらわかるもんなん?」

「修ちゃんなしでは回らなくなる」

「こわ……! 俺、麻薬やったんや……!」


 フフフ、と笑う。

 いろいろ話して笑っている間に、コーヒーを飲み切ったことに気づく。

 楽しい時間と会話の中に、いつのまにか溶けてしまったみたい。

 修梧も、カップの底を見ていた。


「無くなったな」

「うん」

「……おかわり、もらう?」

「いや、もういいよ」


 すみません、お勘定。そう言って、修梧が財布を出した。


「いいよ」


 そういって静止しようとする修梧。


「いや、昔からそうやけど、修ちゃんカッコつけすぎとちがう?」

「流石にこれぐらい払えるようになったしな」

「学生時代とは違います、ということやね」

「まぁそうです」


 お会計を済ませながら。


「私、どれぐらい修ちゃんに出してもらったんやろな」

「知らんけど」

「フフ、いろいろ行ったやん。付き合ってもないのに」

「せやな」


 有馬温泉、神戸花鳥園、奈良と京都は数えきれない。修ちゃんは一回も出させてくれなかった。

 外に出ると、昼から夕方に変わる瞬間の斜陽が花芝商店街を微妙な色合いに染めていた。


「なぁ」

「何?」


「さっきの。どんだけ、とか、さ」

「うん」


 ピン、と空気が変わった。

 それに気づかないほど、鈍感な女はやってないつもりだ。


「めぐさん、返してくれようとか、思ってるん?」

「……まぁ、返せるもんであれば、返すよ。何がいい?」

「ほんなら……さ」


 屈託のない……というか、無理やり自分から年輪と屈託を取り払ったような、笑顔を貼り付けた修梧は、とても可愛かった。


「俺と、付き合ってくれへん?」


 16年、言うの遅かったけどな、という修梧の唇は、少し震えていた気がする。

 

「えっ……、あっ、あー、えー……」

 

 びっくりして、言葉に詰まった。

 何かが喉に引っかかって、出てこない。


 修梧の、目。

 すこし茶色い黒目、その色。


 私は、不覚にも泣いてしまっていたようだ。

 修梧から渡されたハンカチで気づき、はっとして、目尻をとんとんと押さえた。


「……」


 修梧の視線が外れたのを感じる。


「……言うの、ほんまに、遅いねん」

「えっ、それは、どういう……」

「修ちゃん、あたしな。子供いるねん」


「えっ」


「今な、般若寺のお母ちゃんとこに預けてる。もう、中学生やねん」

「ええ!? なんや、めぐさん結婚してたん!?」


 フフ、少し笑ってしまうのを抑える。

 

「いいや、してへんよ。旦那はおらへん。結局、籍も入れへんかったんや」

「おッ前ェ……! 何してんねん……! とは、俺、よう言えへんわなぁ……うぁぁ……」

「修ちゃん、東京あっちおらんかったんやもん」

「せやけど……せやけど!」


 言いながらくずおれる修梧。

 店の前、はばかりもせずにしゃがみ込んだ彼の顔は見えないけど、きっと泣いてくれていたと思う。


「ええねん。ええねんて。私も納得ずくやから」

「……」


 修梧の華奢な肩に手を置き、抱いて起こす。


「せやけどさぁ」

「もう、何も言わんといて」


 子供が待ってるから、そう言って近鉄奈良駅に向かって歩き出す。

 パチンコ屋を過ぎ、大通りに出たところで思い出した。


「あ、私、柿の葉寿司買ってきてって言われてたんや」

「田中のやつ?」

「いや、平宗」

「ああ、ほんなら猿沢池んとこか」

「うん。一緒に行く?」

「うん……いや、いいわ。そんな気分になれへん。どっかで酒飲みたいし、たばこ吸いたいわ」

「フフ」

「何笑っとんねん」

「可愛いなあって」

「……うるさいわ」


 ぷいっとふくれて横を向く修梧。

 交差点、横断歩道の音がした。


「それじゃ、行くね」

「……うん」

「ばいばい」


 手を振って、行基前のほうに渡っていく。その途中、ちょうど真ん中あたりで、後ろから大きな声がした。


「めぐみーーー!!!! 俺、子供おってもかまへんから!!! ずっと、お前のこと好きやから!!! 考えといてくれよーーー!!!」


 一瞬びっくりした。

 けど、どこか修ちゃんらしい。そう思って、私は振り向いて、手を振りかえした――信号機が点滅し出した横断歩道に少し焦らされながら。


 少し、火照りをおさめるように歩く。

 もちいどのを過ぎ、油取り紙の店。

 修ちゃんと一緒によく来たたこ焼き大松。

 

 フフ。歩きながら笑ってしまう。

 ここのたこ焼き、うちの娘も好きなんだけど。

 やっぱり、血なのかもしれない。

 

 修ちゃん、あなたはたぶん覚えていない。12年前のこと。あなたが私を抱いたこと。

 私は、怖くてあなたに言わなかった。

 だから、逃げた。すっと逃げた。

 そのあと、妊娠がわかった時も。

 私は逃げた。ひとりで産む決心をした。

 私は、この話を誰にもしたことがない。それこそ、母にだって言っていない。


 後悔はしてる。でも、それも、まぁ、しょうがないのだ。


「ふぅ」


 猿沢池を抜けるあたりで、松の香りと、亀の匂いが混じったような匂いが鼻に抜けた。その時に、ふと思った。もしかしたら、いい頃合いかもしれない。私は、電話をかけた。


「もしもし。ああ、わたし、私。お母さん? うん、まだ近鉄奈良よ。そろそろ帰る。平宗買って帰るね。それで、結子、いる? 代わってくれない」


 たぶんiPadで絵を描いてるんだと思う。遅い。受話器から娘の声が聞こえるのを待ちながら、話をどうやって切り出すもんかな、と、今更ながらに思案した。


【了】

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