第40話 配流Ⅵ


「イッチ続き言ったんさい!」

「いや…もう休み時間終り…」


「なんか火照るわ〜」


 小西は下じきで顔を扇いだ。


「ぶー?扇ぎなさあい!」

「御意!くんくん!」

「誰が嗅げ言うた!」


手扇子で嗅ぐのが本物っぽい。


『俺たちは?』


『この役立たずどもが!』


こいつが女王様の時代に生れてなくて。

まして家来じゃなくて本当によかった。



 常に社交的であった前皇后。


女官たちの談笑の輪がそこに咲けば。

ジョゼフィーヌは花の中で華やいだ。

彼女を懐かしむ声は多く聞かれた。


その姿は宮廷になくも。

その花影は色濃く薫る。

その面影を思い慕う人。


 戦場の兵士たち。

 宮廷の女官たち。

 贔屓の御用商人。


 皇帝の椅子。

 皇后の椅子。


彼らよりもなお彼女を求めた者。

それは前夫ナポレオンであった。


 ナポレオンの二面性。


これは中高の教科書には載らず。

大学のテキストで学ぶ者もいる。

つまり多くの人は知らぬままだ。

 :

「妃に相応しい妻を得ても」

「ベッドの中では悪魔!?」

「まさにジギルとハイド!」

「不倫ね!不貞の二人ね!」


どれも不正解なのである。

俺の話全然聞いてねえし。


ナポレオンは恋愛に関して朴訥な男。

ジョゼフィーヌの言葉からも伺える。

そして後妻のマリーも愛し大切にした。


よき夫である反面その心は大陸を駆け。

その世界統一の野心を抱いての進軍。

大陸軍の他国への侵攻遠征は続いた。

旧ローマ帝国の進軍のようにである。


これを二面性と言えなくもない。


「でも仕事と家庭は別とかって」

「別に皇帝でなくてもあるよな」


確かにその通りだ。

男性でも女性でも。

それはよくある話。


しかし皇帝ともなればこそ。

国を背負う者の気持ちなど。

誰に推し測ることが出来よう。


国民は嘗て数多の英雄の姿を重ねた。

それは市民革命の成就と共にである。


そして若くして時代の寵児となり。

血統なき身分からでも皇帝となり。

星のように仰ぎ見る存在となった


そのような存在なればこそ。

友にも妻にも語れぬその心。

それを打ち明けられる人物。

それは彼女しかいなかった。


「ナポレオンの残した有名な言葉…」

『余の辞書に不可能はない!』

『よって不の倫もし放題!』


はい反省解!ちなみ馬に乗ってる絵画や銅像が有名だけど。実は馬術は苦手。


砲台なら任せろのスペシャリストよ。

地味だけど確実に戦果を残せたはず。


「男なんて!」


休み時間も女子に囲まれるモテ男。

キクチ君を見て小西は言った。


『男なんて?』


「イタリアンスタリオン!」


ロッキーボルボラですか!?


「ケダモノよ!」


「はいどうどう!」


まあ聞け小西。

人参ないけど。


余の辞書に不可能はない。

この際陳でも我でもいい。


この台詞意味は大体合ってる。


Impossible n’est pas français !


直訳すれば、「不可能という言葉はフランス語ではない」である。日本で流布している訳文とはかなり違う。


日本人訳者の筆が走った結果か。


この原文自体が事実とは異なる。


正確にはCe n’est pas possible, m’écrivez-vous ; cela n’est pas français.


「不可能という言葉は、愚か者の辞書にしか載っていない」


正しくはそのような意味である。


「不可能という文字は愚か者の辞書にのみ存在する」


「不可能は小心者の幻影であり、卑怯者の避難所である」


これらの言葉を日頃から口にしていた。軍人たるナポレオンの常套句であった。


戦地に向けて弱気になる部下に。

日頃から自らを鼓舞するために。


アダムとイブが口にした楽園の果実。

それが林檎だとは聖書に書いてない。

今では誰もが林檎と信じて疑わない。


「アップル社のマークもそうだし」


流布した言葉が真実味を帯びて使われる。そんなことは世の中に沢山ある。


何れにせよ名言として。

今日も残る言葉である。


マリー・ルイーズではなかった。

ジョゼフィーヌこそが真の妻。

そのように語る研究者もいる。


皇帝と元皇后。

かつての恋人。


そのような関係が終わっても。

二人の親交は途切れなかった。


ナポレオンは彼女に信頼を寄せ。

事あるごと彼女に相談を求めた。


その信望ぶりに、正妻のマリー•ルイーズは、しばしば嫉妬心を覚えたとされる。


ナポレオンが彼女に送った手紙。

それは彼の死後発見されている。


かつてジョゼフィーヌはそうした。

夫からの手紙を友人にひけらかし。

その熱愛を笑いのネタにした。


そんな時は悔恨と共に過ぎていた。


真摯に夫を愛し始めたのも束の間。

それでも別れざるを得なかった。


彼女の邸に手紙は保管されていた。


離婚後のジョゼフィーヌ。パリ郊外のマルメゾン城の主として。静かにその余生を送った。


彼女はそのよすがの庭園を花で満たした。


自らの真名であると信じた。

彼女が生涯愛した薔薇の花。


国民に愛された皇后であり。その政治的人脈の広さもあり。多額の年金を支給された。亡くなるまで【ナヴァール女公皇后殿下】という【皇后】の称号を保持することをも許された。


生涯を通じて、ナポレオンにとっての、よき相談相手であったとされている。


マルメゾン城のナポレオン居室。

皇帝が去ったままの状態で残され。

幸運が足を噛んだベッドもそこに。


ジョゼフィーヌの手によって保たれ、

もはや人を立ち入らせることはなく。


彼女はその部屋の物すべて。

relique.聖遺物と呼んだ。


ナポレオンからの手紙も聖遺物であり。

勿論手紙は一通だけではなかった。


彼女によって大切に仕舞われていた


「因みに…この手紙の文面は、フェリス女学院の世界史の入試で出題されたことが…」


「あら!メモしないと!」


お前は仏教系がミッションだろ。


「おベルサイユより…さらにお遠い…おおお嬢様学校ではないか!?」


汝ら光年の隔たりと知るべし。


1813年7月9日。副官に送った言葉。


不可能という言葉はない。


同時期ジョゼフィーヌへの手紙。


私の生活は不断の悪夢だ。

不吉な予感で息もつけない。


ナポレオンの二面性である。


皇帝の座にまで登り詰めたナポレオン。

その時より孤独と不安に苛まれていた。それを指し示した文言とされている。


手元にある中学の歴史の教科書。

スクショすればこんな感じだ。


フランス革命の後。フランス社会は混乱状態に陥った。混乱した世の中をまとめるため 。力を持ったリーダー の存在が求められた。そこで民衆はナポレオンを選んだ。


1804年。フランス皇帝 に即位。皇帝になったナポレオンは、 ヨーロッパ遠征を開始。この侵攻はフランスの領土を増やすことが目的である。


少なくともヨーロッパの国々。

諸國の君主はナポレオンの動向。

侵略行為による脅威と受け止めた。


ナポレオン遠征。その先に見据えていたのは。ヨーロッパ大陸だけではない。


イタリア半島、さらにはスペイン、南米にまで及ぶ。そして生れ故郷のイタリア。その半島にはそれぞれ国と王家が分裂し存在する。


未だかつて統一を果たした者はいない。


そしてスペインには妻に迎えたマリー•ルイーズの生家。ハプスブルク家の分家スペイン王朝が統治する国。


マリール・イーズの父フェリペ一世。

青い血の一族。神聖ローマ帝国皇帝。


ナポレオンの大陸軍が侵攻した。

イタリア半島にはローマがあり。

ローマ国教会の総本山である。


スペイン国とスペイン王室の歴史。

カソリックへの信仰は数百年に及ぶ。

それは王家の歴史が途絶える時まで。

ユダヤ教ともその縁と歴史は深い。


「スペイン国と王朝こそが、ローマ教会の第一の庇護者である」


スペイン王家は常に明言していた。


「敵だらけやん!」


「38勝3敗」


ナポレオンの戦歴。

将に常勝無敗の英雄。


皇帝即位後の3敗。


これが命取りとなった。


1812年にナポレオン一世はロシア遠征に失敗。翌1813年のライプツィヒの戦いでも大敗を喫した。


元よりナポレオンの大陸遠征計画。 

ロシアなどは含まれていなかった。


眼下の敵は大英帝国。


英国の工業勢力の拡大と植民地政策。

それを誰よりも脅威と感じていた。


同盟国に対して条文を公布した。

これが世に言う大陸封鎖令である。


トラファルガー海戦の敗北を契機に。

英国との通商等を禁じるために。


フランス帝国と同盟国に出した勅令。


1806年11月のベルリン勅令デクレ(le décret de Berlin)で実施され。


1807年のミラノ勅令で強化された。

このうち特に1806年の勅令である。


それゆえ大陸封鎖令という条文には、

ベルリンの文字が織り込まれている。


ベルリン勅令もしくは大陸封鎖令。


英国と英国製品の交易禁止。


ベルリン勅令は1806年11月21日にベルリンで署名された【イギリス封鎖に関する法令】であり。前文と全11条で構成されている。


フランス国内だけでなくスペイン、イタリア、スイス、オランダ、デンマーク、ドイツにも発せられ適用された。


その内容は英国諸島を封鎖状態に置くものである。


第1条、通商や通信を一切禁止。

第2条、英国商品の交易を禁止。


第5条、英国製品、英国植民地産商品は没収の対象とする。


英国とフランス両国。

開戦の契機となった。


「政治とか戦争の話より…甘〜いロマンスが欲しいの!」


そう思ったのはコニジェンヌだけではない。


今で言う経済制裁のようなものだが。

それは自国と同盟国に向けてである。

この勅令は失策であると非難された。


とりわけ自国の民を憂鬱にさせた。

英国産の綿花とコーヒー豆の禁止。

それはフランス文化に欠かせない。


「イギリスでコーヒー豆?」

「紅茶の葉だって違うだろ!」


英国は産業革命だけではない。

植民地政策でも利を得ていた。


「お洋服と大好きな飲み物が…」


「それはサガるな!」

「ジャージと炭酸!」

「普段何を着れば!」

「部活後の楽しみが!」


ちょっと違う気もするが。


皇帝となってもなお終りなき。

ナポレオンと大陸軍の遠征。


側近であったターレランは眉を伏せた。彼は有名な美食家グルマンとして知られている。


無類のコーヒー好きとして有名。

名前が喫茶店の店名になるほど。


生前にはこんな言葉を残している。


悪魔のように黒く。

地獄のように熱く。

天使のように清く。

恋のように甘く。


底に残るくらいたっぶり甘く。

砂糖を入れるのが好きだった。


「俺も!俺も!甘くする!」

「ていうかコーヒー飲めん!」

「全然美味く思えねえし!」

「シュガーな坊やたちね!」


小西おめえもだろ。

いや俺もだけどね。


それがナポレオンに対しての決別。

ターレランの思いとは穿ち過ぎだ。

どんな歴史書にも書いてはいない。


しかし時を経て冷めて色褪せてしまう。

そんな飲み物には誰も見向きもしない。


やがて忘れ去られ。

捨てられるより他ない。

人も一杯のコーヒーも。


海へ流されて一雫。


俺たちは政治も恋愛の機微は疎か。

その一匙の苦みすら知らなかった

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生存確認 六葉翼 @miikimiki

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