乞食の歌
1
十一月八日水曜日
〇七四五時始業。晴レ。摂氏三度。夜勤カラ仮眠ノ後、出勤。
小説家グラシア(苗字忘レル)自宅ニテ刺殺体デ見ツカル。住所 四番街八ブロック。〇五〇三時ニ家政婦ヨリ通報。
第三分署ニ捜査本部発足。捜査責任者 氏名忘レル。
本部カラノ応援要請ハ無シ。
一三〇〇時市内巡回
*
「グラシアが……」
ララは青ざめて呟いた。玄関で刑事を前にしたまま、一瞬、呆然としてしまった。だが、すぐに我に返って「ごめんなさい、あまりの突然のことで……。でも、あなたたちも私たちの関係のことは知っているんでしょう?」と、ララは目の前の刑事に語りかけた。
「ええ、あなた方が特別親しかったことも。それから、昨夜、会っていたことも」
ララとグラシアは、女声歌手に女流作家と、生きる世界は違うが、社交界で出会ってからというもの、親しくしていた。付き合っていた時もあったが、数ヶ月前に別れてしまっていた。だが、それからも友達付き合いは続けていたのだった。そして、昨夜も会っていた。それは、グラシアの家の家政婦も知っている。家政婦が刑事に話したのだろう。
「昨夜は、何時頃に彼女と会っていましたか?」と、刑事が訊いた。
「昨日は練習が終わってから、彼女の家に夕飯を食べに行っていたから、七時くらいには行っていたかしらね。あの家を出た時刻は正確には覚えていないけれど、日付が変わる前には出たはずよ。馬車を呼んだからね」
「家政婦は先に帰っていたんですよね?」
「ええ、そう。確かに、あの夜、グラシアと最後に会っていたのは私よ」
「なるほど、分かりました。ちなみに、昨日はどんな話しを?」
「日々のこととか、社交界のスキャンダラスな与太話……とか。別に事件に関係ありそうなことなんて話してないわよ。あそこの家政婦も一部は盗み聞きしていただろうし」
「分かりました。また、お話しを伺いに来るかもしれませんので、その時はどうぞよろしく――」刑事は去ろうとしたが、ララは呼び止めた。「ねえ、グラシアは、何で死んだの? 自殺? 他殺? どういう状況で――」
「今はまだ、何も話せませんので」刑事はそっけなく答え、足早に去っていった。
ララは扉を閉めて、室内に戻った。背中を丸め、しばし考え事をしていたララに、金髪をひっつめ髪にした女が、少し困った眼をしながら小さく声をかけた。
「大丈夫ですか?」その言葉にララは、ハッと我に帰った。
「グラシアが、死んだらしいの」その言葉に、女は小さな悲鳴を上げた。続けてララは告げた。
「死因はまだ分からないけれど、多分、もうすぐ報道されるはずよ。マリー、夕刊が出る頃になったら買ってきてちょうだい」そのララの言葉に、マリーと呼ばれた女は、分かりましたと返事をし、それ以上のことは聴かなかった。ララ自身も、警察から詳しいことは聞かされていないだろうと悟ったからだ。
マリーは、この家にただ一人勤めている家政婦だ。やや幼い顔立ちをしているが、ララとは子供の頃からの仲であり、歳もほぼ一緒だ。自由奔放であけすけなララとは対照的に、マリーは控えめでおとなしい。普段から余計なことは何も言わず、ただひたすら家の中のことを済ませるだけだ。
*
「有名女流作家殺害、か。なあ、シーグ、この作家知ってるか?」ルートは夕刊をシーグラムに投げた。
二人は、ジャーム国リツィヒ市より五リーグほど離れた山でキャンプしていた。日も暮れ、焚き火が煌々としている。
「作家の名前は、グラシア、というのか。いや、知らないな」シーグラムは答えた。
「でも、お前、よく本読んでたんだろ?」
「あの寝床にあった本の山のことを言っているのであれば、それは違う。あれは何十年も前に友人からもらった物だ。このグラシアという作家は、まだ三十代だったらしい。そんなに新しい作家は私も知らん」
「ふーん。しっかし、リツィヒって、前も何か殺人事件無かったか?」
「ああ、そのことについて、この記事に書かれているな。六月にプライスラーという指揮者が殺害され、九月にはアントニオというテノール歌手が殺されているらしい」
「九月っていやぁ、俺たちがララを誘拐した頃か」
「あの誘拐の少し前のことらしいな。……ふむ、今回亡くなった作家も含めると、この三人はララと関わりが深かったということだ」
「指揮者と歌手は分かるが、作家はどういう繋がりだよ」
「有名歌手と有名作家だ。社交界で繋がったのだろう。それに、二人は特別親しかったらしい」
「ふーん。……ってことは、ララの奴、ちょっとまずいんじゃないか?」ルートのその言葉に、シーグラムは記事を読みながら答えた。
「警察は機密情報の漏洩防止のために捜査方針を明かさないらしいが、この記事を書いた記者は、明らかにララを疑っているな。プライスラーはララを愛人として囲っていたという噂があったということだし、アントニオはララにしつこく言い寄っていたらしい。それに、グラシアとララは付き合っていたことがあったらしいが、数ヶ月前に破局……と」
「まるで絵に描いたようなスキャンダルだな」ルートは、焚き火で暖めていたパンを取り上げ、ハムとチーズを挟み、口に運んだ。
「なんだ、心配ではないのか? 薄情な奴め」と、シーグラムは言った。
「別にそういうわけじゃあないが、あいつだったら、そういうスキャンダル、日常茶飯事だろ? なんとかうまくやるんじゃねえか?」
「これで引退なぞに追い込まれなければいいがな……」と、シーグラムは嘆息した。
*
ララの自宅には、連日、記者が訪ねてきた。プライスラーが殺された時も、アントニオが殺された時も、ララは注目の的になったが、今回はその比ではない。グラシアはララと深い関係にあり、しかも生前最後に会っていたのはララだ。世間のララに対する印象は悪くなる一方だった。
そんな折、ララを訪ねてきた人物がいた。作曲家のベルクだ。六〇代の男で、ララが学生の頃から目をかけてくれていた人物だ。ララが彼の曲を歌ったことも数多くあった。
ベルクが家を訪問すると、まずはマリーが迎えた。「ララは在宅しているかね?」と、ベルクは尋ねた。「ベルク先生、彼女は今、自室で休んでいます。先生にいらっしゃっていただけて良かったです」と、マリーは安堵の表情を浮かべて彼を自宅へ招いた。
「ベルク先生、ごきげんよう。お会いできて嬉しいですわ」ララはリビングで待っていたベルクに挨拶した。互いの無事な様子を窺えて安心したのか、二人は自然に抱き合い片頬にキスをした。
「いや、思ったよりも元気そうで良かった。だがしかし、少々やつれたかね?」と、ベルクは言った。
「グラシアとはそれなりに仲良くしていましたからね……。それに、あの後、殺されただなんて……」
「親しい友人が殺されたのだから、当然だろう。それに、プライスラーやアントニオのこともある。まずはゆっくり精神を休めるといい」
「はい……。友人や先生方にも、同じようなことを言われました」
「マスコミ対策の方は大丈夫かね? さっきも道中で、君のことを聞かれたよ。まあ、何も答えなかったがね」
「マリーが家にいれないようにしてくれていますから。それに、警察も見かねたのか、巡査が定期的に巡回しています。それでも、私はあまり外に出れないんですけどね。ところで、今日いらっしゃったのは、今度の公演のことですか?」
「ああ、あれなんだがな、もし君の体調がすぐれないようであれば、無理せずとも構わない、と思ってね――」ベルクがそう言いかけたところで、ララは語気を強めて言った。
「私が出演できなければ、代役を立てるということでしょう? それは絶対に嫌ですわ。先生の新作を一番に歌うのは私ですもの。私は何も問題ありません。いえ、むしろ喉の調子は絶好調ですわ。ぜひ、お聴きになっていってください」ララは自身ありげに妖しく笑った。ベルクは、その表情を何度か見たことがある。ララはかなりの自信家であり、そして、逆境に立たされた時ほど真価を発揮するタイプだ。
二人は練習室に移り、ベルクがピアノで伴奏しながら、ララは歌った。曲は調性がなく、音程の跳躍も激しく、常に音がめまぐるしく動き回る。しかし、ララは正確に、それも指定のテンポよりも早く、そしてハイトーンも余裕の表情で出しながら歌った。ララの顔はいつもより赤みを帯びており興奮しているようだ。確かに、ララの激しい性格ならば、今の状況を楽しんでいる可能性もあると、ベルクは思った。公演に関しては何も問題は無さそうだ。だが、彼女がこの先どうなってしまうのか、彼は一抹の不安を覚えた。
*
ルートは、夜のリツィヒの街を一人で歩いていた。先日、ララの殺人容疑についてシーグラムと話していた時に、彼から「彼女のことが心配だから見てこい」と言われてしまった。ルートは、別に大丈夫だろ、と最初は相手にしていなかったが、結局、シーグラムのしつこさに根負けして、こうして街までやってきたのだ。
ララの住所は、故買屋のピルツェルから教えてもらった。彼女は住所を公表しているわけではないが、有名人のため、知らず知らずの間に割れてしまうのだ。
高級住宅街の入り口に差し掛かったところで、ルートは自分の慧(けい)である影の紐を操って、手頃な屋敷の屋根に登った。みすぼらしい格好のルートは、この辺りだと目立つだけでなく、ララを追っているマスコミにも、注目されてしまう恐れがあった。ここいらは、広い庭を持つ屋敷が多いため、屋根伝いに渡っていくというのは難しかったが、大きな屋根と植えられた大木を利用して、ララの家の屋根まで辿り着いた。
と言っても、堂々と玄関を訪ねるわけにはいかないので、ルートは二階の窓を覗き込んだ。そこにララはいなかった。よくよく耳を澄ませてみると、下の方から歌声が聞こえてきた。ルートは地上に降り立ち、窓を覗いてみた。そこには歌の練習をしているララがいた。周りには誰にもおらず、一人で練習しているようだ。自分でピアノを弾いて、音程を合わせている。
ルートは窓を軽く叩き、ララを呼んだ。ララは険しい顔をして素早くこちらを振り向いたが、相手がルートだと分かると、すぐに柔和な笑みになり、窓を開けて彼を招き入れた。
「一体どうしたの? こんなところまで」
「シーグのおつかいさ」と言いながら、ルートは室内に入った。
「シーグの? どういうこと?」
「ここ最近、あんたの周りで変な事件が起きて、それで疑われてるだろ? あいつはそれを心配してんだ。ララは大丈夫か、ってな」
「ふふっ。嬉しいことね。ご覧の通り、平気よ。今度、コンサートだってやるの。そうそう、あなたにチケットをあげるわ。絶対来てね」と言って、ララは、ピアノの方へ向かった。
ルートがふと部屋の隅へ目を向けると、小さな機械人形がひっそりと椅子に腰掛けていた。その体は歯車で満ちていて、顔にはまん丸の眼球が嵌め込まれていた。まるで皮を剥がれた人間の様な相貌に、ルートはギョッとした。ピアノに置いていたチケットを取ってきたララは、そんな彼の様子を見て小さく笑った。「ああ、それね。ピエールが送ってきてくれたのよ。新しい人形を作ったってね」
「あいつが? こんな不気味なもん置いて、気味悪くないのか?」
「そう? 小さくて可愛らしいじゃない。それに、一人で練習することが多いから、これがいると寂しくないのよ」ララは満面の笑顔だ。
「お前の感性はよく分かんないな。こんなもんをありがたがるなんて……」
「ルート、自動で動く人形って見たことある? あれって、人形が独自に動いているように見せかけて、実は中で小人が動かしているらしいのよ」ララは唐突に語った。
「それがどうかしたのかよ?」
「この小さなお人形、それをよく表していると思わない? こんなに小さくて、歯車だらけ」ララの言葉に、ルートは要領を得なかった。ララは続けた。「この世の中の人間達は、みんな歯車みたいなものよ。皆、何かしらの役割があって、物語にカッチリはまるように演じている。そして、その物語には脚本家がいるんじゃないかって思うのよ。自動人形を操る小人のように————」ララの目線は人形に向きつつも、その向こう側を見つめているようだった。
「それじゃ、その小人の脚本家ってのは誰だ?」ルートは訊いた。
「さあね。神様じゃないかしら」ララはルートの方を向いて笑った。
「なんだよ、その言い方は。本当にお前の言うことってよく分かんないな……」
「そう思うってだけよ。別に根拠があるわけじゃないわ。はい、これ」と言いながら、ララはルートにチケットを渡した。
「シーグが嫉妬しそうだな」チケットを眺めながらルートは言った。
「あら、彼も来るなら、チケットを預けるわよ」
「ははっ。来れるわけないだろ。それにしても、やっぱり大丈夫そうだな。ま、俺は心配しなくても平気だって言ったんだけどな」
「あら、あなたは薄情なのね」
「シーグと同じことを言わないでくれよ」二人は笑い合った。
「そうそう、練習中だからお酒は無いけど……」
「別に飲もうと思ってきたわけじゃあないさ。顔だけ見たら帰るつもりだ」
「そんなこと言わないでよ。最近、外に出ることもないから、つまんなくてね」
「やっぱり、マスコミ連中に追われてるのか?」
「一応、巡査が目を光らせてるから、彼らも変なことはできないけどね。それでも、私の知り合いも質問攻めにされるから、みんな来たがらないのよ。だから、こうして練習してるしかないってわけ」
「退屈だな」ルートはその辺の机に浅く腰掛け、ララはピアノ椅子に座った。
「ええ、とってもね」
「ところで、一応訊いておくんだが、無実……なんだよな」
「あら、あなたはどう思う?」ララは不敵な笑みを浮かべた。
「おいおい、冗談はやめろよ。まあ、お前のことだから、殺人なんてバカなことはやらないと思ってるけどよ」
「ふふ、分からないわよ。もしかしたら、今話題になっている事件じゃなくて、他の誰かを殺しているかもしれないわよ――」
「お前のそういうところ、冗談か本気か分からないんだよな」
「ねえ、あなたはどうなの?」
「どうって?」
「人、殺したことあるの?」突然の質問に、ルートは一瞬思考を停止した。
「……さあ。意図的に殺したことはないけどな」
「じゃあ、意図せずして殺したことならあるの?」
「それも分からねぇ。前に、シーグと一緒に列車強盗とちょっとやり合ったんだけどな、走行中の列車から何人か投げ飛ばした。あいつらは死んだのか生きてるのか、どうなんだろうなぁ」ルートは数ヶ月前の出来事に思いを巡らせた。
「ふふっ。やっぱり、あなたたちおもしろいことしているわね。でもね、分かるわよ。あなた、私たちと同じ匂いがするもの」ルートはララの妙な言い方が気になった。だが、その時、誰かがノックして部屋に入ってきた。
「ララ、お湯が沸きまし……キャッ!」と、部屋に入って来た女はルートを見て悲鳴を上げた。すぐにララが説明した。
「マリー、心配しなくていいわ。彼は友人のルートよ。私を心配して見に来てくれたの。ほら、玄関から入るとマスコミがうるさいから」
「え……友人? そ、そうなんですか?」マリーはララとルートを交互に見やっている。
「ええ、そうよ。ルート、彼女はマリー。私の家のことを住み込みでやってもらっているの」
「悪いな、驚かせて。俺はもう帰るよ」ルートはマリーにそう挨拶すると、さっさと窓から出た。
「お茶でも飲んで行けば?」ララの声が追いかけてきた。
「悪いけど、茶の気分じゃないんだ」と、ルートは返して、その場を後にした。彼は、なるべく人目の無い暗がりを選んで帰っていった。ララが言いかけていたことを考えてようと思ったが、すぐにやめた。
2
十一月十一日土曜日
〇七四五時始業。雨。摂氏一度。手足ガヒドク冷エル。モウ冬ノヨウダ。
ライナー巡査ト交代。昨夜ハ特ニ異常ナシ。
一五三〇時。ケイシーノ酒場デ暴力事件発生。客ト客ガ口論ニナッタ模様。止メニ入ルモ、右頬ヲ殴ラレ負傷。ホフマン巡査ト取リ押サエル。聞キ取リ後、重大ナ事件性ハ無イモノトシテ釈放。
ヴォイツは、ここまで書いたところで筆を置いた。もうすぐ終業の時間だ。また右頬がヒリヒリしてきたため、氷嚢を当てた。隣で暇を持て余していたホフマンが声をかけた。「まだ痛むのか?」
「うん。でも、明日には引いていると思う」ヴォイツは答えた。
「ヴォイツ、お前は警官にしちゃ、気が弱すぎるんだよ。舐められないように威圧していかなきゃ」
「うん、分かってるけど」
「そんなんで、よく警官になれたよな。って、これ、前も話したか?」
「元々、内勤での採用だったんだ。でも、人手が足りないからって交番勤務にさせられて……。僕、体大きいし、元々軍官志望だったから……」ヴォイツは続きの言葉を言わなかった。
「なんだって、もっと向かない軍人なんか志望してたんだ?」
「父が厳しい軍人だった。だから、長男の僕はそれを継げって。僕なんかより弟の方が向いていたのに……」ヴォイツは遠い目をしながら、太い指でペンを所在なげに回し始めた。あまり思い出したくない記憶らしい。
「意外と大変だったんだな。お前の家は。ほら、もうすぐ終業時刻だぞ。日報、全部書いちまえよ」
「うん、そうだね。今日は早く帰らなきゃ」と言って、ヴォイツは日報に、
ソノ他、異常無シ。一七〇〇時、終業。
と、書き足し、日報を閉じた。
「今日は、ララのコンサートを聴きに行くんだ。だから、早く帰らなくちゃ」ヴォイツは独り言のように呟きながら立ち上がり、帰り支度をした。
「あの、お騒がせ歌手か……。お前がオペラを聴くだなんて意外だな」と、ホフマンは返した。
「僕も、音楽には興味なかったけど、以前、ララを助けたことがあるんだ」
「ほう?」ホフマンは目を見開いた。
「ずっと前、深夜の巡回中、ララと男の人が言い争っていたんだ。そしたらララが殴られて、それで助けたんだ。相手は僕が巡査だって分かると、すぐに逃げていった。彼女からは事件にしないでくれって言われたから、どこにも誰にも言わなかったけど……」
「それで惚れちまったのか? 彼女、美人だからなぁ」
「そういうわけじゃないけど、彼女を家まで送っていったら、コンサートのチケットをくれたんだ。それで、お礼を言われた。「あなたがいなかったら終わってた」って」
「それ以来、彼女に夢中ってわけか」
「音楽のことはよく分かんないけど、彼女の歌はすごい。本当に。あれは一回聴きにいくべきだよ」
「警察なんて仕事やってなけりゃあな」
音楽には全く興味の無さそうな同僚を無視して、ヴォイツは交番を後にした。
*
今 日々はこの世界を駆け抜けている
青き永遠より送られ
夏の風の中で時は過ぎて行く
今 主は夜ごとに編んでおられる
その御手で 花冠を
楽園に想いを馳せながら
おお 心よ この日々に何ができるというのか
お前の陽気なさすらいの歌で
お前の深い、深い欲望からくる歌で
草原の歌の中で この胸は沈黙する
今 言葉は黙し、次から次へと絵が現れる
お前を引き寄せ、塗りつぶし、満たすだろう
ララが出せる最高音が舞台の天井まで突き抜けた。それは、人が認知できる最高の高さの人声だったのかもしれない。そして、甲高い歌声を響かせたかと思ったら、今度は、一気に下行し、あたかも恨みのこもったような、うねる旋律を歌った。ピアノのフレーズも激しさを増し、ピアノの半音単位でうねるフレーズと、ララの高音と低音を行ったり来たりする起伏の激しいフレーズが絡まり合い、全ての聴衆の注意を惹きつけていた。
ルートには、またあの白い炎が見えていた。ララを包み込むように燃え上がる白い炎だ。他の者には見えていないのだろうか。もし見えていたら、今頃大騒ぎだ。彼には、あれがララの「慧(けい)」なのだと分かった。だが、ララは、自分が慧を持っていると自覚していないのだろうか。
ルートの慧は他者にも見える。だからこそ、不思議がられることも多かった。先日、ビャスクで遭遇した、我を忘れた僧の慧は、あれは他者にも見える、といっていいのだろうか。だが、周りに実害を加えた。今、目の前で燃え広がっているララの白い炎は、誰も傷つけていない。もしかしたら、慧は自分が持っているということを自覚していないと、周りにも認識されないのだろうか。またあのボーティという僧に会ったら訊かなければいけない。ララの歌には、素人であるルートの心すらも動かすほど凄まじかったが、やはり彼は慧の方に目がいってしまい、余計なことばかり考えていた。
彼女があの慧に飲み込まれるとしたら、炎に包まれて焼け死んでしまうのだろうか。なぜ、あの炎は白いのだろうか。いや、もしかしたら自分が勝手に炎だと思い込んでいるだけで、全く別物なのだろうか。なぜ、白なのだろうか。もし、彼女が炎に巻かれてしまうようなことがあれば、自分の場合は影の紐に絞め殺されるのだろうか、などなど。気になってしまったからにはしょうがない。
そんなことを考えているうちに、コンサートは幕を閉じた。ルートは、カーテンコールも待たずに会場を後にした。
コンサートホールを出ると、妙な客に出会った。その男は背が曲がっており、あばた面を燻んだベージュのフードで隠している。
「ひひっ。優雅にコンサート鑑賞とは、ルートの坊やも偉くなったもんだね、ひひひっ」と、その男は卑屈な笑みを浮かべた。
「お前はいつも嫌なことしか言わないな。ディック」ディックと呼ばれた乞食は、ルートの嫌味にも、ひひひっと笑うばかりだ。
「こんなところで、お前と話すのはなんだ」と、言って、ルートは歩き出した。それにディックもついてくる。
「なあ、坊や、そんなに金持ちになったんなら、あたしにもめぐんでくれよ、ほら」と、ディックが小鉢を差し出してきた。
「金持ちになったわけじゃない。今日のコンサートの主役からチケットをもらったんだ」
「ああ、この間お前らが誘拐した歌手だろう?なかなか楽しそうなことをやってくれるじゃないか。身代金でたんまり稼いだんじゃないのか? なあ」
ディックはシーグラムのことを知っている。ルートがディックと知り合った頃、シーグラムのことは秘密にしていたのだが、ディックは、ルートとシーグラムが一緒にいるところを目撃し、密猟者に告げ口したのだ。もちろん、密猟者がドラゴンを捉えることには失敗したのだが、それ以降、ディックとは妙な縁ができてしまっている。
「あの誘拐は、シーグが一目話題の歌手に会いたいからって、やったことだ。金はとってない」と、ルートは返した。
「金にがめつい坊やがそんなことするなんてねぇ。よっぽどあのドラゴンが好きと見た」
「あいつには借りがたくさんあるし、喧嘩になったら勝てないからな、言うことを聞くしかないのさ」ルートのその返答に、ふーん、とディックは不服そうに相槌を打った。
「それよりも、俺になんか用かよ」裏路地に入ったところで、ルートはディックに向き直った。
「いえね、坊やたちが誘拐した有名歌手が、いまや大スキャンダル。坊やも何かおもしろいことに巻き込まれてるんじゃないかと思ってね」ディックはフードの下からいびつな歯を見せた。
「それで、俺の困った顔を見に来たってわけか。あいにく、俺は全く関係ないよ。大体、こんな事件、ゆすりのネタにもならないだろう? 何を狙ってんだ?」
「いえね、実は、あたし、見ちまったんだよ。殺人の現場を……」ディックのその言葉にルートは眉をひそめた。
「おい、それは本当か?」
「一応あたしも、こういうのを食い扶持にしてるんでね。嘘なんて言わないよ」
「詳しく聞かせろ」と、ルートが言うと、ディックは小鉢を差し出してきた。情報料を寄越せということらしい。ルートは仕方なくいくらか支払った。
「へへっ。いえね、実を言うと、あたしは犯人の顔までは見てないんですがね……」
「おい!」ルートはディックの胸ぐらをつかんだ。
「いやいやいや、最後まで聞いてくれよ。あたしが見たのは数ヶ月前の、男の歌手が殺された時のことさ。あれは夜明け直前のことさ。大柄な男が死体をラプイセ川に運んでいるのを見たんでさ。さすがに近づいては見れなかったがね」胸ぐらを掴まれながらもディックはまだ笑っている。
「確か、歌手の死体は川を流れて来たのが見つかったんだよな。つまり、上流ってことか?」ルートは少し手を緩めた。
「ああ、そうだよ。三番街の北の方さ」
「まあ、少なくとも、犯人は男ってことか」ルートは手を離した。
「分からんよ。もしかしたら、殺した奴と運んだ奴は別人かもしれない」
「だったら、二人で運んでるだろ」
「いいや、殺したのが女だったら、さ」女が恋人にやらせたという可能性もあるだろ、と言うふうに、ニヤリとディックは笑った。ディックはララを犯人だと思っている。いや、そう仕立てようとしている風にも見える。
「お前、このこと、他のやつにも話したか?」
「いいや。お前さんが初めてだよ」
「なんで、俺に話そうと思った」
「その方がおもしろいからさ」そう言うと、ディックは路地の奥へ進み、宵闇に紛れて消えてしまった。ルートは宿に戻った。三番街を調べてみたかったが、こんな夜遅くにみすぼらしい男が歩いていても怪しまれるだけだった。
*
翌日、ルートは三番街に来ていた。ディックに言われたことが気になったのだ。だが、事件が起こったのは二ヶ月も前のことだ。今は規制も解かれて、普通に人が行き来している。別の場所で殺されて運ばれたのならば、ラプイセ川の周辺を調べても意味は無いだろう。
気になったのは、こことララの家の位置関係だ。ララの家は四番街にある。そう遠くはない。だが、三番街も四番街も住宅街だ。いくら深夜とはいえ、目撃されるリスクが大きすぎる。ラプイセ川から四番街へ向かう最短の道のりを歩きながら、ルートは考えた。ララの自宅などではなく、他の場所で殺されたのであれば、ルートには想像もつかない。
例の事件の被害者、アントニオはララと同じく歌手だ。ララと仕事をすることも多く、関係が噂されることも多かった。だが、実際は、アントニオは執拗にララに言い寄っていたが、ララは全く相手にしなかったらしい。そのことから、アントニオは、裏でララを中傷するようなことを触れ回っていたらしい。だが当然、ララは相手にしなかった。ララのこういった胆力は感心せざるをえない。
ルートはララの性格を気に入っていた。自信家で何事にも動じず、あらゆるハプニングを楽しむ。実際、昨日の公演は、人々が悪印象を持ったまま迎えられた。もちろん、ララのファン達は彼女のことを信じていたが。それ故に、疑う者、信じる者で対立し、ピリピリしたムードにはなっている。だが、当のララ本人は、そんなことはまったく意に介していなかった。むしろ、その状況を楽しんでいるかのように余裕の表情で舞台に上がり、そして楽しむように歌を歌い上げたのだ。そして、その見事なまでの演奏は、翌日の朝刊で賛辞が寄せられるほどだった。
街並みを眺めながら歩いていると、街の中心部である一番街まで来ていた。この街で一番大きな中央駅が見える。駅の前は広場になっており、大きな噴水が設置されている。ルートはそこに座り込んで、また考え始めた。
今回の連続殺人は、ララに因縁のある人物ばかり殺されている。順当に考えていけば、ララが疑われるが、それは真犯人による誘導の可能性が高い。警察が無能ばかりでなければ、とっくにこの方針で捜査されているはずだ。だが、犯人が見つかる様子は無い。捜査の手も止まっているようだ。ディックの証言が本当ならば、犯人は深夜、誰にも見つからず死体を運んでいるということだが、夜回りの巡査の目を掻い潜って、そんなことができるだろうか。よっぽど、この街を理解した人間でないとそんなことはできない。
「って、なんでこんなこと真剣に考えてるんだよ、俺は……」ルートはふと我に返って、一人頭を振った。こんな一銭にもならないことを考えるほど、彼の懐は暖かくない。それに、心配すべきはララの精神だが、彼女のあの性格ならば問題ないことくらいとっくに分かっている。だが、一度、糢糊とした気分を感じてしまうと、それを徹底的に晴らさないと気が済まないのだ。すっきりしない感情をどうしたものかと思案していると、隣に腰掛けてくる者がいた。リメア連邦からの留学生サイラスだった。ルートとは、ランポールで出会って以来だった。もう数ヶ月前の出来事だった。
「一人でうんうん唸って、いい悪だくみが思いつかないのか?」サイラスは真っ直ぐ前方を見つめながら語りかけてきた。
「おいおい、久々に会って言う言葉がそれかよ。サイラスの大将」ルートも前を見つめたまま返答した。
「だから、その大将というのはやめろ。俺はまだ正式な軍人にはなっていない」
「別に、将来、出世が約束されてるようなもんだからいいだろ?」
「だからといって、お前は俺の部下にはならないだろう?」
「そりゃあな。まあでも、もし俺たちがリメアに行ったら、色々と便宜を図ってもらおうと思ってな」
「お前は思ったことを口に出しすぎだ。ところで、まだこの街にいるということは、第二の誘拐でも考えているのか?」
「そんなこと考えるわけないだろ。シーグがさ、ララにご執心でな。ララの奴、今ちょっとマズイことになってるし、それで心配だから顔を見にいってこいって言われてな。それで、顔見にいったら、コンサートのチケット渡されるし」
「で、昨夜はそれに行っていたのか」
「そうだよ」
「とうとうシーグに感化されて、お前も芸術を勉強する気になったのか」サイラスは淡々とした調子で言った。
「別にそういうわけじゃねぇ。来いって言われたから行っただけだ」
「それで、何を悩んでいた。自分には芸術が全く理解できないということをか?」
「相変わらず皮肉屋だな、大将。そんなことで悩むわけないだろう。ララの関係者が殺されている事件がちょっと気になってな。お前はここに住んでいるだろ? なんで、警察は全く犯人の足取りを掴めないでいるんだ?」
「そんなことを考えていたのか? ……ふむ、俺は警察ではないから捜査の進展は分からないが、まず一つには目撃者がいないこと。いずれも街中で遺体が発見されたが、まったくもって目撃者がいない」ルートは、ディックのことを思い浮かべながらも黙っていた。
「そして、遺体が見つかった現場には、犯行の痕跡が残されていなかったこと」
「そうなのか?」ルートはサイラスの方を見た。
「最初の事件、指揮者の遺体が見つかった現場は、二番街の排水溝だ。だが、血痕は辺りの路上には飛び散っていなかったらしい」
「血が飛び散るような殺され方はしていなかった、とか?」
「公表はされていないが、実際の現場を見物した一般人が、頭から血が滲んでいたと触れ回っていたらしい。それを信用するのであれば、殺害方法は頭部打撲による撲殺だが、撲殺した後、排水溝まで運んだ、ということだな」
「引きずった後とかは?」
「それも公表されていないが、誰も路上に血痕を見ていないということであれば、何かに包んで運んだか、血が止まってから運んだかのどちらかだろうな」
「それで、二番目の事件は、目撃者もいないまま川に投げ込まれた……」
「ああ。そして、この間の三番目の事件は、被害者の自宅で起こった」
「だけど、死体は運ばれてないんだよな。だとしたら、これだけ変じゃないか?」
「ああ、イレギュラーだな。だが」と言ってサイラスは立ち上がった。
「こんなことを俺たちが考えていて何になる。探偵ごっこは早々にやめることだな」と言い残して立ち去ってしまった。ルートの顔を見かけて声をかけてきたようだったが、言いたいことだけ言って去ってしまった。本当に、何を考えているのかよく分からない男だ。ルートも、変なことを考えてエネルギーを使うのはやめようと思い、その場から立ち去った。
3
ララから飲みに行こうという誘いが届いた。ルートはたまに私書箱をチェックしている。自分と繋がりのある者には、連絡を取れるようにそうしているのだ。だが、チェックするのは偶なので、うまい話しを逃すこともしばしばだ。ララからの手紙も、一週間前に出されたものだったが、約束の日時はちょうど今夜だった。こちらのことをよく分かっているのだろう。
彼女から指定された店は、狭めの路地にある、人気のない酒場だった。ルートが入ると、ララは先に始めていた。ララはカウンターに座っていたため、ルートはその隣に座った。二人の他には、ソファに座っている客が一人だけだった。
「そういえば、奢ってくれるって約束、忘れてないだろうな」と、ルートは開口一番、そう言った。
「もちろんよ。それにね、このお店、高いの。とっても」ララは冗談で言っているのか本気で言っているのか分からない笑みを浮かべて、そう言った。
「じゃあ、お言葉に甘えて……」ルートはよさそうなウィスキーを頼んだ。
「この間はちゃんと来てくれた? 舞台からじゃ、あなたが見えなかったから」
「ちゃんと最初から最後まで聞いていたぜ。俺は音楽は全く分からないけど、まあ良かったんじゃないか?」
「ふふっ。そう言ってくれるのが一番嬉しいのよ」
「ところで、こんな所で飲んでて大丈夫なのか? 記者が追いかけ回してたりは……」
「大丈夫よ。あの公演、結構成功してね。評論家がかなり好意的な記事を書いてくれたの。それで、世論が一気に、私を擁護するようになったわ」
「それで、お前を追い回す奴が減ったのか」
「ええ、そうよ。でも、これから長い休暇に入ろうと思うわ。ああ、これは事件とは無関係よ。前から考えていたことなの」
「どこに行くんだ?」
「南の方にね。そこで一ヶ月くらいゆっくりするつもりよ」
「そっか。そりゃいいな」
「そうだ、あなたも来ない? シーグラムも連れて」ララは突然明るく笑ってそう言った。
「俺たちが?」ルートは一口呷った。
「人の少ない田舎町だから、ドラゴンの一頭や二頭連れて来たっておかしくないでしょ」
「いやー、人目につくと思うがなぁ……」
「そうかしら。それじゃあ、シーグラムには私から直接誘おうかしら」
「あいつだったら付いて行くだろうなぁ……」
「あなたは来てくれないの?」
「どうすっかなぁ」
「そうだ。それじゃあ、あなたの興味ありそうなことを一緒にやりましょうよ」
「俺の興味あること?」
「そう。例えば、ドラゴンの財宝探し」ララは妖しく笑った。
「はっ! 何言ってんだ。ドラゴンの財宝なんて……」ルートは一笑に付した。だが、ララはお構いなしだ。「黒いドラゴンの一族、知っているでしょう?」
「それはまあ、話しには……」
「私ね、あなた達に誘拐されて、スレブロに出会って、ドラゴンに魅せられちゃったみたいなの。それで、ドラゴンに関する文献を色々と読んでいたんだけどね、黒いドラゴンの一族の話し、とても興味深いわ――」
「黒いドラゴンの話しなんて、血生臭い話しばっかりだろう。どこが面白いんだ?」
「あら、あなた意外と、こういう話しは好きじゃないのね。私が興味を持ったのはね、その黒いドラゴンの一族を根絶させたのは、一頭の黒いドラゴンだっていう話し……」
「ああ、それなら俺も聞いたことがあるな。三百年ほど前に、同族で争って滅んだって」
「でもね、その自分の一族を皆殺しにしたドラゴンは、今もまだ生きているって話しよ」
「それは御伽噺だろ」
「ううん。詳細な記述を見たのよ。北西の慟哭の谷で、財宝を隠し持って眠っている、ってね」
「ますます御伽噺くさいな。お前、それを信じるんじゃ無いだろうな」
「真実かどうか確かめたいのよ。私も、あなたとシーグみたいに、自分だけのドラゴンの友達が欲しいわ」
「あのな、シーグは俺の物じゃあない」
「じゃあ、あなたがシーグに飼われているのかしらね」クスクス笑うララに、ルートはため息を吐いた。
「とにかく、慟哭の谷、行ってみたいわね」ララの声音と瞳は本気だった。このままでは、一人でふらふらっと行ってしまいそうだった。
慟哭の谷とは、このエウロー地域の北西端に位置しており、誰も足を踏み入れない穢れた地「滅びの地」の入り口に位置する大渓谷だ。黒い竜の一族に焼き払われたズイ王国が存在していたのも、この周辺とされている。
滅びの地から慟哭の谷までの土地は、約二千年前の紀元戦争によって、焦土と化してしまい、誰も足を踏み入れなくなった土地だ。もちろん、人間もドラゴンも、住む者はいない。ろくな冒険もしたことがない都会の女が気軽に足を踏み入れていい場所ではないのだ。ルートは、とあることを思いついた。「分かった、ララ。俺が先に行って確かめるから。それで、黒いドラゴンも財宝も無ければ、慟哭の谷なんて行かないよな」
「あら、私は自分で行って確かめたいのに」
「俺でさえ躊躇する場所だ。シーグだって猛反対するだろ。だから、いきなり行くんじゃなくて、まずは俺が様子を見に行ってみるから」
「……いいわよ、それで。ただし、ちゃんと本当のことを教えてよね」
「分かった分かった」ルートは氷が溶けて薄まった酒をかっくらいながら、どうしたものかと考えていた。一方のララは、そんなルートの苦労なぞ分かっているのか分かっていないのか、楽しげに飲んでいた。
4
雲間から覗く弱い太陽の光が、黒岩に淡い光を浴びせていた。辺りは黒い地面と岩ばかりで、草木は全く生えていなかった。深く、底がまったく見えない渓谷からは、焦げた匂いがかすかに漂っていた。その谷底に向かって、ルートはひたすら降りていた。
引っこ抜けなさそうな丈夫な岩に影の紐を巻きつけ、それに捕まりながらするすると降りていく。ある程度の深さまで来たら、別の岩に紐を巻きつけて、また同じように降りていく。地上にいた時は雲間から日の光がのぞいていたのだが、一時間近くかけて降りた頃には、もう昼間とは思えない暗さになっていた。そこまで降りてもなお、谷の底は見えない。紐を体に巻きつけて、なるべく手足の負担を無くすようにはしているが、さすがに体力が持たなかった。ルートは腰のカンテラを点けた。途中で休めそうな岩棚があったため、そこで休憩し、再び暗い谷底へ降りて行った。
さらに二時間ばかり降りていくと、やっと地面が見えた。ルートは降り立って思った。果たしてここは、自分みたいな普通の人間が普通に息をして生きていける場所なのだろうかと。植物も生えぬ、動物も住まぬ、死んだも同然の土地では、ドラゴンしか生きていけないだろう、とも。
ルートはカンテラの明かりを頼りに、歩ける方へ歩いた。幸い、道は慣らされており、歩くのに苦労はしなかった。この道をならしたのは、ここに住まうドラゴンだろうか。
慟哭の谷は、噂に聞いていた通り、生気のしない土地だった。しかし、人間がいられないというほどではないようだ。空気は澱んでいるが、ちゃんと息ができるし、気分が悪くなるということも無かった。
この先に広がる「滅びの地」と呼ばれる所は、人が立ち入ってはいけない場所とされている。約二千年前の紀元戦争において、生き物が住めない不毛の土地になったということだが、なぜそうなったかは明らかになっていない。今も土地に毒が残っているため、人間は立ち入れないということだった。その滅びの地の手前にある、この谷も、毒こそ広がっていないものの、人間は立ち入れない禁じられた土地になっている。
ララに約束はしたものの、今はルート一人だ。ララには、後でてきとうにドラゴンも財宝も無かったと言えばよかった。だが、谷の入り口まで来た時、ルートの冒険心がくすぐられてしまったのだ。
しばらく歩くと、風の音が聞こえてきた。いや、よく聞くと鼻息だった。巨大な生物が静かに寝息を立てている音。シーグラムの寝息をよく聞いていたため、ドラゴンがいるとすぐに分かった。ルートの心臓は早鐘を打った。
カンテラの明かりを消した。ドラゴンに気取られてはならない。ここから先は手探りで進むしかないが、暗闇に目が慣れてきたため、なんとか進むことができた。
壁に手を当て、ゆっくりと壁沿いに進む。途中で岩にぶつかり、それを乗り越える。寝息は近い。うっかり尻尾なぞ踏まないようにしなければならない。足をすり足状態にして、さらにゆっくり進んだ。また何かに足がぶつかったので、手でそれを確かめた。それはザラザラした感触で、小さなトゲがたくさんあった。ドラゴンの鱗だった。心臓の鼓動がさらに早くなった。
ドラゴンに行き当たったのだ。谷底の暗さではっきりとは識別できないが、恐らく黒い鱗を持つドラゴンだろう。こんな場所に生息するのは、それしかいない。この世界において、最も邪悪で凶暴な生物しか。
よくよく目を凝らすと小山のような背中が上下しているのが分かった。ドラゴンがどのような体勢になっているのかをよく見定めてルートは動いた。ドラゴンの体に触れぬよう、壁に体をつけて進み、頭の方まで来た。ルートはドラゴンの頭の前まで来て、その顔をよく見た。額には赤い結晶がついている。赤といっても、血のように赤黒く、鈍い光を放っていた。それ以外の部分は、とにかく黒い。暗闇だからそう見えるのかもしれない。暗闇で正確には分からぬが、ドラゴンは穏やかに眠っているように見える。
さて、ここからどうするべきか。まさか、伝説と謳われる生き物に本当に会えるとは……。ルートは、全く実感が湧かなかった。
このまま起こしたら、いきなり食われるだろうか、殺されるだろうか。それとも、話しを聞いてくれるだろうか。自身の一族を皆殺しにした黒い竜の心など推し量れるわけもなかった。
ルートが突っ立って思案していると、突然、ドラゴンが目を見開いた。暗闇の谷底に赤い光が煌々と輝いた。結晶と同じく、瞳も赤かった。だが、額の結晶よりも明るい赤だった。谷底に三つの赤い光が灯った。ルートは虚を突かれて、一瞬息がとまった。目の前の危険な存在が急に目を覚ましたのだ。どうするべきか考え付かぬうちに。大急ぎで思考を巡らしているルートは、少し後退った。
「先刻から俺の棲家を歩き回っていたのはお前か」念話でルートに語りかけてくる者がいた。目の前のドラゴンだった。ドラゴンの目はすぐにルートを探し当て、まっすぐに見つめてきた。シーグラムと同じ赤い目を向けて、ドラゴンは言葉を継いだ。
「誰かがこの谷に降り立ったのは分かっていたぞ。お前の足音は大きかったからな」
ルートも少し考えてから念話で返した。「寝たフリをしていたのか?」
「そうだ。久しぶりに体を動かすには少々時間がかかるからな。だが、もしお前が何かしたならば、すぐに殺せる。この爪で、牙で、あるいは体で押し潰すか、尻尾で叩き潰すか。お前は妙な力を持っているようだが、そんなもので俺に対抗することはできない。……お前は何をしに来た。俺を殺して体の一部を剥ぐためか、物見遊山で来ただけか、それともただの迷子か?大した用事が無いのならば殺す」ドラゴンは、ルートの体を振動させるくらいの低い声で威圧した。冗談などではなく、下手なことをしたら本当に殺す口ぶりだった。
だがルートは、こいつは噂通り凶暴な奴だが、意外にも話しが通じる相手だと思った。彼は念話ではなく、普通の言葉で話しかけた。
「俺は、この辺りの伝承とかを調べて回ってるんだ。この曰く付きの場所の伝承が本当かどうかをな」
「伝承?」
「ああ、そうだ。ここに黒い竜の一族の末裔がいるっていう伝承をな。そして、あんたに会った」
「なるほど。つまり、興味本位で、生死の狭間に足を踏み入れたということか」ドラゴンは口先をルートに近づけた。熱い息がルートにかかる。
「待ってくれ。本当にいるとは思わなかったんだ。それに、あんたの邪魔をしたり、傷つけたりするつもりはない」ルートは一歩後ずさった。
「では、俺がここにいることを喧伝して、俺を討伐する気は?」黒いドラゴンは薄ら笑いを浮かべながらルートに訊いた。
「そんなことはしない。断じてだ。俺は、自分の好奇心でここに来ただけだ」
「なるほど。では、俺が隠し持っている財宝が目当てか?」ドラゴンは勢いよく熱風をルートに浴びせた。ルートは顔を腕で覆い、さらに数歩後ずさった。ドラゴンがさらに言う。
「お前のような卑しい男がただの興味本位でここに立ち入るわけがなかろう! ここにある宝が目当てで迷い込んできたに決まっている」ドラゴンは前足を踏み出した。地面が揺れた。
「ま、待て! 本当にお前を傷つけたり、お前の宝を取る気はない!」ルートはふらつきながら弁解した。
「では、ここに来た本当の理由を言え。嘘を言えば、お前を引き裂く」ドラゴンは再びルートに顔を近づけた。
「……俺の知り合いが、黒いドラゴンの末裔に興味があるから、この地に来たいって言ったんだ。けど、そいつは危険な地域には慣れていないから、俺が先に行って、様子を確かめてくるって約束したんだ。これでいいか? 俺は本当のことを言ったぜ」ルートのその言葉に、黒いドラゴンはじっと彼の目を見つめた。ルートも視線を逸らさずに見つめ返した。
「……分かった。今は、お前を信じよう。ただし、お前の言うことが嘘だと分かった時、お前が俺を貶めることがあった時、俺はお前を殺す。いいな」
「分かったよ。それで文句ない」
「ふむ。久しぶりに体を動かしたせいで、節々が痛む」本当に久しぶりに体を動かしたのだろう。ドラゴンの体からは、ミシッミシッという音が微かに聞こえてきた。ルートは疑問に思ったことを口にした。
「ひょっとして、自分の一族を殺してから、ずっとここで寝たままだったのか?」その言葉にドラゴンは一瞬、ルートを睨みつけた。しかし、それは怒っているのではなく、自分をそれほど怖がっていない珍客を訝しんだのだった。
「そうだ。一族を皆殺しにしてから、独り静かに眠れる場所を探し、ここに行き着いた。それからは、誰に起こされることもなく、眠っていた」
「ていうことは、三百年間も寝ていたってことか?」
「三百年……そうか、そんなに寝ていたのか。そんなに寝ていたというのに、俺はまだ死ねてないのか」
「お前、死ぬために寝ていたのか?」
「そういうわけではない。だが、俺はもう寿命をとっくに過ぎている。生きる目的も無い。老いて死ぬのを待つはずだったのだ」
「それは、悪いことしたな。それじゃあ、俺はもうあんたの邪魔はしないでおくよ。ここでのことは忘れるさ」ルートはドラゴンに背を向け、カンテラを点けて歩き出そうとした。
「待て。帰り道は分かるのか?」ドラゴンが呼び止めた。「え、いや、分かんないけどよ。とりあえず歩けるところまで歩いて行って、どうにもならなそうだったら、なんとか登るさ。ここまで降りられたんだ」
「この渓谷のことを何も知らないのか? ただ道沿いに歩いていたら野垂れ死ぬ。こんな所に死体を転がされても困る。俺が道案内をしよう」黒いドラゴンはゆっくりと身を起こした。ドラゴンが完全に身を起こしてみると、シーグラムよりも体が一回り大きいのが分かった。シーグラムでさえ、平均より大きな体をしているというのに。
「俺が行くべき道を教える。お前は明かりを持って前を歩け」と言われ、ルートは歩き出した。ドラゴンもそれに合わせて歩いてくる。ゆっくりと、だがしっかりとした足取りでドラゴンは歩いていた。歩くのにも慣れてきたのか、ルートと並んで歩くようになった。
この渓谷を空から見るとよく分かるのだが、地面にいくつもの亀裂が入っている。その亀裂が、この渓谷を迷路のようにしているのだった。一見、歩いて地上に出られるような所などなさそうだったが、北の方では大河が合流しており、その河を降っていくと、外の世界に出られる。黒いドラゴンは、その道を案内しているのだった。
殺すと言ったり、道案内をすると言ったり、よく分からない伝説の生き物だな、とルートは道すがら考えていた。ふと、ある疑問が浮かんだ。
「なあ、ところで、さっき宝があるって言ってたよな。どこにも見当たらねぇけど――」
「お前の想像するような金銀財宝なぞ無い。さきほどのはお前に対する脅しだ。強いて言えば、俺のこの体くらいだろうな」
「なんだ、そうだったのか」
「分かったらさっさと歩け」
二人はやがて、河に行き当たった。ドラゴン曰く、この先で急激な滝になっているらしい。危険だが、この河の流れに乗れば外に出られる。この道しかない、と彼は言った。
「河沿いに歩いては行けないのか?」ルートが訊いた。
「だめだ。人が通れるような地面が無い。俺に任せろ」そう言って、ドラゴンは河に入った。泳いでルートを運ぶつもりらしい。
「おいおい、そりゃありがたいが、お前の鱗はトゲだらけだろ。地上に出る前に血まみれだ」
「背中に立つならば問題あるまい。それに、お前の奇妙な力も使える」
「俺の慧、分かってるのかよ」ルートは影の紐を出しながら聞いた。
「ああ、ここでは、お前の影はずっとざわついていた」ドラゴンのその言葉に、ルートはへぇ、と相槌を打った。
とにかく、早く外に出るため、ルートはドラゴンの背中に飛び乗った。靴は登山用の物のため、トゲが足に突き刺さることはない。そして、影の紐をドラゴンの首に巻きつけた。恐らく、これで振り落とされはしない。
ドラゴンは泳ぎ出した。その内、水の勢いが増し、速度が上がった。ルートは膝が折れて前のめりになった。そして、光が見えた瞬間、ルートとドラゴンは空中に放り出された。滝に行き当たったのだ。ドラゴンは下方の河面を見据え、強ばった肩の筋肉を左右に動かした。滝の半分くらいまで落ちたところで、ドラゴンは巨大な翼を広げた。そしてゆっくりと滑空した。
ルートは、空中に放り出されてはいたが、影の紐はドラゴンの首にかけられたままだった。背中から振り落とされ、首からぶら下がっている状態になっていたのだ。ドラゴンは、ゆっくりと彼を自分の掌に収めた。鱗がない掌は安全圏だ。ドラゴンは、そのまままっすぐ、河に向かって滑空を続けていた。久しぶりに飛んだため、方向転換も着地もままならないようだった。ドラゴンは、そのまま河に飛び込んだ。ルートは危険を察知して、ドラゴンが着水する前に、自ら河に飛び込んだ。二人とも、無事に谷から抜け出すことができた。
二人は河から這い出た。ルートは、すぐに濡れた衣服を脱いだ。深い谷底のさらに大滝を降ってきたとは言え、まだまだ標高の高い北の大地だ。それに、季節は冬に向かっていた。
そんなルートを見かねたドラゴンは、火を吐き出した。ルートは、その炎ですぐに温まった。だが、燃えさしが無いため、すぐに炎は消えてしまった。「その辺りの草木でも集めれば燃えるだろうな」とドラゴンは呟いて、近くの森に入り、すぐに戻って来た。口には葉のついた枝木が蓄えられていた。ドラゴンはそれを岩場にどさりと置き、再び火を吐いた。ルートはすぐに暖をとった。服も乾くよう、火の近くに置いた。ドラゴンはそれを離れたところで、寝そべりながら見ていた。
「ありがとうな。お前、結構いい奴じゃねえか。それに火が吐けるなんて」と、ルートはドラゴンに言った。ドラゴンは何も返さなかった。ルートは再び声をかけた。「なあ、自分の棲家に帰らなくていいのか?」
「久しぶりに体を動かしたから、少々疲れた。少し休んだら帰る」ドラゴンは応えた。
「なあ、まだ名前を聴いてなかったよな。俺はルートだ。あんたは?」
「……ガランス」
「ガランスっていうのか。ガランス、あんたに殺されないと思って訊くんだけどよ、本当にあんたは黒いドラゴンの一族なのか? 世界で一番凶暴で獰猛な」ルートはガランスを見つめながら訊いた。彼の赤い目はルートの方を向いていたが、その向こうの山を見つめていた。渓谷では気が付かなかったが、ガランスの目は、まるで夕焼けのように橙色を含んだ暖かな赤色をしている。暗闇では鮮やかに光っていた分、外の世界では落ち着いた光に見えるのだ。
ガランスは応えた。「その通りだ。俺はあの一族の生まれで、共に世界を荒らしまわった。そして、いつだったか、あいつらを殺した。皆殺しにしたはずだ。それから、あの渓谷に移り住んだ」
「なんで、一族を殺したんだ?」
「……ある時、俺を殺しに来た人間に訊かれたのだ。なぜ虐殺を繰り返すのか、と。俺は分からなかった。一族がそうしていたから、俺もそうしていただけだったのだ。だから考えた。なぜ虐殺するのかと。一族がいなくなれば、その答えがみつかるのではないかと思った。それで殺した」ガランスはゆっくりと語った。
「で、答えは見つかったのか?」
「いいや、何も分からなかった。ただ、殺しをしている時は、ひどく楽しい。殺し、暴れることが俺の快感なのだと、それが分かっただけだった。そして、それが分かった時、ひどく虚しかった。何が虚しいのか分からなかった。だから、殺しをやめて、あの渓谷に棲んだ。あそこに独りで眠っている時は、今まで感じたことのない居心地の良さを感じた。誰もいなくて静かだからだろうな。だから、あそこで眠っていた」
「そうか。それじゃあなおさら悪いことしたな。俺が静かな時間を邪魔したわけだからな」
「いや、お前と話すのは存外楽しい。これもまた、感じたことのない感覚だ。独りでいる時の穏やかな感覚とも、殺しをしている時の快感とも違う。純粋に、楽しいと思える。なぜだろうな」
ルートは、そんなガランスのセリフを聴いて吹き出した。これがあの伝説に残る凶悪なドラゴンとは思えなかったからだ。「いや、悪い。俺には友達のドラゴンがいてな、そいつもなんだか難しく色々考える奴でさ。ドラゴンってのは皆そうなのかねぇ。そんなに深く考えなくてもいいと思うんだけどよ。ほら、楽しいって思ったんなら、その通り、楽しいでいいだろう。そいつもさ、俺と一緒に町とか村で人間を騙して悪さしてる時は楽しそうなんだ。そういう時だけは小難しい顔なんてしないんだよ」ルートは続けて言った。「なんでだ、なんて考える必要ないと思うけどな。もしかしたら、いつかきっと分かる時が突然くるかもしれないし」
「……いつかきっと、分かる時が突然くるかもしれない、か。俺は今まで、まともに人間と接したことがなかった。ドラゴンも、周りには一族の者しかいなかった。だから、暴力以外の生活が、世界が、どうなっているのか分からないのだ」
「だったら、世界を見に行けばいいんじゃないか? せっかく立派な羽根があるんだ。飛び回って色んなものを見ないと損だろ。そうそう、そのドラゴン、シーグラムっていうんだけどな、あいつも雪山の洞窟に数十年引きこもってた時があったんだよ。なんで引きこもってたかは知らねぇが、厭世家みたいな面して、まるで自分は、この世界の不条理を全て知ってます、みたいな態度とっててな。そりゃ、俺よりも長く生きているのは分かるけどよ、そいつだって七十歳程度だ。しかも数十年、山に引きこもってるんだったら、世の中のこと、何も知らないも同然だろ。折角、どこへでも行ける体してるのに、もったいねぇなって思ってよ――。だから、お前もさ、どこへだって行けばいいじゃねぇか。そうしている内に、分からなかったことが分かるかもしれねぇし」ルートのその言葉に、ガランスは少し黙った。そして、再び口を開いた。「そうか、そうだな。しかし、俺の一族は常に追われる身だった。行く先々で戦いは避けられなかった」
「三百年も経ってるんだ。もう時効だろ」
「人間はそれでいいかもしれない。だが、ドラゴンの中には、当時のことを覚えている者もいるだろう」
「まあ、そういうドラゴンもいるかもしれないが、今は昔よりもドラゴンの数が圧倒的に少ないし、それに、ドラゴンの寿命が段々短くなっていることを考えると、お前を咎めるような奴はそんなにいないんじゃないか? いたとしても、出会うかどうか」
「ふむ……それもそうかもしれない。……そうか、旅か。暗い谷底ではなく、光のある静かな所を見つける旅も悪くない」ガランスは、自分に語りかけるように呟いた。
ルートの衣服も乾き、彼はここを離れる支度を始めた。「ガランス、お前はまだここらに住むのか?」
「しばらくは、な。だが、その内、人間もドラゴンもいない土地へ移り住むつもりだ。もちろん、暗い地底や穴蔵ではなくな」
「人間もドラゴンもいないようなところってあるかな?」
「分からんが、俺が暮らせるのはそういう所くらいだ。それに、引きこもるなと行ったのはお前だぞ」
「それもそうか。それじゃあ、言い出しっぺの俺が、お前の住処探しを手伝ってやらなきゃな」
「罪滅ぼしのつもりか? とにかく、ここにはもう来ないほうがいい」
「ツレなくするなよ。今度はうまい酒でも持ってくるさ」そう言って、ルートは去った。ガランスは、ルートの後ろ姿をジッと見つめていた。
5
鳥たちのピィピィという鳴き声を聞いた。その直後、突風が吹き、葉のざわめきがシーグラムの耳まで届いた。目の前のララがカンバスを押さえつけているのを見て、シーグラムは彼女の傍に座り込んだ。前方の景色を見ているララの邪魔をしないように、風を防いだ。ララは今、スケッチをしている。彼女にこのような趣味があったとは意外だと、シーグラムは思った。しかし、ララ自身、あまり描かないから下手の横好きみたいなものだと笑っていた。
彼らは小高い丘に位置を取り、田園風景を見下ろしている。もう冬に入るため、農夫たちは畑仕舞いに入っている。もう農作業をしない家もある。そのため、人の姿はあまりなく、緑と茶色が入り混じった大地と地平線がすっきりとして見える。
だが、ララの描く地平線は曲がっており、遠近感も無い。色は、現実の色を再現しようとしすぎて汚くなっている。それでも、ララは楽しそうに描いている。シーグラムはその様子を見ながら寝そべった。
ララとシーグラムは、リツィヒ市よりも南に位置する国ランフス、その中でも特に南西の村に来ていた。ここは長閑な田園風景が広がる田舎町で、病人が静養に来ることが多いほど、空気が綺麗な村だ。いつも野山にいるシーグラムはそれほど変化を感じなかったが、ララにとっては、とてもいい気分転換になっているようだ。
当初、シーグラムは村の中まで入るつもりはなかったが、ララがどうしてもついて来いというので、ララの別荘の近くで寝泊まりしている。ありがたいことに、村人たちはシーグラムのことを怖がらなかった。最近は、あまり姿を見せないらしいが、この村の近くにもドラゴンが住んでいるらしい。
この地を訪れて一週間。シーグラムはララの行く所について行き、やることなすことに付き合った。大体が散歩か絵を描くこと、そして、とりとめのないお喋りだ。リツィヒで起きている不可解な殺人事件のことなぞ、ララの頭の中からはすっぽり抜けているようだ。
唯一の懸念事項といえば、ルートのことだ。ララのわがままを聴いてやったとはいえ、本当に伝説の黒いドラゴンを探し当てられることなど無いだろう。何か適当な宝石でも盗んで持ち帰ってくるのではないか、とシーグラムは思っていた。
それからさらに数日経ち、ルートがララの別荘にひょっこり現れた。深夜のことだった。シーグラムは外で寝ていたため、すぐにルートの声に気づいた。
「よう、シーグ。こんないい別荘で寝泊まりか」戻ってきたルートは、いつもと変わりない様子だった。強いて言えば、いつもよれよれのコートがさらによれよれで、髪もより一層ボサボサだった。こんな男が、このような田舎に現れたら、誰もが不審者だと訝る。
「ルート、遅かったじゃないか。それに、そのいつもより一層みすぼらしい格好はなんだ。まさか、本当に黒いドラゴンを探していたんじゃあるまいな」と、シーグラムは目線だけをルートに向けながら言った。
「いやー、慟哭の谷ってのは、思ったより大変なところでな……。さすがに俺も疲れたぜ」ルートは座り込んだ。
「まったく、私に黙って行くからだ。それで、黒いドラゴンというのは本当にいたのか?」
「いるわけないだろ。あそこには鼠一匹いやしなかったぜ。もちろん、財宝もな」ルートは、ガランスのことを黙っていた。
「やはり、そうか。何の収穫も無しで、とんだ無駄骨だったな」
「ほんとだぜ。ララには追加料金でももらわないとな。とにかく、今日は寝かせてもらおう」と言って、ルートは別荘の方へ足を向けた。
「ララはもう寝てしまったから、開けてくれるかな?」と、シーグラムは別荘の玄関を見た。ルートは玄関の扉を叩いた。
「おーい! ララ! 俺だ。戻ったから開けてくれ!」別荘からは何の反応も無かった。
「寝てしまったみたいだな」と、シーグラムが言った。
「おい、シーグ。お前の大声で呼んでくれよ」
「ここで大騒ぎしたら、近所に迷惑だろう。それに、ララは一度寝てしまったら朝まで起きないぞ」
「マジか……」
「諦めて今夜はここで寝るんだな」
「お前には人の心ってもんが無いのか! 俺はへとへとで帰ってきたんだぞ!」
「私はドラゴンだ」と言って、シーグラムは寝てしまった。ルートも諦めて、シーグラムの傍で寝ることにした。
*
翌朝、ルート、ララ、シーグラムの三人は、外に置いてあるテーブルと机について、朝食を取っていた。
「それで、何も無かったの? 本当に?」ララがルートに訊いた。彼女は眉根を寄せ、ルートの顔を覗き込んだ。
「本当だよ。あそこはネズミ一匹いやしない場所だった。もちろん財宝もな」ルートはコーヒーを飲みながら言った。ルートは、自分の旅を話す前に、よっぽど疲れたのか、出された朝食を一気に食べてしまい、残るのはコーヒーだけだった。
「こんなに時間をかけて。こんなにヨレヨレになって戻ってきたのに?」ララはさらに訊いた。
「だからさ、慟哭の谷までは行ったんだよ。でも、あそこには生き物なんて全然いなかったぜ。というか、生き物が住めるような土地じゃなかった」
「ふーん、そう。嘘じゃないのね」
「ああ、そうだよ」
「まったく、つまんないわね。伝説のドラゴンは一体どこにいるのかしら」ララは嘆息した。
「おいおい、まだ探すつもりじゃ無いだろうな……」
「あら、ダメ?」
「もう俺をこき使うのはやめてほしいもんだな」
「じゃあ、シーグに手伝ってもらおうかしら」
「はは、さすがに君の頼みでも、いるかどうか分からない存在を探すのは私でも難しいな」
「はあ、つまんないものね」
午後、ララはまた絵を描きに行った。シーグラムはもちろんのこと、ルートも同行した。「ララ、お前、絵は才能ないんだな」ララのお世辞にもうまいとは言えない絵を後ろから眺めていたルートは正直に言った。その隣ではシーグラムが睨んでいる。
「あら、だって私、素人だもの。うまいわけがないでしょ」と、ララは気にする様子もなく、さらっと言った。
「ま、それもそうか」と、ルートも納得した。
「そうそう。これを描き終わったら、帰ろうと思うわ」ララは筆を動かしながら言った。
「もう帰っちまうのか?」
「リツィヒでは、まだ状況は好転していないと思うが……」シーグラムが心配そうに言った。
「別に、殺人の疑いをかけられたから長期休暇にしたわけじゃないもの。それに、そろそろマリーも心配していると思うしね」
「帰ったらまた、音楽業か?」
「あと何ヶ月かは、またどこかに旅行に行きたいわね。それで、ほとぼりが覚めたら、またいつも通りの日々よ」
*
その三日後、ララはこの地を離れた。ルートとシーグラムも付き添うと申し出たのだが、ララはそれを断った。一人でリツィヒへ帰ったのだ。
ララが乗車した汽車を遠くから見守りながらルートはシーグラムに言った。
「ララは大丈夫かな」その言葉に彼は、分からん、とだけ言った。そして続けて言った。
「もし、一連の殺人が、ララに嫌がらせ、もしくは罪をなすりつけることが目的なのだとしたら、いずれその矛先がララに向くやもしれん」
「だったら、さっさとララを狙えばいいじゃねぇか」
「焦らすのが目的、とも……。う~む……」シーグラムは悩んだ。
「ま、警察じゃねえんだ。考えたって分かんねぇよな。それじゃあ、俺たちもそろそろここを離れるかな」と、ルートは伸びをしながら言った。
「そうそう、昨夜暇だったからその辺を飛び回っていたんだがな、珍しい人物を見たぞ」
「珍しい?」
「ああ、サイラスだ」
「は? どこで?」
「ここから百リーグほど先の、ジャームとランフスの国境付近だったな。必要な論文を書き終えたから、しばらく休暇でキャンプをするとか」
「はあ、暇な奴め」
「私とルートがララの休暇に付き合っていると言ったら、後でルートも連れてこいと言われたな」
「俺らが行って何しろってんだよ。……まあいいや。ララの事件の解決、大将にも知恵を拝借したいところだったしな」
*
サイラスが逗留している場所というのは、ジャーム国とランフス国の国境付近の山間部だ。山と山の間には大きな湖が広がっている。その付近に煙が立っていたため、サイラスの居場所はすぐに分かった。
「よう。大将。俺を呼んだって、どういうことだよ」ルートは開口一番、そう言った。それと同時にシーグラムが空から降り立った。サイラスは床几に腰掛け、コーヒーを手にしている。もう一脚、床几が用意されていたため、ルートはそれに腰掛けた。シーグラムもすぐ傍に座り込んだ。
「有名人とやけに仲良くなったと思ってな」と、サイラスは言った。
「それだけかよ……」
「渦中の人物だ。お前らが何に関わっているのか気になる」
「私たちはララと親しくしているだけだ。その上で事件のことは心配しているが」と、シーグラムが返した。
「シーグ、あなたがあんな事件を起こすとはな。おかげで、新聞は大騒ぎだった」
「ははは。君からそんな苦言を呈されるとは。ところで、ルート。サイラスに訊きたいことがあったのではないか?」シーグラムはルートに振った。
「訊きたいこと?」今度はサイラスが訊いた。
「まあ、訊きたいっていうか、相談なんだがな。例の連続殺人についてだ」
「お前たちが気にするようなことか?」
「主に、シーグが、気にしてんだ。だろ?」ルートはシーグラムを見た。彼は黙ってルートを横目に見た。
「で、俺の意見を聞きたいというわけか。ルートには、この間少し話したと思うがな……」
「俺たちは一番目と二番目の事件が起こった時、街にいなかった。あんたが知っている限りでいいから、改めてその時のことを教えてほしい」
サイラスはコーヒーを啜ると「お前たちが気にするだろうと思って、あれから俺の方でも少し整理していたんだ。ここに来たのも、考えをまとめるためだ」と、言いながら手帳を出した。
「お! さすが大将!」
「まず、一番目の事件、指揮者のプライスラー・シュミットだが、この人物は二番街十二ブロックの裏路地で撲殺体として発見された。遺体は排水溝の中に遺棄されていたということだ」サイラスは手帳から記事の切り抜きを取り出して話し出した。「前日まで遺体は無かったと、付近に住んでいるホームレスが証言していることと、事件発生時の野次馬が、辺りに血痕は無かったと言っているらしいから、恐らく別の場所で殺されてから、運ばれたのだろう」
サイラスは続けて、二番目の事件について話した。「そして二番目の殺人、テノール歌手のアントニオ・ホフマンだが、彼は三番街二十ブロックのラプイセ川で発見された。川を下ってきたところを早朝未明、発見。死因は刺殺らしい」
ルートは、乞食のディックに教えられたことを思い返していた。しかし、ここでは黙っていた。言ってしまうと何かとややこしい。サイラスは語り続けている。
「遺体はそれほど傷んでいなかったということだから、街中の川の上流から放流されて、三番街で発見された。つまり、数時間前に流されたということだ」
「どちらも、殺害場所と発見場所は異なるということか」シーグラムが言った。
「恐らく。そして、三番目の事件、小説家グラシア・フックスは自宅で刺殺体となって亡くなっているのが発見された。前日の夜、家の給仕人が帰り、ララが家を立ち去り、翌朝、給仕人が再び来るまでの間に事件は起こった」
「今までとはちょっと違うな」ルートが言った。
「その通りだ。今までは、殺された場所と遺棄された場所が違ったが、グラシアの事件だけは、殺されたまま、そこに放置されている」
「運ぶのが困難だったから、ということか?」シーグラムが言った。
「さてな……。プライスラーとアントニオが殺された場所が判然としないから、何とも言えない」
「もう、最初の事件から半年近く経ってるだろ。いまだに何にも分からないのか?」ルートが信じられないという風に言った。
「警察が公表していないだけということもある。なにせ、犯人しか知り得ない情報もまだ多数あるはずだ」
「なるほどな」
「ララへの嫌がらせ目的ならば度が過ぎているし、最終的な目標がララの殺害だとしたら、あまりにも時間が立ち過ぎている。犯人は、一体何が目的なのだろうな」シーグラムは、そうぼやいた。
「あとは、事件発覚の日付から推理する方法もある。プライスラーの遺体発見日は六月六日火曜日、アントニオの遺体発見日は九月五日火曜日、グラシアの遺体発見日は十一月八日水曜日。何か気づくことは?」
「プライスラーとアントニオの事件は、月の最初の火曜日に発覚しているな」シーグラムが言った。
「グラシアのだけ違うよな」ルートが言った。
「ああ、そうだ。恐らく、四番目の事件が起これば、この法則性に確証が持てる。だが……」
「これ以上、事件なぞ起こってはたまらないな」シーグラムが言葉を継いだ。
「その通りだ。それに、警察もララの周辺を徹底的に洗っているだろう。特に、ララと過去に一悶着あった者は」
「犯人も迂闊には手を出せないってことか」
「恐らく、な」ルートの言葉にサイラスが返した。
「スキャンダルが多い美女というのは、大変なものだな……」シーグラムが嘆息した。
「彼女のスキャンダルは今に始まったことじゃないさ。それに、彼女の来歴には不審な点が一つある」サイラスが言った。
「不審な、ってのは?」ルートが訊いた。
「彼女は元々、孤児だったのを、とある伯爵が引き取ったそうだ。もう一人の孤児と一緒に。しかし、彼女たちが十歳くらいの時に、邸宅が火災で全焼。その二人の養子は再び放り出されたが、伯爵の遺産を引き継いで、今がある、とかいう話しだ」
「その火災の原因というのは?」シーグラムが訊いた。
「不明だ。放火なのか、火の不始末なのか、不明のまま、お蔵入りになったそうだ」
「ふーん。中々、本にでも書けそうな人生だな」ルートはぼやいた。
「とにかく、一般人の俺が分かるのはここまでだ。後は、お前らで何とかするんだな」
「俺らでどうにかできるとでも?」
「恐らく、この件、現行犯でもない限り、事件解決は叶わないだろう。警察の動きがどうにも鈍すぎる」
「それは、リツィヒの警察は仕事ができない、ということか」
「さて、どうだろうな」サイラスは何か知っていそうな口ぶりではあったが、それ以上は何も話さなかった。
ルート、サイラス、シーグラムの二人と一頭は、その晩はキャンプをして過ごした。サイラスの趣味は、こうして野山で過ごすことだ。ルートとシーグラムが、それに付き合ったことも何度かある。
「それで、これからどうするんだ?」食後のコーヒーを飲みながら、サイラスはルートとシーグラムに訊いた。今は、また野外で焚き火を囲んでいる。
「これから? うーん。ララの件をすっきりさせたいが、どうしたもんかなぁ」と、ルートは返した。
「どうにも手出しできないのがもどかしいな」シーグラムもララの話題を再び蒸し返した。
「先ほど言った通り、次に殺されそうな奴に張り付いて、殺人犯を現行犯で捕まえる、とかでもすれば解決するだろう」と、サイラスが言った。
「ははっ。そいつは名案だな。今度ララに心当たりが無いか聞いてみるか」
「もう心当たりなぞいてほしくないがな……」シーグラムがうんざりしたように言った。
「ところで、俺はそんな話しをしたいと思ったわけじゃない。俺は来年にはリメアに帰る。君らは、その頃にはどうしているつもりだ?」と、サイラスは二人に訊いた。
「そんな先のこと聞かれてもなあ。分かんねえよ。なあ、シーグ」
「恐らく、相も変わらず、この大陸をウロウロしているだろうな」
「ふむ、そうか。ならばシーグ、君さえよければリメアに来ないか? 君の見識の広さと思慮深さは、俺の大学において刺激になるだろう。それに、ドラゴンに興味を持っている研究者や学生も多数いる。もちろん、悪い意味ではない」サイラスはシーグラムに誘いを持ちかけた。
「ほう、つまり、君の通う大学で、講師でもやればいいのかな?」シーグラムは興味深けに食いついた。
「その通りだ。うちのキャンパスの気風は、君ととても合っていると思ってね」そのサイラスの誘いに、シーグラムは思案した。
「お、おいおい待てよ。俺を裏切る気かよ」ルートは言った。
「ふむ……。人間の大学に大っぴらに入れると思ったら興味が湧いてな……」
「まだ金を貯めたいだろ、シーグラム先生よぉ」
「確かに……」
「ドラゴンの講師に給金を払ったことはないはずだが、掛け合ってみよう」
「ふむ……」シーグラムは再び思案した。
「おいおい、大将。あんまこいつを焚き付けんなよ。それにあんた、まだただの学生だろうが」
「教授が忙しくて授業できない時は代わりに授業をしているがな」
「そんなことしてんのかよ……」
「博士課程ともなれば、そういうこともあるさ」
「おい、シーグ。本気でリメアに行く気じゃねえだろうな」
「ふむ、サイラスの誘いもおもしろそうだからな、いずれ行ってみたい。だが、まずはこの地で探ってみたいことがある」
「探ってみたいこと?」サイラスが訊いた。
「数ヶ月前から、考えていたことなのだがな、私の家族を探してみたいと思っている」
「お前の家族のことなんて初耳だな」ルートが言った。
「誰にも話したことはなかったからな」
「それで、探したい家族とは?」サイラスが訊いた。
「私の兄弟は、私を含めて十五いる。私はその中で一番末だ。兄弟の幾らかは子供の頃に病気で死に、残った幾らかは、五十年前の大陸間戦争で死んだ。戦後、生き残ったのは、病弱な父と、聡明な四番目の姉と、少し頭の鈍い六番目の兄、そして私だけだった。そして、戦後、数年経った後、父と兄は突然失踪したらしい」
「らしい……とは? その場には居合わせなかったのか?」サイラスが訊いた。
「その頃、私は放蕩していてな、あまり家族とは共に過ごしていなかった。父と兄の失踪は、姉から聞いたのだ。そして、その姉も、彼らを探しに行ったまま、行方知らずだ」
「一緒に追わなかったのか?」今度はルートが訊いた。
「あの父と兄がそれほど遠くまで行くはずがないと思っていたのだ。いずれ戻ってくるだろうと考えていた。姉も心配性な性格だったからな、逆に私は、それほど重大なことではないと思っていたのだよ。だが、今となっては、薄情で考えの至らなかった自分に苛立ってしょうがない……」シーグラムは歯を剥き出し、自分自身に対する怒りを露わにした。
「あなたは自由を愛する身だ。その時は若さ故だったのだろう」サイライスが言った。
「だが、家族に情を持てず、自由ばかり求めてしまうこの心は本能なのだろうか。だとしたら、なぜ私はこんな、およそ知的生物らしくない本能を持って生まれてきてしまったのだろうか。それがとても虚しい。七十余年も生きてきて、家族に対する葛藤すら制御できていないのだ」
「……どこかの哲学者が言っていたな。「一つの疑問が解消されたと思ったら、また次の疑問が湧いてくる。人生とはその繰り返しだ」とな」サイラスはそう語った。
「ふふ、まさしくその通りだな。生きるとは、苦痛と後悔ばかりよ」シーグラムは珍しく老人のようなことを言った。
「ま、俺はこんなジジイにはならないけどな」ルートが言った。
「お前たちはまだまだ若い。その内、分かるさ」シーグラムが言った。
「しかし、シーグの年齢を人間に換算したら、まだ三十代くらいではないか? 体感時間が違うのだとすれば、俺たちとそれほど大差はない……」サイラスはそう言った。
「いやいや、普段のこいつの説教くささといったら、人間のジジイと一緒だよ。こんな奴を大学に呼んだら、みんなウンザリするぜ」
「……一体誰のせいで説教ばかりしていると思っている」シーグラムはルートを睨め付けた。
「だからこそ講師に向いていると思うのだがな」そう呟くサイラスに、ルートがしきりと「やめとけやめとけ」と言っていた。
「ともかく、サイラスの誘いにはいずれ乗ろう。しかし、まずはララの件を解決してからだ。私はリツィヒに戻ろう。ルート、お前も来るな?」シーグラムはそう言った。だがルートは「俺もリツィヒには戻るけどよ、その前にちょっと用事があるんだ。だから、先に行っててくれないか?」と返した。
「用事? 新しい仕事か?」シーグラムは訊いた。ルートは、ああそうだよ、と返した。ルートは、何か訊かれるかと思ったが、シーグラムはそれ以上追求してこなかった。二人が単独行動になるなど頻繁にあったからだ。シーグラムは「なるべく早く用事を済ませてこい」と言っただけだった。
6
「よっ」ルートは目の前のガランスに声をかけた。先日の約束通り、またガランスに会いにきたのだ。先日、別れたあの川辺にいるかと思い、やってきたら案の定だった。
「何しにきた?」ガランスはルートを見た。
「何しにって、言っただろ? うまい酒を持ってくるってな」ほれ、とルートが取り出した物は、ララが静養していた村で手に入れた赤ワインだった。
「いいワインだぜ。お前も飲んでみろ」
「酒か。大昔に人間の酒を奪ったことがあったが、ついぞ味を忘れてしまったな」
「それじゃあ、久しぶりの酒といこうぜ。口を開けてみろよ」ガランスは大きな口を開いた。ルートはそこに赤ワインを流し込んだ。酒瓶の三分の一ほどを流し込んだところで、ガランスはワインを飲み込んだ。
「おいおい、もっと舌で味わわねぇと……。で、どうだ?」
「ふむ、これはうまい」
「だろ」ルートは笑った。
ルートとガランスは、小川を上流に沿って歩いた。特に目的も無い。河原はガランスの体でいっぱいになってしまうため、ルートは、土手の上を歩いた。頭上には太陽が高く上っており、昼の到来を告げていた。水辺に降りようと、川までやってきた鹿やリスたちは、皆、ガランスの姿を見て逃げ出してしまう。森の中から這い寄ってきた狼の群れもいたが、ガランスが威嚇し、とうとう動物は一匹もいなくなってしまった。あたりには、穏やかな水の音だけが流れている。
「それにしても、またこんなところへ来るとは、物好きな奴だな」と、ガランスは言った。
「お前がどうしてるか気になってな」
「俺の所に来ても、おもしろいことなど無いぞ」
「いやいや、お前が隣にいれば危険な目にあうことなんてないからな。こうやって、危ない動物が住んでいる山の中だって歩ける」
「俺がお前を襲うとは思わないのか? この山では、俺が一番危険な存在なんだぞ」
「おいおい、この間友達になったと思うんだけどなぁ。薄情な奴だ」
「お前は存外、怖い者知らずだな。まあいい、俺も気が紛れる」
「だろ? そうだ、この山の頂上にでも登って辺りを見回してみれば、お前の新しい住処でも見つかるんじゃねぇか?」
「ここでも十分ではあるがな」
「でも、ここはお前には狭すぎる。そうだろ」ルートの問いに、ガランスは無言の返答をした。
半日ほども山を登ると、頂上とまではいかないが、下の景色を眺めることができる尾根までたどり着いた。ガランスだけであれば、数時間で飛んでいけるのだが、今回はルートの足に合わせたため、一日では頂上までたどりつかなかった。北の方には、おどろおどろしい慟哭の谷が見えるが、こちらの山は、岩肌の間に草花がぽつぽつと咲いている。そして、先ほどまで歩いていた緑の森林地帯が見渡せた。美しい景色が広がっている。二人は、その場に腰をおろした。
「で、どこに行きたい?」ルートはガランスに問うた。
「分からん。どこに行きたいかなど、さっぱり考えたこともないからな」
「俺もまあ、お前が伸び伸び暮らせそうな土地なんて知らないしなぁ……」
「西ならば、あるいはな……」
「西? そっちに何かあるのか?」
「昔、聞いたことがある。西にはドラゴンしか住まない島があると。そして、そこは誰にも知られていないらしい。こちら側に住むドラゴンや人間には」
「じゃあ、そこに住んでいる奴らは……?」
「選ばれた者のみが、導きによってたどり着くことができる、と伝えられている。バカバカしいホラ話しだ」と、ガランスは吐き捨てるように言った。
「天国の喩えなのかもな」と、ルートも、よくある御伽噺だと思って、本気にはしなかった。
「慟哭の谷より北西は未開の土地だからな。誰も開拓していないから、そんな御伽噺が生まれたのだろう。それに、もし天国の喩えだとしたら、俺にはドラゴンの島なぞ関係ない」
「どういうことだ?」
「俺はもう五百年以上も生きている。とっくに寿命なぞ超えている」
「でも、元気そうに見えるがな……」
「俺の一族はみな強い。長命な者も多かった。それを皆殺しにした俺は、もっと長命ということだろう」
「もう死にたいのか?」ルートは頬杖をついて、西の方を見やった。
「この世界でやるべきことなどない。数百年もあの谷で眠りこけていたんだ。死んだも同然だ」
「でも、生きてるじゃないか。やりたいことやってから死んだ方がいいぜ」
「やりたいことなどないと言っただろう」
「いや、ほら、この間言っていただろう。殺し以外の世界を知りたいって」
「……そうだな。その通りだ。この間、お前と共に谷を出てから気づいたことがある。この山を歩き回って、気づいたのだ。動物も、植物も、互いを食い合っている。そうすることで、次の動物が生まれ、次の植物が生まれる。この草木も、あのヤギも、この世界からいなくなることはない。なぜ、俺の一族だけは、それができなかったのか。俺が皆、殺してしまったからだ。俺が死ねば、一族は完全に滅びる。一族が滅びることくらい、何とも思っていなかったが、ここらの森を見てしまってから、俺の体の中の血がざわざわするのだ。俺は一体何をやりたい? 何を求めているのだ?」
「お前も、その輪の中に入りたいってことか?」ルートは、ララが話していた自動人形の話しを思い出した。人間だけではなく、ドラゴンも、この世界の歯車なのではないかという考えが頭をよぎった。
「輪の中……。そうだな、この世界の輪に入るということがどういうことなのか、味わってみたいのだな」
「この間話した友達のドラゴン、シーグラムがな、言ってたんだよ。自分たちは、他の動物から怖がられてしまうから寂しいってな。自分たちはこの世界を愛しているのに、それだけが唯一残念なことだ、てな」
「世界で最強の存在だ。他の生き物から避けられるのは仕方ない。だが、確かに、阻害されるというのは、心地よくもあり、つまらなくもあることだ」
「そうだな」
二人は、そのまましばらく何も話さず、遠くの景色を見ていた。眼下には、ひたすら緑で埋め尽くされた景色が広がっていたが、その地平線を超えた先には黒ずんだ海が見えた。
じきに辺りは暗くなり、無数の星々が瞬いた。気温が下がってきたため、ルートはジャケットの前を締め、マフラーを巻いた。カンテラを取り出し、灯をつけた。辺りに枝が無いため、焚き火は焚けないと思っていたが、ガランスがかき集めてきてくれた。ルートは新聞紙に火をつけて、薪に火をつけた。そして、その火でパンを温めた。ガランスはというと、その辺りのヤギを捕まえに行ったようで、姿が見えなかった。
。
パンを食べ終わり、しばらくすると、ガランスが戻ってきた。
「……もう少し、ゆっくり考えればいいんじゃねぇか? お前は、ついこの間、あの谷から這い出てきたばかりだ」ルートは、先程の話しの続きをした。
「この森の中を……か? 散々飛び回ったさ」ガランスはそう返した。
「じゃあ、今度はもっと違う所へ行こうぜ。お前はどこへだって行けるんだから」
「だから、以前も言っただろう。俺が人間や他のドラゴンに見つかりでもしたら」
「俺もこの間言っただろう? お前がやったことはもう時効だって。何事もやってみなきゃ分かんねえよ。それで何か問題があれば、その時考えればいい」
「ふん。浅はかな考えだな」
「なんとでも言え。最後に決めるのはお前だ」
「まあいい、考えておこう」
その日の夜は、とても静かで、寒かった。
7
十二月十九日火曜日
二一〇〇時始業。曇リ。摂氏マイナス一度。以下、マルコ巡査カラ引キ継ギ。
早朝未明、五番街十七ブロック路地裏ニテ作曲家アルベルト・ベルクノ刺殺体ガ見ツカル。第一発見者ハ近辺ニ住ム浮浪者。半年前カラノ連続殺人事件トノ関与ガ疑ワレル。
第四分署ニ捜査本部発足。本部カラノ要請ハ無シ。
一二三六時、作家グラシア殺害事件ニオイテ進展アリ。容疑者ガ連行サレル。
容疑者ハ、グラシアノ元夫レオン・フィッシャー。離婚時ノ慰謝料支払イニツイテ裁判中。
事件当夜ノ目撃情報ガ新タニ出テキタタメ、容疑者トシテ浮上。ソレ以上ノ情報ハ公開サレズ。
以上
*
「ベルク先生が殺された」
この訃報は、ララの頭の中を真っ白にした。しばらくその場に立ち尽くし、呆然としていた。一緒にいたマリーも、ララを案じてくれていたベルクの死にショックを受け、しばらく言葉を発することができなかった。マリーがどうしようか思案していると、ララは微かな声を発した。「ふ、ふふっ……。一体、どこの誰が、私の邪魔をしてくれているのかしらね……。こんなことをして、一体なんになるっていうの……?」
「ララ、少し横になった方が……」マリーが声をかけた。
「私は大丈夫よ。それよりも、ベルク先生の最後のお姿を見てこなくちゃ」
「ご遺体は、まだ検死中ではありませんか? お会いできるかどうか……」
「だったら、会わせてくれるまで待つだけよ」
「私もご一緒します」
「いいえ、あなたはここにいなさい。家を空けてはダメよ」マリーはその言葉に頷き、ララは一人で病院へ向かった。
病院前の入り口では、記者たちが張っていた。ララはそれを意にも介さず、通り過ぎようとしたが、もちろん記者たちは彼女を囲った。この一連の事件をどう思うか、恩師に最後の挨拶をしに来たのか、グラシア殺害の容疑者が確保されたが、どう思うか、などなど。だが、ララは彼らには目もくれず、一心に歩いた。入り口前にいた警官たちが、それを見かねて、ララを院内へ促した。中に入ると、ララは警官たちに「ベルク先生のご遺体はどこ?」と訊いた。
「まだ検死中です。それに、最初の引き合わせはご家族と……」
「私も家族のようなものよ」と、ララは語気を荒げて言った。
ララの勢いに負けた警官は、彼女を地下室へと案内した。地下の廊下では、ベルクの妻がソファに座り込んで顔を両手に埋めていた。その両隣には夫妻の二人の娘が寄り添い、それから妻の弟がどうしていいか分からないという表情で立ち尽くしていた。家族たちがララに気づくと、こちらに寄るようにと、目線を寄越した。ララは黙って近寄り、妻の前に跪いて手を握ってやった。
しばらくすると、職員が来た。解剖が終わり、安置所に移送されたのだ。一行は安置所に向かった。遺体の体には布がかけられており、顔だけが出ている。妻は夫の体に寄り添い、泣いた。二人の娘も静かに泣いている。ララはその様子を静かに見守った。妻の弟がララに言った。「ララ、今日は、来てくれてありがとう。あの方も、きっと喜んでおられるだろうよ」
「いいえ、こんな形で人生を絶たれて先生も無念でしょうよ。だって、これから作曲に取り組もうとしていたヴァイオリン協奏曲の構想があったんですもの……」と、ララは返した。
「そうだったのか……」
「犯人を捕まえるためだったら、どんなことでもしますわ。どんなことでも……」ララは誰に語りかけるでもなく、奥歯を噛み締めながら、そう呟いた。
ララを驚かせる事件はまだ起こった。作家グラシアを殺害した犯人が捕まったのだ。そのニュースを聞いたのは、帰宅してからのことだった。マリーから夕刊を渡された。そこには、グラシアを殺害したのは、元夫だということが書かれていた。莫大な慰謝料を請求されており、首が回らなくなり殺害したということだ。ちょうど、ララの周辺人物が殺害される事件が立て続けに起こったことも手伝って、彼の犯行を実行させてしまったらしい。つまり、グラシアの殺害だけは、一連の連続殺人とは全く別件だということだ。
ララは体の力が一気に抜け、ソファに深く座り込んだ。マリーが茶をテーブルにそっと置いた。ララはマリーに語りかけた。「ねえ、マリー。昼間は誰か来た?」
「一度だけ、二人組の記者が来ました。あとは、いつもの新聞配達の子供。記者は、あなたがいないと分かると、すぐに帰りましたが」
「そう」ララは少し微笑んだ。そして言った。「ねえ、次は誰が殺されると思う?」
「それは……そんなこと、もう起こってほしくないですが」
「それもそうよね。それに、もう私には、殺されるような人が思い浮かばないわ。そうね、強いて言えば、数年前に喧嘩別れした雑誌編集長とか、学生時代に大喧嘩した教授とか、かしらね。でも、私に所縁ある人を殺して、なんになるって言うの? 犯人に言ってやりたいわ。あなたは馬鹿げたことをしているって。そうだわ、記者たちを集めてちょうだい。私のことが嫌いなら、私のところに直接来なさいって」
「ララ……それは悪手かと……」
「ふふ。あなたはそう言うわよね。でも、昔からあなたはいつも一緒に何かをしてくれた。いい? やられるばかりじゃダメってこと、分かっているわよね。いつも、そうしてきたじゃない――」ララのその言葉に、マリーは何も言わず目を伏せた。そして、キッチンへ姿を消した。ララはマリーから出された茶を飲んだ。
8
ルートはガランスに会うために、またあの山を訪れていた。先日の再訪からそれほど時間は経っていない。だが、ガランスは見当たらなかった。どこか遠くへ出かけたのだろうか。念話を使ってみようと思ったが、ルートが呼びかけても何も返答は無かった。念話が届かないところにいるのだろう。
心の中でガランスを呼びながら、小川に沿って歩いた。すると、唸り声が聞こえてきた。四頭の狼が森から出てきたのだ。ルートは、後退しながら影の紐を繰り出し、一番先頭の狼を転ばせ、左手の狼を縛り上げた。だが、右手と後ろに控える狼に対しては、手が足りない。万事休すと思ったその時、黒い影が、狼たちを覆い尽くした。ガランスだ。狼たちはドラゴンの登場に怯え逃げようとしたが、ガランスは容赦が無い。一匹残らず、爪で押さえつけ、牙で腹を食い破り、全員食い殺してしまったのだ。
「はあ……。ガランス、お前が来てくれてほんとたすかったぜ……」と、ルートはへなへなとその場に座り込んでしまった。さすがに、狼に食い殺されるのは嫌すぎる。
ガランスは狼たちを貪りながら「こんな所に一人で来るからだ。お前がしつこく俺を呼ぶから、こうして助けられたものを」と言った。
「なんだ、届いてたんならもっと早く答えてくれよな」ルートは、よれよれと立ち上がった。
「お前に文句を言われる筋合いは無い」ガランスは、狼たちを食い終わって、満足げに寝そべった。ルートはその隣に座り、喋り続けた。
「まあ、ともかく助かったぜ。そうそう、いい酒を持ってきたんだ。飲むだろ?」と、ルートがワインのボトルを取り出すと、ガランスはそれを横目に見て、「飲む」とだけ応えた。
ルートは、ガランスの口の中にワインを流しながら訊いた。
「それで、新居探しでもしてたのか?」ガランスはゴクリと飲み込むと、答えた。
「人里に入らない範囲で、この周辺を飛んでいた。特に目的は無いがな」それを聞いて、ルートはちょっと満足気だった。
「そうか、ならよかった」
「何がよいのだ?」
「お前が引きこもっていないようでさ。元気に飛び回ってるようで、なんだか安心したぜ」
「ふん、そんなことがお前にとって良いことなのか?」
「確かに俺にとっては何にも得にならないけどな。まあでも、なんとなく嬉しいぜ」ルートのその言葉に、ガランスはよく理解できないという風に黙り込んだ。その横で、ルートはワインを飲み干した。
二人は、森の中を目的も無く歩き回った。ガランスの巨体が木々を押しのけていく。森の中は起伏が激しく、土も柔らかい。そのため、ルートは一歩一歩、足場を確認しながら歩いた。ガランスはそんなことも気にせず、ルートの後ろをのしのしと歩いた。
「なあ、ガランス。もう少し足場のいいところって無いのか?」
「もう少し歩けば海岸線沿いに出る」
「……もう少しってどれくらいだよ」と、少しうんざりしていると、ルートは飛び出した木の根に足を取られて転んでしまった。ルートは悪態をつきながら起き上がり、体についた泥を落とした。ガランスはその様子を見守っている。
数時間も歩くと、海が見えてきた。今日は快晴のため、海面は光できらきらと反射し、まるで絵画のように綺麗な光景が広がっている。森を抜けて砂浜に出てみると、浜には大小様々な流木が転がっており、浜は荒れ気味だった。
そんなことも意に介さず、ルートは開放的な海岸に出れたことに満足し、伸びをした。ガランスは特に感慨もなく、彼の隣に座り込んだ。
「ガランス、こっちは滅びの地の方向じゃないんだっけか。やけに綺麗なところだけど」
「そうだ。滅びの地はここよりもずっと北だ。ここは慟哭の谷よりも南、滅びの地は谷を挟んで北西に広がっている」そう言って、ガランスは北西の方角を見た。
「ふーん、そうか」と、ルートは言った。
その時、二人の頭上を何か大きなものが飛び去った。ドラゴンだった。ルートもガランスも、この辺りにドラゴンが出ることが意外で驚いていた。相手も、黒いドラゴンが海岸に佇んでいることに驚いたのか、少しの間こちらを見ていた。そして、素早く飛び去っていってしまった。
「ルート、お前はもう帰れ」と、ガランスが上空を仰ぎながら言った。
「……なんでだよ」
「俺の姿を見られるのはまずい。ましてや、人間を襲っているように見えたかもしれない」
「まさか! 全然襲ってるような光景じゃなかっただろ!」
「しかし、俺の姿を見られた。あいつが仲間を引き連れて俺を殺しにくるかもしれない」
「早まるなよ。聞いたことあるぜ。黒いドラゴンの一族じゃなくても、黒いドラゴンはいるって。あいつがそう思う可能性だってあるだろ」
「ルート、俺の姿は歴史に残っているはずだ。黒い鱗に赤い瞳、赤い結晶。ましてやここは慟哭の谷の近く。誰しも、凶悪な黒竜が復活したと思うはずだ」ガランスのその言葉に、ルートは一瞬、黙った。
「じゃあ、どうする?」ルートは口を開いた。
「谷に戻る。それか、滅びの地へ行くか。ルート、狼どもがいない所まで送ろう。そうしたらお別れだ」二人は黙って、海岸線沿いを南下した。
人里ギリギリのところまで歩いて、彼らは別れた。「それではルート。世話になったな。これでお別れだ」
「ガランス、お前の敵意が無いことが分かれば、誰だって分かってくれるはずだ。だから、そう逃げ腰にならないでくれ」と、ルートは言った。ガランスは、その言葉を背に、その場から去った。
*
それからしばらくして、ルートは新聞で「伝説の黒竜捕獲」という見出しを見つけた。
9
各国の新聞に「黒竜捕獲」という大ニュースが載る少し前の出来事だ。ガランスはルートと別れた後、慟哭の谷まで戻った。だが、谷底には入らず、山の上でじっと考えていた。ルートが最後に言ったことを。「自分に敵意が無ければ、相手とは諍いにならない」その通りだった。自分が暴れ倒してから三百年余り。その時のことを知っている者などいるはずがない。もしいたとしても、よぼよぼの老竜だけだろう。以前、ルートが言った通り、時効なのだ。
ルートと別れてから一日経つと、五頭のドラゴンがガランスの元へやってきた。やはり、彼を討伐しにきたようだった。
ガランスは彼らを黙って迎え入れた。ドラゴン達は、いきなり攻撃するということはしてこなかった。先頭に立つドラゴンが言った。「お前は、黒い竜の一族か?」その問いに、ガランスは「そうだ」と答えた。後ろのドラゴンたちが身構えた。先頭のドラゴンが続けて問うた。
「人間と一緒にいたと聞いた。その人間はどうした?」
「生きて帰した」
「本当か?」
「本当だとも」ガランスは気怠げに答えた。
「お前が本当に黒い竜の一族ならば、ここで討伐しなければならない。ここまで大人しいということは、それを受け入れるということか?」
「悪いが、俺はもうすぐ寿命だ。だから、寿命のまま逝かせてはくれないか?も う、この山からは降りない。人間とも会わない」
「それが本当だという保証はどこにもない。黒い竜の一族は根絶しなければならない」
「それは、お前たち一族に言い伝えられていることか?」
「ああ、そうだ。だから、敵意が無いということであれば、そのまま楽に逝かせてやろう」と、先頭のドラゴンはそう言うと、後ろのドラゴンに目配せをした。後ろに控えていた四頭のドラゴンが一斉にガランスに覆い被さった。ガランスは抵抗しなかった。こうなる運命だということは分かっていたからだ。だが、ドラゴン達の爪が鱗の間を縫って皮膚を突き刺した時、血が騒いだ。黒い竜の本能が吹き出した。
ガランスに覆い被さったドラゴンたちは、ある物で貫かれ、倒れた。ガランスの傷口から漏れ出た血液だ。その血液は硬化し、鋭利な凶器となった。ドラゴンたちはそれに貫かれながらも、なんとか立ちあがろうとした。だが、その内の一体は、ガランスの爪に押さえつけられた。底の見えない谷底から聞こえてくるようなおぞましい声が、五頭のドラゴン達の頭の中に響いてきた。
「無惨に殺されるのが俺の運命だと思ったが……生きろという声が俺の頭の中で響いてくる。お前たちは運が悪い……。過去の遺物さえ掘り返さなければ、長生きできたものを……」
*
ガランスを討伐しようとした者の内、三頭のドラゴンは、慟哭の谷で殺された。残りの二頭は、人里へ助けを求めた。この五頭のドラゴンは、慟哭の谷周辺に住まうドラゴン達だ。といっても、ガランスが動き回っていた周辺には滅多に寄らず、人里の近くで暮らすドラゴン達だった。その中の一頭が、先日、海岸でガランスたちを見つけてしまったのだ。その目撃者は、先ほど殺されてしまったが。
二頭のドラゴンは、近くで一番人口が多い街に降り立った。彼らも他のドラゴンと同じく、人前には滅多に姿を表さない。だから、二頭が街中に降り立った時は大騒ぎになった。この辺りには戦えるドラゴンはもういない。だから、人間の力を頼るのだ。ここ百年の間に、人間の軍事力はとても大きくなった。先ほどのガランスはいくらか手傷を負ったし、もうすぐ寿命の老竜だ。人間の発展した力ならば或いは、と考えたのだ。
事情を聴いた人間たちは、最初は戸惑いつつも、鬼気迫る様子のドラゴンを見て、共に戦線を張った。これには、ジャーム国の軍部も手を貸した。主に首都のリツィヒ市に集まる軍事力を動員した。
ガランスと討伐隊の攻防は数日間続いた。それは、首都では行われず、郊外でなんとか食い止めていたのだ。圧倒的な力を持つガランスでも、やはり数には敵わなかった。最初は押されていたとはいえ、二頭のドラゴンと人間達が手を組んだのだ。
全盛期よりも力が衰えた老竜では、その内に体力の限界を向かえた。ガランスは倒れてしまったのだ。
*
ガランスの身柄は、リツィヒ市の街中まで運ばれてきた。リツィヒの中心部には古城がある。約百五十年前に王政が崩壊してからは、王族が住む場所では無くなり、行政を行う場所として機能している。王が君臨していた頃の名残として、持て余されていた広い中庭があるのだが、ガランスはそこへ運ばれた。巨大な鎖を何重にも巻きつけられ、足の甲には杭が打たれている。さっさと殺してしまう方が安全ではあったが、歴史の生き証人でもある。三百年前の大虐殺の裏付けを取るという大義がある。しかし、それは半ば表向きで、本当は伝説のドラゴンの生の姿を、誰もが目にしたかったのだ。
伝説の黒竜捕縛のニュースを知ったルートは、リツィヒの街へ戻った。しかし、一般人は城内に入ることはできない。ルートは、城の前に集まった人混みを眺めるしかできなかった。
今はガランスに会うことは叶わないと思い、踵を返すと、ララの姿があった。休暇の時よりも幾分やつれている。そういえば、ある作曲家が殺されたんだっけか、とルートは思い出した。ララは、こちらを睨むように見つめている。ルートは、しばしぼうっとして見つめ返していた。
「ルート、私に嘘をついたわね……」ララは口を開いた。
「……? どういうことだ?」ルートには全く心当たりがなかった。
「黒いドラゴンのこと。やっぱり本当にいたんじゃない」確かにそうだ。ルートは嘘を吐いたのだった。ララがドラゴン探しなぞ行かないように。まさか、こんな形でバレるとは。しかし、この街で起こっている数々の事件のことを思えば、ルートの嘘なぞ些末なことだ。
「慟哭の谷でのことを黙ってたのは謝るよ。けど、そんなに怒らなくてもいいだろ」ララはじっと睨み続けていた。しかし、確かにその通りだと言わんばかりに、ため息を吐いて言葉を返した。
「確かにその通りね。あなたからしたら、私に慟哭の谷に行ってほしくないから、嘘を吐いたんでしょう。でも、最近の私への嫌がらせのような事件を考えたら、何もかもに苛立ってね……」ララは髪をかき上げた。
「嫌がらせ? やっぱり、お前に恨みを持つ奴が今までの殺人をやっていたのか?」
「歩きながら話しましょう」二人は歩き出した。
「プライスラー先生とアントニオは、私に関係を迫っていたから、正直言って、殺してくれた犯人にはお礼を言いたいくらいよ。グラシアは、本当に残念だった。でも、犯人は捕まったし連続殺人とは別口だっていうことだから、もう何も考えないことにする。でも、ベルク先生は……。あの人を殺した奴だけは、絶対に許さない……。よくも私の恩人を……。一体、何の目的で……」ララは、今にも誰かを刺しそうな目つきをしていた。
「それなんだけどな、ララ。シーグと話したんだ。一連の事件の法則。プライスラーもアントニオもベルクも、遺体が発見された場所と殺された場所は違う。それに、遺体が発見されたのはいつも火曜日」
「同じ曜日? でも、そこまで法則性があるなら、新聞記者が黙ってないわよ」
「警察の動きが鈍いことと関係しているのかもな……」
「誰かが真相を隠してるってこと……?」
「お前の周辺を掻き回してるくらいだ。お上にとって、面倒な奴かもしれないぜ」
「ふん、そんなの関係ないわ。早くこんな事件、終わってくれないと----」
「ララ、一つ訊いていいか?」ルートは話題を変えた。「お前の周りの事件っていったら、お前の父親も殺されてんだよな」ルートが出した話題に、ララは口元を引き攣らせながら言った。「あれは誰かが放火したか、義父の不始末よ。もう二十年も前のこと……」
「でも、もしかしたら、今回の件と繋がっているとか……」
「それは無いわ。あれはもう過ぎたことなの」ララは断言した。その語気の荒さに、ルートは、それ以上追求するのをやめた。
「とにかく、同じ曜日、ね。分かったわ」そう言って、ララは立ち去った。
*
翌日、ララは自宅前で記者を集めてこう言い放った。
「私は、親愛なるベルク先生を殺した殺人鬼を絶対に許しはしない。犯人には、正当な法の裁きと、この上ない苦しみを味わってほしいと思っている」
10
十二月二十五日月曜日
一七〇〇時始業。曇リ。摂氏マイナス三度。本来ハ通常出勤日ダガ、黒竜捕縛ニヨル人員不足ノタメ、勤務形態ガ一時的ニ変更。
一八四四時、中央広場ニテスリ発生。現行犯デ逮捕。
ヴォイツはそこまで書いて手を止めた。先ほど対応したスリ。その時、ララの姿を人混みの中で見た気がしたのだ。そして、傍には汚く背の低い浮浪者がいた気がする。あれは本当に彼女だったのだろうか。そう思案していると、巡回の時間になった。
*
すっかり街が寝静まった深夜、ガランスは自分に近づく者の気配を感じた。こんな時間に城内の人間が来るはずはない。鎖でがんじがらめにされたため、頭は動かせない。目だけを動かして、自分に近づいてくる者を見た。長い黒髪の痩せた女だった。静かな、だがしっかりとした足取りでガランスに近づいてくる。
女はガランスの目の前で立ち止まると、彼の赤い目をじっと見つめてきた。女の目は宝石のような緑色だった。どこかで見たことのあるような眼差しだと、ガランスは思った。
「あなたが、伝説の黒いドラゴン?」女は訊いた。ガランスは気怠げに答えた。
「人間に捕まって醜態をさらしている老体という噂でも聞きつけて、物見遊山でやってきたか」
「そうといえば、そうなのかもしれないわね。でもね、私は、ずっと前からあなたに会いたかったの」
「ずっと前から?」
「そう。本当は自分であなたを探したかったのだけれど、知り合いに止められてね。代わりにその知り合いがあなたを探しに行ったのだけれど、あなたはいないと嘘を吐かれてしまったの。できれば、もっと普通の状態であなたに会いたかったわ」
「その知り合いは、俺には会っていないと嘘を吐いたのか」
「ええ、そうよ」女のその返答に、ガランスはクックッと小さく喉で笑った。
「なぜ、俺に会いたいなどと思った」
「数ヶ月前、初めてドラゴンに会って、あなたたちに興味が湧いたの。その大きな羽根でどこまででも行けて、どこででも生きることができて、誰にも負けないあなたたちをね。そして、その中でも無類の強さを誇ったあなたに会ってみたかった。この世の頂点に立ったあなたを」
「もう頂点などではない。見ての通り、死にかけの老体だ」
「でも、昔は誰にも負けなかったんでしょう? ねえ、なんで、自分の一族を皆殺しにした後、姿を隠したの? なんで、今になってこんなことになってしまったの?」
「ふん、面倒臭いことを訊く人間だな」
「答えてはくれないかしら」
「いや……。一族を殺した後、姿を消したのは生きる目的が無かったからだ。そのまま、眠りながら死ぬつもりだった。今、こうしているのは、余生を過ごそうと思った末の、運命の巡り合わせからだろうな……」
「余生を過ごそうと思ったから、今こうして殺されかけてるってこと?」
「ああ、そうだ。世界に愛されなかった種族にふさわしい末路だ」
「本当は、穏やかに死にたかったの? ただ眠りながら死を待つのではなくて?」
「お前の知り合いとやらに唆されたせいで、浅はかな考えを持ってしまったのだ。俺も頭がすっかり鈍った。あとはもう死を待つのみだ。どうだ? いいとは思わないか? かつて世界を荒らし回った最強の種族が、最期は人間に騙されて、蹂躙されて、恥を晒して死ぬ。……もうこのくらいでよいか?」ガランスは目を閉じた。
「確かに、舞台の脚本としては、それが正しいのかもね。でも、それではありきたりでつまらないわ。もっと生きたいのでしょう? 世界に愛されたいのでしょう? 私もね、もったいないと思っているの。あなたたちは、もっと自由に羽ばたくべきだって――」女はそう言うと、唐突に歌い出した。白い炎を伴って。
私たちは苦しみと喜びとのなかを
手に手を携えて歩んできた
今、さすらいをやめて
静かな土地に憩う
周りには谷が迫り
もう空は黄昏ている
ただ、二羽のひばりが霞の中へと
なお、夢見ながら登ってゆく
こちらへおいで ひばり達は歌わせておこう
まもなく眠りの時が来る
この孤独の中で
私たちがはぐれてしまうことがないように
おお はるかな静かな平和よ
こんなにも深く夕映に包まれて
私たちはさすらいに疲れた
これが死というものか
ガランスは白い炎に包まれながら、女の歌声を聴いた。人間の歌を聴くのは初めてだった。額の結晶が心地よい暖かさで包まれた。
歌が終わると、白い炎は消え、鎖と杭は全て燃え溶けていた。ガランスは再び自由の身になったのだ。ガランスはゆっくりと身を起こした。
「どうして、このようなことを? お前は、俺が怖く無いのか?」ガランスは女に訊いた。
「あなたは、とても哀れだわ。だから、最後まで抗う姿を見てみたいの。さあ、早く行って。さっきの炎に気づいた役人が来るはずだわ」
ガランスはしばし女を見つめた後、何も言わずに去っていった。ララはその様子を横目に、自分もさっさと逃げた。
*
ララは城を出て、誰も歩いていない路地に入った。大通りでは、巡査たちが城へ向かって走って行く様子が窺えた。
裏路地に入り、自宅のある四番街へ向かうところで、ララは呼び止められた。振り返らず無視して歩き出そうとしたが、声が追いかけてくる。男の声だ。「ララ、あの役所で何をしていたの?」ララは立ち止まった。
「あの城から出てきたでしょ。一体、何をしていたの? あのドラゴンと関係があるの? もしかして、夕方、会っていた乞食とも何か関係があるの?」
「あなた、何言っているの? 私は役所には行っていないわ。物乞いにも会ってなんかいないわ。出鱈目なことを言っていると、巡査に言うわよ」
「ねえ、どうして怒っているの? この間の記者会見でも、とても怒っていた。どうして? 前は、あんなに楽しそうだったじゃないか。あの男が死んだ後————」
「何を、言っているの? 前は……って、いつことよ」ララは男の方を振り返った。ララに見てもらえた男は嬉しそうだった。その男が警察の制服を着ているのを見て、ララはハッとした。
「ほら、君を殴っていた男。僕が君を助けた、あの時……」男のその言葉に、ララは半年ほど前の記憶が蘇ってきた。指揮者のプライスラーとの不倫関係がうまくいかず、口論になり、そこを巡査に助けられた。しかし、ララはその時の巡査の顔など覚えていなかった。そして、しばらく後にプライスラーは殺害された。撲殺されて。ララは、嫌な結論に思い至った。
「……あなた、私に何の用?」
「どうして、あの作曲家が死んで、あんなに怒ったのか知りたくて。だって、あの指揮者が死んだ後も、歌手が死んだ後も、楽しそうに晴々とした顔をして歌っていたから。どうして、今回は嬉しくないのかなって思って」
「ベルク先生は私の恩師よ! 私のことを最後まで信じてくれていたのに!」ララは声を荒げた。その様子に、男はビクッとした。
「まさか、あなた、私のために殺したとか言うんじゃないでしょうね……。私を取り巻く男たちを」
「だって、殴られた君は、とても苦しそうな顔をしていた。それで、あの男が死んだら楽しそうにしていた。だから、君を苦しませる人がいなくなれば……って」男の声と手は震えていた。
「あなたを通報するわ」ララは男に言った。相手は巡査の男。早く誰かに助けを求めなくては。ララは大通りに出ようとした。その時、男がナイフを振りかざしてきた。ララはそれを咄嗟に避けようとして尻餅をついた。男はララの前に立ち塞がった。大通りに行かせないつもりらしい。
「どうして? どうして? 僕は、君の喜ぶ顔が見たかったのに、どうしてそんなに怒るの?怒らないで、怒らないで。怒らないで……ください……」ぶつぶつ呟く男の手は震えていた。視線は両手で握ったナイフに注がれている。
ララは大通りに逃げるのを諦め、そのまま路地の奥へ走った。それに気づいた男が追ってくる。路地を抜けると、建物群の裏側、下水が流れる道へ行きあたった。ララはそこを走った。どこかに警邏中の巡査がいると信じて。だが、その時は、巡査達は皆、脱走したガランスの捕縛に追われていた。皮肉にも、自分が引き起こしたことによって、ララは危機に陥った。
せめて自宅の方へと思い、走った。高級住宅街まで行けば、さすがに巡査も巡回しているだろう。だが、半ば混乱状態で走っていたため袋小路に行きあたってしまった。
右手に下水路があるが、そんな所へ入ってしまったら、余計危険だ。どうにか、男の脇を抜けて逃げるしかない。男がナイフを向けて襲ってきた。ララは横へ避けたが転んでしまった。そして、男がナイフを振り下ろしてきた。その瞬間、ララに覆い被さるモノがあった。ナイフはその者の背中に刺さった。ララはその者の顔を見た。マリーだった。マリーは苦悶の表情でララを見ている。
予想外の人物を刺してしまった男は狼狽している。男はマリーの背中からナイフを引き抜こうとした。なかなか引き抜けないものだから、その痛みでマリーが呻いた。そして、背中からナイフが引き抜かれた時、血が吹き出し、石畳の上に血溜まりがあっという間にできた。ララは血塗れのマリーを抱き止め、見つめたままで、その周囲のことは何も見えていなかった。
*
今は月曜日の深夜。もう時計の針は〇時を過ぎたため火曜日になった。ここ最近、ルートは深夜のリツィヒを見張っていた。
黒竜捕縛のニュースが出た時、ルートはシーグラムにこっぴどく叱られた。どうして黒いドラゴンのことを黙っていたのだと。ララの休暇を見届け、サイラスと会った後、二人は別行動をしていた。シーグラムはずっと、リツィヒの周辺に滞在し、ララの身を案じていた。だが、人の街に簡単に入るわけにはいかないので、ベルク殺害を許してしまった。
そして、リツィヒに駐在する軍人たちがガランス捕縛のために動いた時、ララとは無関係だとして無視していたが、運ばれてきた黒いドラゴンを目の当たりにして、おおよそのことを察した。ずっと一人で行動するルートには何も言わないでいたが、伝説の黒竜が本当にいたとあっては、黙っていられなかった。
それからは、二人で交代で夜のリツィヒを見回っていた。黒竜がこれからどうなるのか、ララを取り巻く事件がどうなるかを。
だが、今日まで全く動きは無かった。ララを取り巻く人物たちの中に、もう殺されるような人はいないのだろう。そもそも、事件が起こる間隔は数ヶ月と、かなり長かった。ついこの間、新たな殺人が起こったばかりだというのに、またすぐに起こるはずは無かった。だがルートは、何か手がかりが得られるのではないかと、深夜から明け方にかけて、街を見張っていた。
そして、この日も、民家の屋根の上から、何か無いかと見回っていたルートは、城の方から立ち登る白い炎を見た。あれはララの慧だと、すぐに分かった。そしてその後、巨大な黒いドラゴンが城から飛び上がった。黒竜はすぐさま、北西へと飛び立った。街から遠く離れて。その様子を目撃した巡査たちは、城内に向かう者、応援を呼ぶ者とに別れ、騒然とした。
ルートは、ガランスが自由の身となったことに対する安堵の気持ちと、不安の気持ちという矛盾した二つの感情に苛まれた。そして、それと同時に、なぜララが関わっているのか、という疑問が湧き上がった。ララはガランスに会いたがっていた。だが、関係者以外は入れない役所によく忍び込めたものだと考えていた。
ルートはララを探した。この時間に一人でいるのは危ない。自宅までも距離がある。ルートは、城から彼女の自宅に向かう道を予測して探した。恐らく巡査の目を避けて歩いているだろうから、裏路地を中心に探した。だが、この時、ルートは運悪く、ララとは正反対の方向、大通りを挟んで反対側の方向を探していたのだ。
探し始めて十数分も経つと、どこからか微かに女の悲鳴が聞こえた。それは幻聴とも思えるような小さな悲鳴だった。だが、ルートは直感でララだと思い、声のした方へ向かった。屋根から屋根へ飛び移っていくと、眼下に一人の男と二人の女がいるのを見つけた。だが、一人の女は血を流してぐったりしている。そして、男の右手に光る物を見つけた。ルートは路上に降り立ち、すぐさま、男を背後から、影の紐で拘束した。男は膝をついて大声で泣き喚いた。拘束されたことなど分かっていないようだ。
「どうして、どうして! 怒るの! お願いします! 怒らないで! 怒らないで……あぁ……あああぁ……」
ララはそんな男の様子も、ルートの登場も分かっていないようで、呆けた表情で刺されたマリーを見ている。マリーの目はもう死んでいた。ララが手を取ろうとしても、マリーの手はずるりと落ちてしまった。ララはルートの呼びかけにも答えない。聞こえていなかったのだ。
ルートは泣き喚く男の頭を思い切り殴って気絶させ、ナイフも蹴り飛ばし、ララに近づいた。彼はそこでやっと、血を流して死んでいるのはマリーなのだということに気がついた。
「ララ、大丈夫か? どこか刺されてないか? なあ、おい」ルートはララを揺さぶった。そこでやっと、ララの目がルートに向いた。すると、ララは頭を抱えて呻き始めた。
背後から誰かの声が聞こえる。巡査たちが異変に気づいて駆けつけてきたのだろう。当事者たちはともかく、ルートはここにいると間違いなく面倒なことになる。男の拘束を解いて、彼は背後に座り込んでいるララに語りかけた。
「俺がここにいるのはマズイ。俺は一旦、退散するから、あとは巡査たちを頼れ。いいな」と、言い終わると同時に、ララは泣き喚きながら駆け出した。マリーの遺体を投げ出して。ルートは「おい!」と叫んで、すぐに追いかけようとしたが、男がもぞもぞと動いたため、再び頭を蹴り付けて眠らせた。その隙に、ララは下水道の闇の中へと消えてしまった。ルートはすぐ後を追ったが、どこから聞こえてくるのか分からない水音が響いてくるのを耳にしただけであった。
11
瓦礫と化した街に来た。そこはもう街と呼べる場所ではなくなっていた。人の影はなく、建物の瓦礫が散乱し、焼け焦げた臭いが漂っていた。破壊されてから、まだ時間はそれほど経っていない。
ルートは残っている建物の中で、一番高い建造物に、腰を据えているガランスの姿を認めた。ガランスは口を開いた。「久しぶりだな。ルートよ。何の用だ?」ガランスは薄ら笑いを浮かべた。ルートもつい口が歪み、変な笑いを浮かべた。「訊きたいことがあるんだよ」
「ならば、場所を移そう。じきに人が来る」二人は街から離れ、人気の無い林に入った。すっかり雪が降り積もり、道は歩きづらくなっていた。ルートはガランスに置いて行かれないよう、必死に足を上下させた。しばらく歩くと、林を抜けた。そこには白い地平線がどこまでも続いていた。今は使われていない古い国道が雪に埋もれてしまっている。人家も畑も何も見当たらない本当の地平原。
「俺に訊きたいこととはなんだ」ガランスが口を開いた。
「お前の拘束を解いたのは長い黒髪の女だろ? あの夜から、あいつが行方不明だ。何か知らないか?」
「いいや。あの女にはあれ以来、会っていない」
「そうか」会話が途切れた。ルートは、ふと考えた。あの時、慟哭の谷などに足を踏み入れなければ、と。
ルートは言葉を継いだ。「あの夜、あの女の侍女が殺されたんだ。本当はあいつが狙われていた。でも、その侍女がかばったんだ。それからすぐにあいつは逃げた。それからずっと見つからない」
「見つけて、お前はどうするのだ?」ルートは言葉に詰まった。ララの身の回りで起きていた事件は解決したのだ。真の連続殺人犯が捕まったことによって。
巡査のヴォイツは、ララの周囲の人間を殺していたことを白状した。指揮者のプライスラー、歌手のアントニオ、作曲家のベルク、ララの侍女マリー、全ての殺人を認めたのだ。このことは大々的に報じられた。ララは被害者だ。この事件により、世間から疑われ、親しい者達も亡くした。今、世間はララに同情を寄せるムードになっている。ショックで心神喪失状態になったとはいえ、姿を現してもいいだろう。
「……安心したいのかもな」ルートはふと頭に浮かんだことを言った。「どこでどうしてるか分からないから、生きていることを確認したい。それ以外のことは何も考えてなかったぜ」そのルートの回答にガランスは前を見つめながら語った。
「あの女も、俺と同じだ。孤独だから、逃げ回っている。どこにも立てない杭は、転がるしかない。転がって、いつか朽ちてゆく。我々はそういう存在だ」
「お前もララも孤独じゃない。地面に立ってられる杭だ。ガランス、お前こそ、もうこんなことはやめろよ。キリがねぇ」ルートはガランスに向き直った。二人は互いに向き合った。
「やめる? この争いをか? いいか、ルート。向かってきているのは世間の方だ。俺はただ、自分の身を守っているだけだ。なぜ、俺のほうからやめなければならない。俺にむざむざ殺されろと言うのか?」
「そうじゃねぇ。でも、このままじゃ一生お前の討伐は終わらねぇぞ。なんとか和解の方法を探して……」
「和解? 本当にそんなことが可能だとでも思っているのか? 俺と俺の一族が過去にしたことを考えてみろ! このひと月で俺が殺した人間とドラゴンの数を数えてみろ! 俺はこの世のあらゆる生物の敵でしかないのだ。ならば、俺の敵がいなくなるか、俺が死ぬか、そのどちらかでないと、この争いは終わらん!」ガランスの目と目の間にはいつも以上に皺が寄っていた。彼は歯を剥き出しにし、喉を震わせながら語った。ルートは、その様子に気圧されて半歩下がった。
「けど、今のお前は、昔のお前と一緒じゃないのか? 破壊の本能に動かされてた頃と」ルートは苦し紛れに反論した。
「今は殺そうとしてくる敵がいるから、己の身を守っているだけだ。それに、元はと言えば、お前が外に出るように言ったからだ。その先の未来に思い至らなかった俺も俺だが、きっかけはお前の言葉だ。違うか?」ガランスは鼻先をルートに近づけながら言い返してきた。ルートに熱い息がかかった。
「俺は、別にお前を困らせようと思って言ったわけじゃない……」ルートは力なく返した。
「ではなんだ?」
「前に言っただろ? 俺の友達は、数十年引きこもってたって。その時のあいつは、疲れたような淋しそうな顔してたんだ。でも、あいつの話しを聴いて、あいつの住処を見て、ああ、まだコイツはこの世界が好きなんじゃないかって思ったんだ。だから、お前にも、あいつに言ったことと同じことを言ったんだよ。ガランス、お前、この世界を愛したいんだろ?」
「だが、世界は俺を拒絶しているようだ。俺は、そういう星の下に生まれついたんだよ」
「何が生まれついただよ! そんなもん、全部無視してやりゃいいだろうが!」
「では、お前はこの運命を捻じ曲げられるというのか!」つい語気を荒げたルートに対して、ガランスも叫んだ。ルートは言葉を継げなくなった。
ガランスは静かに言った。「分かったら、もう俺に構うな。そして二度と姿を見せるな。このままだと、お前まで殺してしまいそうだ」ガランスの口から白い息がぶわっと舞った。
ルートはガランスに背を向けて歩き出した。雪に足をとられながら、不格好に歩いた。
一時間ほど、まっすぐ歩いた。恐らく、まっすぐ。雪が舞っていた。小さな雪の粒はルートの顔を撫で、また風に乗って消えた。
彼は何も考えていなかった。ただ、後悔の念だけが彼の心を支配していた。ルートは小さく呟いた。――悪かった。
12
年が明けてからは、石造の街にも雪が降り積もることが多くなってきた。今もまさに、ゆっくりと雪が舞い落ちてきて、石畳の上に降り積もっていった。雪で濡れてゆく道を、馬車や新しい乗り物が走っていった。「自動車」という蒸気で動く乗り物だ。これからは、馬要らずで街や鉄道が通っていない道を駆け抜けられるらしい。とはいっても、まだ安全性の面で、実用化に至っている地域は少ないらしいが。
ルートは、その新しい文明の利器をぼんやりと見送り、そしてまた、ゆっくり歩き出した。ララがいなくなって一ヶ月半が経とうとしていた。
行方知らずの女を探すために、ルートは情報を掴めそうな人物達に協力を頼んだ。リメアからの留学生でリメア軍幹部の息子でもあるサイラスを最初に頼ったが、さすがに本拠地でもなく、そしてまだ一介の学生である彼には、表舞台から姿を消した人物を探すのは到底無理な話しであった。
裏家業の者たちにあらゆる情報を与えてくれる故買屋のピルツェルは「そんな一銭の価値にもならない情報は知らん」と、ルートの頼みを一蹴した。ルートが、自分が金を出すから調べてくれと言うと、ピルツェルは、信じられない光景を目にしたと言わんばかりの顔をした。「一応調べてはみるが、期待はするな」と言って、ピルツェルは金を受け取らずにルートを帰した。いつもと大分様子が違う馴染みの若者を、あまり刺激しないようにしたのは、彼の長年の経験だろうか。
しかし、ピルツェルですらも分からないとなると、他の者たちに当たっても、結果は同じだろう。ルートの頭の中には、最後の一人が思い浮かんでいた。あまり頼りたくはない人物だった。乞食のディックだ。ルートの敵とも味方ともいえない怪しい浮浪者。正直言って、一度頼ってしまったら、膨大な見返りを要求されるだろう。しかし、そこらの情報屋が誰も知らないような情報を持っていたりする。ルートは賭けてみた。
ディックはリツィヒの郊外にいた。とっくにどこか他の国へ行ったかと思っていたが、意外にも、ずっと同じ街の周辺に留まっていたのだ。
「へへっ。最近はどこも不況でね。あまり動かずに静観していた方が良かったりするんだよ。特に、伝説のドラゴンが復活して暴れまわっているなんて、戯曲みたいな出来事もあったしね。あ、もしかして、ルートの坊やと相棒は、アレに何か関係しているのかい?」ディックは相変わらず不快な笑みを浮かべていた。
「そんなこと、今はどうでもいいだろ。歌手のララ、知っているよな。今、行方不明なんだ。お前、何か知らないか?」ルートはイライラした口調で言った。
「ああ、あの人ね。それなら知っているよ」ディックの意外な言葉にルートは驚いた。
「本当か?一体、どこに……」
「ここから北西。ルーレって街さ」ディックは意外にも素直に教えてくれた。
「ルーレか。確かハンブルクの隣だったな……。しかし、なんでお前がそんなこと知っているんだ?」ルートは訊いた。
「へへへっ。あたしたち物乞いたちなりの情報網ってのがあるんだよ。坊やにはまだ分かんないだろうがね。その女、今は路上で物乞いをやってるとかなんとか、聞いたがね」ディックのその言葉をルートは半信半疑で聞いた。あのプライドの高いララが物乞いをしているなど何かの間違いだろう。
「とにかく、それが知れてよかった。ほら」ルートはディックに金を渡した。
「へへ、毎度。でも、不思議な巡り合わせだねぇ。昔、曰く付きの指輪を売った相手が、こうして落ちぶれちまうなんてさ。ひょっとして、あれは本当に呪いの指輪だったのかもね」ディックはクックッと笑った。ルートは何の話しかと思い「指輪? お前、ララに会ったことがあるのか?」と訊いた。
「ああ、そうだよ。この話し、坊やだから教えてやるよ。数年前、別の街で、それはそれは珍しい指輪を手に入れたんだ。人間に恋したドラゴンの体を使った指輪をね。誰もが目にする有名人に持ってほしかったから、あの女に売ったんだ。でも、段々身につけてくれなくなっちまってね。だから、返してもらったのさ。こっそりね。でも、あたしが遣わした奴は指輪を持ったまま消えちまった。全く、恩知らずな奴だねぇ。そうだ、もしそんな指輪を見かけたらさ、教えておくれよ」と、ディックは引き攣った笑いを浮かべながらルートに語った。彼はその話しを聞いて少し眉根を寄せたが、ディックは気づかなかったらしい。
「ああ、分かったよ。もしその指輪の情報を手に入れたら教えてやるよ」ルートは、本当のことを言わなかった。指輪はもうとっくに無いということを。
*
ジャーム国の北西端に位置するルーレは港町だ。冬の時期は気温がマイナス一〇度まで落ち込む。ジャーム国の中で最も寒い地域だ。町の規模は首都のリツィヒと比べると、中規模といったところだろうか。人の往来が激しいわけではないが、少なくもない。道もそれなりに整備されている。だが、建物が少ない。というより、港側に集中している。
ルートは、港側の建物が林立している所を探していた。人の往来が多い所であれば、情報も集まる。だが、今は閑散期。雪も降っているため、浮浪者でさえ、どこかに隠れてしまっている。
物乞いたちが溜まっていそうな細い路地に入った。いるとしたら、ここいらだろう。だが同時に、見つからないでくれ、という思いもあった。路地には、今にも死んでしまいそうな年配の男たちがうずくまっている。少しでも風が凌げるここに集まっていたのだ。汚い布や新聞紙にくるまり、寒さを凌ごうとしている。だが、このままでは死んでしまうだろう。この辺りの冬はとても厳しい。冬が来るのも早ければ、春が来るのも遅い。家が無い状態で乞食になってしまったら、後はもう死を待つだけなのだ。
中には、手を差し出してくる者もいる。ルートに、物欲しそうな目をよこしてくるのだ。だが、一人の男に金や食料を差し出してしまったら、他の者たちも一斉にたかってくる。そんな軽率なことをするわけにはいかなかった。ルートは、乞食の姿を目の端に納めるだけで、そのままゆっくり歩き続けた。もうすぐ路地が終わろうとしている。ここにはララはいなかった。そう、やはりいなかった。そのはずだった。
消え入りそうなかぼそい声が聞こえてきた。それは、彼女を誘拐したあの夜、あの山で聞かせてもらった歌のようであった。ルートは、その声のする方へ目を向けた。そこは、建物の影になっている所で、路地を真っ直ぐ進んだだけでは目が向かないような所だった。そこに女がいた。
長いぼさぼさの黒髪で、肌は白く、高い鼻に堀の深い顔立ち、そして宝石のような緑色の目。かつての自信に満ちた風貌はまったく無いが、紛れもなくララだった。ルートは、彼女に近づき、彼女の前にしゃがみこんだ。ララは、相変わらず歌い続けている。こちらに目もくれず。
「ララ」ルートは名前を呼んだ。しかし、反応はない。「ララ、俺だ」と呼びかけるも、やはり分からないようだ。ルートはそのまま語りかけた。
「俺はララって女を探している。もし、お前がララなら、〝月降ろしの峠〟へ行ってくれ。そこに、マリーは眠っている」マリーという名前を出した途端、ララが歌うのをやめた。顔色も変わった。
「俺は、お前が人違いだと信じている。だから、やっぱり今言ったことは忘れてくれ。これは人違いの詫びだ。ここら辺の奴らにはバレないように持っておけ」ルートは、彼女の手に硬貨を握らせた。
「それじゃあ、俺はもう行くよ」そう言ってルートは立ち上がった。だが、ララは小さくなにか呟くと、ルートを突き飛ばして走り出した。「あぁ…あぁ……!」と、ララは呻きながら走り去ってしまった。ルートはすぐに後を追った。ララは通りを抜けて、人気のない建物群の中へ走った。そして、無人と思われるビルに入っていった。ルートもすぐにそのビルに入った。カンカンカン、と階段を駆け上がる音がする。ルートは階段を屋上まで駆け上がった。屋上へ通じる扉は開け放されていた。屋上へ出ると、ララが佇んでいた。ルートが近づくと、彼女は振り返った。彼女は泣きながら笑っていた。
「マリー! マリー! 私の愛しいマリー! 彼女は、死んでしまった……」ララは泣きじゃくっていた。ルートは近づいた。だが、ララに拒まれてしまった。
「それ以上近づかないで! 分かっているでしょう、ルート。もう、戻れないのよ」
「ララ、お前には何も罪はない。マリーや、他の奴らを殺した犯人は捕まったんだ。お前は無実だ。だから、戻ろう」
「違うの、違うの……。もう、戻れないの。……戻れないの」ララは両手で顔を覆い、何度も戻れないの、と呟きながら後退った。そして、落ちた。
ルートは慧を繰り出そうとした。だが、出なかった。いつも自由自在に操っていた影の紐は、その日は全く出てこなかったのだ。
音が聞こえた。何かがぶつかる鈍い音だ。それとほぼ同時に、自動車のブレーキ音も聞こえた。ルートは結末を見ずに、その場を立ち去った。
*
冷ややかな夜の空気を伝わって、土を掘り返す音がする。ザクっとスコップを立てて土を掘る音と、何かで土を滑らす音だ。
ルートとシーグラムは街から遠く離れ、人気の無い、海が臨める「月降ろしの峠」でひたすら穴を掘っていた。彼らの傍にはララの遺体が転がっている。そして、この土の中には、すでにマリーが眠っている。リツィヒでのあの事件の後、ルートが安置所からこっそり移したのだ。彼女は孤児だ。本来ならララが引受人になっただろうが、行方不明になってしまったため、無縁墓に入れられるはずだった。
二人は深く深く掘り、誰にも彼女らの遺体が暴かれない深さに埋めてやった。土を元に戻して固め終わる頃には、ルートは額に汗していた。
彼は仕事を終えるとスコップを投げ出し、その場に座り込んだ。
「墓標を立ててやらなくていいのか?」シーグラムが訊いた。
「そんなことして誰かに見つかったら、こうして死体を盗み出してきた意味が無いだろ。このままひっそり、ここに埋まってる方が誰にも見つからない」
「そうか」
しばらく経って、シーグラムが口を開いた。「これからどうする」
「……どうしようかねぇ」ルートの声は覇気が無かった。
「黒いドラゴンのこと、どうにかしないとならないだろうな」シーグラムのその言葉に、ルートはまた黙ってしまった。
「ルート、お前と黒いドラゴンの間に何があったかは知らないが、きっと、お前の咎ではないのだろう」
「いいや、俺のせいだよ。俺が全部悪いんだ。俺があいつに希望を持たせちまったから」
「……もしそうだとしても、最後に決めたのはあのドラゴンだろう?」
「そうだけど、俺にも責任はある。最後は、俺がなんとかしてやらなくちゃいけない。……西の果てにあるっていう、ドラゴンの島にでも連れて行ってやれたらなぁ」
「ドラゴンの島?」
「ガランス……あいつ自身が言ってたんだよ。海を越えた西の果てにはドラゴンの島があるっていう伝承があるって。まあ、御伽噺だろうがな」
「西……そうか! ルート、この件、私に少し任せてくれないか?」
「任せるって、どういうことだ?」
「協力者を募る。そうだな、一週間後、滅びの地の手前で会おう。だからルート、それまで早まった真似はしてくれるなよ」シーグラムはそう言うと、さっさと飛び立ってしまった。ルートは「お、おい! どういうことだよ!」と呼びかけたが、シーグラムは振り返らず西に向かって飛んで行ってしまった。
13
「滅びの地」とは、誰が言い出した名であっただろうか。かつては、他の名もあった。「ソーニャの声」と呼ばれていたらしい。だが、この名称で呼ぶ者は、もうこの世にはいないであろう。
ルートは、黒ずんだ石が転がる黒い大地の上を歩いていた。空は雲が覆い、遠く西の方には太陽の光が透けている。ルートが歩く道は、黒く染まっている海に囲まれている。
エウローサヴァ大陸の最西端。この地は約二千年前の紀元戦争の主戦場となった。歴史上、世界最大規模の紛争と呼ばれている。その折、地上と海中には毒が流され、それはあらゆる植物を枯らし、海を殺した。その毒は長い年月を経て薄まってきているらしいが、この地に色が戻るのは、まだまだ先のことらしい。そんな死の土地として恐れられている地を、ルートはひたすら西に向かって歩いていた。
日が落ちかけて地面と海の境界が分からなくなってきた頃、廃墟に行き着いた。石造の建物が並ぶ街だったが、どの建物も壊れ、瓦礫ばかりだった。何千年も前の遺跡だった。恐らく紀元戦争の折に、破壊されたのであろう。
街の象徴だったであろう高い塔が聳え立っているのが見える。その塔の先に、真っ黒な影と赤い光が見えた。ガランスの体と目の光だった。その赤い光は、夕日と見紛うほどに穏やかで暗い光を湛えていた。
ルートは塔の方まで歩いた。彼が近づいてくると、ガランスは塔を降り、瓦礫の上に降り立った。ルートはガランスを見上げ、ガランスはルートを見下ろした。
「女は見つかったか?」ガランスは問いかけた。
「……死んだよ。愛する人が殺されたショックで乞食に身をやつして、最後は飛び降りた。今は、その愛する人と一緒に眠っている。誰にも知られない場所で」
「愛を知り、愛のために死んだのか。羨ましい死に様だ」
「……お前も、自分の知りたいことを知ろうとは思わないのか? せめてお前には、最後まで抗ってほしい」
「言っただろう。俺はこの世界にはそぐわないのだと。それに、俺はまだ抗う。お前を殺して」ガランスはルートに牙を向けた。「お前も抗ってみろ。そうでなければ、俺と世界の争いはまだまだ続くぞ」
ルートは心を決め、ガランスに再び目を向けた。その瞬間、ルートの決意を見てとったガランスは、彼に飛びかかった。ルートは咄嗟に飛びのいた。ガランスが激突した石造の壁がガラガラと崩れた。ルートはガランスの目を眩ますために廃墟の中を駆け出した。「くそっ。殺してやる、俺が、殺してやる」と口にしていた。「そうだ! 俺を殺してみろ! 俺はお前を殺す! 俺のために!」という声が追いかけてきた。
14
月降ろしの峠でルートと別れたシーグラムは、洋上に浮かぶ孤島を訪れていた。ルートと共にララを埋める直前、彼は不思議な音を聞いたのだ。それは半年前にも聞いた、ピーという音だった。彼はその時から、ある策を考えていた。もし、この不思議な音がドラゴン達を行方不明にしているのだとしたら、この音の元を辿れば、仲間たちに会える。そうすれば、ガランス討伐に協力してもらえるのではないか、と。ルートが話した、西の果てにあるというドラゴンの島のことも決め手になった。もちろん確証は無いが、これに賭けるしかなかった。
音の鳴る方向を探りながら飛んでいったところ、西南の海上に出たのだ。音は最初の頃よりは少しはっきり聞こえたように思えたが、どうにも判別が難しい。自分の耳が少し悪くなったかと疑いつつも西へ向かい、この孤島を見つけたのだった。
島に降り立ったシーグラムは、ピーという音の他に、気になる音を聞いた。それは話し声だった。誰かがひそひそ話し合っているようだった。この島に人間かドラゴンがいるのだろうか。シーグラムは敵意がないことを示すために、呼びかけた。
「私は旅の者だ。不思議な音を聞いて、この島にやってきただけだ。君たちに害を加えるつもりはない。もし、迷惑ならばすぐに立ち去ろう」
すると、小さな影がぞろぞろと茂みから出てきた。それはカナリアだった。シーグラムは、先ほどの声はこの小さいカナリアたちなのかと驚いた。事実、このカナリア達が話していたのだった。
一番大きいカナリアが進み出てシーグラムへ話しかけた。
「えー、コホン。黄金のドラゴン殿、よくぞ参られました。我々はこの島に住むカナリア一族です。我々はあなたを歓迎しますぞ! どうぞごゆっくり」と言うと、周りのカナリアたちは、「さあさあ宴の準備だぞ!」と口々に言い、あちこちに散り散りになった。シーグラムは呆気にとられ、先ほどのリーダー格のカナリアに聞いた。
「一体、これはどういうことなのだ? なぜ私は歓迎されている? それに、君たちはなぜしゃべれるんだ?」
「おや、あなた方の世界では、我々のことは伝わってないのですね。いいでしょう! ご説明しましょう!」カナリアは胸を張った。
「はるかはるか昔、我々の祖先は人間のいる土地で暮らしていました。そこには、鳥によく似たドラゴンがいたそうで、ご先祖さまたちはそのドラゴンに付き従っていたといいます。ご先祖様は、我々のことをドラゴンのなり損ないとしたそうです。なぜなら、我々はドラゴンとよく似た姿をし、同じ言葉を繰っているものの、体は小さく額の水晶もない未熟な体だったからです。ご先祖様は、他のドラゴンの姿を知りませんでしたし、そういう考えにいたるのも仕方がないでしょう。しかし、あの虹色のドラゴンが世界を平定した時、我々一族は、やっと本当のドラゴンの姿を知るのです。しかし、姿形が違えど、ドラゴンは我々が仕えるべき高貴なる種族。我々一族は、世界平定の後から、この地に住み着くようになりました。昔は、よくドラゴンがきてくれていたものですが、最近はめっきり。だから、あなた様がきてくださって嬉しいのですよ!」
「一体、その鳥形のドラゴンはなんだったのだ? 本当にドラゴンだったのか?」
「それは、分からないのですよ。その鳥形のドラゴンは、世界が平定されるよりもずっと前に死んでしまったそうですから」
「そうか。しかし、このような種族がいたとは、全く驚きだ。私はシーグラムという。歓迎してくれるのは嬉しいが、もう少し、普通に扱ってもらえると嬉しい。カナリアの王よ」
「そうそう、申し遅れました。いかにも! 私はここの王、ラスールと申します。それにしても、普通……普通とはどのようにすればよろしいでしょうか? 長年、お客が来たことがなかったですからねぇ」
「ふむ……。まあ、仲良くしてくれればそれでいい。それから、この島を少し見てみたい」
「どうぞどうぞ! 存分に見てくだされ! 宴の用意ができましたら、使いをよこしますぞ」陽気なカナリアの王はそう言った。
シーグラムは、しばらく島を見て回った。とても小さい島で、ドラゴンが十数歩歩いただけで一周できるような広さだった。島の中心部には草木が生い茂り、カナリアたちは、そこでワイワイガヤガヤ、宴の準備をしていた。
自分たちのことをドラゴンの成り損ないだと言う、言葉を喋る不思議なカナリアたち。シーグラムは、世の中には想像もつかないような不思議なことが、まだまだたくさんあるのだと、ため息をついた。
そうこうしているうちに、一羽のカナリアが、宴の準備ができたとシーグラムを呼びにきた。彼は島の北東を向いている丘の上に連れてこられた。カナリアたちは車座になり、一番高い所に、ラスールが鎮座していた。シーグラムは彼の隣に座らせられた。
「さあさあ、皆の者! 初めてのお客だ! いや、久しぶりの、だったかな? まあよい、今日は楽しい楽しい宴だ!」ラスールがそう宣言すると、カナリヤたちは甲高い声で、宴だ! 宴だ! と、騒ぎ立てた。数羽のカナリヤたちが、シーグラムの前に果実を運んできた。これが、ここのご馳走だということだ。シーグラムは礼を言い、とても甘く実ったリンゴを食べた。カナリヤたちは、みな自由に食べ、歌い、踊っていた。そのやかましさと言ったら、シーグラムは聞いたことがないほどのものだった。これで、今までよく人間たちに発見されなかったな、と呆れた。
宴は夜更けまで続いた。一時は、夜明けまでどんちゃん騒ぎをやるのではないかと思われたが、カナリアたちは、久々の宴で疲れてしまったのか、一羽、また一羽と、眠りこけてしまった。
シーグラムも、そろそろ眠くなってきた頃、またあのピーという音が聞こえてきた。シーグラムは、音のする方へ向かった。それは島の中心、木々が深く生い茂った場所だった。穴は地中から聞こえる。少し地面が盛り上がっている。シーグラムはそこを掘り起こした。
それほど深くない所に、見たこともない物体が転がっていた。それは鉄でできた板状のもので、ボタンのような物が並んでいる。文字らしきモノが書いてあるのが、月明かりで分かったが、それは見たこともない文字だった。シーグラムは昔、言語学者の友人から、世界の言語百科という本をもらって眺めていたことがある。それには、当時判明しているだけのありとあらゆる言語が書かれている百科事典だったが、今、目の前にある文字らしき物は見覚えが無い。
翌朝、カナリア達が目を覚ました時を見計らって、シーグラムはラスールを呼んだ。
「ラスール、これはなんなのか分かるか?」と、シーグラムは地中の板について訊いた。
「う~ん、むにゃむにゃ、これはですな……」と、ラスールは最初眠そうにしていたが、目をちゃんと開けて、目の前の物をちゃんと見ると、ハッとした。
「おお! これは懐かしい!」
「知っているのか?」
「ええ、ええ。思い出しましたよ。これは、一体どれくらい昔のことでしたでしょうか。どれくらい昔のことかは分かりませんが、淡い桃色のドラゴン様がいらっしゃったことがあったのですよ」
「桃色のドラゴン?」
「ええ、ええ。その方は大層お優しく、傷を負った者を、美しい舌で舐めて治してくださいました」
「舌で傷を治せたのか――」
「ええ、そうなんですよ。我々にも大層お優しく接してくださいました」
「それで、そのドラゴンとこれに何の関係が?」
「おやおや、そうでしたね。そのお方は、西の方からこの島にいらっしゃいました。音がするといって」
「西から……」
「ええ、ええ。そうなんですよ。それで、ここを掘り起こすと、この板を見つけて、何やら触っておられました。そして、またこれを埋めたのです」
「どこをどういう風に触っていたか、思い出せるか?」
「それでしたら、私よりも記憶力がいい妻を呼びましょう。アースラ! アースラ! こちらに来なさい!」国王の妻は、こちらに来ると、詳細に、ドラゴンが板を触っていた時のことを教えてくれた。そのドラゴンは、いくつかボタンを押していたらしい。アースラの記憶力は見事なもので、どういう順番で触っていたか教えてくれたのだ。そして、シーグラムは、その逆順でボタンを押してみた。先程までシーグラムの耳に響いていた音は消えた。果たして、シーグラムの予想していることが当たっているかどうか……。その様子を、他のカナリア達も見守っていた。
「ラスール、アースラ。もしかしたら、桃色のドラゴンが、もう一度ここを訪れるかもしれない。そうしたら、こう伝えてくれないか?
滅ビノ地ニテ救援ヲ待ツ。シーグラムヨリ。
と」
「あいわかりました。シーグラム様。このラスールとアースラ、責任を持ってお伝えいたしますぞ!」
「ありがとう。陽気な夫妻よ」と、国王夫妻に礼を告げた後、「親愛なるカナリア達よ! 昨日は愉快な宴をありがとう! また、この地でまみえることを楽しみにしているぞ!」と、全てのカナリア達に別れを告げ、この島を後にした。
シーグラムは、カナリヤたちの黄色い歓声を背に、滅びの地へ向かった。
15
頭上で瓦礫が崩れる音がした。熱気も感じる。ルートはまた場所を移動した。ガランスが、辺りの家屋を壊してまわっているのだ。ルートは、ガランスに見つからないように、廃墟の中で一番高い塔を目指していた。それには、形をほとんど保っている家屋の壁や、瓦礫の山の合間を縫って移動するしかなかった。
「どこだ、ルート。瓦礫に飲まれてくたばったか?」と、ガランスがおどろおどろしい声で唸りながら、廃墟をさらに破壊してゆく。ルートは建物の陰に隠れながら走り抜け、塔の裏口まで辿り着いた。この最上階には弩(いしゆみ)が設置されている。それを利用するのだ。果たして、何千年も前の弩が使えるかどうかは疑問だったが、そんなことには構わず、ルートは塔の中の階段を登った。
期待していた通り、弩は存在していた。矢もある。だがやはり、埃と錆びにまみれていた。ルートは試しに弾いてみた。精一杯の力を込めて、ギギギ、と音を立てながら弦(つる)を後ろに引っ張った。これで弩を使えると思い、ルートは壁にかけてある矢を手に取ったが、弦を引く音に気がついたガランスがこちらを向いた。
「そんな所にいたのか、ルート。それで俺を貫くつもりか? いいだろう、やってみろ。矢をつがえる時間くらいはくれてやる」とガランスは告げ、ゆっくりと近づいてきた。ルートは汗ばむ手で、大きな矢を弩につがえた。力をこめて弓を引き絞り、狙いを定めた。だが、弩の動きを制御できない。狙いも定まらず、最大まで引き絞ることができないまま、ルートは弦と矢を手から離してしまった。力が込められていない矢はガランスの目前で失速し、彼の目の前へ落ちた。
「無様だな、ルート。俺を射抜くことすらできぬとは。俺を殺すのではないのか?」と言い、途端にこちらへ駆け寄ってきた。塔を体当たりで壊す気だ。ルートは焦りながら、二本目の矢を手に取った。だが、その瞬間、塔は大きく揺れた。そして、二度、三度と揺れ、ついに塔は真ん中辺りで折れ、ルートは空中へ放り出された。すぐ真下にはガランスが待ち受けている。牙で噛み砕く気でいるらしく、口を開けている。ルートは、影の紐を頭上に伸ばし、落ちる瓦礫をそれで掴んだ。そして、その力を利用して自分の軌道を変え、ガランスの口を逃れ、手にした矢をガランスの首筋に突き立てた。矢はちょうど鱗の合間に突き刺さり、そのまま一直線にガランスの首元を切り裂いた。ガランスは小さな悲鳴を上げ、倒れ込んだ。ルートも地面に放り出され、倒れ込んだ。すぐ眼前のガランスはまだ生きている。
ガランスは息を切らしながら言った。「ふ、ふふ。ルート、やはり俺を殺すのはお前か……。だが、惜しいな。やはり最初の一矢をしくじったのが、お前の運の尽きだ」ガランスの首から流れ出る血は、やがて止まった。そして、パキパキと音を立てて固まり始めた。地面に飛び散ったガランスの血痕も凝固を始め、それらはルートを襲った。まるでガラス片が襲ってくるようだった。ルートは避け切ることもできず、服と露出した肌を切り裂かれた。先ほど、地面に叩きつけられた衝撃と、この血の破片の攻撃により、簡単には動けなかった。
「残念だ、ルートよ。この程度でくたばってしまうとは。俺は、お前に殺してもらえるものと思っていたのだがな、やはり無理だったようだ。寂しく思うぞ」と、ガランスはうずくまるルートに言った。
「は、はは。これで終わりだとでも思ったのか?」と、ルートは笑いながら言った。その様子に、ガランスは訝しんだ。
「言っただろう。俺が殺してやるって。今まで、ちゃんと約束は守ってきただろう?」と、ルートは血を拭いながら告げた。
「ふん。だったら、守ってみろ! その約束を!」ガランスは咆哮しながらルートに駆け寄り、爪を立てようとした。だが、それは防がれた。黄金の体が、ガランスの爪を受け止めたのだ。そのまま、黄金のドラゴンは傷ついたガランスの首元に噛みつき、怯んだ彼を突き飛ばした。
「おい、シーグ。手出しは無用だぞ」と、ルートは声をかけた。
「殺されかかっていたくせに何を言う。お前は私にすら喧嘩で勝てないんだぞ」と、シーグラムは返した。
「あいつは、俺が殺すって決めたんだ」ルートは立ち上がった。
「……だったら、最後は決めさせてやる」シーグラムはそう返した。
二人の目の前では、ガランスが起きあがろうとしている。「……ふふ。お前が、シーグラムか。話しには聞いているぞ」
「こいつが私のことをどんな風に言ったかは知らんが、こいつの敵は私の敵でもある。それに、数々の悪行、いくら同じ種族であろうと、容赦はせんぞ」と、シーグラムはガランスに言い返した。
「ふん、同じ種族……か。どんな生き物も、同じ種族同士で争うもの。今更なんだというのだ」ガランスはシーグラムに飛びかかった。シーグラムもそれに応戦した。
その間に、ルートは何とか打開策を見つけようと辺りを見回した。ガランスの体に傷をつけても、血を凝固させる力で武器を作らせてしまう。だが、痛みは感じるようだ。だったら、苦痛を感じさせつつ、体の重要な器官を奪うしかない。ルートは、刃物になるような物を探した。
ガランスとシーグラムは、爪と爪を叩きつけ合い、体と体をぶつけ合っていた。その隙に、ガランスは自分の舌を少しだけ切り、また血の破片を作り出し、シーグラムに向けた。小さな血の破片はシーグラムの体をものともしなかったが、目をくらませるには十分だった。
ほんの一瞬、ガランスから目を背けたシーグラムは、ガランスに組み敷かれた。完全に劣勢に立たされた。こんな時、太陽の光でも出ていれば、自分の慧の力でどうにかなる。しかし今は夜。しかも曇り空だった。ガランスが今まで吐いた炎が燃え広がり、煙と火花が空に登っていた。
「お前は、殺すのが楽しいか?」ガランスはシーグラムに問うた。シーグラムは唐突な問いかけに一瞬動きを止めた。今にも自分を殺そうとしている者が、勝者の愉悦からではなく、純粋な眼で問いかけを投げているのだ。ガランスはもう一度問うた。
「お前も、邪魔な人間の一人や二人、ドラゴンの一体や二体、殺したことがあるだろう。食べるために、羊や熊を喰らうだろう。人間の街で暴れ回ることもあるだろう。それは、楽しいか?」
シーグラムは一寸思案してから答えた。「人間もドラゴンも殺したことはない。ただの一度もだ。街の破壊なぞもしたことはない。動物を喰らう時も、その命に懺悔しながら食す。決して、愉悦から殺しを行うことなぞ無い」
「しかし、お前は、あいつと共に悪さをしてきたのだろう?」
「ああ、そうだ。無辜の民を傷つけない、誰も殺さない程度の悪事をな」
「それは楽しいと感じているのだろう?」
「……ああ、そうだ。だから、己が潔白な身であるなどとは思っていない。私は高潔な行いなぞもしたことがない。悔やむばかりだ。遅すぎたと悔やむことばかりだ」
「では、なぜ生きる。後悔に苛まれるばかりで。死にかけの身で!」
「生きていて良かったと思う瞬間があるからだ! それは一過性のものでしかないだろう。またすぐに苦痛や後悔が来るだろう。だが、喜びを諦められないから、誰かの愛情を感じるからこそ、生きているのだ!」シーグラムは毅然と言い放った。
「……ふ、ふふふ」ガランスは喉の奥を震わせた。「喜び、愛情、お前はそれが何なのか理解しているのだな……。ふふ……。そう、か……」そう言うガランスの瞳の奥に、シーグラムは赤い海を見た。それは静かに凪いでいて、穏やかだった。それはガランスの赤い瞳なのか、自身の赤い瞳なのか、判別はできなかった。
「黒い竜の末裔よ。今からでも遅くない。共に歩む道があるのではないか?」と、シーグラムは和解を持ちかけた。だが、「それは無理だな。黄金の竜よ。俺の頭の中で、本能が何度も囁いているのだ。生きよ、生きよ、とな。だから、お前たちを殺す」と、シーグラムの交渉を突っぱね、彼の喉元に牙を突き立てようとした。シーグラムがそれに抵抗しようとした瞬間、一つの影が降りてきて、ガランスの顔に覆い被さった。その瞬間、ガランスはのけぞり、悲鳴を上げた。
ルートが瓦礫片をガランスの左目に突き刺すと、ガランスは目から大量の血を吹き出しながら叫び声をあげた。その隙を狙って、シーグラムはガランスの拘束から抜け出した。
だが、ガランスの絶叫は威嚇の叫びに変わり、シーグラムの体に爪を突き立てた。その下では、ルートが転がっている。二頭のドラゴンに押し潰されては敵わないと思い、すぐに距離をとった。
ガランスと取っ組み合う形になったシーグラムは彼の体を押しのけようとしたが、ガランスの方がやや上に乗っているため、その剛腕に押しつぶされそうになった。そして、今まで以上の力がガランスの左腕に込められた。その爪は黄金の鱗を打ち砕き、その下の肉を引き裂いた。ルートの鼓膜を破らんばかりの絶叫と、血が辺り一体に満ちた。ルートは二頭の竜の絶叫に頭がくらくらしたが、力が抜けたガランスを素早く影の紐で捕らえ、シーグラムから引き剥がした。ガランスは倒れ込んだ。目を貫いた瓦礫片は奥深くまで食い込んでいた。本当は額の結晶を狙うつもりだったが、外れたのだ。ルートは影の紐で手頃な瓦礫片を投げつけ、結晶に当てた。結晶は半分ほどが砕けた。これで、しばらく動くことはできないだろう。
ルートは、同じくうずくまっているシーグラムに駆け寄った。シーグラムは血溜まりの中に沈み、傍には引き裂かれた右腕が転がっていた。ルートはその光景を見て、先ほどガランスが彼の右腕を引き裂いた時の音を思い出し、吐きそうになった。だがそんなことはしていられない。ルートは影の紐をできる限りシーグラムの体に巻き付かせて止血を試みた。元々は偽物の紐なのだから、そんな効果はないことは分かっていたが、ルートは血を止めることを一心に願って巻いた。幾重にも幾重にも。
「ルー……ト」シーグラムが念話で声をかけてきた。顔を見ると、口がパクパク動いている。「ガ……ラン……ス…………が」ルートがガランスの方を見やると、ガランスは四つ足で立ち上がっていた。荒い息を上げながら。
ルートはそれを見て腕の力が抜けていくのが分かった。ガランスの右目はまだ生を渇望しており、爪には殺意が込められていた。炎が取り巻き、シーグラムが倒れた今、自分一人では勝ち目が無い。相手がガランスでなければ、隣にシーグラムがいなければ、殺されるのも許容できただろう。野垂れ死ぬのも定められたことだと思えただろう。だが、彼らのためにも死ぬわけにはいかない。友を死なすわけにはいかない、友を殺さなければいけない。その想いだけが、ルートを立たせていた。
「あ い つの から だを ふ う じ ろ」シーグラムがルートに語りかけた。「封じるって……」ルートは口に出した。「あ とは わたし が なんと か する」シーグラムの目が強く光った。ルートはそれに応じた。
ルートはガランスに向き直った。ガランスの左目には血の結晶ができていた。体から滴り落ちていた血も徐々に硬化していった。ガランスが飛びかかってきた。ルートはそれを避けながら前方に走った。それをガランスは追いかけた。ルートは火が回っていない石壁の上に飛び乗った。ガランスが飛びあがろうとした瞬間、彼の後ろ足を影が捕らえていた。それは炎で浮かび上がったルートの影から生まれた紐だった。その影の紐はガランスの体を覆った。拘束を解こうともがきながらガランスはルートに向かって吠えた。だが、影の拘束は厳しく、そして心にも侵入者がいた。
ガランスの体を赤い結晶が貫いた。それは彼の体の内側からせり出してきたのだ。ガランスは、口からも血の結晶を吹き出した。そして、倒れた。その体は動くことはなかった。ルートは地上に降りて、ガランスをじっと見つめた。
「……ずっと」ガランスが念話で、ルートに語りかけてきた。「ずっと、さがして いた こた え が――」声は途切れた。ガランスの目から光が消えた。ルートは一言、ガランスに呟いた。「俺が、悪かった」
ルートはシーグラムのもとに駆け寄った。シーグラムは息も絶え絶えだった。
「シーグ、早く、早くここから出よう。火がやべぇ」
「……ルート。お前 は、先に い け……」
「何言ってんだ! 死ぬ気か?」
「わ たしは、まだ生きて いられ る。も う す ぐ……む……」
「なんだよ。もうすぐ、なんだよ」ルートはシーグラムの体を引っ張って街を出ようとした。だが、人間の数百倍もの体重があるドラゴンを動かせるわけもなく、ルートは地面にへたり込んだ。火の手がすぐそばまで迫り、シーグラムの鱗を焦がし始めた。ルートは、その場にうずくまった。シーグラムももう意識が無く、喋ることはなかった。
ルートは、この世界を操る小人を罵ってやりたかった。自動人形の中に潜む小人を。一人の男に振り回された女も、世界を知りたかった竜も、多くの罪を抱えた男をかばった竜も、なぜこんな結末を迎えなければならなかったのか。自分が彼らに出会わなければ、こんなことにはならなかった。自分の役割とはこんなものだったのか。もし、この世界を操る者がいるのであれば、ルートは、その者に言ってやりたかった。「自由に生きさせろ」と。
今まで心臓をがんじがらめに固めていた影の紐が次第に解かれていった。記憶の澱から、大切な思い出たちが流れ始めた。
頭上で大きな羽音を聞き、ルートは顔をあげた。そこには見慣れぬドラゴンがいた。一頭だけではない。六頭ものドラゴンが頭上を飛び、ルートとシーグラムを囲むように見下ろしていた。ルートは立ち上がってドラゴンたちを見回した。その中の一頭、桃色のドラゴンが降り立ち、シーグラムの傷を舐めた。
「さあ、彼を運んであげて」そのドラゴンは他のドラゴンたちに指示した。二頭のドラゴンがシーグラムを持ち上げ、他のドラゴンたちはそれを補助するように追随した。
ルートは戸惑い、おい、と声をかけるも、彼らはシーグラムを運んで行った。桃色のドラゴンが「さあ、あなたも早く」とルートに声をかけ、その大きく柔らかな前足でルートを抱えて飛び立った。彼らは火の海と化した街から飛び去った。西の海に向けて。
ルートは訳が分からないといった顔で桃色のドラゴンの顔を見つめた。それに気がついたドラゴンは語りかけた。
「私はバーネット。シーグラムの姉よ」
「もしかして、十五兄弟の四番目の姉……?」
「ええ、そう。あの子から聞いていたのね」
「数少ない家族だって……。なんでここに?」
「音に導かれたの。私たちドラゴンにしか聴こえない音。それに、道中で私たちの友達であるカナリア達に出会ってね、その子達がシーグラムの伝言を預かっていたのよ。救援を求む、ってね。久々にシーグラムの名前を聴いたわ。本当に、間に合ってよかった」
「……あいつは、助かるのか?」
「まだ息はあるし、あれくらいじゃあ私たちドラゴンは死なないわ。私たちの暮らす島でゆっくり療養すれば大丈夫よ」
「俺は、あんたに謝らなきゃいけない」
「どうして?」
「ガランスと、黒いドラゴンと戦うって決めたのは俺だし、アイツは俺をかばって右腕を……」
「それはあの子が決めたことよ」
「はっ……。あいつも同じことを言うだろうな」ルートは少し笑った。
「しばらく休みなさい。島までは遠いわ」バーネットのその言葉を受け、ルートは眠った。バーネットの手の中は暖かく心地よかった。
16
地上で見るよりも空の色は濃く、雲は眼下に立ち込めている。大小様々な浮島が空に点在し、その背景の中、様々な色の竜たちが飛び交っていた。その様相は現実のものとは思えず、夢見る画家が描いた、美しく牧歌的な風景画のようだった。
ルートはその光景を今日も見つめている。これで五日目だった。シーグラムはいまだ目覚めない。
バーネットがこちらにやって来て降り立った。その手には、程よく実ったりんごがたくさん抱えられていた。ルートはそれを受け取り、口にした。
「あの子はまだ目覚めないのね」バーネットが語りかけた。
「ああ。一応息はしているが、ピクリとも起き上がらない」ルートは食べながら応えた。
「とにかく、今は待つしかできないわね。できる限りの手は尽くしたわ」
ルート達は救出された後、このドラゴン達だけが住まう群島に連れて行かれた。ここには、謎の音に導かれたというドラゴン達が集まり、暮らしていた。行方不明となったドラゴン達は皆ここへ来ていたわけだが、その謎はいまだに分かっていない。ここに来たドラゴンも、もう元の世界へ帰ろうとは思わないようだ。ルートは、その内この群島の秘密を探ってやろうと考えている。シーグラムが無事に目覚めたらの話しだが。
そのシーグラムは、姉であるバーネットの治療を受けた。バーネットの舌、正確には唾液だが、これには治癒の力があるそうだ。無くなった四肢までは再生できないが、損傷がひどい傷口を塞ぎ、栄養を与えるという。それが終わった後、この群島で一番綺麗だという泉がある島に連れて行かれ、彼は今そこで眠っている。ルートはこの五日間、その泉の側で友の目覚めを待っている。
その間、バーネットの案内でこの島を見てまわった。不思議なことに、ここには普通のドラゴンとは違うドラゴンが多数いる。鱗は鋼鉄のように硬くはなく、逆立ってもおらず、人間の皮膚を傷つけることはなかった。背中に生えている槍のような立髪も、サラサラの髪のように変化している者や、瘤のように丸くなっている者もいた。そして、爪や牙すらも、誰かを傷つけるようなものではなく、切先が丸くなっている者までいた。
バーネットもその中の一体で、彼女の鱗は上質ななめし革のようになっており、鋭い牙を一切持っていなかった。皆、この島に来てからそのように変化し始めたのだという。
バーネットが去ると、ルートは泉に向かった。小さな林があり、その中心に泉はある。そこでは、シーグラムが体を泉に沈め横たわっていった。泉の中心には人間が二人ほどしか乗れなさそうな小島があり、シーグラムはそこに頭をもたげている。シーグラムは失くした右腕を上にして、静かに寝息を立てていた。ルートは彼の体を橋代わりにして小島まで歩いた。シーグラムの顔の傍に降り立つと、彼の顔を見つめ、まだ目覚めないことを確認した。顔をぺちぺちと叩きながら「早く起きてくれよ。お前の目的が一つ叶ったんだぞ。それに……」と呼びかけた。最後、言葉を濁したのは、あの戦い以降、彼がシーグラムに対して感じている罪の意識からだったろう。それを早く解消させたくて、彼は相棒の目覚めを待っているのであった。
シーグラムの体は、この島に来てから変化していた。この島に住む他のドラゴンたちと同じく、鱗が変わり、針のように硬く鋭かった立髪も、柔らかな毛になっていた。そして額の結晶は透明になっており、太陽の光を浴びてプリズムのように虹色に輝いていた。中心部が割れてへこんでいるのは相変わらずだった。
ルートは、大きな葉で泉の水をすくい、シーグラムの口元へ運んだ。彼がその水を飲み込むことはなかった。ドラゴンは何日も飲み食いしなくても死なない。だが、こうして口を湿らせていれば、回復が早まるのではないかという根拠のない希望をルートは抱いていたのだった。
しばらくしてルートはシーグラムのもとを去った。日課は終わりだ。林を抜けて元の場所へ戻り、ルートは島の淵へ腰を下ろして目の前の光景を見渡した。浮島の間を色さまざまなドラゴンたちが飛び交ってゆく。島から島へ渡る者、子を連れて飛ぶ者、下界へ下降してゆく者。ルートが見た限り、数十頭ものドラゴンがいるだろう。一地方に一体いるかいないかの希少種が、ここに大勢生息している。まさか、生きている内にこのような光景が見れるとは、思ってもみなかった。
そもそも、この浮島自体、どのような原理で浮いているのか見当もつかない。バーネットに、そのことについて訊いてみたが、何も知らないという。他のドラゴンもそんなことは知らないらしい。彼女は、この群島についてこう語った。「ここはドラゴンの楽園よ。傷つき、疲れた者たちが集まり、癒される場所。ここは誰かに侵されることはなく、そして平和を乱す者もいない。ここに住む皆は、不思議と穏やかな竜たちばかりなの。そして、この地で心穏やかに死んでいく。できれば、シーグラムもここにいてほしいけれど……」
バーネットは、父親と六番目の弟を追って、ここに辿り着いたらしい。だが、六番目の弟はこの群島に辿り着く前に嵐に巻き込まれて死んでしまったらしい。そして、父親も何年か前に老衰で亡くなったということだ。彼女は父親に、何故ここへ来ようと思ったのか訊いたことがあるらしい。だが父親は「分からない。しかし、行かねばと思ったのだ」としか答えなかったということだ。バーネットはこの地で子を授かり、ここに骨を埋めるつもりらしい。
ルートの元に、一体のドラゴンが近寄ってきた。雪のように白い体に、深海のような藍色の瞳、そして青空の色をした結晶を額に持つドラゴンだ。名前はクロードという。彼がゆっくり
飛ぶ姿は、まるで雲のようだ。雲間で飛んでいたら、まずこのドラゴンの存在に気が付かないだろう。歳はまだ十五歳くらいらしい。この若いドラゴンは、見慣れぬ来訪者に興味津々で、すぐにルートと仲良くなった。
ルートは「よう」と言うように片手を上げた。クロードも「すっかりここの生活に慣れたようだね、ルート」と、挨拶した。
「慣れたって言っても、この島でひたすらダラダラして、バーネットが持ってきてくれる果物を食うくらいの生活だぜ」
「この島にいるのが退屈なら、僕が案内するけど、どうだい?」とクロードは誘った。彼の体は、鱗こそ付いているが、一般的なドラゴンのように硬くザラついておらず、滑らかで柔らかく、革のようだった。ドラゴンの背に乗って、この島を見て回るというのは非常に魅力的な申し出だったが、ルートは断った。実は、すでにバーネットからも同様の誘いを受けていたが断っていたのだ。
「悪いな、クロード。まだ……」
「そう、やっぱりお友達のことが」
「まあ、何があるか分からないしな。一応見ておいてやらないと」
「ここ数日、君から聞いた話しは本当におもしろい。シーグラムさんと君が体験してきたことは本当に。できれば、僕も君たちのようにあちこちを駆け回りたいんだけどね」
「ああ、親がそれを許してくれないってんだろ? こっそり行ければいいのによ」
「僕の体なら、うまくごまかせるだろうさ。実際、雲に紛れて飛んで、誰にも見つけられなかったこともある。けれど、僕は外の世界を一切知らない。そんな世界でやっていけるとは思わないし、何より、やはり家族を心配させてしまうのが心苦しくてね」
「外に行きゃ、割となんとでもなるもんだぜ。何より、お前はドラゴンだ。どんな所でも生きていけるし、どこまでも飛べる。でもまあ、確かに家族に黙って行くのは忍びねぇよな」
クロードはこの群島で生まれ育ったドラゴンだ。地面と言えば、島の草地しか見た事がないし、外界には同族が非常に少ないなんていうことも知らない。そんな世間を知らない若者がいきなり外の見知らぬ世界に飛び出したら、苦難が待ち受けていることは想像に難くないだろう。だが、知りたいという好奇心を抑えることはできない。自分も同じ気質なだけに、ルートはクロードと気が合い、自分の今までの旅を教えてやっていた。
しばらくしてクロードが立ち去った後、バーネットが自分の子供を連れてやって来た。子供は三頭いる。一頭はバーネットの体のように桃色の体だが色が少々薄い。一頭は眩しい銀色の体をしており、もう一頭は薄い橙色の体をしている。子供たちはまだ小さく、ルートの背丈の半分くらいしか体高がない。それでも、牙は生え揃い、爪は鋭くなり始めている。小さい人間の子供のように、無邪気にルートにじゃれてくるが、怪我をする危険は無きにしも非ずだ。怪我をしたとしても、多少の切り傷はバーネットが治してくれるが。子供たちは、まだ生まれて七、八年らしく言葉もうまく喋れない。ましてや念話などまだ無理だ。
人間など見たことのない子竜たちだったが、すぐにルートに懐いた。彼についていたシーグラムの匂いに親しみを感じたのかもしれない。彼らはすぐにいい遊び仲間になった。
ルートと子竜たちが走り回って転がり回っている間、バーネットはそれを見守っていた。そうこうしているうちに日が暮れた。ここ数日はこのような感じだった。暗くなると、ルートは果実を食べて草地の上で寝た。標高が高いせいか、昼間でも肌寒い気候だったが、夜になるとそれが顕著だった。最初の夜は、心配したバーネットが温めに来てくれたが、子供の世話もあるため、毎晩来ることはできなかった。そのため、彼は元々来ていたコートに加えて、そこらの葉っぱをかき集めて寒さを凌いだ。寝る度にいつも思う。この島は居心地はいいが、人間の体には合わない、と。だからこそ早くシーグラムに目覚めてほしいが、そうもいかない。それに、彼がここに住むと言い出したら自分はどうしようか……。お互い、まだやり残したことがたくさんあるのだから、シーグラムがそんなことを言い出すことはないと分かりつつも、一抹の不安が心の片隅にはびこっていた。
翌日もシーグラムは目覚めなかった。いつも通りクロードがやって来た。他のドラゴンも一緒で、ルートの話しを聞かせてやった。バーネット親子もきて、子供たちと遊んでやった。その後でバーネットと話した。
「まだ、あの子は目が覚めないのね」
「ああ。ピクリとも動かないよ」二人はしばらく黙った。やがてバーネットが口を開いた。
「あの子には、ここに残ってほしいわ。家族はずっと離れ離れで、とうとう生き残っているのは私とあの子だけになってしまった。もう、悲しみも寂しさも忘れて、新しい家族と一緒に生きていきたい」
「……それは」とルートが言いかけたのが聞こえなかったのか、バーネットは言葉を続けた。
「でも、あの子は昔から自分の好奇心を抑えられない子だったわ。生まれた時はひ弱で、体が小さくて、とても大人しい子だったのに、いつの間にかあちこち飛び回って旅をして、ドラゴンの友達も人間の友達もたくさん作って、体も大きくなって、とても逞しい子になった。そして、あなたの話しを聞いて、まだ変わらないのねって思ったわ。あの子はきっとまだ、やりたいこと、行きたい場所があるんでしょう?」バーネットはこちらを向いて問いかけてきた。ルートは黙って頷いた。バーネットはとても喜ばしげに微笑んだ。
「それなら、ルート。あの子をお願い。どこにでも、気の済むように行きなさい」バーネットのその言葉に、ルートは感謝の微笑みを返した。
「なあ、あんたたちは、ここから出て行こうと思ったことはないのか? 情勢も落ち着いて、もう一回人間たちの前に姿を現そうと思ったことは?」ルートはそう問いかけた。
「不思議と、そんな考えは一度も出てこなかったわね。なぜかしら。私たちはあんなに共存して生きてきたのにね。あなたはどう思う? 私たちは、世界に戻るべきだと思うかしら」
「そうだな。どっちでもいいかな、って思っちまうけど、でも、少なくともあいつは、ドラゴンと人間はもう一度共存すべきだと思っている。きっと、世の中を変えるのはああいう奴なんだろうな」
「ふふ。そうね」そう言って、バーネットは子供たちに声をかけた。もう帰る時間だ。
「ルート、しばらく一緒にいてあげられなくてごめんなさいね。夜は寒いでしょう」
「まあ寒いけど、山にいる時とそんなに変わらないから平気さ」
「後で他の者に食料を持って来させるわ。それじゃあ、また明日ね」バーネットは、小さなルートの頭に優しくキスをして去っていった。一人の時間がやってきた。
寝転がりながらルートは星空を眺めていた。何千、何万、いや何億という星々が、夜空という海の中に点在していた。山で見るよりも光は強く、夜ということを感じさせないほどに輝いていた。ルートは、昔教えられた星座の読み方を思い出しながら、眺めていた。そうしている内に、いつの間にか眠っていた。
朝が来た。目を薄く開けると、白い光と黄金の光が飛び込んできた。ルートの視線の先には見慣れたドラゴンの姿があった。右の前足はなく、いつも硬くとがっていた立髪はふわりとした毛になっていたが、それ以外はいつも見ていた後ろ姿だった。シーグラムは島の端に寝そべりながら朝日を見ている。ルートは黙って彼に近づき、隣に座った。お互いに目もくれなかったが、ルートが先に声をかけた。「随分と長い居眠りだったな」
「怪我をして寝込んでいた相棒にかける第一声がそれか? まったく……。それで、私はどれくらい眠っていたのだ?」
「六日ぐらい、かな」シーグラムは意外に思ったのか、一寸黙った。それから口を開いた。
「そうか、そんなに経っていたのか。思っていたより、休んでいたのだな。体も、なんだか以前と違うようだ」シーグラムが自分の体を見るように首を回したのに合わせて、ルートもシーグラムに目を向けようとした。しかし、なくなってしまった右前足が真っ先に視界に入ってしまい、すぐに目を背けた。そんな彼を知ってか知らずかシーグラムはルートにこう言った。
「なあ、ルート。私の体、やはり変わっているだろうか? 頭のあたりがなんだかムズムズする」そんなことを言うので、ルートは変化した容姿を伝えてやった。柔らかくなった立髪に鱗、そして透明な結晶に変化した額。
「なんと、そのようなことになっていたのか。これは一体――」
「お前はまだ見てないかもしれないが、ここのドラゴン達の鱗は全然硬くないし、人間を傷つけない。お前も同じようになったんだよ。どうしてかは知らねぇがな」
「私が寝ている内に、このような体になったのか?」
「段々、変化していってたな」
「そうか、変化したのか」
ルートは、ここ数日の出来事を教えてやった。バーネットがシーグラムを救ったこと。彼女には子供がいること、ここに住むドラゴンたちのこと、そして、六番目の弟と父が死んだこと。
「そうか、やはり二人は死んでいたか」シーグラムの声は、少し小さくなった。
「ああ、でも、父親は大往生だったらしいぜ」
「そうか」シーグラムは黙った。
「そろそろバーネットを呼んでやらねえとな。あいつが一番、お前に会いたがってたんだ」
「姉さんは、お前に何か話したか?」
「何をって、何を?」ルートはニヤニヤしながら目を逸らした。
「む……。そういうことは素直に教えろ」シーグラムは睨みつけてくる。
「そりゃまあ、向こうが色々と話してくれるからなぁ。でも、なんでお前がそんなことを気にするんだ?」ルートは相変わらずニヤニヤしている。
「まったく、分かって私のことをからかっているだろう! 姉さんには後で注意しておかなければ……」
「ほら、そう言っているうちに姉さんが来たぜ」ルートは内緒でバーネットに念話を送っていたのだ。バーネットは島に降り立つなり、シーグラムに抱きついた。目には涙が滲んでいる。シーグラムと似て、冷静で落ち着いた性格だと思っていたが、やはり長年離れていた家族、それも唯一の肉親と生きて会えて嬉しさが込み上げたのだろう。
「シーグラム、あなたは、本当に、いつも心配ばかりかけて……」
「すまない……。本当に、すまなかった、姉さん。もう、姉さんを悲しませるようなことはしないよ……。絶対に」
「いいの、いいのよ。それより、父さんに会ってあげて。向こうの島で眠っているわ」
「分かった」とシーグラムは言ったものの、片腕の状態ではまだうまく飛ぶことができない。しばらくはリハビリだ。
シーグラムとバーネットは、何十年もの穴を埋めるようにずっと座り込んで話しをしていた。ルートは姉弟の邪魔はできないと思い、二人の間には割って入らず、その辺をぶらぶら歩き回っていた。それもその内に飽きて、念話でクロードを呼んだ。クロードにはシーグラムが目覚めたことを教えた。
「そうか、やっと目が覚めたんだね。よかった。今度、僕も話しをしていいかな」
「ああ、もちろんだ。だがまあ、今は姉弟でずっと話し込んでるからな――」
「そうか、なら邪魔はできないね。何十年も離れていたんでしょ」
「ああ」
「なるほど。君はそれで暇になって、僕を呼び出したわけか」
「悪く思うなよ」
「ハハッ! そんなこと思うわけないじゃないか。暇潰しに付き合ってあげるよ」
「なら、頼みがある。この群島を案内してくれよ。ずーっとこの島にいたから、いい加減あきてきちまってな」
「お安い御用さ。ほら、僕の背中に乗って」クロードはルートに背を向けた。ルートは彼の首に手をかけ、飛び乗った。鱗は滑らかな手触りで、爬虫類のものとも魚のものとも違う感触だ。以前、シーグラムの鱗に少しだけ触ったことがあったが、あまりに小さいトゲが多く、まともに触れなかった。ルートは、新鮮な感触を味わっている。
「なあ、振り落とされたりしないよな……」ルートは少し不安を感じた。
「それは分からないなあ。僕だって人間を乗せる、というか何かを背に乗せて飛んだことなんてないからね」
「……安全ベルトをつけさせてもらうぜ」ルートは影の紐をクロードの首に緩く巻きつけた。これで多分、振り落とされないだろう。
「それじゃあ行くよ」とクロードが言うと、軽く助走をつけ、空中に飛び出した。一瞬、垂直に下降したためか、ルートの体が軽く浮いたが、クロードがすぐに浮上し羽ばたきを始めたため、元の安定した体勢に戻ることができた。
飛んでいる間、向かい風が来るため、ルートはゴーグルでも用意するんだったと後悔した。クロードの飛行は安定していたため、ルートは片手で影の紐を持ち、もう片手で風を避けることができた。最初こそ、周りを見る余裕がなかったが、次第に周りに目を向けてみて、また自分が新たな景色を見ていることを実感した。
「どうだい? 初めて空を飛んでみた気分は?」クロードが聞いてきた。
「ははっ。こりゃ気持ちいいな。いつまででも飛んでいられるぜ」
「そうか。それはよかった。僕も初めて背中に人間を乗せてみて、こんなに飛行に気を遣うとは思わなかった。う~ん、安定して水平に飛ぶのは結構難しいな……」
「おいおい、頼むから俺を落とさないでくれよ」
「ハハッ! 頑張るよ」
ルートとクロードはいくつかの島を巡った。そこで、色々なドラゴンと会い、島を簡単に見て回った。ルートは、かねてからの疑問だった、この島が浮いている原理が知りたかった。だが、島をみて回った限りだと、その答えは見つからなかった。クロードに頼んで、島の外観を見せてもらいもした。どの島も、下部は土と岩石が円錐状に剥き出しになっている。見た限りでは、普通の土壌だ。クロードは提案した。「本島なら、君が知りたいことが分かるかもよ」
本島は、この群島の中で一番巨大な島だ。バーネットに聞いた話しだと、そこには、ここを束ねる長もいるらしい。そこに案内してもらった。本島に降り立つと、奥の方に巨大な樹が見えた。いや、あれは樹というより、蔦草が絡まった大きな遺跡のように見えた。
島にいた他のドラゴンが、ルートたちに話しかけた。「クロード、それが噂の人間か?」「何しに来たんだ?」
「彼に、この島を見せてあげたくて。いいですよね?」クロードはドラゴン達に言った。ルートは少々いづらい気持ちになった。すると、奥から一頭のドラゴンが現れた。青色の鱗と白銀の結晶を持ち、他の竜よりも痩せている。恐らく、このドラゴンがここの長だろう。
「大酋長(トゥッイ)、彼にこの島を見せてあげてもいいですか?」クロードがそのドラゴンに言った。
「クロード、また群島の外へ出ようとしたらしいな。家族が心配していたぞ」大酋長(トゥッイ)はクロードにそう注意した。クロードは首を丸めて小さくなっている。
「さて、人間。バーネットの弟の友人ということであれば、我々は歓迎しよう。お前は信用のおける人間らしいし、この島を自由に見てもらって構わない」トゥッイのその言葉に、ルートは緊張がほぐれた。
「感謝するぜ。じゃあ、あの遺跡みたいなの、見てもいいか?」ルートは奥に聳える蔦草に覆われた遺跡を指した。
「いいだろう。だが、何も無いと思うがな」と、トゥッイは告げた。
ルートとクロードは遺跡までやって来た。入り口は無いか、あちこちの蔦草を避けてみると、人間一人が入れそうな穴を見つけた。ここのドラゴン達は、この中に入れないから、この中のことを詳しく知らないのではないかとルートは考えた。
「これだと、僕は入れないみたいだね」クロードが言った。
「ああ、とりあえず俺だけでも入ってみるよ」
「気をつけてね」
ルートはクロードの言葉を背に、遺跡の内部に足を踏み入れた。床は傾いており、長時間歩けば酔ってしまいそうな傾斜だった。内部はコンクリートのような材質でできており、冷んやりしていた。底抜けになった天井と蔦草に覆われていないガラスの窓からは日の光が差し込んできている。ルートは内部をゆっくり眺めながら歩いた。
部屋の奥のほうに、下へと続く階段があった。中を覗き込んでみると、階段は途切れずに下へと続いている。地下は日の光も届かず、かなり暗かったが、青色の光がぼんやりと見える。ルートはそれを目印に降りてみた。地下はより一層寒かった。階段を降りた先には一本道の通路があり、その先には扉らしきものが見える。通路の両端には、電灯のような灯が設置されているが、なぜだか青色だ。ルートは先へと進み、扉らしきものに手をかけた。何も起こらなかったが、片方の扉は少しひしゃげており、隙間ができていた。ルートはそれに何度も体当たりし、なんとか隙間を大きくして、中へと滑り込んだ。
中は先程の通路よりも明るかった。壁は所々が光っており、何かを映し出していたが、ルートにはそれが何なのか分からなかった。文字や記号のようにも見えたが、世界中の言語を知り尽くしているわけでもない彼には、さっぱり心当たりが無かった。
さらに部屋の奥へ行くと、今度は、ドラゴンの置き物が目に入った。本物よりも十分の一ほどの大きさで、机の上に置かれている。そのドラゴンには色は塗られておらず、本物とも違う点がいくつかあった。まず、額の結晶は無く、立髪も無い。なぜか喉は膨れ上がり、腹も本物よりは出ておらず、痩せ気味だ。ルートはその置き物に触れた。このドラゴンは一体何なのだろうか。この島のドラゴンが姿を変えたように、他にも、このような姿に変化するドラゴンがいるのだろうか。
その置き物の近くの机には、ノートが置かれていた。ルートはそれを開いてみたが、書いてある文字はまったく読めなかった。全く知らない言語だったのだ。しかし、各所に描かれている絵は理解できた。ドラゴンの絵が描かれていたのだ。子供の姿から大人の姿まで。火を吹いている姿もあった。あのガランスのように。
ルートは想像した。もしかしたら、ここはドラゴンが生まれた土地なのではないかと。ここで何者かがドラゴンを生み出した。そして、今また、ドラゴンたちが故郷に帰ってきているのではないか、と。この文字さえ読めれば、真相が分かるのだが。
その部屋の中には、さらに下へと続く階段があった。その下には、さらに広い空間がある。檻のような物がいくつも転がっていた。何かを飼っていたようだ。あのノートからして、やはりドラゴンだろうか。しかし、ドラゴンの飼育なぞ聞いたことがない。部屋の奥には、また光る壁があった。そして、そこには絵が映し出されている。それは、あのノートにも描かれていた、火を吹くドラゴンの姿だった。しかし、その絵はもっと恐ろしいもので、何体ものドラゴンが街らしき場所を火の海にしている光景だった。ルートは、黒い竜の一族の昔話を思い出した。しかし、この絵に描かれているドラゴンは、金、赤、青、緑と、色様々だった。その絵から下に目を向けると、小さな台があった。机だろうか。そこには細長い木の板が置かれていた。裏返してみると文字が書かれていた。かなり古い木簡のようだ。しかし、ルートはそこに書かれている文字を読むことができた。最近はあまり見ていなかったが、子供の頃に何度も見た文字だったからだ。
この世界に生を芽吹かせたまふた高貴なる友に畏敬を
滅びゆく悲しき定めの友に祈りを
人の世は、人がためばかりならずや
星海を永遠に共にする未来があらむことを
智覚牟尼道慧
ルートは、この言葉の意味をじっと考え、そして「智覚牟尼道慧(ちかくむにどうけい)」という名を覚えた。この文字と名は、薩教の僧たちが使うものだ。早くボーティに、この道慧という人物について訊いてみたかった。
目を上げると、絵は変わっていた。今度は、緑の大地と青空の中を、ドラゴンたちが飛び回っている絵だ。ドラゴンたちは火を吐くことはなく、誰かを攻撃することはなく、ただ飛び、草地の上で寝そべっていた。
地下から這い出て、外に出てみると、クロードが待っていた。
「ねえ、遺跡の中はどうなっていたの? ずいぶん長い時間いたようだけど」彼は早口で訊いてきた。
「ああ、ちょっと暗くて歩くのに手間取っちまったんだ。でも、面白そうな物は何も残っていなかったぜ。中は瓦礫ばっかだ」
「そっかあ。残念だなぁ……」ルートは、この遺跡で見たことを、ここのドラゴンたちには黙っておこうと思った。恐らくここの遺物は、祖先たちの秘密であり、世界の秘密なのであろう。シーグラムにも、まだ話すべきではないと思った。
「それじゃあ、そろそろシーグの所に帰るかな」と、ルートは呟いた。
「送っていくよ」ルートは再びクロードに乗せてもらい、シーグラムのもとへと戻った。
元の島につくと、クロードは家族のもとへと帰った。シーグラムがいたところまで戻ると、彼は一人だった。
「バーネットは行っちまったのか?」
「ああ、子供たちの世話があるからな。それで、お前はその辺を飛び回っていたのか?」
「あれ? バレてたのか?」
「人を乗せたドラゴンがそこら中飛び回っているのが見えたぞ。お前しかいないだろう」
「暇でな。まあでもこの不思議な島を色々と見て回れたな」
「ほう。私もその内、見てまわりたいものだな」
「まずは飛べるようにならないとな」ルートはそう言いながらシーグラムの隣に座った。
二人は特に話すこともなく、しばらく黄昏時の空を眺めながら果物をかじっていた。バーネットが置いていってくれたものだ。しばらくして、シーグラムが口を開いた。
「それで、これからどうする?」
「これから?」
「ああ」
「お前はどうしたい?」
「リハビリを終えたら考えたいな」
「この島に残ろうとかは?」シーグラムは虚をつかれたようにルートを見た。そしてすぐに、また空に視線を向けた。
「そんなこと、一度も考えたことなかったな。いや、まだこの島のことをあまり理解していないからかもしれないが」
「じゃあ、残りたいって気持ちは出てきたか?」
「ふむ……。姉さんや、同族の皆と一緒にいたいという気持ちはある。とてもな。だが、それよりも、皆と一緒に外の世界で飛び回りたい、という気持ちがでてきたな。そうか、そうだな。またやりたいことが出てきてしまったな。ルート、私はいずれ、人間とドラゴンが共に暮らせる社会を取り戻したい。ここの皆を説得できれば、それが叶うやもしれん。それに、他にもこうやって人里離れて暮らすドラゴンたちがたくさんいるかもしれん。そういった者たちを探したいな」
「なるほど」ルートは微笑みながら相槌をうった。
「お前は、この先のことは何か考えているのか? どこに行きたいとか、何をやりたいとか」
「そうだな、俺は……」ルートは一瞬言うのをためらった。だが、言葉を継いだ。
「俺は、ある人を探したいと思ってる」
「ある人?」
「ああ、昔、世話になった恩人だよ」
「お前にそんな人がいたとは……」
「俺もさ、ついこの間まで、自分の過去のことを忘れてたんだよ。なんでかなぁ。確かにいい子供時代じゃなかったけどさ……」
「お前の過去……。ぜひとも聴いてみたいものだな」
「ああ、そうだな。話しはそれからだな」ルートは、長い長い昔話を語り始めた。
俺は南リメアのアビリーって国の生まれでな、そこの小さい鉱山街で育ったんだよ。その街は、出所した前科者とか、職がない奴らが集められて、鉱山で労働させられてるような街だ。治安は最悪。労働する男どもを満足させるために娼婦たちもたくさんいたし、まあ察する通りの街だよ。で、当然そこで生まれる子供もたくさんいてな、俺もその一人だ。全員が、ってわけじゃあないが、子供も鉱山で働かされる。大人みたいな重労働はしないが、小間使いに走らされてばっかりだった。俺の家は母親がいなくてな、足が不自由で酒浸りの父親が一人いるだけだった。母親のことは何も知らない。街の娼婦なのか、それとも素人なのか、全く何も知らないんだ。でな、そんな親父は働くことさえままならないから、俺が働くしかないってわけだ。だがまあ、働いても働いても、もらえる金は子供の小遣いみたいなもん。しかもほとんど酒に消えちまってた。
もちろん、こんな生活抜け出したいって何度も思ってたんだけどな、無知な子供じゃあ、街を抜け出してどうやって暮らせばいいか分かるわけがない。だから、何も考えずに働いてたんだ。でもな、俺に希望を持たせた奴がいたんだ。ノーリっていう男でな、多分、俺より少しばかり年上だったと思う。そいつも鉱山で働いててな、持ち場が一緒になってからはよく話すようになった。いつも、どこからか新聞や雑誌の切れ端を持ってきてな、他の街や国の話しをするんだ。ノーリだって、この街から出たことないのによ、得意げに、あの地方はああで、この国にはうまい料理があって、とか話すんだ。だから、周りからは馬鹿にされてたよ。
でも俺は、あいつの話すこと、見せてくれるものがおもしろくてな、いつも付き合ってた。そしたらな、ノーリが話してくれたんだ。この街を脱出する方法を。ノーリは、鉱山の中に小さな抜け道を作ってたんだ。誰にも目立たない場所に。それを通っていけば、簡単に街を抜け出せる。ま、逃走する奴は多かったんだけど、大体の奴は捕まってたな。人手不足だったんだよ。でも、あいつは無事に逃げ出した。俺も一緒に行こうって誘われたんだけど、直前で怖くなって、ノーリとは一緒に行かなかった。あいつは街には戻らなかった。無事に逃げ切ったんだ。だから、俺も逃げた。ノーリが逃げた何日か後に。
夜中に家をこっそり抜け出したんだ。何かあった時のために工具とかも持って行った。無事に鉱山の抜け道を通れたよ。俺は体が小さかったし、目立たなかったんだな。後のことは何も考えてなかった。とにかく必死になって走ったんだ。早く街から離れたくてな。それで、後ろを一回振り返ったんだ。そうしたら、追いかけてくる親父が見えた。明らかに俺を追ってた。
まさか家を抜け出したのがバレてるなんて思わなかったんだ。あの夜、親父が家に戻らないままどっかで朝まで飲んでるだろうと思ってたから。まあ、どこかで見られてたんだろうな。
そこからはもう、ほとんどはっきり覚えていない。確か俺は転んで、その隙に親父に捕まったんだと思う。慌てて、持ってた槌を振り回した。多分、目をつぶって、めちゃくちゃに振り回したんだと思う……多分。それで、気がついたら、血塗れで突っ伏している親父がいたんだ。ピクリとも動かなかったから、死んだんだと思う。それで俺は怖くなって、また必死に走った。で、気がついたら、見知らぬ街の、見知らぬ宿のベッドで寝ていた。隣にはまったく知らない人がいた。その人は、それからしばらく俺と一緒にいてくれたんだ。いや、俺が勝手についていったって言った方がいいかな。
その人は、法衣を着ていた。薩教の坊さんだったんだ。それから、首筋に黒い痣もあった。あの頃は分からなかったが、ズイ族だったんだな。巡礼の旅をしていたところを、俺はついていった。あの人は俺には何も聞かなかった。俺も何も言わなかった。でも、ずっと一緒にいて、読み書きを教えてくれて、衣食住も世話してくれた。そんなことが一年近く続いたんだ。
でも、俺はあの人に置いていかれた。たまたま、立ち寄った町の工場に働き口があったから、そこに入れられたんだ。俺は、あの時だけは、あの人を憎く思ったよ。それと同時に、やっぱり俺が邪魔だったんじゃないか、って思った。それから、あの人には会ってない。消息も分からない。
俺は、あの人を探したい。一瞬だけ恨んだけど、でも、俺のことを思ってのことだったんだろうな、とも思う。だから、もう一度だけ、会いたい。
ルートが身の上話を話す間、シーグラムは黙っていた。そして、ルートが話し終えた時、やっと口を開いた。「いいではないか。私も、その者にぜひとも会ってみたい。お前がそこまで言うほどの人だ。それに、今のお前を作った御仁だ。興味がないわけがない」
「ははは、興味本位かよ」ルートは小さく笑った。
「いや。純粋に、尊敬に値する人物だろうと思っているよ。巡礼中の僧侶だったということだが、名前は分かるのか?」
「それが、覚えてないんだよな。確かに聞いたはずなんだが、まったく記憶にない」
「ふむ。覚えてないのか。そんなに昔のことを鮮明に思い出せたのにな」
「なんでこんな強烈なこと、忘れてたんだろうなぁ。ガランスと戦った後から、一気に思い出したんだ」
「ああ、それで少し合点がいく」
「どういうことだ?」
「お前と初めて会った時、お前の心を覗かなかったわけではない。その時見えたものは……」
「おいおい! お前、俺の心を覗いたことはないって言ってたじゃねえか! 嘘つきながったな、この野郎!」ルートはシーグラムの言葉を遮った。
「まあ待て、私も下手な人間を保護なんぞしたくなかった。少しでも悪意があるかどうかが確認できればよかったんだ。だから、あまり深い所までは覗いていない」
「……で、どうだったんだ?」
「心の内は何も分からなかった。お前のその影の紐でがんじがらめにされて何も見えなかったのだ。普通は悪意でも善意でも分かるものだが、何も見えなかった。こんなことは初めてだった」ルートは意外な事実に驚いた。シーグラムは続けた。
「だから、今の話を聞いて思ったのは、恐らくお前は、嫌な記憶をなるべく思い出したくなくて考えたくなくて、出身地のことや逃亡の一切合切の記憶を封じたのだ。だから、その恩人のことも分からなくなった」
「じゃあ、今更思い出せたのはなんでだ?」ルートは率直な疑問を口にした。
「自覚がないのか? 私は、今回の一連の出来事がきっかけだと思うぞ。助けたい者を助けられなかった。あまつさえ、自分が引導を渡すことになってしまった。それを非常に悔やんでいる。これまでにないくらいに。恐らく、お前が、私やガランス、ララみたいに内にこもる者を引きずり出そうと思うのは、その恩人のことがあったからではないか? その者に苦境を助けられたからこそ、誰かを泥沼から引きずりだそうと願う。今回はそれが最悪の形で終わってしまった。だが、お前はまた前を向いている。お前の根本は変わらないが、変化したものもある。だからこそ、封じていた記憶が蘇ったのだ。他に忘れたことも、その内思い出すだろう」
「なんだか、そんな気がするようなしないような……。もしそうだとするなら、俺は慧を使えなくなったのかな。ほら、影が記憶を封じていたけど、それが解かれたわけだし」
「試してみたらどうだ?」
ルートは、いつものように右手を振った。影の紐がシュルッと前方に飛び出した。以前と変わらない感覚だ。「普通に出るな」と、ルートは言った。
「まあ、まだ忘れている記憶があるからだとは思うが。しかし、完全に記憶を取り戻したとして、慧が無くなるかどうかは、その時になってみないと分からない」
「ボーティも言ってたな。俺が暴走する可能性は無さそうだけど、確かなことは言えないってな。それから、こんなことも言ってた。心が揺らぐ時が来たらよく考えろ、って。よく考えた先の答えが真実だ、って」
「お前の選択は、正しかったと思うぞ」シーグラムの慰めに、ルートは答えなかった。その代わり、違う話しをした。
「……ガランスが、最後に言いかけてたんだ。「ずっと探していた答えが」って。あいつは、何て言おうとしてたんだろうな。答えが見つかったのか、見つからなかったのか————」
「お前の方が、彼のことをよく知っているだろう? お前の考えていることが、答えだ」シーグラムのその言葉に、ルートは微笑んだ。
「ボーティには、また色々と聞かないとな。サトゥーバスティー寺院にも来いって言われたし」ルートは伸びをしながら言った。
「彼であれば、お前の恩人のことも分かるかもしれないしな」シーグラムが応えた。
「そうそう、そのためには、お前の協力が必要なんだけどな……」ルートはシーグラムの方を見やった。
「広いリメアの大地を飛び回るためだろ? まあ、そんなことだろうとは思っていた。なら、私の目的にも付き合ってもらうぞ」
「ああ、いいぜ。じゃあ、これで平等だな」
「おいおい、まだまだ返してもらってないものが山ほどあるぞ」シーグラムのその言葉にルートはギクリとした。
「ああ、分かったよ。ちゃんと分かってるっての」ルートはその場に寝転んだ。視界の中に、水色のカンバスと、自由に飛び回る色とりどりのドラゴン達が飛び込んできた。
遠くの方から、バーネットの子供たちがキャイキャイと遊ぶ声が聞こえてきた。
Sommertage(夏の日) - Paul Hohenberg
Im Abendrot(夕映えの中で) - Joseph von Eichender
乞食の歌 なすのにくみそ @nikumiso
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