蒼に堕ちる

なごみ游

第1話

 初めて会った時から、君はいつだって子供みたいだった。

 俺よりもずっと大人のはずなのに、好奇心いっぱいで、ちっとも落ち着きがなくて、興味の対象が次々と変化して、いつも何かに、いつも誰かに、その瞳を輝かせている。

 手を繋いで歩く今だって、まるで何かに急かされてでもいるかのように俺の手を引っ張って速足で歩く。少し息を切らしながら。

「見て!ブランコがある!」

 だらだらと続く坂道の向こう、小高く開けた丘の上。

 街を一望できるそこに、大きな古木があって、ブランコはその太い枝から伸びていた。

 わあああ、と感嘆の声をあげながら、君は駆け出す。

 繋いでいた手が解けて、俺はつい、その小さな背中に指先を伸ばしかける。

 けれど、俺のそんな気持ちを振り切って、君は走っていくんだ。ブランコへ向かってまっしぐらに。

「慌てなくても、ブランコは逃げたりしないんだよ? そんなに走ると転んでしまう」

 苦笑交じりに俺は声を掛けるけれど、君は聞いちゃいない。夢中で駆けて行く君の背中を、俺はなぜか笑って見てる。俺は自分のペースでゆっくりと歩きながら、それでも2人とも同じ光景を見てると思えた。

 置いて行かれた、なんて思わない。

 どうしてなの? と君に聞きたいくらい、君は常に俺を信頼する。理由なんてわからない。たぶん、君自身にもわかっちゃいないんだろう。ただただ、俺を信じてる。

 痛いぐらいにそれがわかる。

 俺と居ることが楽しいんだ、と君は全身で訴える。自分がどれだけ突っ走って行っても、必ず俺が後ろで笑って護ってくれると信じてる。

 だから、君はいつも向こう見ず。

 言ってしまえば無茶苦茶だ。

 妙に小難しいことを考えて思考の迷路を彷徨っているかと思えば、急に思い出して走り出す。可能性の低い先のことを不安がって堂々巡りになっているかと思えば、突拍子もないことを行き当たりばったりに始めて、なぜかそれを楽しんでる。

 君はまるでジェットコースターみたいで、俺はいつもハラハラする。

 だけど、そんな俺の気も知らず、君はいつも笑って「大丈夫だよー!」と何でもないことみたいに言う。

 映画を見て、好きな登場人物が殉職したからと半日も泣いて。

 どうにかこうにか慰めて、励まして、そうしたら君はさっきまで泣いていたその腫れた目をにっこり和ませて「なんだか、おなかがすいたの」と笑う。

 他の人には理解できない。きっと。

 人によっては、そんな君に腹を立てる人もいるのだろう。

 だけど俺は―――そんな君が大好きで、いつだって護ってあげたくなる。

 君の心はいつも、俺には全開だ。

 どうしてなの? と君に聞きたいくらい。

 俺は知ってる。

 外での君は、しっかり者。他人の心配をして、他人のために自分を犠牲にして、誰かに尽くして、それが当たり前だって顔をしてる。そんな君だから、君の周りはいつだって「誰か」が傍に居る。入れ替わり、立ち替わり。

 俺は知ってる。

 きっと、たくさんの「誰か」の中に、君を支えたがってる人が大勢いる。君から受けた親切を返すチャンスを待ってる人がいる。

 君は何も知らずに、そんな誰かがいることも気付かずに、恥ずかしげもなく「みんなが大好き」と言ってのける。

 それでも、俺は知ってる。

 本当の意味で君の心は誰にも開かれていない。

 君の心の中に幾度となく入った俺だから、はっきりとわかる。

 遠くから見える大きな宮殿のようなそれは、実質、とてつもなく巨大で頑丈な要塞だ。美しく整えられた広大な庭と、荘厳で美麗な建物群。けれど、一歩中に足を踏み入れれば、誰の侵入をも拒む巨大な迷路が広がっている。

 どこへ行っても行き止まり、またどこへも繋がらないドアがあり、無数の警報装置が鳴り響き、膨大な人ではない何かが巡回している。奥へ進めば進む程、君の拒絶が強くなっていく。

 踏み込んでこないで、どこかへ行って、入ってくるな。

 君の意思が、まるで音波破壊装置のように他者を拒む。


 なのに。


 俺は、いつでも最短ルートで君の心の中にいる。

 君がそうしているのか、俺がそうしているのか、優しく包むようにして俺を護るものが、巨大な迷路の正しい道筋を、膨大な警報装置の解除の方法を教えてくれる。

 抜け道、近道、裏道、そうやって一度通った場所は、次からは転移装置が現れる。

 巨大で荘厳な宮殿からは想像もできないほど、小さく、こじんまりとした最深部―――木製のドアは少し古びて、その奥から暖炉の火がはぜる音がする。

 君を傷付けないように、驚かせないように、俺は自分の心のトゲを慎重に慎重に払い落として、それから、さてどうやってこの小さなドアを開ければ良いだろうかと思った。

 だが、悩む必要もなかった。

 俺が準備を終えたら、ドアは自然と、ゆっくりと、まるで招き入れるように開いたから。

 ドアの隙間から中を覗く。

 できるだけ静かに、体を滑り込ませようとして、君と―――目が合った。

 君は暖炉の前で床に座って絵を描いている。その手を止めて、驚いた顔で、俺を見上げていた。何かを言いかけて止めた、小さな口がポカンと開いている。

 だから、俺は思わず言ったんだ。

「やあ、おチビさん。こんにちは、初めまして。君と、友達になりにきたんだ」

 絵を描く君の目の前にしゃがみこみ、俺はそっと手を伸ばした。

 君は本当に小さい子のようで、目を丸くして驚いていた。


 そんなことを思い出して、俺は苦笑した。

「何を笑ってるの」

 キョトンと、丘の上まで行った君が振り返って不思議そうにしている。

 いつだって君はそう。

 くるくると表情が変わり、俺に、その感情を隠すことをしない。

「さて、何だろうね?」

 俺の答えに、君は怒るでもなく、不思議そうに首を傾げている。

 俺は、君にたくさん隠し事をしているのかも。心の内側を見せることも、君よりは少ない。嘘をついたことはないけれど、迷っていること、悩んでいること、そういうことを君には教えたくない。君が知ったら、きっと不安がる。一緒に解決しよう?と君は言うだろう。だけどこれは、俺の心の問題で、俺は君と違ってそんなに全てをさらけ出す勇気がまだない。

 だから、教えない。

 君は知らなくて良いんだ。知らせてくれなかったと、きっと先々で怒るのだろうけれど。君は、何も知らなくて良い。

 ようやく君に追いついて、その小さな手を取る。

「さっきね、ちょうちょがいたんだよ」

 蝶が飛んでいたのだろう方向を指さしながら、君は楽しそうに話し始める。そうかと思えば、少し風が冷たいだの、走って足が痛いだの、空の青が綺麗だのと、次から次へと話題を変えながら心のままに俺に話す。

 それが、とても愛おしい。

 どうして俺をそんなにも信頼してくれるの?

 どうして俺に、そんなにも全てを共有しようとしてくれるの?

 君に聞いても、きっと困った顔をして「わからないよ」と言うのだろう。君自身にもわかっちゃいない。どうしてそんなに、俺のことが好きなのか。

 ああ、けれどこれ以上は駄目なんだ、と俺は自分にブレーキをかける。

 君はまるで小さな子供みたいな人。純真で、純粋に俺を好きで、俺を丸ごと信頼してくれる人。


 だけど、俺は?


 俺にはそんな、美しい愛し方なんてできやしない。

 もっと苛烈で、もっと醜い。

 君を閉じ込めてしまう。君を誰にも見せたくないと思ってしまう。君を知っているのが、世界で俺だけで在りたいと願ってしまう。

 だから、これ以上はいけない。

 君の羽根を折るようなことはできない。

 君を本当に愛してしまう前に、俺は、自分の心を殺さなければ。


「どうしたの。どこか痛いの?」

 ふと、心配そうに見上げる君の顔が視界に広がった。

 いけない、と小さく息を飲んで、それからゆっくり心を整える。

「なんでもないよ。坂道だったからかな、少し息が上がっただけ。大丈夫だよ、こわくないよ」

 微笑んで、そう返事をする。

「ふうん?」

 わかったような、わからないような反応をして、君はまた何かに気を取られて、目を輝かせながら走りだそうとした。

 繋いだ手が解けて、小さな君が駆けて行く。

「ちょうちょ!さっきのちょうちょだ!」

 蝶を追いかけて行く君の背中に、そんなに走ると転んでしまうよ、と俺は言った。

「まったくもう…。俺の言うことなんか、ちっとも聞いちゃいないんだから」

「きいてるよー!」

 聞こえた瞬間、ドサっと鈍い音がした。

「ほら、言わんこっちゃない!」

 俺は慌てて君に駆け寄る。僅かな距離がもどかしい。怪我はしていないだろうか、泣きはしないだろうか、痛かっただろうか、そんな思いが頭の中を駆け巡る。

 駆け寄って、しゃがみこみ、大慌てで君を抱き起して怪我をしていないか確認する。肩や背中を撫でて安心させて、髪に絡んだ草をそっと払って、そうやって俺が世話を焼くのを君はいつも嫌がるでもなく受け入れる。

 にこにこと、君が笑う。

「心配性~~~~」

「すみませんね、心配性で。痛くなかったの? 大丈夫?」

「うん」

 子供のように頷いて、君は続ける。

「ねえ、これを見せたかったの」

 小さな手の中に捕らえた、蒼い蝶。

 逃げるでもなく君の手の中でじっと羽根を休めているそれは、すこし燐光を放って、とても不思議な深海のような色合いをしていた。

「俺に、見せたかったの?」

「そうだよ?」

 なぜそんなことを聞くのかと、君は首を傾げてみせる。


 これ以上はいけないんだ―――警告のような強い頭痛がやってくる。駄目だ、駄目だ、と理性が叫ぶ。

 なのに、俺の手は彼女に伸びて行く。

 その小さな手を、俺の手で包むようにして。

 捕らえてはいけない。

 掴まえてはいけない。

 そうわかっているのに、自分自身を制御できない。


 君の手の中から、蒼い蝶が音もなく飛び立った。

「あ……」

 空へと吸い込まれて行く蝶を視線で追って、君が小さく、とても残念そうな声を上げた。

 蝶を失った君の小さな手を握って、俺は精一杯、人畜無害の微笑を浮かべた。

 君を、捕らえてしまったと思った。

 だけど本当は―――俺が、蝶の代わりに、君の手の中に堕ちたんだ。

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