ボディソープ

緋雪

私がほんとうに欲しいもの

「あ、お帰りなさい。帰ってたんだ」

 着替えもせずにソファに座り、スマホをいじっていた夫に言う。

「ああ、うん。仕事先が近くでね。直帰させてもらった」

「そう」

 私は買い物してきたものを冷蔵庫に入れる。

「今日は買い物、遅かったんだね」

 夫が着替え始める。

「うん。友達からランチのお誘いがあって。ちょっと話が長くなっちゃって」

「そうか」


 私も家着に着替える。


 ねえ、匂わない?

 石鹸の香り。

 わざわざボディソープで洗ってきたのに。

 こんなに傍で着替えているのに。


 ソファに無造作にかけられた、あなたのスーツ。クローゼットに掛ける前に、抱きしめるように匂いを吸い込む。

 あなたの匂い。

 絶対的に、あなたの匂い。



「さくら、次はいつ会ってくれる?」

「ごめんなさい。もう会えない」 

「なんで?」

「良くなかったから」

「……」


 無言のまま服を着る男をよそに、私はシャワーを浴びる。ボディソープをつけて、男の、他所よその男の匂いを完全に流す。



「いずみ、次の金曜日、会えないかな?」

「会わない」

「え? 都合が悪い?」

「ううん、あなたとの相性が悪いみたい」

「……なんだよそれ! ふざけんな!」


 男はバサッとホテル代をテーブルの上に叩きつけると、先に帰ってしまった。私は、バスルームでしっかりと男の匂いを消した。



 こうやって、いろんなサイトで知り合った男に抱かれる。真っ昼間から。たった一度だけ。名前も何もかも偽って。お金を貰うわけでもあげるわけでもなく。

 だけど、他の男にも、他の男とのセックスにも、軽々しい火遊びのスリルにも、興味はない。


 私はただ、夫に、私の秘密に気付いてほしいだけ。疑ってほしいだけ。そんな疑いを振り払って、私をあなたのものだけにしておいてほしいだけ。


 温かい部屋、温かい食事、温かいあなたの笑顔。全て満ち足りた時間。

 そう、そこにセックスがないこと以外は。



「ねぇ……」

 あなたの枕元に滑り込んだ途端、あなたは私に背を向けた。

「疲れてるんだ」

 そう言って。


 あれはもう1年も前のこと。


 私は、自分が「淫乱な女」だというシールを貼られた気分で、そこから二度とあなたのベッドには行けなくなった。

 


 子供ができにくい身体だと言われたのは、結婚後すぐだった。

 夫はそれでもいいと言ってくれた。二人で楽しむ人生もいいと思うよ。そう言って。


 セックスって、子供ができないから、必要ないからしないものなの?

 狂おしいほど、あなたが欲しくて、一人声を殺して泣く夜もある。



日菜子ひなこ、今日、川口駅の近くにいなかったか?」

 今日は外で飲んで来るからと、遅く帰ってきた夫が言う。パジャマの上は着ていない。タオルを首からかけたまま、冷蔵庫に水を取りに行って、一口飲んでリビングテーブルにトンと置いた。

「川口駅? なんで?」

「西村が、『先輩、奥さん見ましたよ〜』って言ってきて。なんでそんなところにいたんだろうと思って」

「ううん。行ってないよ。人違いだよ」

「だよな。西村ったらな、『なんか男の人と歩いてましたよ。彼氏だったりして?』なんてからかうからさ」

「じゃあ絶対違います! って西村さんに言っといてね」

 ふくれっ面をしてみせた。

「馬鹿だなあ。わかってるよ。からかってきただけだって」

 夫は軽いキスをしてくる。


 でも……そこから深いキスにはならないし、それ以上期待することは許されない。


 私は汚い女なのだし。

 あなたの匂いと、私の匂いを混ぜてしまいたくても、今の私には、その資格はないの。

 だけど、わざとそうしているのは私。

 私が汚い女だからなのだと、あなたの言い訳を自分で作ってしまいたいだけ。



 川口駅で待ち合わせたのは、自分よりも少しだけ若い男性だった。綾子あやこさんは若くて綺麗だね。こんなに肌もすべすべで。

 沢山沢山褒めて抱いてくれた。少し嬉しかった。でも、彼もあなたではない。情事のあと、適当なことを言って別れた。

 川口駅の近くのホテルのボディソープは、意外にも高級感のある香りがした。



 洗剤を買いにドラッグストアに行く。そう言えば、夫がシャンプーを切らしたと言っていた。詰替え用をカゴに入れた時、隣の棚に新商品のボディソープを見つけた。手前にあった小瓶で香りを確かめる。いい香り。気持ちを優しくくすぐるような、それでいて癒やされる感じ。私は、それをカゴに入れた。

 あなたが喜んでくれるといいのだけれど。……そして……。ううん、期待すると、きっと辛い思いをする。



 家に帰って、買い物したものを整理しているところに夫が帰ってきた。


「あ、早かったね。ごめん、ご飯今から作るの」

「いや、いいよ、ゆっくりで。ちょっと疲れてるから、暫く横になる」

「大丈夫? どうしたの?」

「いや、ちょっとね、久しぶりにバタバタ忙しかったから」

「そう」


 私は脱ぎっぱなしにされた夫のスーツを拾い上げて、クローゼットに吊るす……前に、いつものように、あなたの匂いを楽しむ。



「……」


 私が買ってきたばかりのボディソープの香りが、ほのかに混ざっていた。


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ボディソープ 緋雪 @hiyuki0714

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