郵便局に行こう

粘菌

郵便局に行こう

 じいちゃんは言っていた。

「本当にやばいとき、視界がスローモーションになるんじゃぞ」


 ばあちゃんは言っていた。

「わしの人生で一番やばかったとき? んー、結婚式やな。途中でうんこ出そうになってな」


 俺は先人たちの教えに感謝していた。いま、俺の視界はスローモーションに見えており、恐ろしいほどの便意に苛まれている。しかしながら、便意が俺の視界をスローモーションにしたわけではない。

 さっきまで俺は、土曜のお昼前の公園、こどもたちがたくさん遊んでいる割と大きめの公園にいたはずなのだ。

 かくれんぼをしている女児。サッカーをしている男児。

 それに混じって、草野球のユニフォームをまとったオッサンが3人。


 便意に耐えてふらふらと歩いていたのがいけなかったのか?

 それとも、ただ俺の運が悪かったのか?


 どちらでも構わない。

 ひとりのおっさんが、もうひとりのおっさんにボールを放り投げた。

 そのおっさんは金属バットを持っていた。

 おっさんはハッスルしながらフルスイングした。


 真実はそれだけだ。

 

 それと、俺の便意と、いま、ものすごい勢いでボールが飛んできている、その事実だけだ。

 それも、一直線に、俺の顔をめがけて……糞みたいな弾丸ライナーです。


 閑話休題、スローモーションだ。コマ割りみたいに見える。

 ゆっくりと近づいてくるボールを避けるべく、俺はすこしづつ顔を動かした。空気抵抗でゆっくりしか動かないように感じる。

 じんわり、じんわり、顔が動いていく…俺の目はボールをみつめたまま。


 そして、ぎりぎり避けられたかな……? というところで、音を立ててスローモーションは終わった。


「チッ!!」


 そんな音を立ててボールはほっぺたをカスり、俺の後方に飛んでいき……


「ゴッ!!!!」


 嫌な音がした。

 どたん。近くで、何かが倒れる音が続いた。


 もう、嫌な予感しかしない。

 意を決して振り向く。案の定、俺の後ろに女性が倒れていた。


「大丈夫ですか!?」


 言いもって、女性に近づく。

 意識がない。ぶつけたのか、後頭部から血が出ている。

 呼吸はある。まだましか。


「お前ら……!!」


 振り返ったが、ユニフォームの糞どもは消えていた。目の端に走り去っていくおっさんが見えた。


「ああああああああ!!! くそがよ!!!!」


 大声で怒鳴るが、おっさんはもう走り去っていった。


「うっ……はぁ……すみません、大丈夫……です……」


 大声の衝撃で、女性が起きた。よかった。


「あたま、痛くないですか、病院に……」

「……いえ……いえいえ!! 病院の前に、どうしても行かなきゃいけないところがあるんで……」

「いや、あなた、頭から血が出てますよ!?」


 だらだらだらだら血が出ている。

 どこに行こうというのだ。


「いえ、どうしてもこれ、郵便局に出さなくちゃいけないんです」

「……郵便局?」

「……就職活動の課題でして……」

「締切は?」

「え、ええ、明後日必着で……」

 

 大きめの封筒、宛名をちらりと見る。

 ……あの、京都……の、会社、です……な……。


「……あああああ!! 今日の午前中がぎりぎりやないですか!!!!!」


 時計を見る。11時45分。

 やばい。あと15分。

 そして、大声の衝撃で、俺の便意が復活した。

 やばい。ぽんぽんがぺいんでやゔぁい。


 あっ⭐︎!


「あああ、もう……⭐︎……ギリギリやないです……かぁ……」


 ダブルミーニングになった。


 公園の奥には割りに綺麗な事務所があって、事務所には割りにこましなトイレがあるのだ。


「ギリギリなんです……いてて……」


 貴様。ちょっと可愛いからってそんなアピールをするな。足をさするな。動かせないのか? 俺は周りを見る。多少群がっていた大人も子供も、みんな蜘蛛の子を散らすように逃げていった。


「動かせなさ……そうですね……」


 おれも肛門が動かせない。なるべく腸を蠕動させたくない。


「ええ……」


 潤ませた目で見てくる女性。可愛い。たぶんこいつは可愛い。平常時に見たらきっと、可愛い。だが、俺の腹は決して平常時ではない。緊急時だ。


 やばい。


「すこし、お願いが……」


 やばい。腹が、やばい。

 やばくなりそうでやばい。


「いや、ちょ」

「お願いします!」

「ちょ、ま」

「どうか、私を郵便局まで……」


 聞きたくなかった。聞きたくなかったので、俺は見ず知らずの女性の口を手で塞いだ。唇の感覚が手に当たる。だが、便意は全てに勝る。美人の唇なんぞ糞の役にも立たんのだ。


「走りましょう」

「もご、もご、足が……動けなくて……」

「ええい!!!」


 俺は女性を抱き上げようとして、この態勢が肛門に悪影響だということに気づき、女性を背負う形に切り替えた。

 女性は面食らったようだった。


「えっ、えっ」

「しょうがないんです。面識のないあなたにするにはなんかいろいろと問題がありそうですが、私にも抱えている問題があります。あるんです。ですので、しょうがありません。運が悪かったと思ってください」

「運、ですか」


 うんとかいうな。もう限界なんだよ。

 俺は震える足に檄を入れて立ち上がった。


「郵便局まで、うう、は、走りましょう」


 §


 郵便局までの道のりはとてもハードだった。

 女性はそれほど重くなかったが、一足一足振動が腸にダメージを蓄積させてくる。

 リミットブレイクは間近だ。


 女性も頭が痛いのか、「うう……」とか、「ああ……」とか言っている。


 普段なら悩ましいが、今の俺には逆効果だ。

 胸が当たっている。セクハラクセェ。そうだよな。でも、今の俺にとっては、俺の肛門が終わるのが先か、俺が社会的に終わるのが先か、それぐらいの差でしかない。しかも、どちらにせよここは見知った街中だし、俺は社会的に終わるのだ。


「もう……少しですよ……」


 正午まであと8分。

 距離にしてあと10メートルぐらいで郵便局に入れる。おれもトイレに行ける。脂汗が噴出する。


「君たち、ちょっと話を……」


 今にも入ろうとしていた時、誰かから声をかけられた。ポリスメンだ。


「いえ、ちょっと時間がなくて」

 と言って郵便局の中に進もうとしたら、ポリスメンが進路に割って入ってきた。

「まだ、お昼前ですよ。何か焦っておられるんですか? 後ろの方の顔が、あまりに悪い。血が出ておられます。大丈夫ですか? 事件ではないですか?」


「大丈夫……です……」


 女性が答えた。

 

「お、お願いですから、そ、そこをどいてください」


 そうだ、そうだ。どいてくれ。

 思ううちにまた脂汗が出る。

 足が、震える。しぜんと内股になる。


「もう……限界が近いんです……」


 汗が一筋、コンクリートの床に落ちた。


「限界?」

「ええ、限界です」


 女性が震える手で封筒を差し出した。

 

「これ、いますぐ出さないと……」


 ぐぎゆううううううう。

 変な音がした。


 やばい。

 もうあかん。


「そ、そうで、お、俺も、はやく、だ、出さないと、もう大変なことに、な」


 ぐぎゅうううううう。

 もう、あかん。

 

「俺は!!! もう!!! 限界なんだよ!!!」


 俺は全力で叫んだ。

 叫びながら、俺はポリスメンにタックルした。

 女性を背負ったまま。

 その勢いで女性はがつん、とロビーに投げ出された。くずおれる女性。その後頭部は血だらけだ。


 さっきまで平和だった郵便局の窓口が、一気に修羅の国になった。


「ヒッ!!!!」


 窓口の女性が引き攣った声を上げた。


「出せ!!!!! (トイレは)どこだ!!!!!!」


 俺は窓口に近寄り、大声をあげた。目の端で、女性が震える手で封筒を持ち上げたのを見た。強い女性だ。さっき倒れた警官が走ってきて、女性から封筒を取り上げた。


 窓口の奥の職員が動くのが見えた。ブザーを押したのか、防犯ベルの音がジリリリリリリリリリリリと鳴り響く。俺は、震えながらあたりを見まわし、トイレを探した。ぐるりと背後を見た、その時、どかん、と爆弾ちゃうか、と思うぐらい、もうなんかとてつもないデカさの衝撃が背中に走った。


「確保ォーーーーー!!!!」


 背中から聞こえた声は、確かにポリスメンである。俺はあっというまにうつ伏せに倒され、上からのしかかられた。逮捕術か、背中から柔道的な技で締められてしまい、手足が全く動かない。


「やめて!! やめて!!!! お前ら!!! 出さないと! 大変なことになるんだよ!! 出さないと!!!」

「何が!! 何を出すんだ! 言ってみろ! 金か!!」

「決まってるだろ!!!」

「何だ!!! 強盗未遂でお前を逮……」

「俺のう◯こだよ!!!!!!! あああ、もうあかん!!! 腹が痛い!!! デル!!!」


 トイレはどこなんだよ!!! あそこかよ!!!!

 ぽかんとしたのか、一瞬警官の拘束が緩んだので、必死のパッチで振り払い、俺はトイレに駆け出した。元陸上部の意地だ。

 トイレは男子トイレと女子トイレが分かれており、男子トイレは誰かが使っていたのか鍵がかかっていた。

 四度ほど本気で叩いてみたが、返事がないので、俺は女子トイレの扉を開けてみた。背に腹は変えられないのだ。

 がちゃり、開いた。


 開いた。開いたよ!!!!!


 がばとトイレの扉を開け放つ。ええい!!!

 

 そこには、妙齢の女性がぽかん、とした顔で、便器に座っていた。スマホを触っていた。


 一気に脂汗が引いた。

 しかし、全身が震えている。便意は継続中である。


 俺は、震える声で言った。


「うえ、あ、か、か、鍵、鍵です、あなた、か、かぎかけとかないと、か、風邪、引きます、よ」


 内股で、すっと扉を閉めた。


 俺はもうもはや何を言ってるのかわからない。言葉がゲシュタルト崩壊していく。言葉が、ひらがなに分解され、アルファベットになり、神の言葉になっていく。


 収束する先。

 それは、便意だ。


 全ては便意だ。

 俺は便意に愛を捧げた。

 ラブ。


 そうしたら、あれ、なんか、少しだけ? 便意が引っ込んだ気がする。


 信仰? 信仰なのか?


 再度、便意に愛を捧げる。

 引っ込め。引っ込んでくれ。


 あかん。また脂汗が吹き出てきた俺は、言葉にならない奇妙な詠唱、震えと共に壮絶な貧乏ゆすりを繰り広げていると、かちゃり、と音が聞こえた。


 来たぞ!! その瞬間、俺の感覚がスローモーションになった。全てがゆっくりと見える。

 引き扉が完全に開く前に指をかけ、開くのを加速させる。大学生の男がびっくりした顔で俺を見るが、構うもんか。


 そのまま自分のベルトの金具に指をかけ、がちゃがちゃと外しながら、扉の開いたところからトイレに滑り込む。大学生の脇から流れ込む格好だ。


 大学生がびっくりしてこっちを見る。俺はすでにズボンのジッパーを下げている。


 どん。


 腰で大学生を押し出し、かちゃり、と鍵をかけて便座に座り込む。便器汚ねぇ。関係ない。


 震える身体。


 震える魂。


 生物としての根幹。


 ばあちゃんは正しかった、と思いながら、俺は今日一番の長い息を吐いた。ふうううううううう。

 ほんとありがとう、世界。


 俺は、生涯これほど、世界が愛に溢れているのを感じたことはなかった。打ち震えるほどの愛。しかし、トイレ前のポリスメンの息遣いを感じながら、今後二度とこんな愛はごめんだね、と思った。

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郵便局に行こう 粘菌 @slimemold

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