100冊目のサイン会

和立 初月

第1話

「順番に並んでくださいねー」


 係員がずらりと一列に並ぶ客の整理を行っていた。長蛇の列の先には、長机とその上に積み上げられた本。

 そして、その向こう側に座るのは。

「先生、ようやくここまで来ましたね!」

「ここに来るまでとても長かった。でも……今はとても満たされた気分だよ」

 少しだけやつれた印象を受ける作者が、隣に立つ担当編集に、にこやかな笑顔を返す。

「ベストセラーなんて、自分の人生に、自分の著作に何冊も要らない。

 私は、今目の前で楽しみに、私のサインを待ってくれている読者の皆さんが少しでも幸せになってくれればそれで良い。私の最後の仕事だ。さ、そろそろ始めようか」

 作者は、担当編集から本を受け取ると表紙を捲り、丁寧にペンを走らせる。

 係員に促され、一歩前へ進み出た最初の読者は本を受け取ると、目に一杯の涙を浮かべてこう言った。

「先生、100作目おめでとうございます。大切に、大切に読ませていただきます」

 それを見た作者は、何度も頭を下げながら、感謝を述べる読者を慰めるように。

「ありがとうございます。では、私から一つだけお願いを」

 少し驚いた様子で読者は顔を上げ、続く言葉を待った。

「大切にしていただけるのなら、是非何度も読んでほしい。紙がぼろぼろになって、表紙が色褪せるまで。あなたが今、ボロボロと流している涙。それはきっといつまでも色褪せないのだから」

 その言葉を受けて、堪えきれなくなったのか「ありがとうございます!」と最後に強く

言い残し、読者は会場を後にしていく。その背中はしゃんとしていて。

 もう、後ろは振り返らない。そんな意思の強さを感じさせた。



「先生……そろそろ一旦休憩を挟まれた方が……」

 そう声をかけたのは、担当編集でも係員でもなく、サインを待つ読者だった。

「いやいや。どうにも、休憩を挟むと集中力が切れてしまってね。あなたのサインだけ、気を抜くわけにはいかないからね。

 命が平等に与えられているように、あなたに贈るサインもまた平等に、ね。ただ、そんなサインを『特別』だと思ってもらえるのなら、あなたにとって『特別』になるのなら、それ以上に幸せなことはないねぇ」

 しみじみとそう漏らす作者は、サインをさらりと書き上げると、読者へ手渡しながら

「メッセージ読ませてもらいました。辛いこと、苦しいこと。たくさんあるけれど、あなたにとって素敵な未来が訪れることを祈って」

 受け取った読者は深く深く頭を下げてから、静かに会場を後にしていく。



「あなたが……最後だね」

「はい」

 もう、後ろに並んでいる読者はいない。100番目の読者はその光景を、目に焼き付けるように。作者がサインを書く姿をまじまじと見つめていた。

「ははっ。そんなに見つめられると照れてしまうな。困ったな……あなたみたいな若い読者には私の作品なんて刺さらないと思っていたのに」

「そんなことないです、先生! 私、先生の作品は全部追いかけてます。……すみません、電子書籍なんですけど……」

 とても申し訳なさそうにそう言って、萎縮する若い読者を作者は、ただただ柔和な笑顔で迎え入れる。

「良いんだよ。媒体が何であろうと。表現者やクリエイターにとって、一番悲しいのは『評価されない』ことだからね。どんな良作であろうと、駄作であろうと。誰の目にも留まらなかったら、ただ埃をかぶるだけだ。

 それを考えると、電子書籍も良いものじゃないか。紙の本と違って、埃をかぶる心配がないからね」

 作者は自分で言った言葉がツボに入ったのか、豪快に笑う。時折咳き込むのも構わずに。

「大丈夫ですか!?」

「大丈夫、大丈夫。ちょっと、喉に埃が入ってしまっただけさ。……さぁ、書けたよ」

 最後の一冊を受け取った100番目の読者はとても愛おしそうに本を胸に抱き、

「お疲れ様でした。私にとっての”100冊目の本”がこの本なんです。感無量です……」

「ははは。感無量か。確かに感動には底がない。でも、それは。是非、その本を読み終わっての感想として聞いてみたいな」

 その言葉に、胸を打たれたのか、100番目の読者は何度もありがとうを繰り返しながら、会場を後にする。

 作者はそれを見えなくなるまで見届けてから。

「さて、と。そろそろ私の番かな」

 天を仰ぎ見て。

「100歳で迎える天国とは、一体どんな場所なのかな。私は今からそれが楽しみで仕方がないよ」

 100冊目の本のページをゆっくりと閉じるように。その瞼が閉じるのに合わせて。

 作者の人生は、ゆっくりと閉じられるのだった。

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100冊目のサイン会 和立 初月 @dolce2411

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