エニグマかぞく

杉浦ささみ

 かんきつ類がはじけたような、まばゆい朝がやってきた。

 白いカーテンの隙間から庭の夏草が覗く。散らかった部屋に、明るい廃墟のような空気が満ちる。カフェインのこびりついたコーヒーカップが、書斎がわりのデスクの上に放置され、脇には冷たくなったノートパソコンが開いていた。悠介ゆうすけはそこで目を覚ました。


 うっすら視界に入ったのは、窓の向こう、庭に立つ少年だった。目をこすってみた。夢のようだと思ったけれど、夢にしては世界があまりにも理路整然としていた。枕を土台に90度傾いた景色。そこからゆっくり体をもたげる。

 言うまでもないけれど、悠介の頭はこのとき既に冴え切っていた。


(ど、どうしよう……。警察呼ぶか。……うわ、ずっと俺見てる)


 寝ぐせのついた栗毛色の髪。悠介と同じく高校生ぐらいだろうか。草地に両膝をつき、あくびをする。その猫背のかたわら蝶がよぎる。夏の朝の静かな陽気を存分に浴びていた。悠介は、恐怖というよりは気まずさに駆られてカーテンを閉め、廊下を歩いていつも通りの食卓に向かった。やっぱりこれは夢なのかもしれない。


 生ぬるい夏休み、その一日のはじまりだった。そこは黒っぽい板張りで仕切られた、すりガラス窓のあるリビングだ。台所の見えるテーブルに、暑さですぐ悪くなってしまいそうな目玉焼き、サラダ、みそ汁、ごはんが並ぶ。母は背中を丸くして、シンクと向き合い冷たい音を立たせている。テレビはついていないので寂しかった。悠介は箸を手に持った。


「どうしたあんた、恋でもしたの」


 母はいつのまにか、腕を組んで悠介のそばに突っ立っていた。


「へ?」


「いや、なんかぼんやりしてるからさ。怪しいなって」


「そういうんじゃねぇよ」


 悠介はそっぽを向いて、義務的にレタスをつまんだ。庭の少年については口を開くまいと思った。


「へぇ……」


 母は鼻歌をうたいながら流し台へと戻っていった。なにか重要なことを置き去りにして朝が常温で溶けていく。目玉焼きには醬油をかけた。

 カレンダーは赤丸でびっしり埋まっている。丸と言ってもいろんな種類があった。二重丸や、何度もなぞって強調されたものなど。盛りだくさんだな、と悠介が思っているとインターホンが鳴った。それからすぐに「ごめんくださぁい」と玄関先から聞こえた。


「あら、藤本さん」と、母はスリッパのまま廊下をぺたぺた歩いていった。悠介もついていくことにした。


(お隣ってあんな声だっけ。なんかアクセントが違うような)


 母は躊躇なくドアを開ける。そしてびっくりした。悠介はもっとびっくりした。


「やぁ、僕は"たぬき丸"」


「は?」


 さっきの少年が立っていた。悠介とそこまで身長差はない。ぎりぎり、つむじが確認できそうだ。


「友達?」と母。


「いや、ちげえよ」と悠介。きょとんとしたたぬき丸の顔を指さす。「あ、っていうかこいつ庭にいたんだ。マジで、マジだよ母さん。不法侵入だよ」


 たぬき丸はうなずく。「不法侵入です」


「面白いねえ。若いっていいわ。あははは」


「いやちがう、ちげえって」


 それから悠介は、居ても立っても居られなくなり、たぬき丸の二の腕をつかんで家の外に出た。


 通りの石垣に突き放す。たぬき丸の背中に熱いコンクリートが触れる。知り合いが犬を連れて通りかかるなんて考える余裕もない。


「お前、いったいなんのつもりだよ」


 するとたぬき丸は、セミの声に負けじと「君の父さんが、どういう人かわかるかい?」と、素朴な疑問を投げかける子どもみたいに尋ねた。


「あ、お父さん?」悠介はため息まじりに言い放った。「土日しか会わねぇからよく知らねぇよ。でも、よくしてくれる。大事な家族の一員だよ。んで、父さんとお前になんの関係があるんだよ」


「君の父さんは、たぬきなんだ」


「は?」


 どこからか打球音が聞こえた。たぬき丸は得意げに口をゆるめて、右手でサスペンダーのヒモをぱちんとはじく。年甲斐もない恰好が妙に似つかわしくて、悠介はむずがゆそうに眉をひそめた。


「君の父さんは、たぬきなんだよ」


 口元は狡猾そうに緩んでいたけれど、青みを帯びた両目からは不純なものを感じることができなかった。水間はいよいよまごついた。


「母さんもたぬきだし、君もたぬきだよ。たぬきの家族さ」


「噓だ」


 うだるような暑さも無為になるくらい冷や汗をかいた。鵜吞みにすることは危なかったけれど、やすやすと引き下がれる気分でもなかった。アスファルトが音もなく息を吐く。たぬき丸の口振りには、名状しがたい説得力があった。


「まぁ、こんなところで立ち話をするのもなんだからついてきてよ」


「なんでだよ」


 悠介は疑問を浮かべながらも、頷いてしまった。とりあえず靴のかかとを綺麗に立てる。たぬきに化かされた気分だった。

 一行は住宅地を抜けると、河川敷の見下ろせる堤防に登り、朽木みたいな小屋の前で足を止めた。緑が飽和した土手の小路と、きらきらした川面に良くも悪くも調和している。ランニング中のおじさんはそれに見向きもせず走り去った。


「そろそろ白状しなきゃと思っていたんだ」とたぬき丸は小屋のドアを開け、悠介を中に案内した。ドアは大仰な音を立てて閉まる。

 どこかから光が漏れ出ているらしい。窓はないが、互いの姿をうっすら確認できた。『サカナ』と書かれた木箱が無造作に散らばり、壁に数種類の刃物が立てかけてある。中央にはどでんと作業台のようなものが置かれていて、洗っても取れないであろう黒いシミがついていた。部屋全体がすこし生臭い。


「どういうことだよ」


「実は僕が父さんなんだ」


「なっ」


 その瞬間、たぬき丸を紫色の煙が覆った。どろん。


 悠介は思わず目をつぶり、右手でひさしを作って薄目に戻すと、そこには中年男が立っていた。


 父だった。


 夏にもかかわらず長袖のシャツとベストを着て、茶色の帽子をかぶっている。肉が厚く、周囲の熱気が輪をかけて芽吹きはじめた。悠介よりやや背丈は低く、どこかしらセンスを扇ぐ富豪のような雰囲気もある。見覚えのある姿だ。


 混乱する悠介に、男はやさしく声をかけた。


「大きくなったな、悠介」


 不意に涙が頬を伝った。「どういうことだよ」


「さっきも言った通り、お前はたぬきの子どもだ。物心つくまでは獣の姿で生きていたんだ」


 父は照れくさそうに口角を上げて続ける。悠介は呆然と目を見張っていた。


「ちょうどお前が生まれたころ、このあたりは開発がはじまってな。住宅地やマンションが、雨後の筍のように建てられ、小川は埋め立てられ、森は伐採された。まぁ、今を生きる人間たちにとってはやむを得ないことだったんだが、タヌキにとっては災難でな。子育てするには大変だったんだ。だから……」


「人間に化けて安全な一軒家に住むことを選んだのか」


「話が早いな」父は小屋の壁に取付けてあったライトのスイッチを押した。月明かりより寂しい光が天井から掛かる。「母さんは難なく人間の生活に馴染むことができた。まぁ、あの器量よしだ。当然だろう。お前も──あのときは物心ついたばかりだったから覚えてないと思うが、変化の術を習得し、人間の姿を借りて生きていくと決めたんだ」


「そ、そうだったのか」


 悠介は自分の手のひらを眺めた。動物的でどこか穏やかな本能が、脳の奥で燐と煌めく。野を駆ける思い出。春先の冷たい川。


「母さんと悠介は優秀だった。難なく人間の世界に完璧に溶け込んでね。だが、僕は違う。変身には1日6時間の制限があるんだ。生まれつき他のタヌキより能力が劣っていた。母さんは『それでも一緒に暮らそう』と提案したんだ。だが、僕は願いを拒んでここに住むことを決めた。タヌキが人間に化けて生活しているなんて世間にバレたら大変だろう。それに、悠介も思春期になれば父親がタヌキということに逃れられないコンプレックスを抱くと思って。だから家族からは離れて、ずっと川で魚を獲って、それを売って仕送りをしていたんだ。不甲斐ない父でごめんな」


「不甲斐なくなんてねぇよ。かっこいいじゃねぇか、子ども想いで!」


 悠介から、怒涛の涙が流れだした。


「だが、僕はずっとほったらかしで」


「んなことどうでもいいよ。父さんは父さんだよ。その事実は揺るがねぇ。俺たちの生きざまに文句言うやつは俺がぶん殴ってやるからさ、家の中に獣の毛が散らばってても俺は構わねぇ。形が違えど家族じゃねえか。だから、だから、だから俺と一緒に住もうよ父さん。お願いだから」悠介は図らずも唾を散らして情熱をぶつけた。「とりあえず家に来てくれ。母さんと話そう」


 すきま風が通り過ぎていく。部屋の隅には人間の文化を記した書籍が積み上がっていた。悠介の唇は震えていた。そして強く噛みしめて、感情をせき止めた。父は目を丸くしたあと、おもむろに笑った。


「わかった」


 それからは言葉なくして小屋を出た。まるで台本にそう書かれていたみたいに。セリフはなくても2人の間には広い行間があった。


 川のほとりに虫取り網を持った子どもが見える。草むらから何かが跳ねた。父はゆったりと道に沿って歩きながら景色を眺め、汗を拭いて言った。


「家に帰ってみんなで食べたいものはあるか?」


「焼き鳥」


 悠介が威勢よく言うと、父は自分の帽子を押さえようとした。頭上の夏風が帽子を掠め、川のほうへとそれを運んだ。


「あ、父さん」


 悠介が思わず口をつくと、「実は父さんカワウソなんだ」


「へ?」


 もう何を言われても驚かない自信があったのに、思わず口をぽかんと開けてしまった。父は、マフラーに似た青黒いカワウソに変身した。周囲の目はない。


「わけわかんねぇよ」そう言ったときには、既に父は草むらを縫って無我夢中に疾駆していた。ほとんど真上から差す太陽がきつい。


「そこで待ってるんだ悠介」


 一度、草むらからひょっこり顔を出して父は言った。朝方にもかかわらず、ポケットに両手を突っ込んでたそがれる悠介は、早起きの負債を口からふわっと吐き出して笑った。


「はは、そうだった。父さんってこんな人だった。冗談好きで、面白くて。タヌキだろうがカワウソだろうがカメレオンだろうが家族だったらなんでもいいや」


 まだ朝は、はじまったばかりだ。

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