青い呼吸
千羽稲穂
ふざけんな。
他人を見下すな、とコメントが流れて目で追ってしまった。長文は読まない、らしいから、長文失礼します、と枕詞がつくようになった。動画の外膜をなぞる、人間の容赦ない感情を滝のように浴びて、全て身体に叩きつけていた。
それがプール開き前夜のこと。プールの水着に着替えて、シャワーをみんなで浴びているときに、なぜか言葉が降ってきた。コメントは横から流れてくるのに、キャーキャーとした黄色い声は私の肩を重くさせた。コメントの重さと水の重さは同じに感じる。透明で柔らかで、口にすると息が詰まる。たっぷりと詰まった水に入る体育の時間は苦行だ。しかも、入るのに、自分の肌を晒さなければならない。
私、そのもの。身体のラインがはっきりと見える、水着。そして、なぜか、そのそのものを見て評価する。肌の白さ、毛の濃さ、陶器のような美しさ、胸の膨らみ。それらをプールに投げて、上手く泳げるかどうかを審査される。クラスメイトの女の子たちは、恥ずかしがらない子をいやらしく見るし、見せる女の子は男の子にもてはやされる。どの性の目覚めも気持ちが悪かった。水のなかで息を止めて一生浮かび上がらなくなりたい、なんてそんなことも考えてしまう。
かつてプールで溺れた事件を見たことがあった。毎年何人かはどこかの学校では子どもが溺死している。そのたびに監督官の先生がプールの中に飛び込んで、子どもを引き上げる。が、間に合わず、そのまま亡くなってしまうこともあった。
私は、かつて目の前で溺死寸前になった子どもを見たことがあった。必死に人工呼吸をする担任。救急隊が駆けつけるまで早かった。あっという間に彼は運ばれて、あの鬼気迫る場面は嘘のように霧散した。
彼はその後、学校には来なかった。
重い後遺症が残ってしまい、意識が戻らず、植物のようになってしまった。おそらく、あらゆる管で繋がれて、今も重苦しい息を吸って、吐いてと繰り返している。
そんなことを噂伝で聞いた誰かの言葉が、今も私に刻みつけられている。
不幸中の幸いだったね。
ホイッスルが鳴った。
プールサイドから、生徒がプールの中へ順々に入っていく。鉄板のように熱いプールサイドから逃れようとみな、次々に足を通す。
ちゃぷっ。ちゃぷ。ぴちゃぴちゃ。ちゃぷ……沈んでいく人達。揺れた水面は塩素の匂いをわきたたせる。鼻につく、匂い。透明な水底は、逆に浅くも見えた。
私も足を伝わせて。
ちゃぷ。
足先、ふくらはぎ、太もも、お尻と水面を伝わせていく。全身を滑り込ませると地面に足がつかなかった。
あえなく、私は頭の先っぽまで水面に達してしまい、ぶくぶくと口から泡を吐く。息が出来ない。もがき苦しみ、口から水泡が何個も泡立つ。
かすっかすっとつま先が水底をかすった。水が鼻から入り、次に口いっぱいになった。苦しくて、手をばたばたと仰ぐ。何処にも捕まるところなんてない。水の無音に交じって、コメントの濁流が差し迫った。
もし、ここで溺れてしまったら。植物のように管を伝わせて、目だけをぱち、ぱちと開閉させる、私になってしまうのだろうか。
誰かに介護を強いる一生になってしまったのに、「でも、生きててよかったね。不幸中の幸いだね」と笑いかけられるのだろうか。「危機一髪をくぐり抜けたから、後は幸せだけだ」とか、勝手なコメントを繰り広げるのだろうか。そして、そこにまた違う感情という暴力の応酬が待っている。
私は、プールの水底にべた足をつけてぐっと押した。バネのように上へ到達する。顔を水面にだして、口から呼吸を入れた。
ふざけんな。
と、言ってやりたかった。
青い空は何処までも清々しく、息が新鮮に感じた。
青い呼吸 千羽稲穂 @inaho_rice
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます