タツナミソウ

@mikiri_1228

タツナミソウ

家の側の交差点に、待ち時間がとても長い信号があります。5分くらいでしょう。実際は2,3分なのかもしれません。どちらにせよ、ただ、ひたすらに長い信号を、私は、この冬の寒さに耐えながら、通勤のために渡らなければなりませんでした。


今日も私は信号模時に待たされていました。人と車を順番に交通整理するための信号と、車だけを贔屓して歩行人を腹立たせる信号模時。外見だけは一人前に信号であるこの機械にこれ程迄に良く似合った名前があるでしょうか。赤い色で嘲笑う信号を見て、私はその名前を連呼してもっと赤くしてやりたくなります。着古したコートの両脇のポケットに両手を滑らせます。近所の間でもこの信号は待ち時間が長いことで有名です。左右に横切る国道の先には、この地域で一番繁栄している都市がありますし、その手前には高速道路へと続くインターチェンジがあります。ですから、この時間は、信号が作られたときから約束されたものなのでしょう。徒然なる待ち時間。しかし、今日は少し変わっています。どうしたのでしょうか。いつもなら、通勤時間であっても利用者0人(私を除いて)の人気のない交差点。今日は、私以外に一人の女性の方が青に変わる時を待っていました。


近くにある、ずいぶん歴史のあるだろう高校(一度、その高校の前を通ったことがあるのですが、明らかに100年以上の歴史のある見た目の校舎でした)で、白柏高校というものがあります。地元の生徒が多い学校だったはずです。自転車でその高校へ向かう制服姿の人を私はよく見ていました。そこの生徒の方でしょうか。じっと信号模時の顔を見つめています。私はとても驚きます。何しろ誰も寄せ付けないほどの人気ぶりの交差点ですから。何故、こんなところを通る羽目になってしまったのでしょう。白柏高校はこの先にありますが、ここを通らないと行けないほど、通学路が一本道なわけではないと思うのですが……。


「いつもこれほどまでに長いのですか」


彼女は私にそう訪ねてきました。どう答えればよいでしょうか。待ち時間がとても長いことを、きちんと、正直に彼女へ伝えるべきなのでしょうか。私は迷い始めます。それとも、曖昧な返事で誤魔化すのはどうでしょう。少し嘘をついて一寸ばかり待てば青に変わると伝えるのです。私は、周りに暇つぶしになるようなものが何も無いこの交差点で毎日、孤独に、暇を与えられることにとてもうんざりしていました。ですから、誰かが一緒に待ち続けているという事実だけでも残しておきたいのです。うまく行けば話し相手にでもなってくれるかもしれません。どうでしょうか。いい案ではないでしょうか。しかし、高校生ならきっと単語の1つや2つ、10個や20個、或いはそれ以上覚えられるであろう待ち時間。大人になって忘れてしまいましたが、高校生ぐらいの年頃の人にとって見ればとても貴重な長い時間です。無駄にはできないでしょう。


「そうですね。何時も5分くらいは待たされます」


そう私は答えます。彼女は少し諦めた顔をします。ため息が白い息となって次第に溶けていきます。


「そうですか。仕方ないですね」


彼女は再びじっと信号機を見つめ始めました。今、私は、私がとても安堵したことを彼女に知られてはいけません。私はハーッと濃い白い息を吐いてみます。マフラーを少しきつく縛り直したりもしてみましょうか。少しほどきます。彼女は寒さを飛ばすように左右に体を揺すっています。徐ろにマフラーを結び直します。そうしているうちに少し時間が過ぎます。


向かいの道路を散歩する男性。私はその右手のリードの先にいる犬に見覚えがありました。何が気に入らないのかこちらに向かって不服げに吠えて来ます。


私は結び終わったマフラーを叩きます。彼女は、もうそろそろ青く変わるのだろう。そう考えているのでしょうか。しかし、未だ半分の待ち時間が残されているこの交差点。まだ暫くの間、耐えなければなりません。彼女は、未だじっと信号を睨みつけています。乾いた風が鼻を掠ります。何処かで鳴いたセキレイ。ジャンバーの擦れる音。はーっと吐いた白い息はやはり消えて無くなってしまいます。過ぎる待ち時間。私はなんだかむず痒くなって、彼女に向かって言いました。


「白柏高校の方ですか」


彼女は驚いた顔で私を見てきました。それもそうでしょう。不思議な交差点。何も生み出さない空気。そして、どこの誰かわからない、それもこの異様さに対して当たり前だと考えている様子のスーツ姿の男。そんな状況で余裕に世間話を持ち込まれているわけですから。理由がわかりません。ですが、少し私の暇つぶしに付き合ってくれないでしょうか。中身のない話をさせてはくれませんか。私は彼女の返事を恐る恐る待っていました。何しろ少なくとも1/3ほどは残っているはずですから。


「はい。白柏高校の生徒です」


あっさりとした口調で彼女は答えます。彼女の気に触ってないと見えてとても安心します。彼女はポケットから両手を出します。毛糸の手袋をしています。それを見て、私は手袋を家に忘れてきたことを思い出します。暖房の上に乾かしたままの手袋。忘れっぽい性格は困ったものです。


「ここらへんに住まわれている方ですか」


そう彼女の方から返ってきます。言葉が返ってってきたことに私は驚きを隠せません。どういう心持ちなのでしょうか。彼女ももしかしたら同じように暇の向ける先を考えていたのかもしれません。嬉しさと戸惑いで揺れ動いたせいで私の心の流れが一寸ばかり違う方向に変わります。


「はい。少し手前のアパートに住んでいます」


そう私は答え、また前に向き直します。体の奥のむず痒さが収まったような気がします。冷え切った手。その冷えた手の先が、段々と溶けていきます。ゆったりとした空気が目の前の道路の上を通り抜けていくのが私には見えます。


「毎朝大変ですね」


その言葉に苦笑いを返すしかありません。


それから少し経って信号が青に変わりました。


昨日のことは、今日になっても真新しいものとして、少しですが心のなかに残っていました。いつもは空っぽのままのその心の角。その角が角として存在していたことに今気づいたのです。とはいえ、今日も誰もいない交差点を通れば、すぐに空っぽに洗浄されてしまうだろうことに気づいてしまい、私はいつもより憂鬱な気分で家を出ました。


しかし、少し後、そんな心配が無用だったことがわかります。太陽は雲の中に隠れています。雪はしんしんさくさくと降り続けています。暗くどんよりとした天気の中、交差点で彼女は、昨日と同じように待っていました。


交差点へと足を運ぶ日々が、着実に、一日一日と過ぎていきました。それからというもの、彼女とは毎朝挨拶を交わす仲になりました。挨拶以上のことなどすることはありません。時々お互いの世間話をすることもありましたが、その内容は取るに足りないものだったと思います。一言二言交わす程度でした。それでも退屈、憂鬱は、段々と、雪のように、崩れて消えていったように思います。


春になりました。新学期になりました。何時もと同じ朝。同じ時間に起きて、同じものを食べ、同じ服を着て家の玄関を開けます。交差点までは数10メートルでしょうか。家の前の道路を進み、そのまま右に曲がると交差点が見えます。私を追い越す冬の残り香。リードをピンと張って私に吠える犬を私は横切ります。買ったばかりの茶色い革靴は溶けた雪の作った泥のせいで少し汚れています。コツコツとアスファルトに響く音。少し前までは聞こえなかった音。こんなにも物寂しい音だったのでしょうか。交差点が見えてきました。


そこに彼女はいませんでした。


何時もの信号を見つめる彼女はそこにはいませんでした。一時私の足が止まります。先程感じた暖かい風。その代わりに退屈さが、それも今まで溜まっていた分が一気に押し寄せてきたようです。短くなった歩幅。私の革靴の音は一層消えかかっています。何もない交差点。春だというのに冷え切ったままの空気が交差点の上にどんよりと佇んでいるのが私には見えます。信号模時は知っていたのでしょうか。その顔を私は睨みつけます。知っていたならば言ってくれればよかったのに。太陽が雲の間から少し顔を出します。立ち竦む私の後ろを元気な子どもとその母親が通り過ぎていきます。これから始まる入学式へと向かっているのでしょう。その時、私の心に淡い光が差し込みます。そうでした。今日は新学期の始まりの日です。今日だけ、そう、今日だけ彼女は朝が早かったのかもしれません。或いは、入学式なので遅い時間の登校になったのかもしれません。高校生の頃、在校生の登校時間は午後からだったことを私は思い出します。どちらにせよ、今日だけではないでしょうか。そう私は考えます。そうです。きっとそうなのでしょう。しかし、私は、心のなかでは、もう二度と彼女を見ることはないことを理解しています。出会ったとき、もしかしたら彼女は高校3年生であって、今日から彼女は大学生になったのかもしれません。そうであったならば、話し方からして頭の良さそうな子でしたから、きっとこんな地方の大学でなく、都会の大学に受かっているでしょう。こんな時間とは比べ物にならないほど幸せな時間を過ごしている彼女の姿が目に浮かびます。それに、未だ在校生であったとしても、もうこんな信号に飽きてしまったのかもしれません。何も無い時間。何も生み出されない時間。思い浮かぶ理由はすべて私を納得させるものばかりです。未だ気温の低い春の空気に晒され、私の体は、私の気づかないうちに冷えていきます。何にせよ、きっともう彼女と会えることはないのでしょう。退屈な時間は未だ退屈なまま。私は信号機模時を、彼女のように、彼女がそうしていたように、じっと睨みつけます。少し、いや、とても寂しくはあります。彼女の「おはようございます」と言う凛とした真っ直ぐな声を思い出します。ですが、ちょっとした楽しみを彼女が与えてくれただけでも私は感謝しています。無駄に終わらずに済んだ人生の待ち時間。この冬の思い出だけで埋めることができそうだと私は思います。これは神様にお礼をしないといけません。私の心臓の隅っこは空のまま。ですが私はちっとも憂鬱ではありませんでした。


ふと下を見ると、信号模時の下に小さな花が咲いていました。なんの花でしょうか。植物などに興味もない私はその名前などわかるはずもありません。ただの雑草でしょうか。アスファルトの間の僅かな隙間から健気に咲く花。小さな白い花。垂れ下がった花弁。濃い緑色の葉。私はどこか彼女のように見えるその花と一緒に青に変わる時を待つことにします。冬の落し物でしょうか。いいえ、春の気まぐれなのでしょう。


私はその花を見つめていました。未だ待ち時間は半分以上残っています。私は、冬の冷めきった、あの時鼻を掠った風を思い出します。どこからともなく香る春の匂い。花が静かに左右に揺れます。白い綺麗な花。可愛らしく、それでいて美しい花。知るはずもないその花の名前を、私は思い出してみることにしました。

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