景色だけは最高のカフェ

浅賀ソルト

景色だけは最高のカフェ

俺はホテルの上階でカフェをやっている。最上階というわけではないが張り出したベランダから見る地中海は最高で、客はホテルの宿泊客に限らず沢山の観光客が次から次へとやって来る。わざわざ歩いてホテルに入り上がってきてここでカプチーノを飲んでいく一見さんで溢れている。商売は安定していた。当たり前だがサルデーニャ人はうちの店には寄らない。わざわざ建物の階段を上がるような酔狂な地元民はいない。俺も行きつけのバールは別にある。

潮風の吹く店内に30代の男が一人いた。エスプレッソをちびちび飲んでいる。こんな観光地に一人で来ている。写真を撮ってる気配もない。服装だけはなんとかバカンス風だがリラックスからはほど遠く、店内の様子をちらちら見ていた。

入店したときから一人客ということで浮いていたが、いまとなっては普通の客じゃないと俺は確信していた。

そいつが見ているのは別のテーブルのカップルだ。サーブのジョゼッペと会計で言い争いをしている。会計で言い争いになるのはバカンス中のうちの店の日常風景だ。

このバカンスに入る前、俺はジョゼッペとバカンス料金についてちゃんと話し合い、取り決めを作っていた。

客のほとんどはうちの店をちょっと高級なスターバックスと勘違いしている。カフェラテやカプチーノにココアパウダーを振ったりシロップを入れたりといった注文に需要がある。そういうサルディーニャ人が頼まないような追加メニューには5ユーロとか10ユーロとかいう価格設定をしている。

店頭に立て掛けておくメニューの黒板をカウンターに置き、チョークを手にジョゼッペと相談をした。

スターバックスなら無料な、ココアパウダー代の5ユーロやシナモンパウダー代の5ユーロをジョゼッペと山分けにすることで合意している。観光客は会計に納得いってなくてもジョゼッペにチップを払う。しかし払わない客もいて、そうするとジョゼッペとしては不本意であるからその山分けで帳尻を合わせている。こちらもわざわざ時間を使って説得してサーブ代を絶対に払えといって揉めるような真似はしない。サービス料は別途5%追加で明細に含めている。だからジョゼッペも穏やかに接客できる。

黒板を前に相談しているとジョゼッペが笑いながら、「キャラメルソース20ユーロはやばくないか?」と言った。

「いや、ここは強気に行こう。エスプレッソで10ユーロだ」

「そこは観光地価格としては妥当だけどさあ」

「カフェマキアートで50、カフェラテも50。サルデーニャならエスプレッソ以外は飲むな」俺は笑いながら言った。

「キャラメルマキアートなら70ユーロ(最近の為替で1万円以上)か。さすがに会計で揉めそうだな」

「大丈夫大丈夫。みんな気持ちよく払うさ。ちゃんと料金はメニューに書いておく」

黒板にはバカンス料金になっていますとちゃんとイタリア語で明記した。

カフェマキアート50€とチョークで書く。5ユーロでもまあまあ高いのだが——とはいえサルデーニャでは観光客相手の料金を明記しておいて、知り合い用の料金は店員に聞かないと分からないことの方が多い——ここで0を小さく書けば、5ユーロなら観光地としては妥当だと思う設定だ。俺とジョゼッペは0の大きさについて笑いながら何度も書き直した。滅茶苦茶大きく書いたり、逆に小さく書いたり、肩付にしたり下にぶら下げたり。このバカンスのシーズンに俺たちは荒稼ぎをする。次の年にはまた何も知らない馬鹿がご新規の一見さんとしてやってくるという寸法だ。こんな風にあーだこーだ言いながら黒板を書いていくのが一番楽しい。

シーズン中の紙のメニューはジョゼッペの自作だ。プリントした紙を厚紙に貼ってそれっぽく仕上げてくれる。毎年料金をいじるのでその制作に金をかけるのも馬鹿馬鹿しい。

「毎年すごいが、今年のバカンツェは格別だな」ジョゼッペは完成した黒板を見ながら愉快そうに言った。

「コロナもなくなったからな。今年は客が来るぞ」

俺はバカンス前にそう言ったものだった。期待でずっと笑っていた。

そして迎えたバカンスは期待通りだった。次から次へと客が来て、カフェと最高の景色に50ユーロや100ユーロを払っていく。笑いが止まらなかった。

現在、店の中央の席で大声を出しているカップルも期待通りの客の一人だ。

「どうして二人でカフェを頼んだだけで150ユーロもかかるんだよ」

「お客様、こちらはサルデーニャで最高の景色が見える最高のカフェでございます。ここより眺めのよい場所はございません。料金にはそれらが含まれてございます」

「こんな小さい0が見えるかよ」男は恋人の前でイキっていた。

「目が悪い人にはこの景色は不要でございましょう」ジョゼッペは静かに目を伏せる。

俺はジョゼッペの接客にニヤニヤ笑ってしまった。こういうやり取りを聞いていると、これこそまさにイタリアーノという気がしてくる。愉快でたまらない。

そうやって見ていると嫌な気配がしてさっきの一人客の方を見た。スマホの動画でこちらを撮っている。俺に気づいて慌てて引っこめた。

ちっ。

ネットにあれこれ色々すでに上がっていて話題にもなっていた。うちの店のレビューの星はそんなによくない。しかしあまり気にしてもいなかった。

料金はちゃんと示している。ジョゼッペの接客も問題ない。サルデーニャのサーブとしては普通だ。そして出しているものだってちゃんとしたものだ。俺はバリスタとして最高の仕事をしている。料金は高い。しかし、文句をつけられるところは料金だけで、味とサービスが悪いわけではない。高いだけだ。

何よりどんなレビューがつこうと観光客は次から次へとやってくる。観光客にも選択肢がある。もうちょっと眺めが悪い店で130ユーロで済ませるという選択肢が。

結局、そのカップルの男は舌打ちをしながらクレジットカードを出し、伝票にサインをして女と一緒に出ていった。

アジア女の3人客がすぐに入ってきてその席を埋めた。

俺は男の一人客を見た。スマホをいじっている。何かを記録しているように見える。いじっているのも書き込みをしている感じだった。綺麗な俺の店で、そいつの座っているところだけが淀んで見えた。

「ジョゼッペ」俺は言った。

ジョゼッペは店の奥から客の様子を見ているところだった。目が合った。

俺は客の男の方を見て顎をくいと動かした。

ジョゼッペは頷き、俺に近づいてきた。「俺も気になってた」

「観光客じゃないな」

「ライターか何かじゃないかと思う。生配信をしている様子はない」

「追い出せるか?」俺は低音で聞いた。半分は質問だが、残り半分は『追い出せ』という命令だった。

「どうかな。いいエサになるんじゃないか」ジョゼッペは乗り気じゃなかった。「向こうももうやる気だから何をしたって無駄だろう。それよりもパーネでも出してやった方がいいと思うな」

「一人にサービスしたらキリがなくなる」俺はきっぱり言った。反論は条件反射だった。

「もちろんあえてだよ」

ジョゼッペとの付き合いは長い。サルデーニャで観光客に無用なサービスをすることのリスクを知らないわけではないだろう。俺がそのリスクを知っていることもジョゼッペは知っている。それでも今回はサービスをしてやったらどうかと言っているのだ。

俺はジョゼッペの顔を見た。ジョゼッペは『分かるだろ?』という顔をしている。だが俺は分からなかった。しかしジョゼッペに『どういう意味だ?』と聞くこともできなかった。聞いたらナメられると思った。

俺は一瞬で二択を迫られた。理由も分からないままジョゼッペの助言に従ってあの男にサービスをするか、それともつっぱねるかだ。こういう状況で人が選択するのはこっちだろう。

「いや、何もしなくていい。あんな奴にサービスをする必要はない」

ジョゼッペはそれ以上、俺を説得はしなかった。「そうかい。まあ、そっちの方がいいかもしれないな」そう言うと離れてサーブとしての定位置に戻った。

俺のハッタリがバレた感じはしなかった。俺にも何か考えがあると解釈してくれたんだろう。

俺に何か考えがあったわけではない。しかし、店でこそこそ撮影しているような奴にどんな計算があってもパンをサービスしてやる気持ちにはなれなかった。

ジョゼッペはおかわりや汚れの拭き取り、会計など、そのあとの時間も各テーブルを回って自分の仕事をしていた。

アジア女はカップの写真を撮り、海の写真を撮り、カップを持って海を背にする自分たちの写真を撮った。

男はジョゼッペに会計を頼んだ。ジョゼッペは伝票を持ってそちらに向かった。男は滞在中にほとんど景色を見ていなかった。会計のたびに何か揉めないかとあからさまにそちらを観察していた。

ジョゼッペと男は二言三言の会話をしたが、会計の会話以上のやりとりの気配はなかった。質問があればもっと長いやりとりになっていたはずだ。料金を伝えてそれを承諾するだけの短い時間だった。男はクレジットカードで会計を済ませていた。カフェラテ50ユーロだ。

席を立つ。椅子の背に置いた鞄を手に取った。店内をぐるりと見回す。

ジョゼッペは男の席のカップの片付けをしていた。

男は俺の方を見ると、真っ直ぐこちらにやってきた。

めんどくせと思ったが俺はその場でじっと男が近づいてくるのを待った。

こつこつと男の足音が近づいてきた。男は確かに30代で、おそらく北イタリアの人間だった。リゾートらしく上着を崩して羽織っている。ほとんど茶色に変わってきているブロンドの短髪。垂れ目で口元に妙な笑みが浮かんでいる。愛想笑いのつもりかもしれないが、悪意が隠せてない。

「どうもこんにちは」男はパンツのポケットから無造作にパスケースを出した。「CNNのアントーニオです」

「CNN?」大物が来たな。俺はパスの中を見たがよく分からなかった。写真は本人のものだが。

「カフェラテが50ユーロでしたが、この料金設定の理由をうかがってもよろしいですか?」

「ここは最高の地中海が見れる場所だ。料金にはそれが含まれている」

「しかしお客は納得していないのでは?」

「ちゃんと表に料金は出している。それで文句を言われても知らないよ」どうしてもしっしっとあしらいたい気持ちが出てくるが、俺はそれを抑えた。

「なるほど。この会計によってせっかくのバカンス気分が最悪になると思いますが、それについてはどう思います?」

「ははっ」俺は笑った。「サルデーニャは常に最高だ。ここの最悪な気分はミラノの最高の遥か上だろう」

「なるほど。ありがとうございました」

男はそのまま出て行った。ずーっと見ていると離れた位置でやっとポケットに手を入れて何か操作していた。録音を止めたのだろう。それから振り返り、こちらに大きな声で「チャオ」と言った。

「チャオ!」俺も手を振った。

ジョゼッペが近づいてきて、「危機一髪だったな」と言った。

俺は言った。「別に。どこの店でもこのシーズンの会計は似たようなものさ」

実際に報道を見たが、俺の店が名指しで批判されてはいなかった。みんなそうなら、バカンスというのはそれが普通なんだ。

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