『いたずらごころ』
ヒニヨル
『いたずらごころ』
お昼過ぎまでのパートを終えた私は、近くまで迎えに来ていた彼の車に乗り込んだ。助手席の扉を閉めて、シートベルトをする。
「お疲れ様」
彼はそう言って、私の名前を呼んだ。顔を熱っぽく見つめてくる。
「どうしたの?」
「俺たち会うの、久しぶりだろ。だから」
急に手を引かれて、彼の顔が至近距離まできたけれど、私は
「ここ職場の近くだし。人目もあるから」
ただでさえ、昼下がりの明るい時間。白昼堂々とイチャつくなんて。若い男女でもあるまいし。
「誰も見ていないよ。意外と」
「見られているよ、意外と」
私がそう言うと、彼は少ししょんぼりしたまま、車のハンドルを握った。
車を走らせながら、彼が聞いてくる。
「お昼ご飯は食べた?」
「まだだけど、十時頃におやつを食べた。そこまで減ってない」
「俺もそんな感じ。じゃあ、目的地に直行で良い?」
私が頷くと、さっきまでの様子とは打って変わって、彼は嬉々とした表情になった。
私より大人だな、と出会った頃には思ったけれど、時々子供みたいな顔をする。昔と変わらず身体はいかつくて
「正直さ、私、今日会うか悩んでたんだ」
「後ろめたいとか?」
信号が赤になって、停車する。私は横断歩道を歩く人たちを見つめながら、口を開いた。
「今日生理だから、やめてもいい?」
短い沈黙が流れる。
不意に、彼が名前を呼んだから、振り返ると唇が触れた。認めていないのに、わずかな隙間から舌先を入れてくる。気がつけば好き勝手に入り込んで、私の中をかき乱す——片目に信号の青が入る。我にかえって、彼の胸を両手で押した。
「信号変わったよ」
わざと不機嫌な顔を作った。鼓動が速い。本当にびっくりした。でも、そうだ、この人はこういう性格だった。
彼は運転しながらニヤニヤ笑っている。
「思い出してくれた?」
「全然思いだせない」
言いながら、私は少し笑ってしまった。そんな私を目の端に見ながら、彼は優しい声で言った。
「相変わらず、嘘をつくのが苦手なんだね」
思ったよりも道が混んでいる。
また赤信号だ。
私はこの日が来るのを、待ち遠しいような、そうでないような複雑な気持ちだった。何とか会わないようにする方法が無いか、自分の心を引き留める術は無いか、ネットで検索もしてみた。
その最中、何げなく頭に浮かんだものがあった。いつだって最悪な状況を想像する事に、私の頭は長けている。賢くは無いけれど——その単語とは「腹上死」だった。
セックスの最中に、死んでしまう。
ある意味最悪であり、最高の死に方だ。私の脳内は、いつしか目的を変えて、良からぬ妄想を楽しむ事でいっぱいになってしまった。
そうして、数年ぶりに、彼と会う当日を迎えてしまったのだ。
「どうかした?」
意識が飛んでしまっていたのが、顔に出てしまっていたみたい。すでに車は目的地の、いかがわしいホテルに辿り着いている。私は少し
「久しぶりだから」
「少しも変わってないよ」
「私はもう、おばさんになっちゃったよ?」
「俺もおじさんだけど」
お互いの言葉に、つい二人して、ふふっと笑った。彼の手が、私の腕をそっと掴む。そしてはじめは唇だけ、次第に、口の中に舌を入れる濃厚なキスをする。
誰かが言っていたのかもしれないけれど、私は身をもって体験した事があるから分かる。キスが上手い男の人は、セックスも桁違いだ。私はそれを思い出す。
彼の誘いは容易に断れない。頭では分かっている、でも、一度味わってしまった
理性が飛んでいきそうな私の脳内に、また「腹上死」という単語が浮かんだ。息が苦しくなって、私は彼の唇から離れる。
「キスだけでもうダメ。私セックスしたら死んじゃうよ」
彼は笑いながら、「早く愛し合おう」と言った。
人のもの、だと分かっている癖に、どうしてアプローチが出来るのだろう。自分の欲求さえ満たされればそれで良いのかな。秘めていれば分からない、身体を満たす事がなぜ悪い——この話は何回も彼とした。でも結局、根本的な考え方が違うのだ。価値観の異なる人間を、必死に説得しようとしたところで、上手くいくはずがない。宗教を例に出すのは失礼かもしれないけれど、改宗する程の事だと思う。
私は本当のところ、彼のことが恨めしい。とても好きではある。でも、私に植えた苗床を確認するように、連絡を取って、会おうとするなんて。それに乗ってしまう私も私だ。
二人とも、罰を受けてしまえば良い。
私は絶頂に至る途中、死ぬ。
そうなったら、彼はさすがに戸惑うかな。困って打ちひしがれている顔を見てみたい気もする——でも、私はその時、死んでいるから無理か。
「大丈夫?」
彼が心配そうな顔をする。
私の調べたところ、セックス中の心臓の突然死で亡くなる人は、平均年齢が三十八歳らしい。三人に一人は女性なんだって。七割〜八割の確率で、不倫をしている人に多いそうだ。
私はとても腹上死する確率が高い。
「聞こえてる?」
彼が私の顔の前で、手をひらひらと振っている。
「ごめん。少しぼーっとしてた」
いつもの私に戻ったので、彼はホッとしたようだった。後部座席に置いていた、小さな黒いビニール袋を取ると、私にもう一度声をかける。
「いいよ。忘れ物無い?」
「うん」
返事をしながら、車を降りようとする彼の後ろ姿を見つめる。私の考えている事なんて露知らず、呑気なものだ。
私は、いたずらごころを抱きながら、そっと車を降りた。
Fin.
『いたずらごころ』 ヒニヨル @hiniyoru
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