愛し子よ
新井狛
愛し子よ
「あなたのことが大好きよ」
抱きしめられる柔らかな熱。ほのかに香る甘い匂い。大好きなおかあさん。
「ぼくもだいすき」
ぎゅっと抱きつき返すと、いつも優しく頭をなでてくれる。
「ご飯にしましょう」
ミルクの匂いのするお粥。いつものご飯。お腹いっぱい食べて、ベッドに行く。
「絵本を読んであげましょうね」
おかあさんの優しい声。ぼくと同じ歳の、うさぎの男の子のお話。心地よい声に抱かれて、ぼくは柔らかな眠りに落ちていく。
▶▷▶
「あなたのことが大好きよ」
抱きしめられる柔らかな熱。ほのかに香る甘い匂い。
「ご飯にしましょう」
ミルクの匂いのする白粥。もったりと口の中に張り付くそれを飲み下す。
「もう寝ないと」
空腹だけが満たされてぼんやりとしている僕を、お母さんが急かす。
「絵本を読んであげましょうね」
繰り返されるうさぎの男の子の話。ずっと同い年のうさぎの男の子。ねえ、ロジャー。君も顔にちくちくする毛が生えてきたのかい。
一言一句すべてを脳に刻まれた言葉達が、僕を眠りに落としていく。
▶▷▶
「あなたのことが大好きよ」
抱きしめられる柔らかな熱。辟易とする甘い匂い。
「ご飯にしましょう」
いやだ、と心の底で何かが喚いた。もういやだ。いやだ。いやだ。いやだ。
ミルクの匂いのする皿を床にぶちまける。
「こぼしてしまったのね。大丈夫よ。今片付けるわ」
やめてくれ。もうやめてくれ。
「ご飯にしましょう」
ミルクの匂いのする白粥。震える手でスプーンを手に取った。
「大丈夫よ。失敗は誰にでもあるもの。あなたのことが大好きよ」
ぷつん、と。頭の奥で何かが切れる音がした気がした。
▶▷▶
気づけば、“お母さん”を見下ろしていた。スプーンでえぐられた両目からは、柔らかなミルク色の液体がどぷ、どぷと溢れている。
硬いものでめちゃくちゃに殴りつけられ、めくれた皮膚の向こうに、スプーンと同じ光沢を持つ骨と、鮮やかな何本もの紐が絡み合っているのが見えた。
ぱち、ぱち、と小さな光が体中で弾けている。
呆然としている僕を誘うように、背中のほうからガチャリと聞き慣れない音がした。
▶▷▶
真綿のような優しさで包まれていた部屋から出ると、そこはただただ白い空間だった。
ぽつんと、小さな机が置かれていて、その上には一方向が淡く光る箱が乗っている。机の前に置かれた椅子に腰を下ろす。ビリッ、と尻から背中に感じたことのない痛みを感じて飛び上がった。
「生体認証に成功しました。保育用ドロイドTS5880-C921の稼働状況をチェック……失敗しました。情報開示フェイズに入ります」
知らない声、わからない言葉。その場から逃げ出そうとした僕を、スプーンのような銀色の手が掴む。
「やめて……あああああああああ!!!!」
ビリビリと頭を揺さぶられる。言葉が、知識が流れ込んでくる。酷い頭痛がする。白い世界がぐるりと周り、真っ暗になった。
▶▷▶
僕は目を開けた。目の前に佇んだコンピュータは、静かに僕の操作を待っていた。
マウスを手に取り、震える指で操作する。コンピュータの中には“Diary”と書かれたたった一つのファイルが存在していた。
『見つけた。私の愛し子。廃墟になってしまったこのコロニーに残った最後のいのち。この子を守らなければいけない』
『機能している地下施設を見つけた。当該施設にて保育可能と判断。この子を守らなければいけない』
『離乳。総合栄養食の供与を開始。人間1人分であれば備蓄分で80年間賄えると判断。表情が出るようになってきたので情操教育を行う必要がある。この子を守らなければいけない。この子を愛している』
『食事を与えて、絵本を読む。あなたのことを愛している』
『あなたのことを愛している』
『大好きよ。私の愛しいあなた』
絵本を読むようになってからは、ただ愛しているの言葉だけが繰り返されていた。
電子刺激によって知識を叩き込まれた今だから分かる。低月齢用保育ドロイドだった母には、その先どうしたらいいのかが分からなかったのだ。この
「お母さん」
そう呟いた僕の脳裏に、何度も母を殴りつけた感覚がフラッシュバックして、僕は胃の中身を床にぶちまけた。
汚れた床は饐えた匂いを放っている。その床を掃除してくれる母はもういない。
大丈夫よ、というあの優しい声を、僕はもう未来永劫聞くことが出来ない。
僕はゆっくりと立ち上がる。
コンピュータの奥には、巨大な鋼鉄の扉が控えている。その扉は僕の生体認証で開くことを、今の僕は理解していた。
巨大な扉が開いていく。がらくたと骨ばかりが広がる砂の大地を、僕は呆然と見ていた。
(終)
愛し子よ 新井狛 @arai-coma
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