RENTON

はまたに

RENTON

「レントン」という名の少年について僕が知っていることは少ない。君はベルフォレストという町で鬱屈した思春期を迎え、通称リフと呼ばれるスポーツに熱中する、十四歳という年齢を加味したとしてもどことなく幼く感じられるごく平凡な少年であるだろう。世界を救ったといわれるかの英雄アドロック・サーストンの実の息子であり、祖父アクセル・サーストンが営むさびれたガレージの跡取りであることは自他共に疑いようもない――そして君はそれをまんざらでもないと思っていたはず――。だが君には君の年頃には相応しく、思春期特有の自意識を持て余らせた漠とした夢がある様子。僕にはそれがよくわかる。それは「ここではないどこかへ」という酷く曖昧で確固たるもののはずだ。そんな君のもとにあの日、月夜に照らされ鈍い光を発する白い巨人と、巨人の白さより無機的に映る額に短い若草色の髪を撫でつけた一人の少女が落ちてくる。そうだあの瞬間から君の目指すべき「ここではないどこか」は地平線の向こう側ではなく、頭上に遥か高く突き抜け広がる蒼暗い宙を意味することになるだろう。君は一旦は横軸の旅=飛行を経験する。その紆余曲折を経て君自身目指すべき場所が横軸ではなく、縦軸にあることを知るだろう。君は少女エウレカとともに白い巨人ニルバーシュに導かれ広大な宙へと飛翔し、最後には母なる大地へと落下していく。落下すること、そのための上昇、この一連の飛び込むための身振りこそ交響詩篇エウレカセブンシリーズを貫く一つの主題に他ならない。横軸での旅が主だったビルドゥングスロマンを縦軸に置きなおすことにより、旅の終わり即ち帰還=落下それ自体は呆気ないほど一瞬に訪れる――だからこその美しさもある――。しかも翼のない我々にとってそれは死ぬことと等しい。だが君は飛び込んだ。たった一人の少女を抱きしめる、ただそれだけのために。

 お前たちにはけっしてわからないことがある。「レントン」という名の少年について。彼が生きた世界について。狐目の数学教師は今日も居眠りをする僕に苛立ちを隠そうとしない。小柄な体躯、こけた頬に頭身のバランスのよさ、襟元に覗く肉繊維、特別しゃれているわけではないがネクタイの柄や眼鏡のフレームのちょっとしたあざとさ、歳は三十代前半、独身。いかにも今時の女がいう「清潔感のある」男。その男が今、額に青筋を立て、僕を睥睨しているのだ。無論、僕は眠ってなどいない。ふりをしているだけだ。彼もそれをわかっている。だが彼が僕に声をかけることはない。僕は彼の秘密を知っている。彼がこの学校の女生徒と密かに逢瀬を重ねていること。風情のない駅前のビジネスホテルに二人が入っていくあの惨めな後ろ姿。僕のスマホにはその写真が収まっている。彼がひとたび叱責の声をあげたなら、僕は返す刀で彼の眼前にその写真を突き付けるだろう。

 授業の終了を告げるチャイムが鳴ると僕はわざとらしく大きなあくびをし、凝り固まった筋肉を伸ばしてほぐす。肩や腕、首回りの関節が挑発するようにパキパキと鳴り、数学教師はこちらを一瞥するが、すぐに苦虫を嚙み潰したような表情で教室を出ていく。一気に騒がしくなった教室の中をまっすぐ突っ切って幼馴染の透が相変わらずだねといって軽く僕の頭を小突いた。僕はそれを意に介さずなんだよとそっけなくいう。あのさと透は珍しく口ごもっていた。この後時間ある? みると透は妙に熱っぽい瞳を伏せ下腹部の前で軽く握り合わせた両掌にせわしなく力を込めている。彼女の白くしなやかな指が圧迫された縁からこぼすわずかな肉感に僕はただならぬものを感じ取り始めていた。僕が呻きのような曖昧な返事をすると透はいつもの微笑みを回復させじゃ、後でと妙に鼻につく甘ったるい香りを振りまいて自らの席へと戻っていった。

 僕はいつだか読んだ大江の『見るまえに跳べ』のことを突然思い出していた。たしか東大で仏文を専攻する「ぼく」という主人公が浮気して孕ませた子を事情あって堕胎し最後には性的不能になる話だったはず。「レントン」について考えていたからだろうか、たしかに『見るまえに跳べ』というタイトルそれ自体がいかにも彼の生き様を想起させもするが、話の顛末はむしろ対極といっていい。いや対極だからこそということはある。そもそも『見るまえに跳べ』という小説が同名の英詩から着想されているし作中で引用されてもいる。Look if you like, but you'll have to leap.というその言葉の響きは作中で「にがい」と書き表される情景描写とともに反復されている。反戦運動のために募金活動をする同年代の学生に対しては冷笑的な態度をとりつつ、知り合いの外国誌特派員で先述の詩を上機嫌に朗誦してみせるガブリエルには屈辱を覚える「ぼく」は、最後にはその屈辱を自らの内に引き受けることになる。「ぼくはおびえきって、決して跳ぶ決意をできそうになかった。そして結局、二十一年のあいだぼくはいちども跳んだことがないとぼくは考えた。これからも決して跳ぶことはないだろう。」

 ところで田舎の公立中学に通う十四歳の僕は跳ぶにはそろそろ頃合いかとも考えていたのだ。小学五年生の夏頃から毎週土曜日に車で一時間かけて進学塾に通い臨んだ中学受験はそれまでの模試が散々示していた通りの惨憺たる結果に終わり、僕よりも並々ならぬ姿勢でこの受験に期するものをかけていた母は最後の不合格通知が届いた朝、この経験を次に活かしましょうと自分に言い聞かせるようにして力なく微笑んでいたが、それ以降めっきり老け込んだようにも見える。中学受験することを一クラスしかない教室の中で自慢げに言いふらしまわっていた僕は今実に惨めな中学生活を送っている最中であり、よそよそしい態度と仲間意識を確認するためだけの虚しい陰口の恰好の標的となっている。唯一幼馴染の透だけが昔から相変わらぬ態度で接してくれ、その結果透もまたクラスから孤立した。これで死ぬときは、私たち一緒だね? 透は冗談めかしてそのようにいっていたが、先ほどの熱っぽい瞳を伏せる彼女を見るに強ちあれは冗談ではなかったのではないかと今は考えざるをえない。この後時間ある? 僕は頭の中で透のその言葉を発するときのなまめかしい艶を帯びた唇の動きをなぞった。つまり僕は跳ぶことをためらい始めているのだ。

 僕は屋上に来た。待ち合わせはいつもここだった。高く張り巡らされたフェンスの向こう側に澱んだ曇が手を伸ばせば触れられそうなほどの低みにかたまっていた。思えばしばらく似たような空模様しか見ていない気がした。僕はフェンスの傍まで来て全体に白く霞んだ町並みを見渡した。どこまでいっても似通った退屈な光景が際限なく続いていた。生きている限り僕はここから出ることができないのだと思われた。僕はここから跳ぶ自分を想像した。冷たいコンクリートと微温の宙の狭間へと、少しつま先に力を込めて身体を投げ出す。肉体のコントロールを重力に奪われた僕はグラウンドの砂地へと強かに全身を打ち付け息絶えるだろう。やがて遅れてやってきた透は明らかに僕がいた気配のある不自然な静けさの屋上に訝しく思うはず。少しして俄かに活気づき始めるグラウンドの方に気づき見下ろすと、血だまりの中で窮屈に手足や首を折り曲げガラクタのように横たわっている僕の遺体を発見する。その時透は何を思うだろうか。どのような表情で僕の遺体を見下ろすだろうか。

 何を考えているの? いつの間にやら背後にいた透が僕の耳元でささやいた。僕は思わず身を翻し後ずさった。拍子に背中を預けたフェンスが柔らかな金属音をたてた。ごめん遅くなった。透はいたずらっぽい笑みを浮かべた。僕はあんまきしょいことすんなよと怒ったが照れくささを隠し切れてはおらず、透もそれをわかってか余裕のある調子でもう一度ごめんと繰り返した。で、と僕は気を取り直すつもりでいった。なんのよう? 透はあーとしばらくの間虚空を見上げた。それは彼女が困ったときに見せる癖だった。僕は悩みなら俺の母さんにいえばと白々しくいった。僕たちは家族ぐるみの付き合いがあり、特に透は僕の母さんと仲がよかった。大人と子供ではなく本当に歳の離れた友人同士といった雰囲気で。僕はそれが羨ましかった。だがうーんと否定のニュアンスで困ったように微笑んだ透に、僕はやはりそうかと確信を深めた。透が僕の何に惹かれたのかは皆目見当もつかなかった。昔から自然と積み重ねた時間がそうさせたというのであればそうなのだろうと思うし、僕だって透のことを犯す夢想で射精したこともあった。透も僕に犯されること、あるいは僕を犯すことを夢想したことがあるのだろうか? それが恋やら愛やらと呼び表すものの正体なのであれば、僕は非常に気まずい感じがするしなんだか悔しい。透にはそのようなものとは無縁であってほしかった。そのようなこじれた願望を抱いてしまうのもまた恋や愛なのだろうか。

 透は小さく深呼吸していた。そうしていること自体悟られるのを恐れているようなおびただしい緊張感が、陽があたり白っぽくなった憂い顔へと上り詰めていた。まるでそこらの盛った中学二年のガキだった。そのうろたえた表情も上気し赤らんだ顔も熱っぽい瞳も全く彼女に相応しくなかった。透はもっと無垢でなければならなかった。裏腹に成熟していく身体を性的なものから遠ざけねばならなかった。女に生まれた以上いずれ母になることが透にとってもひとつの達成ではあるだろう。だが彼女にはそれとは異なるしあわせを僕は選んでほしかったのだ。

 あのねと透は意を決したようにこちらに向き直った。しっかりと据えられた彼女の瞳はもう熱っぽくもなくこちらが気圧されるほどの強い意志の光を宿らせていた。なに? と僕は透から視線を逸らしながらいった。大事なことなんだと透は僕の隣に立ちいつもは無機的に映る青白い額を灰色にくすませ、横顔の片側だけをこちらに向けた。陽のなかに溶けいり白っぽくなった彼女の表情はあまりにまぶしく確認することはできなかったが、その視線はフェンス越しに延々と続く退屈な町並みに向けられているようにもみえるし、ふたりの懐かしい記憶へと向けられているようにもみえる。僕はそんな透の横顔を前にも一度見たことがある気がした。この世界について。えっと僕は言った。この世界について君はどう思う? おそらく僕は呆れるほどまぬけな表情をしていたことだろう。僕はもう一度えっといった。私は実はアイドルをしていて、君とは別の世界に存在していて。透がこちらを向いた。そして私には好きな人がいる。僕は呻いた。透が言い出すまでもなく僕はそれを知っていた気がした。僕は急に目が回る思いがしてその場にうずくまった。遠のく意識の中で聞こえるはずもない狐目の数学教師の声が僕の名を繰り返し呼んでいるような気がした。


「レントン」という名の少年について僕が知っていることは少ない。君はベルフォレストという町で鬱屈した思春期を迎え、通称リフと呼ばれるスポーツに熱中する、十四歳という年齢を加味したとしてもどことなく幼く感じられるごく平凡な少年であるだろう。世界を救ったといわれるかの英雄アドロック・サーストンの実の息子であり、彼の部下であるビームス夫妻の養子として退屈だが幸福な毎日を送っていた。あるいは君はワルサワの基地で幼馴染の少女エウレカとともにドミニク先生の下で暮らすやはり平凡な少年だった。だが基地の研究員で君の両親でもあるチャールズ、レイ夫妻の計画に参加したドミニク先生は姿を消し、人類の敵、未知の生命体イマージュの送り込んだ生命端末諜報員だったエウレカは軍によって拉致されることとなる。大切なものをすべて失った君は自分の無力さに打ちのめされながらも、エウレカを取り戻すために努力し軍に入隊、十四歳の若さで最前線へと出向くことになるだろう。いずれにせよ君は宙を目指すことになる。本稿において飛び込むための身振りと書き表されるこの物語の構造に導かれて。

 目を覚ますと僕は保健室のベッドに横たわっていた。そこが瞬時に保健室だと分かったのは僕がもう何度もこの保健室に入ってすぐ左手に二つ並んだベッドのうち日当たりの悪い隅のベッドに寝たことがあったからだった。枕からにおいたつ埃っぽいかび臭さが部屋中に染み付いたアルコール臭と混じりあい、ある種の刺激臭となって僕の鼻奥の粘膜を刺激した。僕が大きなくしゃみをすると囲い閉じられていたカーテンが開かれ、不機嫌そうにむっと唇を突き出した面識のない女生徒が僕を見下ろすように睥睨していた。僕が声をかけようとしてあっと発したのを打ち消すように彼女は写真と一言ふてぶてしい声を発した。先生と私の写真持ってるんでしょう? それ消して。そうかと思った。彼女はあの狐目の数学教師と逢瀬を重ねている女生徒らしかった。僕はなぜ君がそのことを知ってるんだといった。女生徒はどうでもいいでしょうそんなことと舞うように僕に背を向け背後のいつもは養護教諭が使用しているキャスター付きの小椅子へと掛けた。先生は? 僕は訊ねたが、女生徒は何も言わず足を組み怪しげな微笑をこちらへと向けた。先生が言ってたわ。俺にやたら突っかかってくるクソガキがいるって。あなたのことだったのね。僕は憤慨した。俺は突っかかってなどいないといった。あっちが目の敵にしてるんだ。女生徒は軽く床を蹴って座面を回し向かって左にくるりと一回転しようとしておよそ十一時のところで停止した。それは意外なことだった。彼女の体躯からすれば軽々と一周すると思われたからだ。見ると彼女の大腿部は思ったよりも逞しく健康的な小麦色をしていた。皮下の漲った筋肉と脂肪の厚みが手に取るように伝わってきた。黒地のスカートと純白のソックスの間にそれは触れれば崩れそうなほどの危うい均衡をなんとか保っているように思われた。男ってほんとバカよね。僕はどきりとした。だがその言葉は僕に対してではなく、あの数学教師に対して向けられたもののようだった。先生も先生だわ。どうしてこんなガキを目の敵にするのかしら。僕は馬鹿にされたことよりも数学教師に同じく批判を向ける女生徒に少し親しみを抱き始めていた。男は全員バカなんだと僕はいった。下半身でしかものごとを考えられないんだ。バカねと女生徒はいった。そういうのは男がいっても哀れなだけよ。そうなの? そうよ。ただの自己憐憫よ。ジコレンビン? オナニーってことよ。そういうと女生徒は立ち上がり部屋を出ていこうとした。僕は慌てて待ってくれといった。どこに行くんだ。どこって帰るのよ。それもそうだと思った。僕はなぜか必死に女生徒を引き留めるための言葉を探していた。端的に僕はもっと彼女と話をしていたかったのかもしれない。僕は僕を保健室まで運んでくれたのは君かと訊ねた。いいえ、私はあなたが大きなくしゃみをしたときにちょうどここへ訪れただけよ。そうだったのかと僕はいった。ならば透が? だが彼女が一人で僕を屋上から一階の保健室まで運ぶのは容易ではないはずだ。もういい? 女生徒は少し苛立った様子でいった。ごめん、急ぐ用でも? 彼女は心底うんざりした様子で親指を背後の窓辺に向けた。降るでしょ、雨。これから。僕は窓の外に目をやった。空模様は見えなかったが辺りはえんじ色に輝き見事な夕焼け空であろうことは想像に難くなかった。これから雨が? 本当に? 僕は尻ポケットからスマホを取り出し天気予報を確認した。確かにそうみたいだ。でしょ? じゃ、帰るから。女生徒の姿が再び見えなくなろうとしたところ僕はあっ! と声を発した。今度はなに? 女生徒が呆れた表情で僕を見た。君はなぜ保健室に? 女生徒はわずかな動揺を表した。何ってまあそのと口ごもって少し逡巡した後、仕方なく白状するといった風にあなたから写真を奪おうと思ったのよといった。ああ、あの数学教師との? そう。当然でしょう? 私はともかく先生にとってあの写真はまずいものなんだから。そこでベッドの向こう側に備えられている教職室とつながる扉が突然開かれた。その恰幅のよさから一部生徒にはメスゴリラと揶揄されている養護教諭が離れていても思わず顔をしかめてしまうほどの濃いコオフィのにおいをむんと漂わせ入ってきた。養護教諭は出入口に立っていた女生徒をみとめると一瞬小さな驚きを表したが、女生徒の視線に促され僕をみるとすぐに教師然とした表情に戻り女生徒に向けて何か用? といった。女生徒が小さくいえとこたえると養護教諭はそうといい部屋の中央で投げ出されるように放置されていたキャスター付きの椅子を定位置である事務机の前までゆっくりとした動作で押し戻し掛けた。もう一度女生徒の方へと視線を戻すと彼女は忽然と姿を消しており、僕は場違いな静けさのなかどうしたものかと養護教諭の横顔とグラウンドの方を交互に見やるしかなかった。あなたは何か用? 養護教諭が僕に目もくれずいった。いえ、そのと口ごもっているとここは自由に寝ていい場所じゃないわ。用がないなら早く帰りなさいと彼女は僕を突き放すようにいった。僕は少しむきになり、屋上でいつの間にか意識を失ってここに運ばれたようなんです。ちょっと混乱していて…… と大袈裟に頭に手をやって病人の振る舞いをした。養護教諭は僕を一瞥するとじゃあ落ち着いたらすぐ帰りなさいといった。今日はこれから雷雨よ。僕は石鹸のにおいはするが清潔感はまるでない白い枕に顔をうずめしばらく眠ったような気がした。養護教諭が時折乾いた紙にペンを走らせたりパソコンのキーボードを叩いたりする音を心地よく思っていた。それをいつまでも聞いていた気もするし、どこからか夢の中だったのやもしれない。僕が目覚めたとき養護教諭の姿はどこにもなくそれどころか学校中からあまつさえ町全体から人の気配が消えたように感じられた。ふとみるとつい今しがたまで見事なえんじ色に輝いていたはずのグラウンドの風景は暗澹とし、窓にしぶきを吹き付けるほどの強い雨がもうしばらく前からそうだったように降りしきっている。僕は誰かいないかと声を発した。声はもぬけの殻となった校舎中にあっけなく反響した。僕は保健室を出てそれから校内のありとあらゆる扉を開いて誰かいないかと声を発し続けたが定めしそれが徒労に終わることもわかっていた。僕は自分が夢を見ていることを薄々ながら了解し始めていた。

 物音が上階から反響した。それは僕を導くことにしか機能していなかった。物音が鳴るから僕は上るのではなく、僕が上るから物音は鳴るのだった。僕は階段を上りながら屋上で待つ透のことを思った。透は僕の初恋の人だった。名前はツバキちゃんといった。もう顔もよく思い出せず口を交わした記憶も曖昧で彼女のことは僕の中にほぼ存在しないに等しいが、にも関わらず僕はツバキちゃんのことをよく憶えていた。おそらく僕は「ツバキちゃん」という名前と曖昧な記憶からありもしない思い出を捏造していたのだった。それが悪いこととも僕に殊更特徴的な行為とも思えなかった。ただほとんどの人たちが日常に忙殺され自然と忘れてゆき執着をなくしていくのに対し、僕はあまりに自意識過剰で神経衰弱で無職で、つまり僕はあまりに暇で新たに得られる情報量が少なかったので、過去にこだわるしかなかったのだと思われた。

 屋上に出ると聞こえもしない蝉の声が耳障りなほど聞こえてきそうな青い空だった。や、待ってたよと透は声音とは裏腹に物憂げな表情でフェンスの向こう側に立っていた。危ないよと声をかけるとだったらもっと冷静さを欠きなよと透は挑発的な微笑――それは彼女らしからぬものだった。ところでここでいう彼女とはいったい誰のことを指すのだろう。――を浮かべた。これは夢なんだろと言おうとしてそんなつまらないことを話しに君はここへ来たの? と遮られたので僕らに話すべきことなんてあるのかと言い直した。それもそうだね。透は両腕を横に広げトランプのカードのようにパタリと音もなく向こう側へと倒れこみ姿を消した。

 Look if you like, but you will have to leap.

「ぼくは追いつめられ、どんづまりでふるえていた。お好きなように、見るのもいいですよ。でも跳ばなくちゃならないことになりましょうな」

 僕は今まさに高みから地上を見下ろしその心地だった。

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RENTON はまたに @samusugiru

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