番外編 二 『それから』【3】
* * *
翌日、昨夜からずっと台所にこもっているギンを置いて、コンとふたりで庭に出た。
降り続けていた雪は今朝になってようやくやんだが、そこかしこに雪がこんもりと積もっている。
奥にある大きな池に着くと、凍った水面を覆う雪解け水にそっと手を翳した。
そこに映っていた私とコンの顔が消え、代わりにひかりの姿が映し出される。
「あっ! 雨天様、ひかり様が映りましたよ!」
「ああ、わかっているよ」
興奮するコンが、彼女をもっと間近で見たいと言わんばかりに池を覗き込む。
その姿に、思わず小さな苦笑が零れていた。
秋頃からアルバイトとやらを始めたひかりは、老舗和菓子屋で客の対応をしていた。
『甘い物が苦手な方もいらっしゃるお宅なんだけど、手土産用になにかおすすめはあるかしら?』
『でしたら、こちらの塩大福はいかがでしょうか。求肥には砂糖がほとんど使われておらず、あんには塩が入っていて甘じょっぱいので、甘い物が苦手な方からもご好評をいただいているんです』
まだたどたどしさを残しながらも笑顔で説明する彼女に、客はにこやかな表情で相槌を打っている。
その客は、いちご大福とみかん大福とともに、塩大福も購入していった。
バタバタを動き回るひかりは、この屋敷にいたとき同様、実によく働いていた。
「あっ、ひかり様! 危ないですよ!」
ときには、調理場で職人とぶつかりそうになったり、包む菓子を間違えたりと失敗もあったが、めげずに真剣に役目を果たしているようだった。
コンは、そんな彼女の姿に一喜一憂し、ハラハラしたり笑ったりと忙しそうだ。
「今のお客様にとても喜んでいただけてよかったですねぇ、ひかり様!」
独り言も多く、そのうち一切振り向かなくなったため、コンは傍に私がいることを忘れているのかもしれない。
けれど、嬉しそうな姿を見ていると、私まで胸の奥が温かくなった。
「今年の夏は色々ありましたねぇ」
ずっと池を覗き込んでいたコンが、不意にしみじみと呟いた。
「なんだか、もう随分と前のことのように思えます」
「ああ、そうだな」
ひかりが去ってから、まだひとつの季節を超えただけ。
にもかかわらず、彼女がここにいたのはもう何十年も前のことのように思える。
「ひかり様が幸せそうでよかったです。このままずっと、笑っていてくださるといいですねぇ」
「きっと、大丈夫だ。ひかりはもう、この屋敷に来た頃とは違うのだから」
「はい」
コンは頬を綻ばせて大きく頷き、再び池に視線を戻す。
積もった雪に太陽の光が反射して眩しいが、コンは相変わらずひかりに夢中で、そんなことは気にしていないようだった。
「コン、そろそろ屋敷へ戻ろう」
ひかりが仕事を終えるまで池の前から動かなかったコンだが、私の声に満足げに笑ってみせた。
「こんなことを言っては怒られるかもしれませんが、コンはまたひかり様にお会いしたいです」
屋敷に戻る道すがら、コンは私の様子を窺うようにしながらもそんなことを口にした。
「なにを言っておる。これが本来の形なのだから、私たちはこれからもここからひかりを見守っていくのだ」
「……はい」
こんなことを言わなくても、コンは重々理解している。
それでも口にしてしまうほど、あの夏のひとときが幸せだったのだろう。
「ギンの甘味は、いったいどんなものなんでしょうねぇ」
寂寥感を隠すように、コンが私を見て笑う。
「想像もつかないな」
「コンはさきほどからずっと、腹の虫が鳴いております」
「コンはいつもだろう」
「そんなことはございません!」
膨れっ面になったコンが、寂しさを振り払うように走り出す。
「雨天様―! 早く戻りましょうー!」
それから、少し離れたところで振り返り、小さな手を大きく振った。
「私もお前と同じだよ、コン」
誰にも聞こえない囁きが、積もった雪の上に落ちていく。
「叶わないとわかっていても、ひかりとまた会いたいと思ってしまう」
この屋敷を守る主として、これがあるべき形だと理解しているのに……。ときどき、『雨が好き』と言ったあの笑顔を無性に恋しく思うのだ。
けれど、それは叶わない。
だから――。
「誰よりも幸せであれ、ひかり」
せめてもの願いを小さく紡ぎ、晴れた冬の青空を仰いだ――。
【END】
Special Thanks!!
カクヨム
2024/1/16~2024/1/31
※こちらの作品は他サイトでも公開しています。
金沢ひがし茶屋街 雨天様のお茶屋敷 河野美姫 @Miki_Kawano1006
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