白い炎

九月五日火曜日

二一〇〇時始業。曇リ。摂氏十度。マルコ巡査ト交代ス。以下引継事項。

七番街路地裏ニ不審人物アリ。一ヶ月前ヨリ目撃サレテイル乞食ト思ハレル。身ナリ――燻ンダベージュノ外套、髪ノ毛数本ノミ、裸足、猫背、小ブリノ椀ヲ所持。傷害、窃盗ハ未ダ無シ。

〇八三七時入電。三番街二十ブロック ラプイセ川岸辺ニテ変死体有リトノコト。応援要請ハ無シ。

一〇〇〇時、第五分署ニ捜査本部発足。捜査責任者アルベルト・ハルツェン

一二二七時、変死体ノ身元発表。アントニオ・ホフマン 四十歳 声楽家 

死因 刺殺 刺殺後川ニ投ゲ込マレタト思ハレル 殺害場所ハ捜査中

ソノ後、特ニ異常無シ。


以上


二二〇〇時 市内巡回



「それで、報酬が半分に減らされてしまったというわけか」シーグラムは、先日の仕事の結果を聞いた。その横でルートが深いため息を吐いて座り込んでいた。

 周囲には一面緑の平原が広がっている。彼らはそれほど高くない丘陵の上で休憩していた。眼前には羊飼いと羊の群れがいる。昔、この辺りには老いたドラゴンがいたらしく、羊たちはドラゴンに慣れているらしい。それでも、あまりこちらには近寄ってこないが。

「ルート、過ぎたことを嘆いてもしょうがない。早く次の仕事を考えろ」

「……お前がギャングに関わりさえしなければ、こんなことにはならなかったんだよ」ルートは恨めしげにシーグラムを見た。

「それを言うならば、あの箱をあんなところに出しておいたのも間違いではないのか?いや、元から割れていたという可能性も」「ああもう! 屁理屈ばっかこねんな」ルートは不貞腐れてその場に寝転んだ。シーグラムもこれ以上言うのはやめようと思い、黙って寝そべった。


 しばらくしてルートが口を開いた。「そういえば、あの中にこんな物があったんだけどな……」先日のギャングによる列車強盗の際に、貨物車からくすねてきた指輪を取り出した。シルバーの指輪で、琥珀色の結晶が埋め込まれている。

「この指輪がどうしたのだ?」シーグラムは指輪を覗き込みながら訊いた。

「いつもの故買屋で、この間の列車強盗の時に手に入れた物を売っ払ってきたんだがな、この指輪、どうやら曰く付きらしい。どうも、この琥珀みたいな結晶はドラゴンの額のもので、指輪自体もドラゴンの鱗から作られているとかなんとか……」

「ふうむ、そのような話しは眉唾ものだと思うがなぁ」シーグラムは鈍い口調で返した。

「やっぱりそう思うか」

「ああ。確かに、二千年ほど昔、紀元戦争の前後あたりは、ドラゴンを捕らえて、その鱗や結晶、それから瞳や爪、牙など、あらゆる物を宝飾品としていた時代はあったらしい。だが、星海文書が制定されてから、それは禁止され、徐々にそういうことは無くなっていった。まあ、それでも、未開の地では、近代まで行われていたという噂もあるが、ドラゴンの数が減っているから、まず無い話しだろう。そして、その指輪は見たところ、古くても百年ほどじゃないか?それほど古い物には見えない」

「う~ん、そうか。ピルツェルも詳しいことは知らなそうだったしな。ああ、でもな、おもしろいことに、この指輪の前の持ち主、意外な奴だったぜ。誰か分かるか?」

「そんなこと、私が知るわけなかろう」

「歌手のララだよ。お前が最近ご執心のな」

「ほう? そうだったか。彼女は、その指輪の曰くを知っているのだろうか」

「さあな。でもこの指輪、うまいことしたら売れるぜ」

「お前の行きつけの故買屋でも引き取らなかったのに、そう簡単に売れる物か?」ルートは意外だった。同胞の鱗と結晶を使った指輪を面白半分に話題に出して、それを高音で売るなどと言ったら、当然シーグラムは怒ると思ったからだ。それだけ、この指輪の曰くを信じていないのだろう。

「……やはり、その指輪の出どころは気になるな」シーグラムは片方の目で指輪を見た。

「お、乗り気になってきたな」

「あくまで、私は好奇心を掻き立てられるだけだ。なぜそんな曰くがついてしまったのか、単純に気になるだけだ」

「分かってるって。それじゃあ、お前の望みも一緒に叶うな」

「私の望み?」

「そう。この指輪の前の持ち主、ララを誘拐するんだよ」ルートは起き上がってニヤリと笑った。


 ルートの立てた計画は、何とも芝居がかっており、かなり荒っぽかった。

「来週はララが主演のオペラがある。その最中に攫うんだ」

「最中、というのは?」シーグラムがルートに訊いた。

「会場になる劇場は天井がガラス張りになっている。お前がそこを突き破って中に入るんだよ。そして、俺が舞台上のララを引き上げて、さっさとずらかる」

「天井のガラスを突き破るなど、危険極まりないぞ」

「ガラス部分の面積はそんなに大きくない。お前が顔から突っ込めばちょうどいいくらいの大きさだ。それに、天井には天幕が張られているから、それがガラスを防いでくれるし、オーケストラピットにかかる距離にあるわけでもない」

「やけに詳しいな。見てきたのか?」

「ああ。安い立ち見席があるんだよ。それで様子を見てきた。それに今回のオペラでは、主人公一人だけが舞台に残って歌う場面があるらしい。そこを狙えば、そんなに被害は出ないだろ」

「その主人公が被害を被らないか心配だというのだ」シーグラムは少し語気を強めた。

「今回のオペラはリメアでやったやつの再演ってことで、その時の写真をいくつか見てきたんだけどな、ララが一人になる場面では、長い厚手のベールみたいなのを被ってる。それなら大丈夫だろ」

「……お前も私も派手なことをやりたいと、今まで色々なことをやってきたがな、無辜の民を傷つけるようなことだけはしなかった。だが今回は……ううむ」シーグラムはうずくまった。

「大丈夫だって。天井から中の様子は見えそうだからな。それで様子見ながらやりゃいいじゃねぇか。それに、その時のララは舞台の中心に立つ。つまり、お前が彼女の頭上を防いでくれるってわけさ。ガラスの破片くらい平気だろ?」ルートの軽い言葉にシーグラムは嘆息した。確かにガラスの破片くらい、シーグムラムの体は物ともしないが、それでもこの相棒は人を、いや、ドラゴンを振り回しすぎる。それを本人に告げたら、お互い様だと返されるだけだろうが。

「その劇場は街中にあるのか?」シーグラムが訊いた。

「いや、街はずれだ。辺りの人家は少ない」ルートは答えた。

「ふむ、それなら私もやりやすいな」

「それじゃあ決定だ。決行は来週末の公演。ララのアリアは終幕直前。その時を狙うぜ」

「まあいいが、なぜ誘拐などということになる。その指輪について何か訊くなら、普通に訪ねていけばいいだろう」

「あのなぁ、俺みたいな浮浪者が、あんなセレブに近づいたらどうなると思う?一発で御用だぜ。だったら、強制的に攫って色々聞き出すほうが断然いい。お前も、歌が聴きたいとか言ってただろ」

「それはそうだが……なぜ公衆の面前で攫わなければならない。こっそり攫えばいいだろう」

「それはまあ、その方がおもしろいからな」ルートは少し言い淀んだが、本音を言った。

「はぁ……。まあ今までも、私が悪役として人間の前に出て行って、お前が私を倒すフリをして町から報奨金を貰うとか、マフィア集団に私が脅しをかけるとか、やってきたからな。今さらではあるが、そろそろ我々は指名手配でもされるだろうよ」

「一応、都会からは離れた田舎でやったり、弱みを握ったりしてきたから、そんなに広まってはいないと思うんだがなぁ……。ま、今回も仕事が終わったらすぐに遠くへ行こう。さて、次はどこへ行くかな」と、まだ今の仕事すらも終わっていないというのに、ルートは次のことについて、のん気に考え始めた。シーグラムはその様子を見て、呆れて昼寝をし始めた。



 この世界には四つの大陸が存在しているが、主要大陸である「リメア」と「エウローサヴァ」は、それぞれ二つの地域に分かれている。まず、「リメア大陸」は北リメア地域と南リメア地域に分かれている。これはその名の通り、北に位置する地域と南に位置する地域に分かれている。リメア大陸は南北に長い大陸であるため、そのように地域が分かれた。北リメアには「リメア連邦」という近年急成長を遂げている大国がある。百年ほど前までは未開拓の地であったが、移民を多く受け入れ、多国籍国家として発展したのだ。反対に南リメアは発展途上の国が多い。はるか古代に高度な技術を持った文明が存在した地域ではあるが、今では権力を持った移民たちに追いやられた貧困労働者が多い地域だ。


 リメア大陸とは反対に「エウローサヴァ大陸」は東西に長い。そして、四大陸中最大の大陸でもある。東の方は「サヴァ地域」と呼ばれ、西の方は「エウロー地域」と呼ばれる。東と西は、「龍虹(りゅうこう)山脈」と呼ばれる大山脈で分断されているため、文化も言葉も全く異なる。

 シーグラムはエウローの南に位置する「カルフリア大陸」で生まれ育ったため、サヴァ地域には行ったことがない。ルートも東の方へは行ったことがない。二人が主に活動している地域は、今はエウロー地域だ。

 

 ルート達が今、滞在しているのはエウロー地域の「ジャーム共和国」という国だ。首都のリツィヒ市は音楽が盛んで、エウロー地域の中でも芸術大国として名を馳せている。国内の北から南に向かって流れているラプイセ川は、国を象徴する川であり、建国するよりも前から、人々の交通や物流に使われてきた川だ。

 そのラプイセ川沿い、ジャーム国内の南端には、ラプイセ歌劇場がある。約五百年前、エウロー地域の西側の地域全体で、領地争いの戦争が起こった。それが終わった時、終戦の証として建設されたのが、この歌劇場だ。建立されてから五百年間、再び紛争が起ころうとも、ここは決して攻撃されなかった。国内の人間にとっても、近隣国の人間にとっても、この歌劇場で行われてきた名演の歴史は、一生語り継ぐべきものとして、その精神の奥底に刻まれているのである。そのラプイセ歌劇場で行われる大きな公演は、必ず芸術史に刻まれる。今回のララ主演の凱旋公演も、もちろんそうだ。 


 このように有名な劇場であるため、現場がここだと知って、シーグラムは当然反対した。

「ラプイセ歌劇場だと? あの場所なら、私だって知っているぞ。あそこはどんなことがあっても絶対に焼け落ちなかった歴史ある建物。芸術史で非常に重要な場所だぞ。そんな場所の天窓を突き破るなど……。やはり気が変わった。私は今回の仕事に乗れん」

「お、おい。そんなこと言うなよシーグ。別に建物全体を壊すわけじゃないんだ。天窓が破れるだけだったら、後で何とでもなるだろ? というか、そんな歴史ある建物でも、何百年もの間、無傷だったわけじゃないだろ? 今回のは、あの劇場の長くて偉大な歴史の中では瑣末なことさ。な? 分かるだろ? シーグラム先生?」と、ルートは相棒のご機嫌を取ろうとした。それでもシーグラムはそっぽを向くので、ルートはさらに続けた。

「俺たちみたいなのがさ、ララみたいな有名な歌手に会えるなんて一生無いだろ? お前だって、そりゃ昔は芸術家の友達がたくさんいたかもしれないが、人間とドラゴンがあまり混じり合わないこのご時世じゃ、ララみたいなセレブと友達になれる確率なんて限りなくゼロだ。この機会じゃないと一生会えないかもしれないんだぞ? な?」

「別に、違う日の公演中に拐うとかでもいいだろう」

「ところがな、ララは今回の公演と、あと一つ小さな公演を終えたら、しばらく休暇を取るらしい。半年は公演しないらしいぜ」

「むう……」シーグラムの心は揺れ動いた。会いたいと思っていた歌手に会うチャンスと、芸術史上、重要な建造物の部分的な破壊。どちらを取るべきか。

「それに、公演に俺たちが割って入れるようなコンサートホールなんて、ラプイセ劇場しかないぜ。一応、これでもリツィヒ市内や近辺の有名な会場は探ってきたんだ。な? どうだ? 今度の公演でやるしかないだろう?」

「む、しかしだな……」

「別に天窓が破れても修繕すりゃ元通りだ。ま、俺たちがやるわけじゃないんだけどな。ああ、修繕費用くらいは幾らか出してもいいか。もちろん匿名でな」と、ルートはのん気に笑った。シーグラムはしばらく黙っていたが、やがて観念したように頷いた。

「ルート、分かった。そこまで言うのなら、この話し、乗ろう。だが実行する時は、私の采配に任せてもらおう。もちろん、筋書きはお前のものに従うが」シーグラムは何かを決意したように、目がすわっていた。その迫力に、ルートはちょっと気圧されたが、交渉成立に喜んだ。



 ラプイセ歌劇場は広大なラプイセ川に面している。建物の周りには木々が立ち並び、小さな林になっている。歩道も整備されており、観光客や近隣住民の散歩コースとなっている。今宵は、ここ最近頭角を表している稀代の歌手の凱旋公演ということもあり、多くの人々が集まっていた。歌劇場の収容人数は千人ほど。今夜は満席のため、約千人の観客、そしてマスコミがここに集まっているのだ。

 ルートは、歌劇場の屋根の上から双眼鏡で入り口付近を眺めていた。目立たないように黒のコートに身を包み、口元をマスクで覆い、フードを被っている。シーグラムはというと、意外にも彼の近くに身を潜めていた。劇場はボックス型で、屋根は起伏を伴っている形状だ。そのため、シーグラムは体に泥を塗って金色の体を隠し、谷状になっている所でうずくまり身を隠している。誰にも見られないように。前日の深夜からここに待機しているが、もう二十時間ほどジッとしているため、彼の体は悲鳴を上げていた。同じ頃からルートも屋根の上に身を潜めていたが、彼はあちこち動き回って動線を確認していたため、体を動かせないなどということはなく、いつも通りひょいひょい動き回っていた。

 ルートはシーグラムの元へ戻って声をかけた。「すごい人だかりだぜ。収容人数きっかり観客とマスコミを入れるつもりらしい。そんなに人気なのか?このララって歌手は」

「私も新聞での評判しか知らないが、ここ数年で頭角を表してきた歌手らしい。なんでも、幼い頃から英才教育を受けて、音楽学校では首席卒業。しかし、いわゆる古典音楽ではなく、新興音楽をずっと歌ってきたため、古典を重んじる界隈からはあまり注目されていなかったらしい。本人もそんなことは構わず、色々な作曲家が書いた新曲ばかりを歌っていたんだ。だが、数年前に、指揮者として有名なプライスラーが書いた曲を演奏したところ、それが好評を博し、それから彼女の名は知られていった。特に、その後初演されたベルクのオペラでは主演を担当し、それがまたとてつもない名演だったらしい。はぁ、私もそれが聴けたらいいのだがなぁ……」シーグラムはどこから仕入れたのか分からないような情報を披露した。

「ふーん。まあよく分かんないが、とにかくここ数年で有名になった人、ってことか」

「ああ、そうだ。ここからでも演奏が聴けたらいいのだがなぁ」

「まあまあ、その内俺たちもこの中に入るんだからよ」と、ルートが笑うと、シーグラムは呆れて「その頃には演奏が中断しているではないか」と言った。


 その内、劇場の前の人だかりが無くなった。開演間近のため、皆、会場内に入ったのだ。今、外にいるのは、数人のスタッフのみだった。ルートは天窓に近づいた。外の人がほとんどいなくなったことを知ったシーグラムも、少し起き上がり体を伸ばした。

 ルートは天窓から下を覗いてみた。天窓のすぐ下には、窓と同じくらいの大きさの板が吊り下げられていた。外からの光を調節するためだろう。そのため、真下は確認できなかったが、隙間から客席の様子は見れた。予想通り満席だ。

「ルート、あまり身を乗り出すと見つかるぞ」と、シーグラムは注意した。

「大丈夫だ。こんな時にここまで昇ってくる作業員はいない。お、開演かな?」建物内からはオーケストラのチューニングの音が響いてきた。屋根と舞台はかなりの距離があるのだが、かすかに聴こえる。これで舞台の進行具合を知ることができる。

「しかし、ルート。真下が見えないのに、どうやってララのアリアを知ることができる?」

「ああ、それなら大丈夫さ。このオペラを知っている知り合いに、どれくらいの時間にララのアリアが始まるか教えてもらったのさ。例のアリアがあるのは三幕のど頭。二幕と三幕の間には休憩が挟まれるから、客席の様子さえ分かっていればいいのさ」

「なるほど。それで、その知り合いというのはなんなんだ? お前の犯罪仲間か?」

「お前もよく知っている奴だよ」

「私も知っている奴? 誰だ?」

「今はそんなこといいだろ。ほらほら、もう始まってるぜ」ルートは話題を逸らした。


 オペラは長い。大抵のオペラが一時間半から二時間とすると、全三幕やる今回のオペラは二時間たっぷりやるということだ。いや、三時間くらいかかるかもしれない。とにかく時間まで暇なので、屋根の上からオペラ鑑賞と洒落込もうと二人は思ったが、いかんせん、音量の小さいところはあまり聞こえない。オーケストラがトゥッティで盛大に奏でるところくらいしか聴こえてこないのだ。ルートは暇で暇で仕方なかったが、シーグラムはというと、興味深げに天窓に張り付いていた。ほとんどまともに聴こえてこないのに何がおもしろいのかルートには一切分からなかったが、彼の芸術に対する興味は、一応真剣なものだということは分かった。ルートは、客席の様子と、相棒の様子を交互に観察しながら時間になるのを待った。


 やがて二幕が終わり、休憩に入った。ルートは立ち上がり伸びをした。シーグラムも起き上がり、身を伸ばした。

「さて、いいか? シーグ」

「ああ、いつでもいいぞ」ルートの問いかけにシーグラムは答えた。

「三幕が始まってしばらくしたら、ここを突き破って下に降りる。釣り下がってる板を落とさないよう気をつけろ。多分、お前の体重が乗ったらエライことになる」

「ああ、そうだろうな」

「そしたら、俺がお前の首から吊り下がって、舞台上のララを攫ってくる。念話で合図を送るから、そうしたら上昇してくれ」

「分かった。私はお前の方をあまり見る余裕が無いだろう。頼んだぞ」

「ああ。素早くやらないと、ララが袖に引っ込んじまうかもしれないからな」

「それから、彼女を傷つけないように」シーグラムは強い目でルートを見た。

「分かったよ。大丈夫だって」と、ルートは返した。


 やがて、客席に人が戻ってくるのが見えた。完全に動く人がいなくなると、下の舞台は静かになった。ルートとシーグラムが耳を澄ますと、かすかに女性の歌声が聞こえた。ララのアリアが始まったのだろう。二人は、顔を見合わせて頷いた。決行の時間だ。


 シーグラムは少し飛び上がり、勢いよく天窓に突っ込んだ。ガラスがガシャーンと音を立てて派手に割れ、破片が下に落ちて行った。それと同時にシーグラムの巨体もゆっくり下に向かった。そしてルートが飛び降りた。ゆっくり下降しているシーグラムを追い抜きざま、ルートは影のような紐を彼の首にくくりつけた。これで、舞台に打ち付けられずに済む。劇場内は騒然とした。観客たちが後方に逃げていくのが目の端でとらえられた。舞台袖ではスタッフが右往左往している。ガラスの破片が落ち続けている舞台上へ無防備に飛び出す者はいなかった。

 ルートは、青い大きなベールを見た。下に人間がいると分かるシルエットをしていた。ルートは、舞台に降り立つと、そのベールの下の人間を掴んで抱き寄せた。ベールの下には、黒髪に白い肌、宝石のように美しい緑の目をした女性がいた。ルートはその女に「ちょっと、誘拐させてもらうぜ」と言って、ベールごとしっかりと抱き寄せた。彼はシーグラムに合図を送った。すぐさま、ルートと女は空中へと浮かび上がった。ガラスの破片はもう落ちてこない。シーグラムは急いで、破られた天窓から外へと上昇した。そして、ルートと人質も寒風吹き荒ぶ夜の空へと飛び出したのだった。 



 先にルートとララが降り立ち、次いで、シーグラムが降り立った。彼らはリツィヒ市から三十リーグほど離れた山まで来た。シーグラムは三十分ほど飛んでここに着いたが、人間の足では到底追いつけない距離と時間だろう。辺りは草や木などなく、岩や小石ばかりだ。ピンヒールのパンプスを履いたララが立つには辛そうな地形だが、彼女は荒地などものともせず誰の手も借りずに真っ直ぐ降り立った。まるでここも舞台であるかのように。

「それで、誘拐犯さんたち。私に何か用かしら」ララは物怖じせずに、というより、とても楽しげにルートたちに尋ねた。彼らに運ばれている時こそ、戸惑って何も口に出さなかったが、今ではすっかりこの状況を楽しんでいるようだった。恐らく初めて会ったであろうドラゴンも怖がらず、興味深げにシーグラムを眺めている。

「あんた、あんまり怖がってないんだな」ルートはララに訊いた。

「いきなり天窓を突き破ってドラゴンが現れた時はさすがに驚いたけどね。どんな舞台だって、あんな演出はないもの。それで、身代金が必要って話?」

「まあそれもあるんだけどな……」ルートは少し言葉を濁した。

「歌を歌ってほしい」シーグラムが割り込んできた。

「あら、私の歌?」

「そうだ。それが身代金代わりだ」

「おい、シーグ。勝手なこと言うな」

「別にいいだろう。ほら、あのこともあるではないか」

「そうだけどな……」

「ララ。私はシーグラムという。以前より、あなたの記事を拝見していたのだが、いつかその素晴らしい歌声を聴きたいと切望していた。今回はとても手荒な真似でとても心苦しかったのだが、よければ、ぜひ……」シーグラムはルートを無視して、ララに自己紹介し始めた。その申し出にララは、「いいわよ。ドラゴンさん。歌くらいお安い御用よ」と、快諾した。

「ほ、本当か! まさか、こうして念願叶う日が来ようとは……」ルートは、美人の歌姫を前に舞い上がっている相棒の姿を見て呆れて、後ろでただ静観を決め込んでいた。

「それで、何を歌いましょうか?」ララはパンプスを脱いで、高めの岩に飛び乗った。

「なんでも、あなたの好きなように」シーグラムは言った。

「それでは、今宵にぴったりの歌を」ララは歌い出した。寒く張り詰めた夜の空気に、ゆったりと混ぜ合うように、彼女の歌声がスッと入り込んできた。



今は一日に疲れた

私の熱い望みも全て

喜んで星夜に屈っしよう

疲れた子供のように


手よ、全てをそのままに

額よ、すべての思いを忘れて

私のすべての感覚は今、

眠りに沈むことを望む


そして解き放たれた魂は

自由に飛び回りたがっている

夜の魔法の世界の中へ

深くそして千倍生きるために



 天上の光が全ての人間の罪を赦すかのような、慈愛溢れる歌であったが、ララの歌声はどこかやるせない諦観と悲哀、そして皮肉が混じっているようであった。月はちょうど彼女の背後にあり、スポットライトのように照らし出していた。しかしそれは、舞台で照らし出されるような明かりではなく、炎のようにゆらめいていた。シーグラムにもそう見えていたかどうか分からないが、少なくとも、ルートには白い炎がゆらめいているように見えた。


 ララは歌い終わると、うやうやしく一礼し、岩を降りようとした。ルートはそれを支えてやった。

「ララ、あなたの歌声は素晴らしい。美しさと力強さだけではなく、鋭く切り込むようなスピード感がある。昔はよく声楽家の歌声を聴かせてもらったものだが、その中でも一番だ。本当に、本当に聴けてよかった」シーグラムは、感嘆の言葉を述べた。これまでにないくらい興奮している。

「ありがとう。そんな感想がいただけてとても光栄だわ。私、ドラゴンのことってよく知らないんだけど、あなたたちって音楽が分かるのね」と、ララは嬉しそうに言った。

「こいつはまあ、ドラゴンの中でも一層物好きな奴なんだよ」ルートが言った。ララは興味深げに「へえ。そうなの」とシーグラムをまじまじと見た。

「ララ、どうか私のことはシーグラムと、いや、シーグと呼んでほしい。そして、できればこれからも親交を続けていければいいのだが……」

「もちろんいいわよ、シーグ。私も、こんな素敵なお友達ができて光栄だわ。皆に紹介したいくらい」ララは快く承諾し、その言葉にシーグラムは大喜びした。

「で、あなたは?」と、ララはルートの方を向いた。ルートは一瞬、なんのことだか分からなかった。

「あなたの名前、まだ聞いてないわよ」ああ、と納得してルートは名乗った。「ルート、あなたは私の歌、どう思った?」とララが訊いてきた。

「歌の感想か……。って言われても、俺は音楽なんて分かんないしな」ルートは頭を掻いた。

「別に素人感想だっていいわよ。この世界の何人が芸術音楽を理解していると思っているの?あなたの率直な感想が聞いてみたいわ」

「……そうねえ、本当にすごい歌声だと思ったよ。人間ってこんな声出るんだな。なんていうか、あんたが後光をまとっているっていうか、白い炎が燃えている感じがしたんだ。まあ、月の光のせいだがな」

「白い炎————。そう、それはよかった。そんな素敵な言葉をもらえて嬉しいわ。ありがとう」ララは〝白い炎〟という言葉に少し反応したが、ルート達はそれに気がつかなかった。

 ララは外套を翻して言った。「今日は気分がいいから、もう一、二曲歌ってあげるわ。今日のオペラからアリアを……」ララは再び歌い始めた。


 ララはルートから差し出されたウィスキーを飲んでいた。「今日の打ち上げにしては、ちょっと量が少ないわね」

「今はそれしか無いんだ。勘弁してくれ」と、ルートは弁解した。

「まあいいわ。それで、この後はどうするの?」

「もう一つ用事を済ませたら帰してやる」と言って、ルートは指輪を取り出してララに見せた。「この指輪に見覚えはないか?」

「これは……」ララは指輪を手に取ってまじまじと見た。「懐かしい物が出てきたわね。昔、持っていたけど、いつの間にか無くしていた物よ。どこで見つけたの?」ララは指輪をルートに返した。

「これは、列車の貨物両で見つけたんだ。だが、誰の持ち物かは分からない。あんた、これはもういらないのか?」

「いらないわ。興味もないしね」ララは一蹴した。

「その指輪を手に入れた時のことは覚えていないのか?」シーグラムが尋ねた。

「そうねえ、確か、ランポールに行った時に、路上にいた商人から買った物だったはずよ。なんでも、竜の鱗を溶かして作った物だ、なんて言われて、半ば強引に買わされたっけ」

「路上の商人か。ってことは、ドラゴンの鱗と結晶から作られているってのは眉唾ものって可能性の方が大きくなってきたな」ルートはアテが外れたように嘆息した。

「だから言ったではないか。怪しい物だと」シーグラムが口を挟んだ。

「あら、本物のドラゴンの鱗で作られていた方がよかったの?」

「別にそれが事実かどうかなんて問題じゃないんだ。その話しに信憑性があるかどうかだよ。そうすりゃ、物好きな金持ちに高音で売れる。そうか、俺がそれらしい話しをでっち上げて売り込めば……」

「やめておけ。鑑定書でも無いと信用してくれんだろう」シーグラムのその言葉にルートはムッとした。そして、それには応えず、再びララに訊いた。

「なあ、ララ。これを買った時のこと、もっと教えてくれないか? ランポールのどこで、売ったのはどんな奴だったか」ルートのその言葉に、ララはゆっくりと答えた。

「そうねえ。あれは四年くらい前だったかしら。サローメをやりに行った時だったから、ランポールの首都に行ったのよね。その首都の中でも郊外の方。私、演奏旅行に行ったら必ずその街も観光するんだけど、町外れに行くのが好きでね。でも、ランポールはあんまり綺麗な国じゃないし、貧しい人も多いから、郊外はホームレスが多かったわ。指輪を売っていた男も確かホームレスだったわね。でも、乞食にしては、いやに良い品を揃えていた気がするわ。私がその男に捕まっちゃったのも、こんな男がこんなアクセサリーを売ってるなんて、って意外に思って見てたからね……」

「ランポールの首都郊外。ホームレスの男か。なんでそんな奴が。この指輪、俺から見てもそんなに安物とは思えないんだがな」ルートは指輪を眺めながら呟くように言った。

「少し気になるな」シーグラムが身を乗り出した。

「とはいえ、もう四年も前の話しよ。その男の行方を追うのはさすがに不可能よ。悪いけど、私が知っているのはここまで。あんまり、お役に立てなかったかしらね」

「いや、十分おもしろい話しだったぜ。さて、そろそろアンタを帰しにいかねぇとな。用事はもう済んだ。いいだろ、シーグ」

「ああ、十分すぎるほどの時間だった。ララ、あまりもてなしができず申し訳なかったが、本当に感謝している」

「ちょっと待ってよ。誰が帰るって言ったかしら。ねえ、その指輪のこと調べるんでしょ。私も一緒に行かせて」ララは帰るのを拒否した。それにルート達は驚いた。

「ちょ、ちょっと待てよ。なんでアンタが付いてきたがるんだよ。このまま行方不明にでもなったら大事だぜ」

「その通りだ。我々は根無草。あなたをそんな旅に連れ回すわけには……」

「あら、悪人のくせにずいぶん小心者なのね。折角の誘拐事件なのよ。もっとそれらしくしなきゃ。身代金の要求だってしてくれていいのよ」ララは余裕の表情で笑った。

「あ、あんたなぁ」ルートは困ってしまった。

「ララ、なぜそんなに帰りたがらない。本当に、この誘拐をおもしろがっているのか?」シーグラムが言った。

「当然よ。目の前に突然ドラゴンが現れて誘拐されて、そんな愉快なこと、この先一生起こらないわ。だから、しばらくの間一緒にいさせて。ねぇ、お願い。お礼ならするわ」

「人質からお礼ってなぁ……。なあシーグ、どうする?」ルートは隣の相棒に訊ねた。

「そうだな……本来ならばすぐにでも街に帰してやりたいが、本人にこう言われてしまっては。それに、あのララとしばらく共に過ごせるというと……。それもそれで貴重な時間というか」シーグラムはララと一緒にいたいというのが本心なようだ。

「ま、お前はそう言うだろうと思ってたぜ。……ララ、俺たちに付いてきてもいいぜ。だが、一緒にいる間は、俺たちの言うことを聴くこと。それさえ守ってくれればオーケーだ。どうだ?」

「もちろんよ。貴方たちに迷惑はかけないわ」ララは今日一番の笑みを見せた。



 男と女、そしてドラゴンの奇妙な旅が始まった。正確に言えば、シーグラムは空を飛んでランポールを目指したため、ルートとララの二人旅みたいなものだった。

「ねえ、あなた達って、なんでつるんでるの?」ララは汽車の中で聞いてきた。彼女は眼鏡とスカーフを着用し、顔が分からないようにしていた。

 あの誘拐騒動は当然、翌朝の一面を大々的に飾る事件になった。ララが攫われて何日も経ってしまっては、捜査の手が国境線にまで及びそうだったので、ルート達はララを一度街に返そうということになった。ララは、このまま旅に出てしまいたい、と言ったが、それは許容できなかった。というわけで、ララは一度家に帰った。

 その後、何日かは事情聴取のためにララは警察に拘束されていた。結果的に言えば、ララが被害届けを出さなかったため、捜査は中止になったらしい。なんて言ったのか聞いたら、「彼らは私の歌声が聞きたいために誘拐したのよ。その目的は済んだから、私は帰されたの。別に、ひどい目に合わされたわけじゃないし、この件はここまでにしましょう。って言ったのよ。もちろん、あなた達の特徴とかは言わなかったわ。当然、怪しまれたけど、あの街の人たちは皆、私の性格を知っているしね。警察も深追いはしなかったわ」と、なんとも楽しげに語ったものだった。


 なぜ、シーグラムとつるんでいるか、と問われたルートは、何と答えたものか迷った。お互い、明確な理由など持ち合わせていないからだ。

「俺は元々、盗みとかで食いつないできたわけでな、拠点も何もない、根無草なわけよ。あいつはあいつで、山奥に引きこもっていてな、おもしろいことをしたいからって理由で、寝ぐらを抜け出して俺についてきた。俺も、こういう奴が味方につけば何かと便利だからな。それで一緒に悪さしてるってわけだ」と、ルートは語った。

「へえ。あなた達、お互いに自由気ままってわけね。でも、あなたみたいな人が山奥に分け入ってドラゴンに出会うなんて、中々ないことだと思うけど、どうして出会ったの?」

「……色々あってな、山に入ることがあったんだよ。だけど、途中で遭難しちまって、それをあいつに助けられたんだ。この辺のことは長くなるから、もういいだろ」

「あら、私は構わないわよ。時間はたくさんあるしね」確かに、目的の駅に着くまで、まだ二時間以上はあった。ルートは話すのが面倒だと思ったが、逃げ道を無くされては仕方がない。

「……あの時は、それまで一緒につるんでた相棒がいたんだが、そいつが山奥に迷い込んじまってな、それで探しに行ったんだよ。山っていっても、かなりの豪雪地帯でな、人間一人をそう簡単に探し出せるような所じゃあなかった。だから、俺は深いところまで行っちまって、それで遭難したってわけ。いつのまにか倒れて、気がついたらシーグの寝ぐらに連れていかれていた。あの時のあいつは、長い間引きこもっていて、人間とも長い間、接していなかったから、かなり冷たかったな。そういや、あの時は何を話したんだったかな。あいつの寝ぐらには、人間から貰い受けたっていう本とか絵があったり、あとはゴミ置き場にあった蓄音器やレコードを持ってきたりしていて、それについて色々話しを聞いたんだったかな。それで、俺があいつに、お前はどこにでも行けるんだから、こんな所に引きこもっているなよ、って言ったんだよ。それから、あいつはあの寝ぐらを出てきた」

「じゃあ、あなたがシーグの引きこもり癖を直したってわけね」

「そんな大層なもんじゃないさ。そもそも、あいつは元々、社交的だったみたいだしな。きっかけさえあれば、出てきただろうよ」

「じゃあ、なんで引きこもっていたのかしらね」

「さあな。訊いても教えてくれなかったよ」

「どうして、あなたは、彼がどこにでも行けると思ったの?」ララはさらに質問した。

「ドラゴンは、この世界じゃ最強の生物だった言われているだろ。それに、空も飛べて海も泳げる。俺からしたら羨ましい限りだね。そんじょそこらの奴には負けないんだからよ」

「あら、あなたドラゴンにでもなりたいの?」

「別にそんなわけじゃないさ。でも、そんだけ強い力を持っていて、ただウジウジと引きこもっているのは勿体ないって思ったんだ。その力を十分に使って、もっと贅沢に暮らすべきだってな」

「贅沢に、ね。でも、力を持っているからといって、何でもできるわけじゃないわよ」

「それは、あんたの体験談か?」

「どうしてそう思うの?」

「音楽の才能があって、売れに売れて、地位も名声もある。そういう力を持っていても、できないことはあるんじゃないかって思ってな」

「ふふ、想像力豊かなのね。ええ、そうよ。むしろ、一つのことしかやっていないから、窮屈に感じるのかもしれないわね」

「大抵のやつは、一つのことすらまともに出来ないまま死んでいくと思うんだがなぁ」ルートは苦笑いしながら言った。

「でも、あなた達は色んなことをやっていたんでしょう? 色んな所に行って」

「俺たちはあんたみたいに何か一つのことを立派にやり遂げたわけじゃねえんだから、全然違うだろ」

「私から見たら、あなた達の生き方はとても羨ましいわ。私も、ああやって天窓を突き破ってみたいもの」ララは子供のように笑った。

「薄々思ってたが、あんた、相当破天荒な性格なんだな」

「よくそう言われるわ。だから、結婚もうまくいかなかったのよね」ララは窓の外を見やった。遠くを見つめる目をしている。

「結婚してたのか?」ルートは訊いた。

「大学を出たばかりの時にね。すぐに離婚したけど。どんな人とも付き合っても、全然うまくいかないのよね。そうだ、あなたとだったらうまくいきそうだわ。どうかしら?」と、急にララは妖しく微笑んでルートを惑わせてきた。ルートは「おいおい、からかうのは止めてくれよ」と返した。


 ランポール国の首都の駅を通り過ぎ、その二つ先の駅で二人は降りた。首都の駅は大きく人が多かったが、この郊外の駅は非常に小さく、駅員も一人しか見かけなかった。ランポールはそれほど大きな国ではないが、首都シャワール市は人口が多い都市であり、それなりに栄えている街だ。だが、それも中心部だけ。この郊外は人が少なく、老人ばかりが住んでいる。また、この地域は曇りの日が多く、気温も年間を通して低い。あちこち飛び回っているルートにとっては、どんよりした街だと目に映った。

 ララは石畳の小道を先に歩き出した。あまり覚えていない、と言っていたが、もう一度降り立ってみて、記憶が少なからず蘇ったのだろう。ルートはすぐに彼女の跡を追った。

 ルートは先を歩くララに訊いた。「それで、指輪を売っていたホームレスがいた場所は思い出せそうか?」

「なんとなくだけど、思い出してきたわ。確か、あの教会に行く道の途中だったと思う」

街には小高い丘があり、そこには教会がそびえている。そこに続く道は、緩やかな上り坂となっている。二人はそこを登りながらら辺りを見回してみた。教会に続く道は狭く、出歩いている人はほとんどいない。見かけても背中の曲がった老人くらいだ。そこかしこに、建物と建物に挟まれた、人一人しか入れないような裏路地が何本かあったが、暗い中を、目をこらしてよく見てみると、座り込んでいる人影をいくつか見かけた。恐らくこの街のホームレスなのだろうな、とルートは思った。


 坂を登り切り、教会に着いた。しかし、そこには人影らしきものは全くなかった。それどころか、肝心の教会は人が寄り付いている気配がない。窓は破られ、周りの草は生え放題になっていた。どうやら、もう使われていないみたいだ。

「おいおい、こんな教会にホームレスが住み着いてんのか?」ルートはララに言った。

「あら、ここ潰れちゃったのかしら? 私が以前来た時は、まだちゃんと牧師がいて、礼拝に来る人もいたのよ。まあ、その頃からボロボロだったけどね」

 二人は教会の扉を開けた。軋む音を立てながら扉は開いた。天井のステンドグラスがあるため、中は明かりが無くてもそれなりに見えたが、今日の天候は曇りのため、それほど明るくはなかった。ぼろぼろで傾いた扉はそのまま開け放し、彼らは中に入った。ララの靴のヒールの音が鳴り響く。

 中には誰もいなかったが、浮浪者が寝床として使うこともあるせいか、毛布やタバコの吸い殻、何かの包み紙などが散乱していた。

「誰もいないみたいね。生活の痕跡はあるけど」ララが口を開いた。

「多分、暮らしてる浮浪者はいるみたいだが、今は出払っているらしいな。ここに住んでいる奴に話しを聞けたら都合がいい。待ってみるか」ルートは埃だらけの椅子に腰を下ろした。

ララはしばらくあたりを見回していた。


 しばらくすると、扉の辺りに人の気配が近づくのをルートは感じた。彼は振り向くと、そこに痩せこけた少年の姿を認めた。赤い癖っ毛の痩せた少年だった。少年は見慣れぬ大人二人を見て、とっさに逃げ出した。ルートはすぐに教会を飛び出して少年を追った。少年は存外、簡単に捕まった。教会の庭の入り口付近で、追いついたのだ。ルートは少年の手首を掴んで言った。

「おい、逃げないでくれ。俺たちは別にあの場所を乗っ取ろうとしてたわけじゃない」少年は怯えた目をしながらも強気に返した。「じゃあ、なんで僕を追うんだ? 手を放せよ」

「ああ、すまない」ルートは無意識のうちに強く握っていたことに気づいて、パッと手を放した。少年は手首をさすっていたが、逃げる様子はなさそうだった。すぐにララが追いついてきた。

「子供のホームレスだなんて、この街はどうなっているのかしらね。ねえ、あなた、あそこで暮らしてるの?」ララが少年に問いかけた。

「……別に、暮らしてるわけじゃない。あそこのおっさん達から仕事をもらってるから————」

「なるほど。ねえ、ルート。あそこの住人と知り合いなら、指輪のこと知っているんじゃない?」

「そうだな。なあ坊主、これ見たことあるか?」ルートは例の指輪を見せた。少年は最初、どういうことなのかよく分からない表情をしていたが、琥珀と銀でできた指輪を見つめている内に顔色が変わってきた。顔が青ざめると同時に、また逃げ出した。「あ! おい!」とルートは思わず叫び、また少年を追いかけた。ララは追いかける気がないのか、「ホテルに行ってるわよ!」と、ルートに呼びかけていた。


 少年は何故かさっきよりも早いスピードで逃げ出してしまったため、ルートは見逃してしまった。こっちへ行ったと思われる曲がり角で曲がった途端、男と派手にぶつかってしまった。

ルートは「すまない」と返し、男も「いや、こちらもよく見てなくてすまない」と返して、両者なにごともなく立ち去ろうとしたが、ルートは違和感を感じた。ポケットをまさぐってから、反対方向に立ち去ろうとしている男を捕まえた。「おい、俺の財布、取っただろう?」と、ルートは男の肩を強く掴んで言った。男は、よく見るとステッキをついており、身なりのいい服装をしている。男は、不愉快だとでも言いたげな表情をしながらルートの方を振り返った。

「君、私がスリをしたとでも言うのか? だったら、言わせてもらうが、君の方こそ怪しいのではないか?」男は言った。その言葉にルートは「はあ?」という言葉が口をついて出た。男は続けた。

「その小汚い身なり、まるで犯罪者か浮浪者だ。どんな人でも、私よりも君のほうがスリ犯だと思うがね」

「あのなあ、俺は現にこうして財布が無くなってんだ。お前の上着やカバンを改めれば確実だろ?」ルートはそう言い返した。

「ふん、確たる証拠もないのに身体検査などできるわけがないだろう。そうだ、あそこの警官に、どちらが犯罪者か決めてもらうか?」離れたところにいた警官が怪訝な顔をして、こちらに近づこうとしていた。確かに、身なりのいい男と、よくない自分とでは、客観的に抱かれる印象が全然違う。どうしてやろうかと思案していると、聞いたことのある男の声がした。「残念ながら、君の犯罪は俺が見ていた。その財布は、そいつに返してやれ」

ルートが傍を見やると、背が高く、がっしりとした体型の男が立っていた。金髪をオールバックにし、上質なコートを着ている。見るからに上流階級の人間だ。スリの男が、金髪の男に反論した。「私の犯罪を見た証拠でもあるのか? 君?」

 金髪の男は冷静に「ある」と答え、スリの男がずっとポケットに入れていた左手を掴んで、強引に外へ出した。

「あ! 俺の財布!」男の手にはルートの財布が握られていた。

「ふん、これがお前の物だという証拠は無いだろう?」

「お、お前なあ……」相変わらずスリの男は虚勢を張っていたが、金髪の男が「巡査!」とこちらを窺っていた警官を呼びつけた。

金髪は「この男の身体検査を頼む。詐欺容疑だ」と言って、巡査に引き渡そうとした。すると、巡査は男の顔をよく見て、得心した様子だった。

「なんだ、またお前か。よくもまあバレるスリばっかやりやがって」と、巡査が言うと、スリの男はしょげた顔をした。

「こいつは常習犯なんだ。とりあえず、こちらで預かるよ。しかし、君たちは……」と、巡査がルートたちの身分を訝しると、金髪の男が身分証らしき物を取り出した。それを見た巡査は、「ああ、これは失礼しました」とかしこまって、それ以上は何も聞かずにスリを連行して行った。


 金髪の男は、ルートに財布を返した。その男にルートは満面の笑みで礼を言った。

「いやー。助かったぜ。サイラスの大将。まさか、こんな所で会うなんてな。今日はついてるぜ」

「いつもはスリをする側がスられるなんてな。腕が落ちたか?」サイラスは表情一つ動かさず、ルートに皮肉を言った。


 サイラスはリメア連邦の由緒正しき軍人一家の子息だ。次男のため、家督は継がないらしいが、ゆくゆくはリメア軍の幹部となる身分であり、自身も周りも当然そうだと思っている。今はリメアを離れ、海を渡り、リツィヒ市の大学に留学している。

 ルートともリツィヒ周辺で知り合いになったのだが、サイラス曰く、もっと昔、リメアで会っているということらしい。だが、ルートは全く覚えていない。知り合ったばかりの頃、自分を知っているというサイラスを、ルートは気味悪く思っていた。だが、その件は有耶無耶になってしまっている。


「ところで、なんでランポールにいるんだ? リツィヒの大学はどうしたんだよ?」ルートは、なぜ、この町で、この男に遭遇したのか不思議に思った。

「ここの首都大学にしかない論文があってな、それを取りに来たんだ。あとは、街の視察のために数日ほど滞在していた。今日はリツィヒに帰る予定だったんだが、駅でお前を見かけて、それで、追いかけてきた」サイラスは、冷徹とまでは言えないが、抑揚がほとんどない低い声音で話した。

「ゲッ。駅から見られてたのかよ……」

「女と一緒だっただろ」サイラスのその言葉に、ルートは黙り込んだ。

「先日、ラプイセで起こったオペラ歌手誘拐事件、それに、俺にあのオペラのことについて聞いてきたよな」ルートは、サイラスから視線を逸らした。

「お前が俺にオペラのことを聞きにくるなんて初めてのことだ。それに加えて、そのオペラの公演中にドラゴンが乱入して主役を誘拐していくなんて、お前とシーグラム以外に考えられない」


 サイラスは、ルートがドラゴンとつるんで悪さしていることを知っている。そもそも、シーグラムとも会ったことがあるのだ。誘拐のことはバレて当然だろう。だが、ララとつるんでいることをどう説明したものか。サイラスは、まだ学徒ではあるが、官吏側の人間でもある。下手なことは喋れない。

「一体、次は何を企んでいる? 一度誘拐した女と、こんな所までやって来るとは。まさか、ララもお前の一味なのか? それにシーグラムはどうした?」

「……そういうわけじゃない。ララってのは、変わった奴でさ、音楽家ってのは皆ああなのかね。あいつ、俺たちに興味持って一緒に旅行に行きたいなんて言うからさ」ルートは白状した。だが、サイラスは「……なるほど」と言うだけだった。

「なあ大将。もう行っていいか? あんたも、俺と関わるほど暇じゃないだろう?」

「俺がお前たちのことを警察に言ったらどうなるかな?」サイラスは眉も動かさずルートを挑発するようなことを言った。

「お、お前、さっきのは俺を助けてくれたんじゃないのかよ」

「先ほどのは、犯罪者を炙り出しただけだ。あの瞬間は、お前は被害者だったろう?」

「じゃあ、今まで俺たちのやったことを見逃してたのは?」

「俺はお前たちの犯罪の証拠を掴んでいないからだ」

「じゃあ、俺がララを誘拐したっていう証拠も……って、はぁ……」ルートは、つい先ほど自白していたのを思い出してうなだれた。

「自滅するのが早すぎたようだな。……だがしかし、俺はここの市民ではないからな。通報の義務に従う必要はない。そして、お前は国外に出てる。何より、被害者自身が捜査を打ち切ったからな……」と、サイラスは遠くの方を見やりながら呟いた。見逃してやる、と暗に告げたのだ。それを察したルートは、「サンキュー、大将!」と言って、素早くその場を去った。


 ルートは街を出て、郊外に出た。首都とはいっても、盛えている場所はごく一部で、郊外へ出れば、家はまばらで畑が広がっている。街へ伸びている川に沿って、上流に向かいながら、ルートはシーグラムとの交信を試みた。この周辺にたどり着いたかどうか確認したかったのだ。幸いにも、シーグラムはすぐに応えた。川を辿った先の山にいるらしい。


「それで、調子はどうだ?」シーグラムは、ルートを見て開口一番、そう言った。彼が潜んでいる場所は、山道を歩いて二時間程度の場所だ。そこは木々に囲まれてはいるが、陽光が差しこんでおり、川のすぐ近くだった。

 ルートは、街に着いてから起こった出来事を語った。ララが指輪を買った場所を訪れたら、変な少年がいたこと、その少年を追ったら偶然にもサイラスに会ったこと。

「まさかサイラスがこの街にいるとはな」と、シーグラムは少し驚きつつも、そういうことも有り得るだろうという声音で言った。

「まったく、あいつがいるとやりずらいぜ……」ルートは頭を掻きながらごちた。

「確かに威圧感のある人間だが、一応、我々の味方だろう? 何も言わないが、我々のやっていることはいつも分かった上で見ぬフリをしている。現に、今回のお前がスリに会った件もそうだ」

「まあ、あいつにとっては海を渡った先が本拠地だからな。この大陸じゃ、へたに手を出せないんだろうぜ。だけど、いつ、俺たちをしょっぴこうとするか分かったもんじゃねぇ」

「まったく、そう言いつつも利用しているくせにな……。それで、変な少年の行方は、スリのせいで分からず仕舞いか?」

「腹立たしいことにな。ただ、ホームレスってことだから、また廃教会に戻るだろうぜ。だから今夜はあそこで張るかな」

「警戒して、しばらくは来ないのではないか?」

「ただの子供だ。食う物や寝床が無きゃ、馴染みのある場所に行くしかねえよ」

「それは、己の体験談ということかな?」シーグラムは軽口のつもりで訊いたが、ルートはそれには乗らず「子供の頃のことはほとんど覚えてねえよ」と、そっけなく返した。

「それじゃあ、俺は街に戻るから、何かあったら知らせてくれ」と、ルートは言って、その場を後にした。先ほど言った通り、教会で張り込みをするのだ。


 しかし、その夜は、件の少年を見ることは無かった。代わりに、教会に住んでいるのであろう老人が来て、ルートを訝しげに見ただけだった。ルートはその老人に、少年について訊いてみたが、いつもどこにいるのかまでは知らなかった。

 朝になり、結局、少年の行方は掴めなかったので、ルートはララを伴ってシーグラムのもとへ赴いた。ララは朝に弱いのか、ルートに叩き起こされたことをいつまでもぐちぐち言っていた。

 昨日登った道を辿っていくと、昨日と同じように金色の大きな体が見えた。しかし、それはピクリとも動かず、寝ているようであった。ルートの念話による呼びかけも応えず、変だと思いながら、彼の元へ近づいて見てみると、シーグラムの頭の額が割られていた。「この間ギャングにもやられたばかりだというのに……」とルートは心の中で思った。ララは相変わらず動じていない様子だが、ぐったりしたシーグラムを心配して見ていた。「ねえ、シーグ大丈夫なの? 全然動かないじゃない」と、彼女はルートに訊いた。

「ああ、ドラゴンは頭の結晶をやられると、しばらく動けねんだ。最悪、死ぬ」

「ちょっと、それじゃあ……」

「まあ、このくらいの割れ具合なら大丈夫だろ。この間はライフルで撃たれたんだし。おい、シーグ、狸寝入りはやめろ。そんな大した傷じゃねえだろ」かすかにシーグラムの唸り声が聞こえてきた。

「……うぅ。怪我人にかける言葉がそれか……?」うっすら目を開けたシーグラムの目の前に、どっかりとルートは腰かけて、飛び散った結晶の破片を手にとって眺めながら言った。

「この間のよりはまだマシな割れ方じゃねえか。すぐに治るだろ? それで、犯人は見たのか?」

「いいや、寝ていたところを急に叩かれたからな。しばらくは目眩もしていたし、何も手がかりになりそうなものは目撃しなかった」シーグラムは目線だけ寄越して答えた。

「なんだよまったく、役にたたねぇな」ぶっきらぼうなルートの言葉に、シーグラムは小さく「うるさい」と呟いた。

「とにかく、シーグに早く回復してもらわなくちゃ」と、ララが割って入った。「ほら、水よ。飲める?」ララはシーグラムの口元にビンを当てた。

「おい、その中身って……」と、ルートは止めようとした。なぜならそれは、シーグラムが欲しがるだろうと思って街から持ってきた酒だったのだ。

「安心して。本当の中身は捨てて川の水を汲んできたから」ララはいつの間にかそんなことをしていたらしい。だがしかし、「マジかよ……」と、ルートは酒が無くなったことを悔いていた。水を飲ませてもらったシーグラムはララに「ありがとう」と、礼を言った。だが、彼もまた、折角の酒が無くなってしまったことを内心残念に思っていたのだった。

「あら、こんな安酒、また買えばいいでしょう」と、ララは気にもとめない様子でサラッとルートに言った。

「じゃあ、後で奢ってくれよな」と、立ち上がりながら言うルートに、ララは「いいわよ」と返した。

「それで、どうするの?」ララはルートに訊いた。

「痕跡を見つけるさ。この破片の飛び散り方からして、犯人はシーグの右後ろから近づいて、何かで叩いて結晶を割った。そして、こいつの頭の近くに、一応足跡が残ってるな。こいつを辿ってみるか。ララはシーグを見ておいてくれないか?俺が行くから」

「いや、私も行こう」と、シーグラムがのそりと体を上げた。まだ、まぶたが重そうで、本調子ではなさそうだった。

「おいおい、そんな調子でついて行けるかよ」ルートは言った。

「お前たちの歩幅に合わせることならば容易だ」シーグラムは強気にそう返した。

「いいじゃない、ルート。皆で一緒に行った方が効率的よ」ララもシーグラムに賛同した。

「分かった。それじゃあ、俺が先に行くから、お前たちは後からついてきてくれ」


 整備されてない草地に痕跡が続いていたため、慎重に足跡を追わなければならなかったが、昨夜の痕跡を追うだけであれば、まだ踏まれた草は倒れたままであり、足跡も残っていたため、ゴールまで辿り着けそうだった。

 そして、三人は空き地にたどり着いた。そこは水辺からは離れた場所であり、少し背の伸びた芝生が一面に茂っていた。大昔の建物が崩れたような石造りの壁が立っており、そこには陽光が差していた。光は何かに反射しているのか、キラキラと眩しく、先行していたルートは目を細めた。シーグラムは何かに気づいたようで、自分が先に行くと言って、ルートの前へ出た。そして、彼は壁の向こうへ話しかけた。

「もし、起きておられるか?」シーグラムが問いかけると、壁の向こうから銀色の老いた龍がのそりと姿を現した。銀の龍はシーグラムたちを見やると、自分の傍にいる何かに目配せをして、壁から出てきた。

「あなた方は?」銀の龍は、シーグラムに問うた。

「私はシーグラム。こちらの人間たちは、ルートとララだ。昨夜、私は何者かに襲われて額を割られた。その犯人の痕跡を辿って、ここにたどり着いたのだ。あなたはこの山に住んでいるのだろう? 何か知らないか?」

「そう……そうだったのね」龍は少しためらってから、再び口を開いた。

「私はスレブロ。それから、こちらはピエール」銀色の龍スレブロの隣から一人の少年がおどおどと出てきた。ルートはその少年を見てすぐさま、廃教会で出会った少年だと気づいた。ララも気づいているようだった。

「お前、あの時の! お前がシーグを殴ったのか? なんでこんなことを……」ルートがピエールという少年に詰問しようとすると、シーグラムが無言で遮ってきた。こんな小さな子供を責めるなと言っているらしい。自分を殺しかけた犯人だというのに。

 スレブロが口を開いた。「私のためにやったことなの。ごめんなさい、本当に……」そこでピエールがスレブロの言葉を遮った。「待てよ、スレブロ! 話しただろ? こいつら、あの指輪を持って、色々と嗅ぎ回ってたんだ。何か悪いことを企んでるんだよ」

「お前なあ、俺たちは偶然この指輪を見つけたんだ。それで曰く付きっていうから、調べてるだけだよ」ピエールの言葉を聞いたルートは苛立ちながら言い返した。

ピエールは言った。「それで、調べてその指輪をどうするんだよ」

「……別に、どうもしねえよ」

「スレブロ、やっぱりこいつら良くないこと考えてるよ。だから、追っ払おうと思って、あのドラゴンをやっつけようとしたのに、こんなとこまで来るなんて……」

「その指輪は、一体どこで見つけたの?」スレブロはルートに向き直って訊いた。

「汽車の中で転がってるのを見つけたんだよ。それで、鑑定士に見てもらったら、前の持ち主は、そこにいるララだったんだ。ララはこれを、この街のホームレスから買ったっていうから、出どこがどこなのか調べて回ってたんだよ」

「その指輪、私が持っていた時は、誰かに盗まれてしまったから、どういう経緯で汽車の中に行ったのかは分からないわ」ララが言葉を継いだ。彼女は前に出ながら、更に言った。「ねえ、その指輪、本当にドラゴンの体でできているの? というか、あなたの物?」

ララはいきなり核心をつくことを訊いた。

「それについては、こちらでゆっくり話しましょうか」と、老ドラゴンは客人たちを壁の向こうへ案内した。


 朽ちた壁は、本当に何かの建物だったようで、苔に覆われた床らしきものもあった。さらに、なんのためにあるのか、椅子に腰掛けた機械人形があった。作業途中らしく、体の骨組みしかできていない。辺りには部品や工具が散らばっていた。一同は不思議に思ったが、今はスレブロの話しを聞くことにした。

 ルートとララは瓦礫の上に腰掛け、シーグラムは、やはり辛かったのか草地に寝そべった。ピエールは、いまだに彼らを警戒しているようで、スレブロの後ろに佇んでいる。

 スレブロは口を開いた。スレブロの声は嗄れてはいるが、甘く美しい声であった。

「その指輪の曰くは本当よ。それは、姉の鱗と結晶から成っているわ」ルートは、この指輪の噂に半信半疑だったため、少し驚いていた。彼らは黙ってスレブロの言うことを聴いていた。

「百年ほど前、私と姉はこの地で一緒に暮らしていたわ。けれど、姉は人間の男に恋をしたの。男のほうも、姉のことをよく想っていたみたいだったけれどね、その内に戦争が始まって、男は出兵しなければいけなくなったの。それで、姉は、自分の鱗を一枚と、額の結晶を一欠片、男に取らせた。それで指輪を作って、自分だと想ってほしい、と-----」

「それじゃあ、婚約指輪みたいな物だったのかしら」ララが口を挟んだ。

「その時はね。でも、そうじゃなくなったの。男は無事に復員したけれど、人間の女と結婚したわ。それで、ショックを受けた姉は自死したの……」

「時間が、男を変えてしまったのだな」と、シーグラムは言った。

「マジで曰く付きだったんだな……」ルートは呟いた。

「まさしく、こうして巡り巡って戻ってきた、曰く付きの指輪、ね」と、ララも言った。

「それじゃあ、この指輪、どうしましょうか? あなたちのもとにあっても、あまり良くないんじゃない?」ララがスレブロに訊いた。

「ええ。それはどこにあっても良くない物。シーグラム、あなたはよく知っているでしょうけれど、私たちドラゴンの額の結晶は〝慧(けい)〟。人間たちでいうところの心の結晶。その指輪の琥珀の部分は、姉の結晶よ。だから、姉の強い思いは、今もまだそこに残っているわ。だから、消さなければいけないの。体が滅びたのに、心がまだ残っていては、慧に飲み込まれたも同然。だから、眠らせてあげなきゃ……」

「分かった。それじゃあ善は急げだ。坊主、こいつの頭をかち割った物、持ってるだろ? 貸せ」と、ルートは立ち上がってピエールに言った。黙って話しを聴いていたピエールはおずおずとスレブロの陰から出てきて、機械人形のところまでいき、小さめの槌を手に取り、ルートに無言で渡した。

 槌は普通の物よりも軽かったが、子供が持つには充分な質量だ。槌を手にした瞬間、ルートは「前に槌を手にしたのはいつだったろうか?」と、ふと思った。だが、今はそんなことはどうでもいいことだった。

 ルートは、剥き出しになった石畳の床の上に指輪を置き、槌を振り下ろした。一瞬、息を止めた。なぜだか分からないが、頭の奥に火花が散ったような感覚がした。だが、彼はすぐにそんなことは忘れた。最初の一撃だけでは砕けなかったので、ルートは二度、三度と槌を振るった。銀色の本体の部分は、さすがに砕けず、ぐにゃりと曲がっただけだったが、琥珀色の結晶の部分は無事に粉々になり、風に乗って飛び散った。

 スレブロはルートに礼を言った。その瞬間、彼女が一気に老け込んだように、ルートには見えた。今まで黙り込んでいたピエールがやっと口を開いた。それは、シーグラムに向けてのものだった。

「わ、悪かった……。僕、スレブロから指輪の話し、聞いてたから、その指輪を持ってるあんた達が、ここに辿り着くんじゃないかって……。あんたとあの男が話しているところも見てたから……。その、頭、大丈夫か?」

「ああ、傷は浅かったからな。明日になれば治っているだろう」と、シーグラムは優しい声音で少年に語りかけた。

「さて、頼み事ばかりで申し訳ないのだけど、ピエールとその機械人形を、街に送ってほしいの」と、スレブロは頼み込んだ。それにピエールは反発した。

「どうして! 僕はずっとここにいるよ! そんなこと言わないでよ……」

「ピエール、あなたはいずれ、人里に戻らなければいけないのよ。分かってくれるわね。いい子だから……」スレブロは、自分の息子とも言うべき少年に優しく語りかけた。そして、ルートたちに向かって言った。「この子の機械いじりはどこかで役に立つわ。街の機械工の元へ預けてほしいの」

「この人形は一体なんなんだ?」ルートがスレブロに訊いた。

「この子の祖父が、機械職人だったらしいの。それで、同じ物を作ろうとしていたの」

「なるほどな。ところで、こいつは、あんたとは離れたがらないみたいだけど?」ルートが言った。

「この子が小さい時から一緒だったからね。でも、本当の親子ではないわ。いずれは別れなくては」スレブロのその言葉に、ピエールは顔が青くなった。「本当の親子ではない」という言葉に相当ショックを受けたのだろう。それからは何も言わず、黙って山を降りる意思を示した。

 機械人形はシーグラムが麓まで運ぶこととなった。ピエールは、ララに手を引かれて山を降りた。ルートは、スレブロに訊いておきたいことがあったため、残った。

「あんたは、もう寿命なのか?」

「ええ、そうよ。こう見えて三百年近く生きているの」スレブロはそう言いながら寝そべった。もう起き上がっているのが辛いようだ。

「さっきまで元気そうだったのに、一気に老け込んじまったな……」

「さっきまでは、あの子を守らなくちゃって思いがあったからね。でも、姉さんの亡霊は消え去ったし、あの子が人里へ行くきっかけも作れた。だから、一気に肩の荷が降りたのね」

「あいつは、あんたがもう老い先短いことを分かってるのかな?」

「多分、薄々勘づいているわ」

「だったら、最期を看取らせてやっても……」

「そんなことをしたら、あの子はずっと独り立ちできないわ。私たちは本当の親子ではないし、種族も違う。だからこそ、ハッキリと境界線を作らなきゃ」

「そうか……。あいつに、何か言い忘れたことは?」

「それじゃあ、これを」スレブロはそう言いながら、額の結晶を自分の爪で軽く砕いた。緑色の破片が地面に飛び散った。ルートは、一番大きい破片を拾った。

「それを、あの子に届けてちょうだい。これできっと、あの子も前を向けるでしょう」

「分かった。届けるよ」ルートはそう言って、その場を後にした。心の奥にチリチリした熱さを感じながら山を降りた。



 その後、ピエールの身柄はジャーム国の機械学の教授に渡った。ララの知り合いだ。街の貧しい機械工に預けるよりも、その方がピエールのためになるだろう。教授は、少年も機械人形も暖かく迎えた。



Beim Schlafengehen(眠りにつく時) - Hermann Hesse

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