ある天使の思い出に

 砂が風に舞って飛んできた。シーグラムは思わず高度を上げた。大きな瞳に砂がかかるとたまらない。しかし、この辺りは砂地が多く、海も近く風が強いため、舞ってくる砂全てを避けるのは難しいことだった。街に着いたら水場で洗い流そうと思い、彼は速度を上げた。彼は、セフェスという街に独りで来ていた。

 この街は海に面した崖に作られており、どの建物も真っ白という変わった街だ。崖の上だけでなく、中腹にも、海のすぐそばにも家が建てられており、遠くから見ると美しくもあり、異様な光景でもある。

 この街が作られたのは比較的最近のことだが、この地方には古い伝統がある。この土地には、全てのドラゴンの始祖が眠っているのだ。そのドラゴンはマリス・ステラという。マリスの体は虹色に光っており、額の結晶は白だ。彼女を讃えるために、この白い建物ができたとも言われている。そのマリスの亡骸は今も姿形を保っており、人々の目に届く所で祀られている。この町では年に一回、彼女を讃えるための祭りを行っている。彼女の名にちなんで「星海祭」と言う。

 このマリスの亡骸と祭りのおかげで観光客が絶えない街ではあるが、祭りのシーズンはとうに終わっている。当然、シーグラムの目的もこれではない。彼は昔、この街を何度か訪れていたことがある。その時にマリスの亡骸も見物しているため、これも今回の目的ではない。

 セフェスの街にはもう一つ特徴がある。ガラス細工の工芸品が盛んだということだ。なぜ盛んかといえば、昔からこの土地にはドラゴンの額の結晶の研ぎ師がいた。ドラゴンの額の結晶はそのままでも支障はないが、やはり見た目のために整えたり、好みの形にする者もいる。だが、自分たちでは繊細な作業はできないため、人間の職人たちが行っていたのだ。一方、人間たちはドラゴンから通貨などはもらえないため、食料や貴重な鉱石、植物などを代金として貰っていた。また、結晶を整える際にでた細かい屑も貰い受けていた。ドラゴンの結晶は非常に価値のあるものだ。今でも高値で取引されている。その結晶の屑もまた、価値のある物だった。

 シーグラムもこの街の職人に額を整えてもらっていた。そして現在の、結晶の中心が窪んだ歪な形になったのも、この街に滞在している時のことだった。長らく寄り付かなかった土地だが、そろそろ額の歪みをなんとかしようと訪れたのだった。


 昔からドラゴンが頻繁に訪れる街だったため、ドラゴン用の高台が多い。また、職人が作業できるように、広い屋上がある家屋も多い。今では訪れるドラゴンは稀だ。シーグラムの姿を見て、街の人々は騒ついた。そんな様子を尻目に、シーグラムはとある家屋の屋上に降り立った。すると、すぐに屋上に通ずる扉が開いた。中からは金髪の少女が現れた。十五、六歳くらいだろうか。少女は、初めて見るであろうドラゴンに臆することなく対峙した。

「うちに何の用?」少女は語気を強めて訊いてきた。

「ここにペトラという者がいないか? 私はシーグラムという。彼女にこの名前を伝えてくれれば分かるはずだ」シーグラムは静かにそう言った。

「……ペトラは私のお婆ちゃんよ。お婆ちゃんは今、外に出れるような状態じゃないの。悪いけど――」

「そうだったか、あれから四十年以上だものな……。ペトラは、どういう病状なのか教えてくれないか?」

「その、ボケちゃってるの。多分、あなたのことも分からないと思う」

「そうか……。突然、邪魔をして悪かった。一応、私の名前を出してみてはくれまいか? 果たしていない約束があるんだ。私はしばらく、ここら辺にいる」と言うと、シーグラムは空へ飛び立った。少女は不思議な表情で、突然現れたドラゴンを見送った。


 ペトラがボケた。シーグラムが世話になっていた頃は三十代くらいだったと思う。そこから約四十年。老いるのは当然だ。だが、このまま彼女との約束が果たされないのは、どうにも納得がいかなかった。


 シーグラムは街の郊外の丘に数日間、滞在した。物好きな人間が近寄ってきては相手をしてやった。中には、昔のシーグラムのことを覚えている老人もいた。

「お前さん、確かシーグラムじゃろ。ほれ、わしはパウロスじゃ。漁師の」腰の曲がった老人が声をかけてきた。

「パウロス! 久しぶりだな! そうか、お前も老けてしまったな」

「ハッハ! お前さんは相変わらずの眩しい体で羨ましいのお。ほんに久しぶりじゃ。あとで酒でも差し入れてやろう。それで、今回来たのは何が目的なんだ?」

「ペトラに会いに来たのだ。この額の歪みを治すという約束を果たすためにな。だが、彼女はボケてしまったと聞いたが……」

「ああ、ペトラの奴、昔はあんなに強気で豪快な女じゃったが、あんな風になってしまうとはなぁ……」

「そんなにひどいのか?」

「あいつがボケ始めたのはここ一、二年のことだ。最初は物忘れがひどくなって、周りに怒鳴り散らすことが多くなった。あいつは元々気性が荒かっただろ。だから家族も、周りの奴らも気にしていなかったんじゃが、物忘れがどんどん悪化して、急に落ち込んだり泣き出すようになった。とにかく、情緒が不安定になっていったんじゃよ。それで、ついには家族の顔も分からなくなった。時々は思い出すんじゃがな、すぐに忘れてしまう。今では、別人のように大人しくなってしまった。なんだか魂が抜けてしまったようで、見ていられないくらいだ」

思ったよりも悪い病状に、シーグラムは絶句した。そんなことが起こっていたとは予想だにしていなかったのだ。

「シーグ、お前さんもそんなアイツの姿なんぞ見たくないじゃろ。諦めたほうがいい」そう言って、パウロスは去っていった。


 約四十年前。世間ではまだ大陸間戦争の余波が残っている時代、戦地からは遠く離れており戦火を免れたこのセフェスでも、戦争の影響を受けていた。戦後、人間の目の前から多くのドラゴンが消えた。セフェスに来なくなったドラゴンも多く、ドラゴンを相手にしていた職人たちはみな職を失った。それでも、たまに訪れるドラゴンはいた。シーグラムはその中の一頭だった。

 家族とバラバラになり、放浪していたシーグラムは、セフェスにいい職人がいると、親しいドラゴンから聞いていた。元々、セフェスからは遠い所で生まれたシーグラムは、ドラゴンの額を整備する職人がいるなどと知らなかった。戦後、旅の範囲を広げた彼は、自分の身なりを多少なりとも整えられる方法を知りたかった。だからこそ、セフェスの職人は興味が湧いたのであった。

 いざ街へ来てみると、シーグラムは職人探しに苦労した。ほとんどの者は引退するか、ガラス細工職人に鞍替えしているからだ。それでも頼みたいと、評判のよかった職人にお願いしたが、もう腕がなまっているから、と断られてしまったのだ。だが、その職人が、街に唯一残っている職人がいると教えてくれた。それがペトラだった。

 ペトラは街の外でも仕事をしている。あちこち歩き回っており、街には偶に帰ってくる程度だったため、帰りを待つ必要があった。その時も、シーグラムは郊外の丘でペトラを待っていたのだった。

 数日待った後、砂丘から街へ向かってくる人影を見た。褐色の肌に真っ黒な髪、目つきが鋭く、本人にその気がなくとも睨まれてしまうような気分になる、そんな目をしていた女がやって来たのだった。



 一週間ほど経った頃、ペトラの孫娘がシーグラムのもとにやってきた。

「おや、お前は――」寝ていたシーグラムは頭を上げた。

「えっと、シーグラム、でいいのよね。ここ最近、お婆ちゃんの具合が良かったから、あなたのことを話してみたの。でも、何も反応してくれなかったわ」

「そうか……」

「ねえ、あなたとお婆ちゃんって、どんな関係だったの? 何か、お婆ちゃんが思い出せることがあるかもしれないわ」少女はそう言った。

「思い出話か……。そうだな、確かにペトラの記憶を思い起こせるものがあるかもしれない。そうだ、まだ君の名前を訊いていない」

「クロエよ」

「クロエ、こちらに来なさい。昔のことを話してあげよう」シーグラムは優しく言った。


 シーグラムはペトラとの思い出を語った。ペトラは非常に気の強い女で、まだ若かったシーグラムは、彼女の強烈さに戸惑っていた。だが、その内にペトラとの付き合い方を理解していった彼は、彼女のよき友となった。ペトラも戦後、わざわざ自分のような職人のもとを訪れた変わり者のドラゴンをおもしろがった。まだまだ、大戦の余波が絶えなかった時代、シーグラムはペトラの護衛をしていたこともあった。

「当時、この辺りは大陸間戦争の影響はあまり及ばなかった。だが、すぐそこの国境を超えた先で、千年間続いて来た宗教対立が、大戦に便乗して紛争を引き起こしたんだ。この街はギリギリのところで戦地にはならなかったが、あちこち飛び回っている者には死活問題だった」シーグラムはそう語った。

「聞いたことあるわ。夜になっても遠くからずっと砲弾の音が聞こえてきてた、って。でも、お婆ちゃんだったらそんなことお構いなしに走り回ってそうね」クロエは小さく笑った。

「まさしくそうだったのだ。だから、私が付き添った。あの頃はまだ一人娘が幼かったというのに、そんなことお構いなしに仕事に行ってしまうものだから、本当に困った人だった」苦虫を噛み潰したような顔で話すシーグラムに、クロエは笑った。

「それじゃあ、その額の傷も、戦争が原因?」

「ああ、そうだ。砲撃による落盤に巻き込まれてしまってな、ペトラをかばった際に、大岩が直撃して、この通りだ。さすがにあの時は死にかけたが、なんとかこの街まで戻ってくることができた。数週間ほど休んだら痛みは癒えたが、窪んだ結晶は戻らなかった。だが、その時は時間をかければ元に戻ると思っていたのだ。だから、ペトラと約束したのだ。この欠けた結晶が整形できるほど十分に成長した時、またペトラに整形してもらう、と。だが、それは長らく叶わなかった。私は、また旅に出て、その流れで遠くに移り住んだ。それから、長らくこの辺りには戻ってこなかったのだ。結晶も、あの時よりは少し増えたと思うが、この通り、欠けたままだしな」

「じゃあ、今戻ってきたのは、なぜ?」

「結晶が成長しないことで、なんらかの支障をきたすと思ったのだ。この結晶はドラゴンにとって、心や脳みそみたいなもの。それが長年不完全なままだと、なんらかの支障をきたすやもしれぬ」シーグラムは、慧が暴走し、消滅してしまった僧のことを思い出しながら語った。

「お婆ちゃんなら、なんとかできるかも、ってことね」

「そうだ。高齢になっていることは理解していた。だが、知恵を貸してくれる可能性もあったし、優秀な後継者を育てている可能性もあった。そう思ったのだがな、どちらも叶わぬようだ……」

「お婆ちゃんは、ああいう性格だし、それにドラゴンなんてもう人間の前に姿を表さないからね。結晶の整形師なんてやる人はいないのよ。みんな、別の職業についてしまった。力になれなくて、残念だわ」

「いや、いいさ。予測できたことだ。長年、会いに来なかった私も悪い」

「よければ、お婆ちゃんに会ってみる?」

「いいのか?具合が悪いのではないのか?」

「家の屋上に上がるくらいだったらなんとかなるよ。屋上で待ってて」クロエはそう言うと、走り去ってしまった。


 シーグラムは言われた通り、クロエの家の屋上に降り立った。少し待つと、クロエが老婆を背負って屋上に上がってきた。四十年振りに見るペトラは、昔の面影が全く残っておらず、弱々しく痩せ細り、髪も白くなっていた。目もあまり見えていないようだ。

クロエは、屋上にいつも置いている椅子にペトラを座らせた。座るのもやっとのようで、クロエが支えている。

 クロエはペトラに「お婆ちゃん、シーグラムが来てるわよ。友達なんでしょう」と話しかけていた。ペトラはなにごとか呟くと、シーグラムの方を見た。その目は、旧友を見る目ではなかった。かと言って、見知らぬ者を見た時のように訝しむわけでもない。空虚な瞳だった。やがてペトラは柔和な笑みを見せて言った。

「これはこれは、遠い所から来てくれたのかい? 嬉しいねぇ。娘の友達なんだろう? ねえ、アイラ」と、別人の名前を言いながらクロエの方を見た。完全に、シーグラムのこともクロエのことも分かっていないようだ。シーグラムは、なんとか彼女に自分のことを思い出させようとした。

「ペトラ、私だ、シーグラムだ。昔、短い期間だが、一緒にいたシーグラムだ。昔、交わした約束を果たしに来たんだ」

「はて、約束ってなんだい? アタシにはなんのことだか……」

「この額を、また磨いてくれると言う約束だ。あの頃から、なぜか結晶は戻らなかったが、だが、少しでもいい。この傷を、癒してはくれないか?」と言いながら、シーグラムは額の結晶をペトラに見せた。次第に、ペトラの顔色が青くなっていった。

「誰だい! アタシの家に勝手に上がり込んで! 誰か! アイラ! アイラ!」と、ペトラは急に叫んだ。クロエのことも誰か分かっていないようで、クロエとシーグラムを泥棒のように思っているらしい。すぐにクロエが「お婆ちゃん! クロエよ! 孫の! それで、このドラゴンはシーグラム! お婆ちゃんの大事な友達よ。お婆ちゃん、本当に、思い出せない?」と宥めた。

 ペトラはクロエを見ると、急に大人しくなり、ごめんね、ごめんね、と泣き始めた。それからはもう泣きじゃくるばかりで、シーグラムのことを思い出すどころではなかった。

そんな様子を見ていたシーグラムは、喉の奥が詰まる感覚を覚えた。長い年月が経ったのだ。自分が忘れられてしまったことなどはどうでもいい。ただ、大切な人が、こうして狂っていく様子を見るのが、ただただ絶えられなかった。こんなことなら、会わなければよかった。いっそのこと、亡くなっていてくれたら、まだ綺麗な思い出のままでいられただろう。目の前のどうしようもできない弱々しい老人と、そんな考えを抱いてしまう自分に耐えきれなくなったシーグラムは、クロエに自分の連絡先を伝えて去った。連絡先は、ルートの私書箱だ。そんなことをしたのは、もしかしたら、この後、自分のことを思い出してくれるかもしれない、という淡い希望からだった。



 それから一ヶ月して、クロエから手紙が来た。ルートは、シーグラム宛ての手紙が来ていることを非常に珍しがった。そして、勝手に自分の私書箱を使うな、と怒った。そんなことは意にも解さず、シーグラムは手紙の内容を読んでくれとせがんだ。

「まあ、読んでやるけどよ。一体、このクロエっていうのは、どこのどいつだ」さすがに何も言わないのも筋違いなので、シーグラムは、セフェスの街での出来事やペトラのことについて包み隠さず教えた。

「なるほど、そのペトラって婆さんが自分のことを思い出していないか、知りたかったんだな。でも、こうして手紙をくれたってことは――」

「そう信じたいが、怖い気もするな」

「とにかく、読むぜ」ルートは手紙を読み始めた。



シーグラムへ


 セフェスの街のクロエです。お久しぶりです。普段、こんな手紙なんて書かないから、丁寧な言葉でなんて書けないけど、許してね。

 お婆ちゃんですが、つい先日、亡くなりました。最後は静かに、ベッドの上で眠るように亡くなったわ。最後まで痴呆は治らなかったけど、死の直前は、不思議と穏やかな顔で、私たち家族のことや街の人々のことをちゃんと分かっていたの。さすがはお婆ちゃんって感じね。本当によかった……。

それでね、あなたのことも思い出していたわ。あの夜、会ったこと、とても悔やんでいたわ。どうしてちゃんと話してやれなかったのか、どうして思い出してやれなかったのか、って。涙を流しながら悔やんでいたわ。例え治してやれなくても、額を撫ぜてやればよかった、って、すごく悔やんでいた。だから、私、言ったの。シーグラムは、あの時会えてよかった、って言ってた、って。彼もお婆ちゃんの病気のことをよく分かっていたから怒ったり悲しんだりはしてない。むしろ、顔を見ることができてよかった、って、何度も何度も言ったの。そしたら、お婆ちゃん、安心したみたいだった。お互い天国に行ったら、絶対に約束を果たしてやる、とも言っていたわ。だから、安心してほしい。あなたの願い通りではないかもしれないけど、いつか約束が果たせそうよ。

クロエ



 ルートは手紙を読み終わった。「だとよ」と、シーグラムに呼びかけた。彼は、そうか、と呟いて俯いていた。

「これは俺の荷物に入れておくからよ、隠れ家に戻る時にでも持って行ってくれよな」と、ルートは言うと、「食料でも買ってくる」と言ってその場を離れた。

 シーグラムは独りになった。あの時、もう少し街にいれば、と思った。そうすれば、お互い悔いなく別れられただろうと思った。けれど、そんなことを考えていてもしょうがないことだった。少なくとも、忘れられたまま死ぬことはなかった。悔いたまま死ぬこともなかった。やはり、あの時、会っていてよかったのだ。だから、こうして離れていながら別れることができた。ならば、次は天国で会うための準備をしなければと考えていた。どうすれば、自分の結晶が元に戻るのか、と。 

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