イコウヨーみえぬ誘う相手

神稲 沙都琉

第1話

そろそろ街灯がつくか、否か微妙な暗さ。明るくはないが暗くもない。

車のヘッドライトもつけるのを少し躊躇くらいの明るさ。


そういった薄暗い中を懸命に走っている。オマケに霧が視界を遮っていてどういう場所なのかもわからないが走り続けている。


走っている道も、濡れた粘土のようにヌルヌルとして実に不快と思うが気持ちとは反して足が止まる気配はない。


『ハヤクハヤク』


前を走る子は私の左手首をシッカリと握っていて離さない。

手をつなぐ、ではない。

まるで、手首を絞め殺さんといわんばかりの力で強く握ってくる。


決して離すものか、という意思の表れか。


走っている。


走っている。

ずっとずっと。

手を握られたままで。


前の子は何かをずっと話している。

何かは分からない。すぐ前なのに。

ただ、ハヤク、だけは聴こえる。


ハァハァ、ハァハァ。


互いの息遣いだけが世界を支配する。

私の左手首を握っている手は肘の少し上までは見えている。


だが、それ以上のものは何故かみえない。手をのばせばすぐそこなのに…。


『ハヤクハヤク』


何処へ行こうとしているのだろうか。

何処からきたのか。

頭の中まで霧で満たされたようでボンヤリしている。


喉が乾く感じもなければお腹がすく気配もない…。


気味の悪い何かがジワリと頭を持ち上げてくる。


『やっぱり嫌だ。怖い。行かない』


唐突に恐怖心に支配される、心。


『コワクナイヨ。モウスグダヨ』


嫌だ!怖い。アナタは誰?


『ドウシタノ?ヤクソクシタ。モウスグダヨ』


優しい声で語りかけてくる。

幼子のような、青年期のような、柔らかい女性の声で心を包み込むように。


だが。

左手首はシッカリ握ったままである。


『疲れたよ。もう行きたくない』


違う。疲れたわけじゃない。すごく怖いのだ。身体の芯から凍りつくような怖さ。貴女は誰?私を何処へ連れて行こうとしてるの?


『ヤスムトマニアワナイ。ハヤク』


『どこへ?』


『ミンナガマッテルトコロ。ズットタノシイダケノトコロ。コワクナイ』


大丈夫、大丈夫と呪文のように繰り返す。静かに、恐怖心が何処かへと消えていき再び頭の中が霧で満たさたようにボンヤリとしてくる。


そうだったね。行かなきゃ。

行こう。

再び走りだす。


それからどのくらい経ったのか、時間の感覚も曖昧なくらいにただ走っていた。


辺りはまだ薄暗いまま。暗くもならず明るくもならず。ずっと薄暮の中をただ走っている。


いや、本当に走っているのだろうか。

風景がなんら変わらないからそれすら危うくなってきた。


何処から、何処へなんてもうどうでもいいやと思いだした頃、岸に着いた。


時代劇に出てくるような木の小さなボロい舟がそこにあった。


『ノル』


私が舟に乗ろうと足を出しかけた…。


『乗るなっ!乗っては行かん』


見知らぬおじいさんが叫ぶ。


『戻れなくなるぞ、いいのか?』


『ダイジョウブ。シンパイナイ』


掴んでる手が更に強く引っ張る。


『ドウシタノ?イコウヨ』


優しい声とは裏腹に強く強く引っ張られる。


『水に触れても同じだぞ』


桟橋へと足をかけようとしていた。


『その桟橋にのった途端にみな何処かへと消えて行った。霧のようにすうっと消えていったわ。舟にのった姿は誰一人みてはいない。だが』


一人消えるたびに霧が濃くなっていくんだよ。


おじいさんの哀しみを含んだ声は私の心を激しく揺さぶる。


『ナニヲマヨウッ!ハヤクコイッ!』


あんなに優しかった声が暗転する。


幼い子供のような柔らかい声から洗いざらした古いゴワゴワの布のような、しわがれた老婆の声に。


『お前の手を掴んでるヤツの姿はどう見えているか?』


そうなのだ。少し離れた場所のおじいさんはちゃんと見えてる。おじいさんの隣にいる小さな女の子もはっきりと見えている。


だけど…。


『周りはどうかね?』


更に念押しするように問う。


ここまできてはじめて周りの風景に違和感を感じる。


凄く寂しい場所だ。


荒れ果てた公園がある。壊れたブランコ。所々、階段がサビ落ちた滑り台。

穴のあいたシーソー。


公園があるのに家が全く見当たらない。


生きているモノの気配が全くしない。


そして、再び目の前のものをみる。


川、なのか?



そして……。


ソコからたちのぼる、牛乳が腐りきったようなニオイ。ドブ川のニオイなんて生易しいモノではない。


『やっぱり行かない。やめとく』


きっぱりと私は断る。

もう、迷うことはない。

行かない、それだけを告げる。

掴んでいた手がスルリと離れた。


『何故、いつもオマエはワレの邪魔をするのだ。何度も何度も…』


深い海の底を思わせるような、魂の芯が凍りつくような声はおじいさんへ向けて叫ぶ。

そして私にこう告げた。


『次は必ず』


そこで目が覚めた。


本当に夢だったのか…。

気分を変えようと布団をはぐろうとしたとき何気なく左手が目に入る。


まるで焼き付けたかのように手首にくっきりと手形がついていた。


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