冬の旅

エウロー地域東部。宗教紛争が絶えない某国国境周辺は、空気が乾燥し、緑が少なく、昼間は常に砂塵が舞い、夜は雪国のように冷える地帯だ。その荒野の片隅、岩場になっている丘陵地帯に住まう人々がいる。「ズイ族」といって、生まれつき、黒く奇妙な形のアザを持つ民族だ。  

ズイ族はこの辺りだけでなく、このエウローサヴァ大陸各地に分布している。起源は、はっきりとはせず、何千年も昔から存在している歴史の長い民族であり、人口も最大と言われているが、とある理由から迫害を受けている受難の民でもある。今日では、ひっそりと暮らしながら、その祖先から受け継いだ手先の器用さを生かして工芸品を作り続けている。



 ルートは穴蔵の中へ声をかけた。「サルータ、調子はどうだ?」穴蔵の中にうずくまっていた老婆が振り返った。

「なんだい。懲りもせず、また来たのかい。この詐欺師が」老婆がしかめ面をしながら言った。

「相変わらず口の悪い婆さんだな。まあ、詐欺師ってのは否定できねぇんだけどよ」ルートは苦笑した。


 ここらのズイ族は、岩場をくり抜いて住居としている。だから、丘陵の岩壁には、蟻の巣のように穴がぼこぼこと空いている。

「そいで、今日もおれたちの品を奪っていくのかえ」サルータが、この地に久々に訪れたルートに言った。

「人聞きが悪いことを言うなよ。ほれ、これだけ用意してある」ルートは札束を見せつけた。

「ふん。そんな紙切れよりも、布や食べ物を持ってきてほしいもんだね」ルートは、このサルータという老婆の悪口雑言には慣れ切っていたが、いつも最後にはルートが閉口して終わるのだった。

 サルータは、ここの集落で一番の職人であり、長老である。ここの職人たちは象嵌細工の職人が多い。東部独自の模様は西の方では珍しがられる。ルートは、ここの職人たちから品物を買ってはエウロー地域西部に流しているのだ。


「今日はあのでかい連れはいないのかい?」サルータは穴蔵から出てきて辺りを見回した。

「あいつはちょっと用事でな。まあでも、その内くるよ。何しろ、あいつがいないと物が運べないからな」

「ここにはどれぐらいいるんだい?」

「う~ん、そうだなぁ……。一週間くらいはいるかもな。シーグが来るのを待たなきゃいけないからな」

「なるべく早く出ていくことを勧めるよ。この辺も、もう危ない」


 ここより東、十リーグほど離れた市街地では紛争が絶えない。その規模は日に日に増していっている。彼らの住む地にも、火の手が及ぼうとしていた。



 ズイ族の歴史は長い。紀元戦争よりもはるか昔から存在しているとされているが、その起源は、はっきりとはしていない。ズイ族が初めて伝承にて語られているのは、今から三千年前、中東辺りで記されたとされる『樹布道紀行』という文書の中とされている。その文書の中では、大陸の東南部、今で言うマウオン湾沿岸に、ズイ族と名乗る部族が住んでいたことが綴られている。その部族は、絢爛豪華な祭事品を作り、祭事に使うだけでなく、普段から煌びやかなアクセサリーを身につけていたらしい。そして、それらの品は近隣諸国の王族の目にとまり、その利益でかなり裕福な生活ができていた、ということだ。

 そのマウオン湾沿岸よりもはるか九千リーグも離れた大陸北西では、二七〇〇年前にズイ族の王国ができていた。その国は、アウロンという王が成立させた。アウロンは元々、その地域の豪族であった。非常に人口の少ない村であり、あと数世代のうちに消滅してしまうことを危惧したアウロンは各地に赴き、ズイ族の同志を集め、王国を建国した。始めは、人口五千人、国土三十キロ平米ほどの非常に小さな国であったが、三代目の王、クリムシャの代では、国土をその三倍にまで広げ、人口も十万人にまで押し広げた。そこから滅亡の時までズイ王国の猛威はとどまることを知らず、滅亡寸前の時には、大陸北西部に一地域を形成するまでに至った。その面積は、今の五カ国分を擁すると言われている。


 そのズイ王国が滅亡に至った経緯だが、それが今の迫害の始まりである。ズイ王国の民たちも、手先の器用さを活かし、工芸品を作り、各国に輸出していた。その商売相手は人間だけにとどまらず、竜族にも金銀の装飾品を売っていた。美しい金銀鉱石類を好む竜というのは、この時代、特にたくさんいた。竜たちは装飾品を貰う代わりに、国の守護についていた。これが、ズイ王国が栄えた所以である。

 王国の民たちは、何世紀にも渡って、各地で恐れられていた「黒い竜の一族」とも取引していた。黒い竜の一族というのは、その名の通り、体の鱗が黒いドラゴンの一族のことだ。この一族は代々、皆、体が黒いと言う。そして、生来、非常に凶暴な本性を備えており、各地で暴虐の限りを尽くしていた。

 そんな一族ではあったが、このズイ王国だけは決して襲わなかった。この一族もまた、ズイ王国と取引していたからだ。この国だけではなく、各地に散らばるズイ族にも手出しはしなかったという。

だが、ある時、この一族の目を欺こうという者たちが現れた。その者たちは偽の品を、とある一頭の黒き竜に送りつけた。その竜は大層よろこんだが、すぐに仲間たちが偽物だと見破り、偽物を送り付けられた竜の逆鱗に触れた。その黒き竜と仲間たちは七日七晩、王国で火を吐き続けた。王国全土は焦土と化し、民は殆どが焼け死ぬか、食い殺されるかした。生き残った者たちもひどい火傷を負い、それは黒く変色し、生まれてくる子供たちにもその黒い痣が浮き出てくるようになった。これが今世紀にも残るズイ族の呪いであると言われている。しかし、これは単なる伝承であり、真実は判然としない、と、唱える学者もいる。

 しかし、この伝承が広まっている今、庇護を受けていた黒い竜族の怒りを買い、滅亡に追いやられた愚かな民族として嘲笑の的となっている。また、見るも恐ろしい醜い痣を持つ民族として、人々から侮蔑の目を向けられている。密かに生き、密かに死ぬ、哀れな民族である。



 ここらの地域は、茶色い植物に茶色い地面が果てしなく広がっている。夏は猛暑で、冬は氷点下に達するほどの厳しい気候。ここに住むズイ族は、元々は遊牧民であったが、五〇〇年ほど前からここに定住している。そこらには、羊と山羊の群れがいる。彼らの生活の糧だ。青年と父親らしき老人が群れを引き連れて歩いていた。

 洞窟の前では、女たちが集まってパンを焼く準備をしている。そんな光景を何気なく眺めていたルートに一人の女が声をかけた。

「おや、もうアンタが来る時期かい?」ルートは声の方向を振り返った。そこには、頭に洗濯カゴを載せた女が、微笑みながらこちらに向かってきていた。服の左の袖は、風にはためいている。

「ディラフ。久しぶりだな。子供たちは元気か?」ルートが声をかけると「ああ」と、彼女は答えた。ディラフは三人の子を持つ母親だ。何年も前に夫が戦火に巻き込まれて亡くなっているらしい。そして、その時にディラフの左腕も失われたということだ。女手一つで、それも不具の身で三人もの子供を養うなど過酷と思われるが、一族全体が一つの家族のようなものであるここでは、何でも無いことなのかもしれない。

「アンタが来てくれて、あの子たちも喜ぶだろうよ。会ってやってくれないか? それとも、すぐに出発するのかい?」ディラフは言った。

「いや、またしばらく厄介になるよ。そうそう、カンはもう成人する頃なんじゃなかったっけか」

「ああ、年が明けたら十五になる。それで立派な狩人だ」

「まだ狩りをやってたのか。サルータが口酸っぱくしてやめろって言ってなかったか?」

「アタシも何度もやめろって言ってるんだけどね、誰に似たんだか頑固で――」苦笑しながらディラフはため息を吐いた。やめろと言いつつも、子の将来を認めているような笑顔だ。カンはディラフの子供で、三姉妹の長女だ。そうか、とルートは相槌を打った。

「キタリとサンディはその辺で遊んでいる。暇だったら遊んでやってくれないか?」キタリとサンディはもう二人の子供だ。キタリが十一歳、サンディが六歳くらいだったと記憶している。分かったとルートが言うと、ディラフは自分の家へ向かった。

 この一族に、ルートは歓迎されていた。なぜなら金を持ってくるからだ。外の者の施しは受けないと嫌う者もいるが、それは最初の内だけだった。ルートは、ここの気風に合っていたし、ここの者もルートを同族のように受け入れていたからだ。


 ルートは子供たちを探した。そして、すぐに走り回っている何人もの子供たちを見かけた。その中にキタリとサンディもいた。二人はすぐにルートに気がついた。二人ともまだ遊びたい盛りの女の子だ。無邪気にルートに近寄ってきた。

「ルートお兄ちゃん! きてくれたんだ!」キタリが声をかけてきた。「やった! お兄ちゃん、またサンディたちと遊んでくれる?」サンディが喜びの表情で訊いてきた。

「ああ、もちろんだ。一週間はここにいる予定だからな。なんだってできるぞ」と、ルートは言った。

「そうなんだ。でも、もっといてくれたらいいのに。お母さんもその方が安心するよ」キタリが言った。この子は歳の割に聡い。しっかり者の長女と不具の母親の苦労を察しているのだろう。サンディの面倒は、ほとんどキタリが見ているようだった。

「そうだな、その内そういう時間もとれたらいいんだがな」ルートは困ったように笑った。

「そうだ、あのドラゴンさんは? 今日は一緒じゃないの?」サンディが訊いた。

「ああ、あいつはまだ来ないんだ。もう少し待っててくれないか。それで、カンはどこにいるんだ? また集落の外をほっつき歩いてるのか?」ルートは辺りを見回した。

「お姉ちゃんは狩りに出かけているよ。危ないからついてくるなって言われてるけど」キタリが答えた。

「そうか、じゃあ探してくるか」

「あ、待って。私も行く。サンディはお家に戻ってなさい」キタリが言った。

「えー! なんで! サンディも行く!」サンディは頬を膨らませた。

「カンお姉ちゃんを迎えに行くだけだよ。村の外は危ないから、あんたはお母さんと一緒に待ってなさい。それに、お母さんに寂しい思いさせちゃだめよ」キタリは大人みたいな口調でそう言った。

「はーい」と、サンディは姉の言うことに渋々了解した。


 ルートとキタリは連れ立って村の外へ出た。羊飼いのための道を歩いていた。丘陵地帯に位置する村から降(くだ)って、盆地に出る。色が枯れ果てた雑草が道の脇に生え、そよ風に吹かれていた。空は雲ひとつない快晴だが、風は体を突き刺すように寒かった。冬が近いのだ。辺りは静かで、トンビが無く声だけが、旅人の寂しさを紛らわしてくれる。

 キタリは、ここ最近のことをルートに話して聞かせてあげた。サルータとカンが将来のことについて大喧嘩したこと、それを母親が取り成したこと、サンディがカンに憧れて狩りを覚えようと思っていること、周りがそれを止めようとしていること、ルートがいない間に村の子供が二十人増えて半分減ったこと、夜な夜な鉄砲の音が聞こえてくること……。

「キタリ、何か明るいニュースは無いのか? お前のことはどうなんだよ」と、ルートが話題を変えようとした。

「うーん、とね。あ、私、パンを焼くのがうまくなったんだ! 隣のおばちゃんに教えてもらってね」

「ほう、それなら、後で焼いてもらおうか」

「うん、もちろん、お兄ちゃんのために焼くよ!」などと話していると、高い丘が目に入った。

 キタリは、ひそひそとルートに言った。「あそこにお姉ちゃんいる」

 丘の方に目をやると、少女が空に向かって弓を構えていた。そこにつがえていた矢は、悠々と飛んでいたトンビを捕らえた。ルートとキタリは丘を登り、カンのもとへ向かった。

 カンは先ほど打ち落としたトンビを背中に担ぎ上げていたところだった。そこにルートが声をかけた。

「おーい、カン。相変わらず見事な腕前だな」カンは鋭い眼光でルートを見やった。ここ一年ほどで、どんどん目つきが鋭くなっていったように思う。以前、シーグラムがカンのことをこう評していた。「彼女はとても冷静で聡明な少女だ。とても優秀な狩人であり戦士になるであろう。しかし、少々必死すぎる。あのままでは母親より早く身を滅ぼしてしまうのではないか?」ルートも同じ思いだった。初めて会った時は、まだ少女らしかったことを覚えている。

「ルート、来てたんだ。キタリ、集落の外へ出ちゃだめって言ったでしょ」と、カンが言った。淡々とした口調だが、優しさが滲んでいる口調でもあった。

「ごめん、お姉ちゃん。ルートお兄ちゃんを案内したくって。ねえ、早く家に戻ろう」キタリはそう言った。

「悪いけど、まだ戻れない。獲物が足りないんだ」カンは少々冷たい声でそう言った。

「そう言うけど、この辺りには食べられる動物なんていないよ。おばさん達がパンを焼いてくれているし、もうご飯の時間だよ」

「キタリ、村で焼くパンと羊だけじゃ、皆お腹いっぱいになんてなれない。もっと食料がないと……」

「お姉ちゃん……」二人のやりとりを眺めていたルートがなだめた。

「分かった分かった。俺たちは先に村に戻っているよ。でもカン、日が暮れる前に戻ってくるんだ。それに、狩りをするのはこの辺りだけにしておけ。またやいのやいの言われるぞ」

「……分かった」カンがそう返事をすると、ルートとキタリは、また連れ立って歩いた。


「なんで、お姉ちゃんを一人にしちゃうの?」集落に戻る道すがら、キタリがルートに訊いた。

「あいつ、絶対に俺たちの言うことなんて聞きゃしないだろ。だからさ。なあ、あいつ、いつもあんな感じなのか?」

「うん、ずっと外に出て鳥や猪を狩ってる。村でそういうことやるのはお姉ちゃんと一部の人くらいだから、助かってるけど、やっぱり私やお母さんは心配だよ」

「紛争もこの辺まで広がってきているしな」

「ねえ、ルートお兄ちゃんなら、お姉ちゃんを説得できない?」

「母さんや長老まで無理なんだ。俺ができるわけないさ」

「そう……」と、キタリはうなだれた。



 日が暮れても、カンが戻ってくる気配がなかった。村の入り口でカンを待ち続けるディラフにルートは声をかけた。「俺が見に行ってくるから、お前はもう戻ってろ」

「集落の人間じゃないアンタに面倒はかけられないよ」と、ディラフは返した。

「確かにそうだろうが、さっきアイツを迎えに行って連れ戻せなかったんだ――。なに、すぐそこだ。すぐに連れ帰ってくるさ」と言って、ルートはさっさと行ってしまった。その背中を「すまないねぇ……」という力無い声が追いかけた。


 夜の羊飼いの道は、昼間とは全く別物だった。カンテラの明かりだけでは足りないほど、辺りは暗かった。ルートは道を外れないよう、慎重に歩いた。

 やがて、昼間カンを見つけた丘に辿り着いた。ルートは丘の上に登った。だが、カンの姿はない。

「おーい! カーン! どこにいる?」と、ルートは大声でカンを呼んだ。だが、返事は無い。ルートは場所を変えて呼んでみた。すると、かすかに声が聞こえる。そちらの方へ行ってみた。

 崖の下からカンの声が聞こえる。ルートは下に向かって呼びかけた。

「カン! そこにいるのか?」

「ルート! 来てくれたんだ! そうだよ! ここだよ」というカンの声と共に、明かりがゆらゆらと揺らめいた。カンの持つカンテラだろう。

「待ってろ!」とルートは言うと、影の紐を繰り出し、下へ伸ばした。ちょうど月が出てきてルートの影が大きく見えるようになっていたのだ。

「カン! この紐を掴め! 上へ引き上げてやる!」ルートがそう言ってしばらくすると「掴んだよ!」という声が聞こえた。それを聞いてルートは、カンを上へ引き上げた。慧で出現させた紐なので、縮めれば済むことではあるが、カンを誤って落とさないように気をつけた。

 やっとのことで、カンを引き上げた。ルートの息は荒かった。

「まったく、面倒かけやがって……」

「ごめん……。こんなドジ、踏むつもりじゃなかったのに……」弱気なカンには、もうこれ以上言わないでおこうと決めた。集落に帰ってからのほうが、色々と言われるに違いない。

「ほら、帰ろう」というルートの言葉に、カンは「うん……」と力なく答えた。しばらく道を歩くと、カンは再び口を開いた。

「ねえ、ルート。実は、あたし、妙な物を見たんだ」

「妙な物?」

「兵士を、見たんだ……。それで、そいつらを追って……」

「カン、それは、明日サルータに話そう」ルートはそう言って、この話題を一旦閉じた。


 集落に帰ると、ディラフを筆頭に大人達が二人を迎えた。サルータの姿もある。カンは母親に「ごめんなさい……」と謝った。ディラフはカンを片手で抱いて、「バカだね……」と呟いた後、後ろの大人たちに告げた。「みんな、心配させて悪かったね! ほら、カンも」と、ディラフが促すと、カンも皆に謝った。大人たちは「ま、無事だったならよかったよかった」と、口々に言って各々の寝ぐらへ帰って行った。

 ディラフは、ルートに「面倒をかけたね」と言って、カンと共に家に帰った。サルータがルートに声をかけた。「子憎い詐欺師だけど、こういったことにかけては、あんたに感謝しなくちゃね」

「おいおい、それが恩人に言う言葉かよ」ルートは苦笑いしながら言った。

「ふん。晩飯がまだなんじゃないのかい?」

「お、今日は婆さんがご馳走してくれるのか?」

「大した物は何もないがね」



 カンは大した怪我もせず、翌朝には、また元気に動き回っていた。しかし、彼女が昨日見聞きしたものが気になったルートはディラフに話し、二人で長老のサルータの元へ行った。

「長老、ちょっといいかい?」ディラフが長老の穴蔵へ顔を覗かせた。サルータは家の奥でうずくまって裁縫をしており、ディラフの訪問にゆっくりと首を巡らせた。

「おや、あんたたち、一体なんだい」

「ちょっと相談があるんだ」と、ルートが神妙な面持ちで言うと、サルータは二人を招き入れた。

「カンはもういいのかい?」サルータが聞いた。

「ええ、擦り傷がまだ残ってるけど、何も問題はないよ。心配をかけたね」ディラフが答えた。

「それならよかった。それで、相談ってのはなんだ?」

「実は、カンが昨日、妙なものを見たらしくってな……」ルートが口を開いた。「ここから東南にある崖。カンが昨日、あの付近で兵士を見たらしくってな。夜だから服装とかはよく分からなかったらしいが、多分、敵国だと……」

サルータは、しばらくその言葉を噛み締めているようだった。だが、すぐに口を開いた。

「そうか、やはりそうなってしまったか……」

「長老、何か知ってるのかい?」ディラフが訊いた。

「いや、そういうわけではないが、多分、奴らは国境を突破してきたんだろうよ。きっと、ここも侵略されてしまう」

「何か知らせはなかったのか?」ルートが言った。

「分かるだろう。おれ達は迫害の身。情報も何も入ってこない。ここは紛争が起こっている国境からも離れていて様子が分からないから、派手な戦闘でも起こらなければ何も分からないままなのさ。おれ達の先祖は、五百年前、ここに居を構えた。もちろん、多くの迫害を受け、ここに住めなくなることもあったが、それでもここに戻ってきた。どうやら、またここを離れる時が来たようだね……」サルータが静かにそう言うと、三人の間には重い沈黙が流れた。しかし、そうとあってはぐずぐずしている暇はない。みな、すぐにでも荷物をまとめて集落をはなれなければならなかった。

「長老、アタシは皆を集めてくるよ。ルート、あんたにもお願いできるか?」ルートはディラフの言葉に頷き、すぐに行動に移した。



 ズイの民達は移動を始めた。先導は若いカンが務めた。ルートはというと、夜まで村の付近に残ることにした。本当に侵略目的の兵士たちが来るのかどうかを確かめるために。村人たちとは、あらかじめ取り決めておいた場所で落ち合う手筈になっている。


 日が落ちて、急激に寒さが増してきた。ルートは、村を見下ろせる丘の上に登り、岩の間に身を隠している。部外者が村に来るとしたら、下から登ってくるだろう。ここにいれば、すぐにその様子が分かるはずだ。

 正直言って、ルートは部外者だ。危険を知らせたところで、村人たちとは別れてもよかった。だが、最後まで付き合ってやったのは、彼らとはそれなりの付き合いであり、彼の性分でもあった。

 戦争が起こることは、誰にも止められない。ルートは、戦争によって自分の家を追われるといった経験が無い。戦争の被害を受けたことのない側ではあったが、戦争によって身体的、精神的に傷を負った者たちは少なからず見てきた。彼はそういった者たちと出会った時、どうすればよいのか何も分からなくなってしまうのだ。無視すればよいのか、救いの手を差し伸べればいいのか、黙って見守ってやればいいのか、何も分からず、なし崩し的に、いつもそういった者たちに付き合ってしまう。

 

 月が高く登った頃、村の方で動きがあった。明かりが見えたのだ。どうやら、何者かが村を探っているらしい。ルートは双眼鏡で見た。兵士が松明を持っているのが見えた。人数は五人ほど、恐らく斥候部隊だろう。きっと彼らは本格的に村を襲う者ではなく、一旦探りに来たのだろう。ということは、本部隊はまだ遠い場所にいるか、準備ができていない。今日の内に村を離れられてよかった。それを確認したルートは、その場を離れた。



 ルートは村の人々と落ち合った。すぐにでも出発したいところだったが、それなりに大所帯だ。まずはルートとカンの二人で先行し、経路を確認してから進むことにした。

 サルータ曰く、集落の北東、三十リーグほどの距離に、谷の奥にひっそり隠れ住むズイ族がいるらしい。ただし、彼らはかなり排他的で、同じズイの民であっても、他所の集落出身ならば、簡単には信用しないらしい。しかし、今は非常事態だ。谷の部族を信じるしかあるまい。

 それからの三週間は歩き詰めだった。成人男性一人が谷の集落につくだけであれば、一週間ほどで着いただろう。しかし、こちらは数十人、しかも女子供が多い。ゆっくりと、休み休み、彼らは歩いた。ルートとカンの二人は先に道を行き、安全を確認すると、カンが村人たちに進んでも大丈夫な旨を告げる。そして、二人はまた先導する。その繰り返しだった。

 谷底の道は、日が差さないため日中は快適だったが、夜は底冷えし、老人や幼児にとっては辛い環境だった。旅を始めてから二週間が経った頃、一人の老人が、ついに耐えきれず、動けなくなってしまったのだ。老人は、このまま置いて行ってほしいと皆に願ったが、皆、それは拒絶した。老人の息子が、自分だけで看取るから、とも願い出たが、集落の皆はそれも拒否し、集落全員で最期を迎えることを選んだのだ。その老人は、一日耐えた後、早朝に亡くなった。皆で彼を埋めてやり、一行は再び進んだ。

 それから約一週間後、とうとう目的地に着いた。先行していたルートとカンは、岩壁に設置された家々を見て、ここが目的地だと確信したのだ。その谷底の集落は、谷の中、崖の壁に沿って家屋を設置し、橋を渡して、生活しているようだった。何とも不安定に見える光景だった。二人は集落の入り口に近づくと、守衛らしき男に止められた。

「お前らは何だ?ここに何の用だ?」と、男が聞いた。

「あたしは、砂塵の丘に住むズイの民だ。あたし達の集落が、紛争に巻き込まれて住めなくなったから、庇護をお願いしたい!」と、カンは告げて、首筋の黒い痣を見せた。ズイ族である証だ。

「そっちの男はズイ族ではないな」と、男はルートの方を向いて言った。

「あー、俺は付き添い人みたいなもので、とくかく、敵意は無いし、砂塵の丘の村人たちの行く末が決まったら、ここら辺からはすぐに立ち去るよ」と、ルートは言った。

「集落の首長はお前か?」と、今度はカンに向けて聞いてきた。

「いや、長老がいる。あたしらは先行して来た者だ」

「お前は、その長老を呼んでこい。話しは聞いてやる」と、守衛はカンに向かって言い、ルートに向かっては「お前は保証人だ。オレたちと一緒に来い」と言うと、後ろに控えていた仲間に目配せした。その仲間たちはルートを取り囲んだ。

 心配したカンが不安気に見ていたが、「さすがに殺されるようなことはないだろうから、俺のことは気にすんなよ。早く、サルータ達を呼んでこい」と、ルートが余裕のある表情で彼女を送り出した。カンは全速力で走って、皆を呼びに行った。

「で、俺はどうすればいいんだ? あ、一応言っておくと、武器の類は持ってないから、そっちも手荒なことは……」と、ルートが言い終わるのも待たず、男たちは彼の腕を掴んで強引に村の中へ連れて行った。

「い、いてて……。だから手荒なことはすんなって……」


 サルータは谷底の集落に入った後、大勢の仲間たちを待たせて、ここの首長のテントに入った。布を捲り上げると、よく見知った顔がサルータを迎えた。

「よっ。ようやく来たな。待ちくたびれちまったぜ」ルートだった。

「はあ、人質になっても減らず口は相変わらずだねぇ……。で、あんたがここの長老かね? おれたちは砂塵の丘に住む者たちだ。集落全員で移動してきた」サルータは、このテントの上座に控える長老に挨拶した。ここの長老も、かなりの高齢ではあったが、サルータよりも足腰はしっかりしており恰幅もいい。サルータより少し年下だろうか。

「詳細については、この男から聞いた。長旅、ご苦労であった。そして、集落を捨てねばならぬ思い、いかほどばかりか……。同胞の苦難、我らにも分けてもらおうぞ。しかし、いつまでも貴殿らを食わせていくことはできぬぞ」首長は同情しながらも、そう言い放った。

「ああ、分かってるよ。おれたちは、また自分たちの住処をちゃんと見つけるさ。ここには、そう長く厄介になろうとは思っていないよ。まずは、受け入れ、感謝する」サルータもはっきりした口調でそう言った。


 長老同士の会話は続いていた。双方、平和的な話し合いが行われたということで、ルートは自由の身となり、早々にテントを出た。砂塵の丘の村人たちは、まだ一斉に集落には入れないので、入り口の外で待機している。ルートはそこまで行き、カンとその家族たちの姿を探した。

「ルート! 良かった! 無事だったんだ!」カンとその妹たちがルートに抱きついてきた。

「人質になったって聴いて、心配したよ。酷いことされてない?」と、キタリが少し泣きそうな顔で訊いてきた。サンディは「わたしたち、ここに住むの?」と、まだ状況をよく分かっていない表情で訊いてきた。

「俺は平気だよ。何もされてない。今、サルータと、ここの長老が話し合ってるんだけどな、お前らはしばらくここで暮らせそうだ」とルートが言うと、他の村人たちも中の様子が気になるのか、ルートのところに集まってきた。三姉妹の母ディラフも、中の様子について訊いてきた。「ここの人たちは、アタシたちを受け入れてくれるのかい?」

「ああ、大丈夫だよ。だが、一生、ここで暮らせるわけじゃない。ここも、こんなに大勢を長期間、養えるわけじゃないからな」と、ルートは答えた。

「分かってるよ。新しい住処を見つけなきゃいけないことくらいは。そうだよね、みんな」と、ディラフが村の皆に向けて言うと、皆、疲労を感じながらも、決意を新たにしたような表情を浮かべた。

 やがて、長老たちの話しが終わったのか、丘の民たちは、谷の村に入ることができた。ルートはこのまま去るつもりだったので、入り口で村人たちに別れを告げた。村人たち全員が村の中に入るのを待っていると、サルータが出てきた。ルートに別れの挨拶を告げにきたようだ。

「今回はあんたに世話になっちまったねぇ」

「別に、行きがかり上、しょうがないさ」と、ルートは笑って返した。

「これを、あんたに」と、サルータは言うと、首元の立派な首飾りを彼に差し出した。

「おいおい、これは何だよ」

「せめてもの礼さ。受け取れ。金にでも何でもするがええ」

「いや、さすがに受け取れねぇよ。いらねぇって」

「いつもがめついお前が、こう言う時だけ遠慮深くすることはないだろう? さあ」

「あー、だったらさ。また、お前らの所に仕入れに来るからさ、そん時に礼の品はもらうよ。それでいいだろ?」

「ふん、まったく。こんな時だけ善人面しちまってねぇ。分かったよ、近いうちに取引再開しようじゃないか。それまではくたばるんじゃないよ」

「そっちもな」と言って、二人は別れを告げた。

 

 ルートは、戦地から遠く離れた、荒野の丘で相棒を待っていた。ぼんやり酒でも飲んでいると、その内に大きな羽音が聞こえてきた。シーグラムだった。

「随分探したぞ。こんな所でのんきに酒なぞ飲みおって」そう呆れながらシーグラムは隣に降り立った。

「なんだよ、こっちは大変だったんだぜ。あともう少しで戦争に巻き込まれるところだったんだ」

「そうらしいな。あのズイの里、見慣れぬ兵士たちがどやどやと入り込んでいたぞ。里の者たちは無事なのか?」

「ああ、今は谷の奥深くの村に避難した。しばらくはあそこにいるだろうけど、その内、移住先を考えなきゃならねえんだよなぁ」ルートは瓶をあおった。

「また、彼らを助けに行くのか?」

「俺にできることなんてもうねえよ。あとは、アイツらが解決するしかねえからな。ま、当分この辺には出入りできないからな、あいつらとはしばらく会えないだろうぜ。あーあ」と言って、ルートは寝転んだ。

「商売の仕入れ先が一つ減ってしまって残念か?」

「仕入れ先は減ってねーよ。近いうちに再開するさ」そのルートの返答を聴いて、シーグラムは微笑んだ。

 彼らの頭上では、鳶がピュイーと鳴き声を上げていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る