ピエロへの祈り

 乾燥した風が冷たい昼、ルートの目に、倒れている一人の僧が映った。その僧は、人々が行き交う町中で突っ伏して倒れており、道ゆく人々は皆、気味悪がって助けなかった。助けた瞬間、スリに合うなどのことを恐れてのことだった。だが、人々の心がそうなるほど、この町の治安は不安定だった。

 ランポール共和国の東端に位置するビャスク市。ここは首都から九十リーグほど離れた、寂れた町だった。首都から離れ経済的に豊かでなく、さらにすぐ隣に位置する国は独裁政治を敷いている侵略国家のため、常に情勢が不安定だ。国境を超えて亡命してくる者も、この町には少なくない。もっと西側の、情勢が安定し、上流中流階級が多い市や国と比べたら、圧倒的に労働階級が多い地域である。

 そんな町で行き倒れる者も少なくない。人が路上で倒れていることなど珍しいことではないのだ。そんな町でルートは、倒れている僧に目を留めた。普段なら関わらないところだが、このエウロー地域で僧を見かけることは珍しい。それに、その僧が来ている橙色の法衣は、大陸を二分する大山脈「龍虹(りゅうこう)山脈」を超えた、大陸の東側で発展した宗教のものであり、西側で見るのは非常に珍しかった。

 ルートは僧の元に跪き「おい」と声をかけた。僧の顔を見やると、空腹の表情をしているのが分かった。本当は病気の可能性だってあるやもしれなかったが、ルートは空腹だろう、と思った。

 彼は水筒を僧の口にあてがって水を飲ませてやった。僧は水を少しずつ飲み、次第に表情を和らげていった。

「おい、あんた。立てるか?」ルートは訊いてみた。すると僧は意外にもしっかりした口ぶりで「ああ、ありがとう。おかげで助かりました。もう大丈夫ですよ」と言い、少しふらつきながらも立ち上がった。背丈はルートとほぼ同じくらい。歳の頃は六十代くらいに見えるが、さっき倒れていた時の顔は二、三十代に見えた。ルートは見間違いかと思ったが、それでも頭の片隅に、その疑問がこびりついて離れなかった。

「おいおい、本当に大丈夫か? 俺の寝ぐらに一応食料はあるけど……」ルートは言った。

「いやあ、そこまで世話になるわけには――。ああ……うん、そうだね。それでは、お言葉に甘えてお世話になりましょうか」僧は一度断ろうとしたが、何を思ったか、助けてくれた親切な青年の好意に甘えることにした。

 ルートは「変な奴に絡んでしまったか……」と、一寸後悔したが「悪い奴ではなさそうだ」とも思った。この僧に興味を抱き始めていたのだ。


 ルートとシーグラムはこの町の郊外に潜伏している。潜伏先は、かつて町であった場所だ。

四十年ほど前、市街戦が起き、町は瓦礫の山と化した。それ以来、ここによりつく者は誰もいないし、ここを再興する金も、この町には無い。ルートは、かつて教会だった建物の敷地に入り、さらに地下へと続く階段へ僧を案内した。そこでは、シーグラムがトグロを巻いていた。誰かが入ってくる気配に気がついたシーグラムは素早く身を起こしたが、それがルートだと分かるとすぐに警戒を解いた。しかし、その後ろの人物に目を止めた。

「ルート、その者は?」シーグラムは半ば警戒しながら訊いた。

「ああ。町中で行き倒れていたのを見かけてな。腹、空かせてそうだったから連れてきたんだよ」

「ほう、お前さんがそのような人助けをするとはな」シーグラムは少し笑った。シーグラムの姿を認めて僧は「おや、君の仲間はドラゴンでしたか」と、楽しげな口調で言った。


 地下は瓦礫が散乱している。かつてここに置かれていたであろう椅子、本棚、絵画などは風化して見る影も無かった。シーグラムは日の差している所にいる。その側にはカンテラやルートの荷物が置かれている。二人は彼の側へ寄ってその辺のガレに腰を下ろした。僧が口を開いた。

「そうそう自己紹介が遅れて申し訳ない。僕の名はボーティという。見ての通り、坊さんをやっているよ」ルートとシーグラムも自分の名を告げた。

「そうだ、じいさん。腹が減ってるんだったな。こんなもんしか無いが、いいか?」ルートはパンを取り出して差し出した。

「ありがとう。いや、こんなにたくさんはいらないよ。三分の一くらいもらえればいい」

「いいのか? あんな所でぶっ倒れてたってのに」ルートはパンを千切ってボーティにあげた。

「ああ、年寄りになると、そんなにたくさんはいらないのさ」

「ボーティ……殿。あなたはどこか普通ではないと見える。この男についてきたのも、何か試算あってのことではないか?」シーグラムはボーティをジッと見つめた後、そう訊いた。ボーティはパンを齧りながら答えた。

「おや、君はなかなか鋭い。それに僕には敬称なぞつけなくていいよ。そうさな、こちらのルート君が、おもしろい〝慧(けい)〟を持っているみたいだったからね。ちょっと興味があったんだよ」ボーティのその言葉にルートは驚いた。「なんで俺が慧を持ってるって分かるんだよ」

「薩教の僧ならば分かるのであろう。それも、修行を特に積んだ者ならば」シーグラムが言った。「あなたは特に高名な僧とお見受けする。一体、どこからいらしたのだ?」

「ここよりはるか東南の島、ニカーヤ諸島のサトゥーバスティー寺院から。知っているかな?」ボーティは二人を見やった。

「サトゥーバスティー……確か薩教(さつきょう)の本拠地だったな。そして、出入り口が無いことで有名な寺院だと聞いているが」シーグラムが答えた。

「出入り口が無い? なんだそりゃ?」ルートが訊いた。

「なんでも、そこの修行僧しか出入り口を知らないらしい。噂によると、苦行をする期間は誰も出入りしないよう、一切の入り口を封鎖するだとか……」

「ははは、今は苦行なんてしないよ。今と言っても、二千年くらい前からか」と、ボーティは笑った。

「とにかく、そんな遠い所からやってきたなどとは……。一体どうやって」シーグラムは再びボーティに質問した。

「本拠地はサトゥーバスティーなんだけどね、ここ数年は、大山脈のすぐ西側で活動をしているんだよ。僕は、年単位で各地を周って旅をし、数年ごとにサトゥーバスティー寺院に帰っているんだ」

「ということは、今はこの辺りで布教活動を?」シーグラムが訊いた。

「今の拠点はもっと遠くなんだけどね、実はこの街に来たのは、ある者を追っているからなんだ」

「ある者?」ルートが口を挟んだ。

「うん。……ああ、そうだ。僕と同じ格好をした僧を見かけなかったかい? 歳の頃は三十半ばくらいなんだが」

「いや、俺たち、数日前に、西側からこの町に来たんだけどよ、そういう奴は見なかったな。噂も聞いてないし」

「私も知らないな。その者がどうかしたのか?」

「ちょっと困ったことになっていてね……。彼はここよりずっと東の寺院で修行中の身でね、慧の修行をしていたんだ。だが、自分の心に耐えきれなくなってしまい、逃げ出してしまったんだよ。それで、本格的に暴走してしまう前に連れ戻そうと思って、この街まで追ってきたんだ――」

「なるほど。それはまずい。早くその僧を見つけ出さねば」

「お、おい。暴走ってどういうことだよ」ルートが訊いた。

「おや、知らないのかい?」ボーティは穏やかな指導者の顔をして、ルートの方を振り向いた。一方、シーグラムは呆れた顔をしてルートを見ていた。

「お前、以前、私が教えたことを忘れたのか? まったく、本当に人の話しを聞かない奴だ。すまぬ、ボーティ。こやつは昔から慧を持っていたらしいのだが、何もその本質を理解していない。一年ほど前に、慧について少し教えてやったのだが、何もかも聞き流していたようだな……」シーグラムは嘆息した。その横でルートがむっとしながら「お前の話しは長い上に難しいんだよ。もっと誰にでも分かりやすくだなあ……」

「ふうむ。ルート、君はいつから慧を持っているんだい?」ボーティはルートに訊いた。

「いつからだったかは忘れちまったよ。というか、いつの間にか持ってたっていうか……。少なくとも十年くらい前だったと思うけど」ルートは遠くを見ながら答えた。

「おや、そんなに前からか。しかも修行も何もせず。安定して出せるんだね」

「ああ、そうだよ」と言って、ルートは影の紐を少し出してみせた。ボーティはそれを興味深そうに眺めている。ルートの手足には黒い影の紐が巻き付いていた。

「ボーティ、少しこやつに慧について教えてやってはくれぬか」シーグラムが言った。

「ああ、いいとも。そうだな、まず〝慧〟とは何か、分かりやすく言うと〝自分の心が具象化したもの〟だ。心に虎を飼っていれば虎が具象化する、幼い頃に母を喪い、ずっと母のことに囚われていれば母親が具象化する。その者が心の奥底に捕らえて離さないモノがこの現世に目に見える形となって現れたモノ、それを慧と呼ぶ。ルート、君の場合はどうなのだろうね」ボーティはそう言うと、ルートの目の奥を覗き込んだ。ルートは、何もかも見透かされているような心地になったが、不快感は無かった。ボーティは続けた。

「それはさておき、人の心というものは、そう簡単に制御できるものではない。自分の心なぞ、自分でさえも理解できないのだから。さて、そこで先ほど話題に上った心の暴走についてだ。自分の心の姿を受け止めきれなかった者、慢心により心が肥大化してしまった者、慧を悪用しようとした者、そのほとんどが発狂し、慧が暴走してしまったという事例がある。今回、私が危惧しているのはそれだよ」

「それじゃあ、暴走しないためには、精神が安定していて、悪事を考えないようにするってことか?」ルートは言った。

「そういうこと。だから我々は修行する」

「待てよ。俺みたいな一般人でも慧を持ってる奴はいるだろ。俺たちが暴走しないのは……」

「慧というのは、心の中に強いこだわりを持っている者が発現させることが多い。執着といった方がいいかな。もちろん、修行僧以外で自発的に慧を発現させる者はいるし、幾らかは暴走し、幾らかは慧といい付き合いをしていく。君はその後者だというだけのことだ。それじゃあ、なぜ我々は慧の修行をするのかというと、悟りは己の心に帰ることだからだ」

「どういうことだ?」

「薩教は悟りを求める。そのためにはまず己を知り、次に他を知り、再び己を知る。そのために自らの心の具象化と安定化を求める」

「あなた達の言う悟りとはどういうものなのか、具体的に知りたいな」今度はシーグラムが訊いた。

「この世界に生きるモノたちは皆、感じる世界が違う。今、ここにいる我々も、一人一人が違う体験をし、違う考え方を持ち、そして身体的特徴も健康状態も寿命も違う。だからこそ、この地球を世界として扱うのではなく、一人一人が世界なのだと、薩教ではしている。ルートの世界があり、シーグラムの世界があり、そして僕の世界がある。あらゆる種類の世界が、宇宙が、存在している。とは言っても、この地球上に住む動植物達はお互いの助けがないと生きていけないね。それぞれの生物に役割があり、その役割に沿って、生きて、死んでゆく。我々は助け合ってこそ生きてゆける。だからこそ、己の世界と、他の世界の両方を理解しなくてはならない。その理解が深まった時、悟りが開ける。まあ、つまり、この世は助け合うのが真理なのだよ、と言っているのです」ボーティは最後に丁寧な口調で締めた。

 ふーん、とルートが理解したような理解していないような声を出している横で、シーグラムは感心したように「なるほど。やっと薩教の真髄を知ることができた。いやなに、この世で最も規模が大きく歴史が長い宗教と言われているのに、サヴァ地域以外だとあまり知ることができないからな」と言った。


 彼らがいる大陸は、正式にはエウローサヴァ大陸という。龍虹山脈を挟んで、西側はエウロー地域、東側はサヴァ地域と呼ばれており、西端と東端で全く違う文化を持つ。薩教が盛んなのはサヴァ地域の方だ。といっても、西側でも、山脈のすぐ近くであればサヴァ地域の文化の流れを汲む民族が暮らしている。


「ま、これを真理と捉えるかどうかは皆さん次第だよ。この考えを広めたいとも思わないし、僕も、これだけが真実だとも思わない」ボーティは笑顔で言った。

「おいおい、偉い坊さんがそんなこと言っていいのかよ」ルートも釣られて破顔した。

「はは、本当だよ。僕は今でこそ薩教に帰依しているが、昔は、他の宗教に属していたこともある。無宗教だったこともある。でも、生きていくということはそんなものなのじゃないかな。色々あった、ただそれだけのことだよ」

「それだけのこと、か。あなたは一体、そのように感じることができるまで、どのような体験をしたのだ?どれくらい生きた?」シーグラムの問いにボーティはただ微笑んで、残りのパンを食べた。


 この日の夜、ボーティはルートとシーグラムと一緒に過ごした。体を休めるついでに、奇妙な二人組の冒険譚を聴きたかったのだ。



 翌朝、ボーティはいつの間にか姿を消していた。例の若い僧を探しに行ったのだ。ルートは、自分もボーティと僧を探しに行くことをシーグラムに告げて出て行こうとした。

「あのボーティという僧からは一銭も取れないと思うが」と、シーグラムが珍しいと言わんばかりに声をかけた。

「ま、野次馬根性だよ。お前はどうする」

「私も探してみるか」と言いながら、シーグラムはのそりと体を起こした。


 今日は晴れているが雲が多く、太陽の光が弱い。冬が近づいている証拠だった。彼らは地上と上空、二手に分かれて探し始めた。

 ルートは崩壊した町中を歩き回った。といっても、この町に到着した頃、郊外はあらかた探索していた。誰か潜伏しているのなら、すぐに分かったはずだが、そうではないということは、やはり例の僧はいないのではないかと考えた。

 もう少し違う場所を探そうと思い、町外れにある操車場に行ってみた。操車場の中でも、廃車になった車両を置いておく場所だ。シーグラムも上空から操車場の様子を見ている。ルートは廃車の中を一つ一つ見て回った。やはり誰かがいる気配はない。

 ボーティはどこへ行ったのだろうか。僧がこの町へ来ているという情報を掴んだのは彼だ。彼からもう少し詳しいことを聞く必要があるのではないか。そう思い、ルートは町に戻ろうとシーグラムに告げようと思った時、彼は何かに気づいた様子だった。

「ルート、何やら町の方が騒々しいぞ」ドラゴンの視力と聴力は人間の三倍ある。ルートは街の方角からかすかに音が響いてくるのを聞いた。彼は影の紐を繰り出して、手頃な倉庫の屋根の端にそれを巻きつけた。そして紐を縮めて、自らを屋根の上まで引き上げて登った。傍にシーグラムも寄ってきた。町の方をしばらく見ていると、何かが爆発したように砂煙が上がった。

「ありゃあ何だ?」ルートが声を上げた。

「何となく想像はつくが……。私が見てこよう。ルート、お前はここで待っていろ」と言って、シーグラムは町の方へ飛んで行った。


 シーグラムが町の方まで飛んでみると、そこは混乱の渦だった。路上は逃げ惑う人々と血を流している者たちがいた。シーグラムは一体何が起こったのか皆目見当もつかず、ボーティに念話を送った。高名な修行僧である彼ならば、自分の信号を受け取ってくれると思ったからだ。案の定、すぐにボーティが念話を送り返してきてくれた。

「ボーティ、今、町にいるのか? 一体、ここで何が起こっている」

「ああ、君ですか。実は、例の彼を見つけたのだよ。でも、もう心がやられてしまっていたみたいでね……。町の混乱は彼の力によるものだ」と、町の様子に反して落ち着いた様子の声が返ってきた。

「とにかく、その僧を見つけて町から引き離さなければ。無人の操車場にルートが待機しているから、私がそこまで引きつける」とシーグラムは提案し、ボーティは「助かります」と返した。

 シーグラムは砂煙の上がった方へ向かった。地上を見ると、橙色の法衣を来た男が手を振り回しているのが見えた。男の手の動きにしたがって、辺りの箱や樽などが宙を舞い、そこら中に叩きつけられている。さらには、店の看板や立て札なども引き抜かれ、それらも同様に宙を舞い、人々を襲っている。

「浮遊系……いや、重力を操る力か? 厄介だな」と、彼は呟きながら、男の前に降り立ち、唸り声を上げた。突然の怒れるドラゴンの登場に、周りの住民は逃げ出した。しかし、男は怯む様子もなく、焦点の定まらない瞳をこちらに向けている。息は荒く、顔は青ざめている。シーグラムの存在をあまり分かっていないようだった。

 男は家屋の壁となっている板をベリベリと見えない力で剥がし、シーグラムに投げつけてきた。近くにはまだ逃げ遅れている人間もおり、シーグラムは避けるわけにもいかず、男に背を向け、鋼鉄の鱗で防いだ。その隙に男は逃げ出した。

 シーグラムは飛び上がり、自分の額を男の方へ向けた。正確には額の結晶を、だ。太陽の光を受けた結晶からは一筋の光線が発射された。


 ドラゴンは、それぞれ独自の特殊な能力を持っている。ドラゴンの慧は額の結晶と言われているが、この特殊な能力自体もまた慧なのだ。シーグラムの場合は、太陽光を結晶に集めて熱エネルギーとする。そのため、この能力の真価を発揮するのは昼間のみだ。夜でも月の光を利用することはできるが、エネルギーは弱い。


 彼はその光線を男の足元に当てた。地面からは小さな煙が立ち上り、一点が黒く焦げていた。男は一瞬立ち止まった。その瞬間に、シーグラムはもう一つ、自分に備わっている特殊な力を使った。男の心の中に入り込んだのだ。


 ドラゴンが持つ独自の能力は、大抵一種類だ。だが、シーグラムは物心ついた頃から、この、他者の心を読むという二つ目の能力を有していた。だが、普段は使わない。他者の心を覗くなど悪趣味だと、彼は思っているからだ。だが、このような緊急事態には使うことを、自分に許している。


 若い僧の心の中は、まるでクラゲのようにぐにゃぐにゃ蠢き、捉えようが無い。心がすでに暴走しているからだろうか。シーグラムは、その者の心の本質を捉えればこちらの思うように誘導できるのだが、これでは難しい。おまけに、この力は相当な集中力を使う。しかし、シーグラムが心の中に入り込んだおかげで、男の意識は目の前の黄金のドラゴンに向くようになった。男はシーグラムに対して執拗に攻撃してくるようになった。シーグラムが空中から威嚇すると、男は彼に対抗するためか、自分の体を空中に浮かせた。予定通り、ルートの元まで連れて行けそうだ。

 シーグラムは男を威嚇しながら、操車場に向かって飛んだ。男は屋根板を剥がして投げつけたり、見えない手でシーグラムの体を掴もうとした。引力で引き寄せたり、重力で押し潰そうとしたのだ。その度にシーグラムは大きく避けるため、うまく操車場までの距離を稼げた。

 だが、いつまでもそうはいかない。彼は自分の体が後ろに向かって少し引っ張られるのを一瞬感じた。それも束の間、次には体にひどく重い物がのしかかってくる感覚がしたのだ。まるで大きな岩が落ちてきたようだった。体の重みを支え切ることができず、シーグラムは勢いよく落下した。落ちた先はトタン屋根だった。ドラゴンの体が勢いをつけて落ちてきたため、屋根は大きくへこみ、今にも下に抜けそうになっていた。シーグラムが体勢を立て直そうと、羽根を広げ体を起こそうとしている時、その頭上にいる男は彼に向かって再び手をかざした。シーグラムにまた重い物がのしかかってくる感覚がした。だが今回は、その感覚はすぐに消された。男は黒い鞭のようなもので弾き飛ばされたのだ。見覚えのある鞭だった。

「シーグ! 何やってんだよ」ルートの声がした。

「ルートか。助かった」シーグラムは操車場までたどり着いていたのだ。ルートはシーグラム達が近づくのを見て、彼らの近くまで寄ってきたのだった。

「あんな奴にいいようにやられやがって。やっぱお前、大したことねえな」ルートは笑いながら言った。

「その大したことのない奴に、いつも喧嘩で負けているのはどこの誰だ」シーグラムは体を起こして若い僧の方を向いた。男も車庫のトタン屋根の上に叩きつけられて、ルートの繰り出した影の紐でぐるぐる巻きにされている状態だった。

「なんだと、それじゃあ今ここで白黒はっきりさせてやってもいいんだぜ」

「それよりも、ほら見てみろ」

「え?」ルートは拘束している男の方を見た。男は拘束を解こうとゴロゴロ動き回っていたが、やがて動きが止まり力を溜めているように見えた。そして、男は影の紐を引きちぎった。

「はぁ、マジかよ。どうすっかな……」ルートは髪の毛をぐしゃぐしゃとかきむしった。

「死なない程度に衝撃を与えて気絶させるしかないな。ルート、あの者の力は重力を操る力だ。さっきはそれで押し潰されそうになった。お前も用心しろ」

「お前のお得意技でなんとかすればいいんじゃねぇか? ほら、今は日も高い」ルートはシーグラムの太陽光を操る力のことを言った。

「足止めくらいにはなるが、直接当てることはできんぞ。当てたら焼け死んでしまう」

「ほんと、肝心な時に――」などと言い合っていると、男は唸り声を上げながら両手を上へ上げた。ルートとシーグラムは男に捕らえられないよう距離をとるべく、その場を離れた。シーグラムは上空に飛び立ち、ルートは車庫を離れて、止まっている汽車の上へ移動した。ルートが振り返ると、男は宙に浮かびながら、車庫のトタン屋根を引き剥がしていた。その男の矛先がルートへ向いた。男は彼に向かって巨大な板を投げつけてきたのだ。当てれば間違いなく死ぬ。ルートは急いで汽車から飛び降りた。それとほぼ同時に、シーグラムが額の結晶から眩いばかりの光を男に浴びせた。フラッシュを焚いて男の目を眩ませたのだ。案の定、男は目を抑えて屋根の上に降りた。錯乱しているとはいえ、視覚から得た情報で攻撃対象を決めていたのだ。数十秒程度は動きを抑えておける。

「男の目を潰した。今のうちに背後に回れ」シーグラムは相棒に念話を送った。ルートはすぐに得心したようで「ああ、なるほど。さっきの光はそういう……」と半、ば独り言を返してきた。


 それから少しして、男の背後から幾本もの影が伸びてきた。それと同時に、男は視界が回復したようで、また腕を広げて目の前のシーグラムを攻撃しようとしてきた。だが影は男をとらえ、腕をあらぬ方向へねじ曲げた。腕の痛みで男は悲鳴を上げた。さらには、足に巻きつけている影の紐にも力を込めた。男はその場で転んだ。ルートが男の後ろから現れた。

「シーグ、早くしろ!」シーグラムは再び男の心の中を覗き見た。男の心の中にある感情は苦痛ばかりだった。恐らく今この時のことなのだろう。だが、それよりももっと奥深くを探らなければならなかった。シーグラムが心の奥底を見ようとした時、突然、男の心から弾き出された。シーグラムは頭に強い衝撃を受けた感覚を覚え、一瞬目を瞑った。それと同時に、男はルートの影の紐を引きちぎり、虚空に向かって絶叫をあげた。その叫び声は、およそ人間のものとは思えぬほどの高音で、喉が裂けるのではないかと思わせるほどだった。ルートは思わず耳を覆った。

 そして、男の体は収縮していった。誰かに両手で丸め込まれたかのように潰されてゆき、最後には黒い球体になり、それもまた小さくなって消えていってしまった。現実離れしたその光景に、ルートもシーグラムも言葉を失った。

 しばらく呆然としていた二人の耳に、ぶつぶつ言う声が聞こえてきた。いつの間にか操車場に到着していたボーティが、地上で念仏を唱えていたのだった。



 「一体、あれはなんだったんだろうな……」ルートはシーグラムに問いかけた。彼らは街から遠く離れ、誰も来ない森の中に移っていた。あの騒動で彼らはずいぶん目立ってしまったからだ。ボーティは、自分の弟子が騒動を起こしたということで保安官に事情を聞かれている。後で合流する予定だが、今日はもう無理かもしれない。

「あれが、慧が暴走してしまった者の末路、ということだろうな。恐らく、彼の慧が重力だったから、あのようにして押し潰されて消滅してしまったのだろうが……。しかし、あのようなおぞましい光景、初めて見た。さすがに今でも怖気が走る」そう言うシーグラムの声は弱かった。

「まったくだ。気分が悪いぜ。お前、あいつの心を読んだんだろ。どうだった?」

「大したものは見えなかったよ。最初に試みた時は感情らしいものは見えなかったし、その次の時、お前が彼を縛っている時だな。彼の心の中は苦痛しか見えなかった。肝心なモノは何も見えなかったんだ」

「それじゃあ、慧が暴走した原因を探ったり、止めるなんてこと、最初から不可能だったってわけか」

「我々が痛みを与えていたからというのもあっただろう。詳しいことははボーティに訊くしかない」


 二人は空き地で火を焚きながら夕飯の準備をした。今夜は、昨日の内に手に入れておいた肉だ。その内に、ボーティがやって来た。思ったより早く解放されたらしい。

「ふう、ちょっと疲れました」と言いながら、地面に座り込んだ。ルートは焼いていた肉とウィスキーを差し出した。だが、シーグラムに「ルート、修行僧に肉と酒はご法度だろう」と諌められた。

「ああ、それなら大丈夫だよ。私の宗派はそれほど厳しくないからね」とボーティは言って、肉を食べ始めた。


 一息ついたボーティを見てルートは訊いた。「で、あの後、どうやって保安官を言いくるめたんだよ」

「それはもう真実を。ただ、普通の保安官が慧や我々の宗教のことを理解してくれるとは思わないからね。話しは全く進まなかったよ。まあ、異国人ということと、彼らも面倒事には関わりたくないのだろう。調書だけ取られて解放されたよ。ああ、そうそう、あなたたちのことは、私が雇った用心棒ということにしておいたよ。それで流してくれたからね」

「いい加減で済ませてくれたのは運が良かったな」ルートはそう呟いた。

「それで、ボーティ。あの者の最後は一体……」シーグラムが口を挟んだ。

「お察しのこととは思うけどね、あれが慧を抑えきれなかった者の末路だ――」ボーティはそう答えた。

「慧が暴走した奴は、みんなあんな感じに消滅するのか?」ルートが訊いた。

「そういうわけではないよ。彼は自分の重力に押し潰されて消滅した。自分の心に押しつぶされたんだ」

「あれを救う方法はあったのか?」

「彼が我を取り戻していれば消滅は免れただろうね。でも、そうはいかなかった。そうそう、シーグラム、君は特殊なことをやっていたんだね」ボーティはシーグラムの読心の能力をなぜか見抜いていた。

「どうして、そのことを?」

「これでも人間の心に携わる身だ。君が彼の心に入り込んで何かしようとしているのは分かったよ」

「彼の心を知ることができれば、何か変えられると思ったのだが、無理だった。むしろ、悪化させてしまったのではと思うのだが……?」

「いえ、それは無いよ。君が試みた時には、もう手遅れだった。気に病むことはない。さて、今回のことでは大層世話になったね。何かお礼でもできればいいのだが……」ボーティのその言葉にルートは身を乗り出した。だが、間髪入れずにシーグラムが言った。

「いや、今回の件、我々は何もできなかった。礼などもらえる立場ではない」

「おい、シーグ、またお前は余計なことを――」

「まあまあ、そう言わず。彼の件だけではなく、こうして食事までいただいてしまったからね、何かしらお返しをしないと……。そうだ、エウロー地方には少ないけれど、いつか薩教の寺院に立ち寄ることもあるだろう。そこに自由に出入りできるよう、紹介状を書いてあげよう。僕の筆であれば、客人として迎えてくれるだろうし、寝食や書物の閲覧などをさせてくれると思うよ」とボーティは言って、サラサラと紙片に何かを書き付け、封に入れてルートに渡した。ルートは少々不満だった。いつ役立つかも分からない紹介状を、それもただの寺にやっかいになるだけの紹介状だなんて。だが、満足げに礼を告げているシーグラムを見て、抵抗するのを諦めた。


 街を離れて、駅まで来た。ボーティは汽車に乗って行くらしい。ルートは見送るために同行していた。

「あんたは、ああいう暴走した奴を何人も見てきたのか?」ルートはボーティに訊ねた。

「まあ、それなりにね。救えた者もいたけど、救えなかった者の方が多いかな」ボーティは目尻を下げて微笑んだ。

「そうか。なあ、俺はどうだ?」

「どう、とは」

「俺はちゃんとした修行者じゃないのに慧を使ってる。この先、暴走する可能性だってあるじゃねぇか」

「ふむ、そうだね……。今の君を見る限りだと、暴走することはないと思うけど……」

「お、そうか。ならよかった」

「しかし、今はよくても、この先そうらならいとも限らない。君に何か変化があれば、十分に暴走の可能性も、慧が何かしらの変化をする可能性も、慧が消滅する可能性だってある」

「……お前は、そういうの見抜けたりしないのかよ」

「残念ながら、人がこの先どうやって変化していくかなんて分からないよ。何百年、何千年の修行を積んだって、そんなことは無理だ」

「普通の人間は何百年も生きられないだろ。あ、ドラゴンだったら数百年はいけるか。……それじゃあ、暴走を防ぐ方法はないのかよ。修行しかないのか?」

「必ずしも修行は必要ではないよ。ただ、自分の心を信じるのみだ」

「自分の心を信じる、ねぇ……」ルートは苦笑しながら、次の言葉を考えた。そんな彼に、ボーティは言葉を継いだ。

「ルート、いつか、もし、きっと、自分の行いが間違っていたと思う時が来たら……心が揺らぐ時がきたら、後悔のないよう、よく考えなさい。考えに考え抜いた先にある結果が真実だ」彼は、朝霧の奥から浮かび上がってくる朝日のように柔らかい眼差しで、目の前の青年を見つめていた。ボーティのその唐突な言葉に、ルートは戸惑った。

「あんたは、不思議な奴だな。なんだか、何もかも見透かされてる気がするぜ。俺の未来でも分かるのかよ?」

「いいや、未来なんて見通せないよ。ただ、そういう時が来るかもしれないと思っただけだ。生きていれば、そういう時は必ず訪れる。でも、君なら大丈夫だろう」

「さて、どうかな」ルートは、未来のことなど考えるのも面倒くさくなり、曖昧な返事をした。

 そうこうしている内に汽車が来た。ボーティは汽車を見やりながらルートに言った。

「ルート、いつかサトゥーバスティー寺院に来なさい。きっと、君は気に入るだろう」

「おう、いいけど、何で俺が気に入るんだ?」

「きっと、君の生き方に合うはずだ。根無草だというのなら、うちの寺にくるのも悪くないだろう」

「場所柄、遠すぎて合うかどうか見当もつかないがな。でも、行ってみるのも悪くないな」

「是非とも、来てくれ。もちろん、シーグラムもだ。それじゃあ、いずれまた、会おう」

 そう言って、ボーティは汽車に乗り込んだ。窓越しにこちらを見て手を振っている。ルートも手を振り返した。

 すぐに汽車は汽笛を上げ、動き出した。ルートはボーティの姿が見えなくなると、駅から立ち去った。

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