第7話 少女はマッチを売らない
「あぁ、そ、そうだ……忘れてた」
白衣の少女は傷だらけの身体を傷めないように上半身を左右にゆらゆらと揺らしながらゆっくり立ち上がると、長い前髪の隙間からこちらを見つめて言った。
「と、
誰がどう見ても異常事態であるこの状況で、メメは自虐的な笑みを浮かべながら呑気に自己紹介を始めた。周囲の現実と目の前の少女のアンバランスさに、少し吐き気を覚える。――もっとも、吐き気の原因の何割かは、人体が焼ける異臭によるものだと思うけど。
「貴女が何者かは分かんないけど、ただの通り魔、ってわけじゃなさそうね。ただ人を殺したいだけって言うのなら、あんなしょうもない男どもにいいようにやられてた理由も分からないし」
ククリは言いながらゆっくりと狙いを定める。
「それはまぁ……そのうち分かるよ。し、死なずにいられればだけど」
メメはポケットに両手を突っ込むと数秒ほど中をまさぐり、やがて思い出したかのように地面に転がるマッチ箱を見下ろした。
「あ、そ、そっか。あの時に落としちゃったみたい」
無垢としか形容できない表情で、メメは首をかしげた。
マッチがなければ、火が近くになければ能力が使えないのか? 柩さんの身体の火を消したから……。そう私が推理する間にククリは既に結論に至っていたようで、指先から衝撃波を放った。衝撃は空気の波となって空間を伝わり少女を襲う――が。
「じゃあこっちで」
白衣の少女はさながら看護士が患者に見せる笑顔のように、口角を上げる。しかしその口角は「微笑み」の範疇を超えて持ち上がり、遅れて大きく口が開く。それが「歯をむき出しにする」ための行為であると気付くのはすぐ後のことだった。
メメが歯をかちりと打ち鳴らすと、両の奥歯から一瞬火花がはじけ飛ぶ――火打石。直後、メメの周囲を炎の壁が覆う。私と柩さんを分断した時の技だ。あんな小さな、火とも呼べない大きさのものであれだけの炎が……。
しかし、それは無駄な行為のはずだった。炎の壁は生物の行き来を拒むが、無生物の――衝撃波の行き来を拒むはずがない。いくら分厚い炎の壁が作れようと、防御の術はないのだ。一秒後に私が目にするのは力なく横たわるメメの姿のはずだった。
――しかし現実問題として、炎の壁が消えたとき少女は何一つ変わらずにそこに立っていたのだ。
「バカな……ッ」
ククリが小さく毒づく。こぼり、と口から鮮血が垂れ落ちて地面に広がった。
「あは、やっぱり。の、能力使うとすごい消耗するんだね。情報通り……でもちょっと効率悪すぎないかな?」
「…………誰に、聞いたの?」
ククリは突然の消耗に頭を垂れながらも、上目遣いでメメを睨みつける。強い意志を孕んだものには違いないのだが、その瞳は力なく震えていた。
「ふ、ふふふ、秘密。うふ」
メメは愉快そうに肩を震わせて笑うと、こちらへ向かって火球を四五個ほど飛ばしてくる。火球は変幻自在な軌道で彷徨うように飛び、前後左右から私達に襲いかかった。
「――『
「ッ……
バリアが私とククリを覆うようなドーム状に展開される。一瞬安心感があったが、一つ目の火球がバリアに当たり砕け散ると同時に、ビシリという音とともに巨大な亀裂が全体に走った。
「なんつー火力してんのよっ……」
慌ててククリがバリアを補強するが、火球は次から次へと飛来しては、火に入る夏の虫の如く砕け散る。反撃の隙が全く無い。私が現状を打破しようと思考を巡らせていると、ククリは小さく舌打ちをしながら呟いた。
「抜く、しかないわね……これは特別消耗するから使いたくはないんだけれど」
ククリは二三歩前へ歩き、バリアに片手を押し付けると叫んだ。
「
バリアが微かにビリリと震えると、壁を隔てた外界へと衝撃波が放たれる。完全にこちらが防戦一方だったが、メメは油断を見せず、炎の壁は展開されたままだった。ククリの放った衝撃波は、やはり固体どころか液体ですらないはずの炎の壁に阻まれてしまった。わずかに炎が揺らぎこそすれ、穴すら開いていない。ククリの鼻から鮮血が滴り落ちる。
「な、何でッ……!?ククリの攻撃が……」
「そ、それ、あとどのぐらいやるつもりぃ? ……あなたが勝手にボロボロになっていくなら楽でいいんだけどね」
相手は能力を使うことによる消耗はほとんど無いようだった。というよりは、ククリほどの消耗がある方が珍しいのだが。しかしククリは表情を歪めつつも冷静に敵を見つめ、しばらく逡巡すると思い出したかのように口を開く。
「気流、か」
「え?」
「炎に攻撃を受け止める力はないけど、周囲の空気は温められて激しい上昇気流が生まれる。その勢いで私の攻撃はかき消されてしまった」
空気が熱されると気流が生じる。そしてククリの衝撃波が空気の振動である以上、理屈としては納得できる、のだが。
「そ、そんな……そんな勢いの気流が炎で生まれるものなの?」
「アイツの炎が何℃あるのか分からない。それに実際に攻撃が届いてない以上、事実として認めるしかない」
つまるところ、ククリの遠距離攻撃は封じられてしまったわけだ。敵に接近できればまだ分からないけど……これだけ離れていても熱が伝わってくるのに――これ以上近づけるのか? いや、近づくしかないんだろう。でもククリの身体は既にボロボロだ。今この場でまともに動けるのはもう……。
「ねぇ、このバリアさ、ちょっとだけ……私が通り抜けられるだけ、穴開けられない?」
「……出ていくつもり? 正気? 私から離れたら、貴女のことまで守ってあげられないけど」
「大丈夫。自分の身は守るよ。それにこのままじゃどうしようもない、でしょ?」
「……分かった。開けるから、合図して」
ククリは震える右手をもう片方の手で支え、メメへと照準を向ける。彼女の周囲は炎の壁で守られ、チープないたずらグッズのような火の玉がゆらゆらと浮かんでいた。生物が火に対して感じる根源的な恐怖を抑えつけながら、私は深呼吸をした。
「――開けてッ」
バリアの側面に空いた小さな穴から、私は全速力で走り出し、真っ直ぐにメメへと接近する。私の周囲に火球が群がる。――落ち着いて。よく見て。
――
私は身体を捻って周囲を把握しながら、火球に向かって手を伸ばし、能力を発動する。熱と風、掌の皮膚が突っ張る感覚。肌に炎が触れた瞬間、それは水に突っ込まれた花火のように容易く消えた。掌から焦げたようなにおいがするが、怯むことはできない。そのまま前傾姿勢で懐に突っ込むと、メメを包む炎の壁に触れる。
「あ゛っぢッ!!」
「――えっ」
炎の壁に穴をあけて通り抜け、メメの腕を掴む。まさか生身で飛び込んでくるとは思わなかったのであろう、大きく見開いた瞳には一切の光がなく、暗黒そのものであった。周囲を炎に包まれてなお、その瞳は光を反射せずに深淵からこちらを見ているようであった。
鉄骨がぶつかったような鈍くて大きな金属音と共に、炎たちは消え失せる。炎に触ればその部分の炎が消える程度だが、能力者本人に触ればその能力を完全に封殺できる――つまるところ完全に無防備だ。ククリがその一瞬を見逃すはずもない。
「
炎の壁を消し、遮るもののない状態で正確に胴体の中心へと発射された衝撃波は、気流に揺られることもなく完璧に命中した。ぼぐ、という音とともに少女は後方へと吹き飛ばされる。全長150cmに満たないその物体は、綺麗な放物線を描いて地面へと落ち、動かなくなった。
ククリがおぼつかない足取りで二、三歩よろめくと、口から粘り気のある赤い液体の塊を吐き出す。もう限界が――。
「ククリッ、待ってて。今――」
今、治してあげる。慌てて振り向きながらもそう言って――いや、言おうとした、のだが。
「……ぁ、ぁははははははッ」
慌てて駆け出そうとする私の背後で、痙攣にしか聞こえない笑い声が聞こえ、ほんの一瞬、足が止まってしまった。その一瞬が、あまりにも迂闊だった。
「危ないッ!」
ぐん、と身体が手前に引っ張られる。視界の端で、さっきまで私が立っていた地面が火柱に包まれているのが分かった。そのままククリの足元まで引っ張られると、どさりと乱暴に着地させられる。
「ククリごめ、ん……。」
そう言って顔を上げて、私は息を呑んだ。ククリは、目と鼻と口から血を流し、足元で蹲る私など視界に入らないかのように、胡乱な目で白衣の少女を睨んでいた。実際もはや私に目線を向けるほどの余裕がないのだろう。その壮絶さと自らの不甲斐なさに声が上手く出せなくなり、続けようとしていた謝罪の言葉は出てくることはなかった。
「本当に……油断しすぎ……貴女が死んだら……。チッ…………ムカつく。」
そう吐き捨てた彼女の眉がピクリと動くと、地面に打ち捨てられていた真っ白な塊がうごめいた。
「だ、だめだよ、殺すつもりでやらなきゃ」
不自然な角度に曲がった腕をそれが当然であるかのように使って少女はのそりと起き上がった。さっきまで光のなかった瞳はギラギラと輝いている。胴体にばかりダメージを受けていたであろうことを考えると、身体の中身は腕よりもひどいことになっているだろう。しかし少女はまるでそれを感じさせない立ち方である。
「ほんとに……人間なのかどうか……怪しくなってきたわね。」
「ば、化け物扱いしないで欲しいなぁ。普通に人間なんだけど……」
「殺すつもりでやったんだけど――普通の人間ならそんな状態で立ち上がれないわよ?」
一見余裕そうに皮肉を言っているが、ククリも同じく立っているだけで精一杯、といった様子だった。肩を上下させ、脚は震えている。両手の指が力なく垂れ下がっているところを見ると、もはや握りこぶしを作るのでさえ苦痛なのかもしれない。
「体の丈夫さは生まれつきじゃないけどね……き、鍛えたしさ。こ、こんな能力だから余計にね」
メメは言いながら骨折しているであろう肘を反対の掌で弄んだ。
「……炎の能力と丈夫さに関係が?」
「う、うん。だって私の能力は自分が不利になればなるほど強くなる、『不幸を燃やす能力』だから」
そう言ってメメはわずかに口の端を持ち上げる。その穏やかな表情は一見して、今まさに人を殺そうとしているのだということを感じさせないものだった。あまりに現実味のない表情に一瞬眩暈がする。
「じゃあ……男どもに絡まれてたのも?」
「そう、適当に痛めつけてもらおうかなって思ってさ、ギルドの人がパトロールするときの道順は大体把握してるから、待ち伏せて、ね。でもアイツら思ってたよりビビリでさあ、全然殴ってくれなかったよぉ」
もっとケガさせてくれてれば、あなた達なんて出合い頭にまとめて焼き殺せたんだけど――とメメは肩を小刻みに震わせながら言った。その表情は、笑っている。私たちが彼女を発見した時もそうだった。彼女は私たちに背を向けて……小さな肩を震わせて……あれは泣いてなんかいなかったんだ。
「それに、私は今……自分の能力のことも話した……からね」
他人に能力を明かすことは基本的にリスクのある行為だ。「自分はこういうことができて、こういうことをされると困ります」とカミングアウトするわけなのだから。つまりメメは自らそのリスクを負った――不幸を――リスクを燃やす能力……。
次の瞬間、炎が消えた。火球も壁もそこにはない。しかし熱気と、陽炎のような空気の歪みからそこに熱源が存在することを伺わせる。
「も、もう油断はしない。……『
「ッ――」
理解できなかった。炎を消した理由も、不敵に微笑むメメにも、歯を食いしばって眉間にシワを寄せるククリにも。
「どうして……火を消したの?」
「消したんじゃない……見えなくなったの」
腹立たしそうにククリが答え、理科の授業で習ったことがあるのを私は思い出す。炎は温度によって色が変わる。低温では赤い色に見えるが、温度が上がれば段々と青くなり、一定以上の温度の炎は、明るい場所では肉眼での視認が極めて困難になる。
もはや触れることすらできない。手のひらで触れなければ発動できない私の能力にとって、不可視であるということはこの上ないディスアドバンテージであった。
「これは……貴女でも、近づくのさえ無理そうね」
ククリは目を細めて呟いた。全身を走る激痛に顔をしかめているのか、打開策を逡巡しているのかは分からなかった。もっとも後になって思い返してみれば、それは苦悩や焦燥ではなく、単なる「不快」の表情に他ならないのだが。
「けど限界が近いのは向こうも同じ。ここが気合の入れどころ、ね」
そう言ってククリは両手の指先を合わせる。
「
バリアを張って身を守る……結論から言えば無意味な行動だ。どれだけ時間稼ぎをしたところで状況は好転しないし、能力を使えば使うほど消耗するのはこちらの方。おまけに「柩さんの命」という絶対的タイムリミットも存在する。どう考えたって姑息な行為のはずだった。
――ただしそれは「自分の身を守る」場合の話だが。ククリの作り出した
「と、閉じ込めた……つもり? こんな壁じゃ時間稼ぎにもならないと思うんだけど?」
メメはきょろきょろと周囲を見渡す。声色から察するに、虚栄ではなく本心からの言葉だろう。何をしているのか理解できない、という困惑すら感じられる。
「あ、あ、あんまりナメられるのも嫌いなんだけど……」
メメはそう言って火球をぶつけてバリアを壊そうとする。やっぱりこんなのじゃ3秒だって稼げない……。そう思ったのだが、いつまで経ってもバリアは割れなかった。火球はバリアに命中する直前で消滅したのだ。見えなくなったのかとも思ったが、バリアが無事であるところを見るにそうではないらしい。
メメは一瞬キョトンとした表情を浮かべるが、すぐに全身を硬直させ、ピクリとも動かなくなる。
「判断力は――良いのね、何も考えず深呼吸してくれれば楽だったのに」
何が起こって……?とククリにそこまで問いかけて気付いた。炎が燃えるには酸素が必要、密閉された空間の中で物を燃やし続けたら――。
「――初めて能力を使われたあの時。マッチが吹き飛ばされても炎は消えなかった。メメの能力は炎を操るだけでなく、
いかに炎を消すか、炎をかいくぐるか、そんなことしか考えていなかった。しかし炎が消せないのであれば、「そもそも火を点けられなくしてしまえばいい」のだ。残った体力を振り絞って作った貧弱なバリアでも、空気を密閉するには十分だった。
「さ、ぶっ倒れ――」
膝立ちになり、焦点の合わない目で虚空を眺めながらも、勝利を確信した声音でそう言いかけたククリの表情が固まる。目の前で起こっている現象が理解できない……「驚愕」の表情だった。
透明なバリアの中、逆酸素カプセルとでもいうべき空間に閉じ込められたメメは、笑っていた。ただの笑いではないことはついさっきの経験で分かっている。しかし、ただ笑っているだけではないとしても、意味のない行為のはずだった。現実問題としてもう火は点かないのだ。
メメが溜息を吐く。傍目には敗北を自覚し諦めたようなその吐息は、しかし一般的な溜息とは違ってとても長いものだった。息を吐く、息を吐く……
元から薄かった胸がさらに薄くなったように感じられた。肺の空気を全て吐ききったかのようだった。彼女が最後に口にした言葉は、もはや声帯を震わせるだけの呼気を伴ってはいなかった。だから私は彼女の唇の動きからその言葉を推察したに過ぎない。
「『
すべての空気を吐き出した。そしてそれに着火した。バリアが割れなければ、炎が燃えつきてしまえば今度こそ、どこにも酸素は無い。確実な死が待っている。これ以上の「不幸」など、望むべくもなかった。人生で一度だけの、最大火力。
カチリと音がする。口腔奥で火花が弾け、口内を光が満たす。付近を漂うなけなしの酸素へと着火する。口の端から炎が漏れる。少女は炎を吐く。瞳孔が油の浮いたドブ水のようにギラギラと下品な虹色に光る。そして閃光が迸る。
そしてバリアが割れた。
コレクトインコレクト/あるいは古池紗芽の異常な日常 靄 @83_Snow
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