眠る記憶よ花と咲け

未来屋 環

三浦智佳は思い出す。

 ――その花は、きっとあなたの中にも眠っている。

 ただそっと、いつか訪れる目覚めの時を待つように。



 『眠る記憶よ花と咲け』



 ここのところ2ヶ月くらい、毎日同じ夢を見る。


 今よりちょっと大人になった私は、教室の片隅でつまらなそうに窓の外を眺めている。

 友達とかいないんだろうか、こんな風にはなりたくないな――そう思いながら、今日も私は目を覚ます。


 ***


智佳ともかちゃん、おはよう」


 聞き慣れた声に振り返ると笑顔のみなみがいて、私も笑顔で「おはよう、みなみ」と返した。

 小学1年生の時にみなみがうちの斜め前に引っ越してきて以来、私達は親友だ。

 中学最後の今年は念願の同じクラスになり、お昼休みや放課後はいつも一緒にいる。


「ねぇみなみ、今日のお昼休み何する?」

「やだ智佳ちゃん、まだ朝なのにもうお昼の話?」


 そう言って、みなみはころころと笑った。

 みなみの笑い声は、私には鈴が鳴る音のように聴こえる。

 そんな風に言ったらまた笑われてしまいそうで、本人に言ったことはないけれど。


 ――初めて逢った時から、私はみなみのことが大好きだ。


 少し癖っ毛な私と違って、シャンプーのCMみたいにさらさらでまっすぐな焦げ茶色の髪。お母さんの後ろに隠れながら、恥ずかしそうにこちらを見つめる瞳は茶色く透き通っていて、まるでお人形さんのようだった。


 思えば、私の思い出の中にはいつもみなみがいる。

 お揃いのペンを買ったり、お小遣いを貯めて隣町にクレープを食べに行ったり、生まれて初めてのプリクラもみなみとふたりで撮った。

 大人になっても、私達はずっと親友なんだと思う。



「今日はみなさんに、教育実習の先生を紹介します」


 その日の朝礼は、いつもと違った。

 担任の先生の隣に、見慣れない男の人が立っている。

 真っ黒なスーツに身を包んだその人は、真顔のままでじっと私達を見ていた。


「――さかきです。よろしく」


 先生に促されて、その人――榊先生は落ち着いた声で最低限の挨拶をした後、すっと頭を下げる。

 目付きが鋭くて一瞬怖く見えたけど、その穏やかな仕種しぐさに私はつい見入ってしまった。少しして静かに上げられた顔は俳優さんみたいに整っていて、教室内がざわざわする。


 ――こんな人、いたっけ?


 瞬間的にそう考えてから、ふと我に返った。

 教育実習の先生なんて初対面に決まってるのに――私、何でそう思ったんだろう。

 わけもわからずどぎまぎしていると、ふと榊先生が私の方を向く。

 視線がぶつかり合ったその瞬間、どきりとして私は思わず目をらしてしまった。



「三浦智佳さん――君は、中川みなみさんと仲が良いのか」


 職員室に用事があるから――そう言って出て行ったみなみを待つ私に、榊先生が話しかけてくる。

 思いがけない台詞せりふに驚き、私は席に座ったまま先生を見上げた。


 ――何故、私達の名前を知っているのだろう。


 今、私と榊先生は教室でふたりきりだ。

 運動部の子達のかけ声が遠くに聞こえるけれど――まるでこの世界にふたりで取り残されてしまったみたいで、どう答えればいいのかわからず、私は曖昧あいまいに笑った。


「……そうですけど、何か?」

「――いや、別に」


 榊先生は淡々と応える。

 その鋭い眼差しは何かを見透みすかそうとしているようで――胸の中がもやもやとしたその時、教室のドアが静かに開いた。


「智佳ちゃん、お待たせ」


 そこには、いつものように優しい笑顔のみなみが立っている。

 私はほっとして「みなみ、早く行こ」と即座に立ち上がった。

 そのまま榊先生の方を振り返らず、私達は教室を出て行く。背後に榊先生の鋭い視線を感じたが、気付かない振りをした。



 帰り道、駅近のドラッグストアに寄ってから、行きつけのファミレスでお茶をする。

 ここのドリンクバーは安いのに種類が沢山あって、私達お金のない中学生のたまり場になっていた。今は贅沢できないけれど、高校生になったらアルバイトが解禁になるので、みなみとここでパフェを食べる約束をしている。


「バイト、駅前のカラオケにしようかなぁ。割引特典あるらしいし」

「智佳ちゃんカラオケ好きだもんね」

「ねぇ、みなみは? 何かバイトしないの?」


 みなみが少し困ったように「うーん……そうだね」と眉毛を寄せた。


「決まってないなら、みなみも一緒のお店にしない? 絶対、楽しいよ」


 私の言葉にみなみは「うん、考えてみる」と呟くけれど――その声には張りがない。

 ――どうしたんだろう。

 私は「まぁ、まだ時間あるしね」と笑って、目の前のジュースを飲み干した。

 みなみも同じようにストローをくわえたけれど、そのまま会話が続かなくなったので、どちらからともなく「帰ろうか」と私達は席を立つ。



 帰り道、空があかく染まりかけた中を、ふたりで歩いた。

 先程の微妙な空気感を引き摺っている気がして、それを吹き飛ばそうと私はあえて「あー、明日の英語の小テスト、やだなー」と大きな声を出す。

 みなみの方をちらりと見ると、みなみは困ったような顔で笑っていた。


「みなみは英語得意だから、余裕でしょ」

「――あ、うん……」


 話が続かない。

 心の中で、もうひとりの私が何か話せとせっついてきて、私は焦って言葉をつむぐ。


「そういえば、最近よく職員室行ってるよね。何か用事でもあるの?」


 その言葉を聞いた瞬間――みなみが足を止めた。

 私も慌てて立ち止まる。

 隣に立つみなみは、神妙な顔付きで道路に視線を落としていた。


「……みなみ?」


 目を閉じて、みなみはひとつ、細く長い息を吐く。

 それは、何かの決意のようだった。とてつもなくながい時間に思えたけれど、きっと実際には10秒にも満たない沈黙を経て、みなみが瞳を開く。

 顔を上げてこちらを見つめるみなみの表情はいつもと同じはずなのに――私の目には何故だか凛々りりしく見えた。


「智佳ちゃん、あのね」

「うん」

「私、智佳ちゃんに言わなきゃいけないことがあって」


 そこまで言って、みなみが言葉を切る。


 ――その瞬間、私の脳裡のうりにぴりっと電撃が走った。


「――言わないで」


 思わず口走った私を、目の前のみなみがその色素の薄い瞳で見つめる。

 そこには明らかに動揺の色が見て取れた。


「……智佳ちゃん?」

「ごめん、みなみ。私、ちょっと用事思い出したから先に帰ってて」


 そう言って、私はみなみを置いて駆け出す。

 背後から、私を呼ぶみなみの声が聞こえた気がした。それでも、私は全力で走る。



 ――何故だろう。

 私は、みなみが何を言おうとしたか、『知っている』。



 闇雲やみくもに走って辿り着いた先は、近所の公園だった。夕暮れを迎えたためか、遊んでいる子どもの姿はない。

 ふらふらと頼りない足取りで、私はブランコに引き寄せられていった。

 ぽつんと腰を下ろすと、みなみとの様々な記憶がよみがえってくる。私はひとりため息をいてうつむいた。

 ――その時


「『ロストフラワー・プロジェクト』」


 いきなり空間を震わせて響いたその言葉に、私は顔を上げる。

 その視線の先には、思いがけない人物の姿がった。


「――榊先生……?」


 黒いスーツをまとった影が、一歩ずつ私に近付いてくる。

 固まったように動けない私の元に先生が辿り着くまで、そこまでの時間はかからなかった。


「なに、それ」


 やっとの思いで吐き出した言葉を、目の前に立った榊先生が変わらぬ表情でかわす。


「ヒトの脳はデジタルメモリーにして250万ギガバイト相当の記憶容量を持つと言われている。言い換えれば、300年以上点けっぱなしにしたTV番組全てを録画できる程の量だ。しかし、俺達はたかだか数十年の人生においてさえ、全ての事柄を思い出すことができない――つまり、俺達の脳には数多くの記憶が眠ったままの状態でいる。そんなうしなわれた記憶と向き合い、眠った花が咲くように記憶をよみがえらせる装置――それが『喪われた花』の名を冠された我が社の製品だ」


 榊先生が淡々と言葉を紡いだ。私はただその顔を見上げることしかできない。

 先生の言っている言葉の意味が――いや


「三浦さん、君はそのことをよく知っているはずだ」


 『知っていた』はずなのに、いつしか忘れていたことに気付いたからだ。


 ***


 私がそれを知ったのは、週末の朝にとろとろと流れている情報番組が切っ掛けだった。



「信じられません、本当に。ロストフラワー・プロジェクトのお蔭で、亡くなった父に再会することができたのです」


 マイクを向けられた男性は、涙ながらにその感動を伝えている。

 彼は地元で病死した父親の死に目に逢えず、それがずっと心残りだったらしい。

 そこでこの製品を使い、自分の父親に逢いに行った――正しくは自分の記憶の中にダイブして、父との思い出を追体験したのだ。


「生前の父とゆっくり会話できたことで、私の気持ちにも整理が付きました。こんなに素晴らしい製品を世に送り出してくれた方々に、心からお礼を言いたいです」


 そんなことができるのか。私はレポートを書く手を止めて、思わず画面に見入る。

 その後も、次々と使用者の映像が映し出されていた。誰も彼もが晴れ晴れとした表情で、インタビューに答えている。


 インターネットで調べてみると、それは想像よりも随分と小ぶりなヘッドギアだった。

 決して安くはないが、全く手が出せないというレベルでもない。使用方法も簡単で、これを装着して薬を飲んで眠れば、そのまま記憶の旅に出られるようだ。

 使用者がアップした動画を確認したが、傍目はためには使用者が眠っているようにしか見えない。

 気付けば私は、製品購入の手続きを進めていた。



 私の心残り――それは、みなみだ。



「私、智佳ちゃんに言わなきゃいけないことがあって――秋から、アメリカに行くの」


 ――あの日の帰り道、みなみは私にそう言った。


 全く予想だにしなかったみなみの言葉に、私は何も言えずに突っ立っていた。

 そんな私の反応を見て、みなみはその表情を小さく不安の色に染める。やがてその沈黙を控えめに破ったのも、みなみの声だった。


「小学校に上がる前、お父さんの仕事の都合でアメリカにいて――日本に戻ってからも、いつかチャンスがあったらまた行きたいと思ってた。そうしたら、お父さんのアメリカ赴任が決まって――」


 それは知っている。生まれてからずっとこの街で育ってきた私にとって、海外からやってきたみなみは星のように輝いて見えた。

 そんなみなみと仲良くなって、沢山の時間を過ごして――そしてこれからもずっと、一緒にいられると思っていた。


「……いつから?」


 やっとの思いでひねり出せた言葉が、ぽろりと口唇からこぼれ落ちる。

 だって、みなみのお父さんがアメリカに赴任したのは、もう去年のことだ。単身赴任らしいと母親づたいで聞いていたから、みなみはずっとここに残るんだと思い込んでいた。


「――ねぇ、いつからアメリカに行くこと、決めてたの?」


 もう一度、震える声で問う。

 みなみがしばらく黙った後に、おずおずと口を開いた。


「決めたのは、お父さんがアメリカ行く前――去年の秋くらい。正式に決まったのは、今年の3月」


 去年の秋って、今は5月だから――半年以上前?

 私の中で、何かが崩れる音がした。


「――へぇ、そうなんだ。そんな大事なこと、ずっと私に隠してたんだね」

「ごめん、隠してたわけじゃ……」

「隠してたじゃん。高校生になったらパフェ食べに行こうって約束したのに――アメリカ行ったら無理でしょ」


 口から勝手に、黒い感情と言葉が溢れ出てくる。

 こんなこと言いたいわけじゃないのに、私にはそれを止めるすべがなかった。

 ――だって、馬鹿みたいじゃない。

 何も知らずにただひとりで浮かれて――ずっと一緒にいたいと望んでいたのは、私だけだった?


「もういいよ。そんなことも教えてくれないなんて、私達親友でも何でもない」

「智佳ちゃん、待って。私は――」

「私、先帰る」


 そう言って、私はみなみを置いて家まで走った。

 私の記憶に残ったのは、傷付いたような眼差しでぐっと口唇を噛み締める――元親友の悲しげな表情だった。


 ***


 それから何があったのか、よく覚えていない。

 いつの間にかみなみはアメリカに旅立ち、私はひとりになった。

 何回か手紙が届いたけれど一度も開封していないし、勿論返事も書いていない。その内私は近場の高校で無味乾燥な学生生活を送って、そして大学に進学した。


 右斜め前の家には新しい家族がやってきて、もうみなみの存在はどこにもないはずなのに、ふとした瞬間に思い出してしまう。

 小学3年生の頃、おしゃべりに夢中で帰るのが遅くなり、一緒に親に怒られたこと。

 小学5年生の頃、好きだった男の子に振られた私の話をずっと聞いてくれたこと。

 中学1年生の頃、プチプラのメイク道具を買って、初めてふたりでメイクしたこと――数えきれない程の記憶が、私の中に眠っていた。



 でも、最後に見たみなみの表情が、その思い出を全て悲しい色に塗り潰してしまう。

 ――だって、私はみなみにあんな酷いことを言ってしまった。



「三浦智佳さん――君は、中川みなみさんのことが大好きだったんだ」


 榊先生の言葉で、ふっと意識が引き戻される。

 私は公園のブランコに座ったままだった。目の前には、私を見下ろす榊先生が立っている。


「思い出は美しい――だが、それに浸ってばかりではだめだ。俺達は現在いまを生きる存在なのだから。過去の中川さんではなく、現在いまの彼女と向き合わなければ――」

「ほっといて!」


 瞬間的にかっと血が熱くなり、私は立ち上がった。ブランコが耳障みみざわりな音を立ててきしむ。

 そして足を踏み出そうとした次の瞬間――ずるりと嫌な感触が足をめて、私はその場にくずおれた。


「……え?」


 状況が理解できず、私は自分の足を見る。

 その足には、鈍色にびいろの鎖が巻き付いていた。

 いつの間にこんなものが生えてきたのだろうか。


「――時間がない、今の状況を手短に説明する」


 頭上から声が降る。

 見上げると、榊先生が厳しい表情でこちらを見下ろしていた。


「君がロストフラワー・プロジェクトを使用してから既に2ヶ月が経過している。長く過去にとらわれてしまえば、そのまま目覚めない危険性もある――それを防ぐために、俺達はこうして使用者の元を訪れるんだ。あてのない夢を終わらせるために」


 その言葉を聞いて、私は息を吐くように笑う。


「――夢? 違う、これは記憶。実際にあった思い出そのものだよ」

「いや、これは夢だ」


 目の前のその人はきっぱりと言った。


「君は見たいものしか見ていない――だから、さっき彼女から逃げたんだろう。あの後に何を言われるかわかっていたから」


 榊先生の言葉が、私の胸を刺す。

 何も言い返せない。先生の言う通りだ。

 ――本当は、わかっていた。

 中学生の頃、みなみと過ごした日々が楽しくて――いつかこの時間が終わってしまうことを、受け入れられなかった。


「……現在いまのみなみに、逢うことなんてできないよ」


 ぽつりと言葉が零れたけれど、榊先生の表情は変わらない。


折角せっかく手紙くれたのに、私ずっと無視してたから――あの子、怒ってる。目覚めたところで、私にできることなんてない」


 自分の都合の良い夢に逃げ込んでなお、そんな弱音しか吐けない自分がむなしかった。

 榊先生の視線を痛く感じて、思わず俯く。

 足に纏わり付く鎖は所々びていて、こんな私にお似合いだとも思った。


 ――その時、私の視界の中に一通の封筒が差し出される。

 その封筒に書かれた文字には見覚えがあった。


「君への預かり物だ」


 榊先生がぽつりと呟き、私は震える指でそれをつかむ。

 封を開いて取り出した手紙には、懐かしい文字達が穏やかにたたずんでいた。



『智佳ちゃんへ。


 お久し振りです。

 あれからもう5年経つけれど、お元気ですか? 私は元気です。


 急に連絡してごめんなさい。

 今更だけど智佳ちゃんにきちんと謝りたくて、この手紙を書いています。


 初めて逢った時から、私は智佳ちゃんのことが大好きでした。

 引っ込み思案じあんで人見知りの私に智佳ちゃんが明るく話しかけてくれて、不安だった毎日がぱっと色付いたことを覚えています。

 いつも元気な智佳ちゃん。あなたと過ごした日々は、私にとって救いでした。


 でも、私には小さい時から世界で活躍できるジャーナリストになりたいという夢があり、できるだけ早くアメリカに行きたいと思っていました。

 智佳ちゃんにそれを伝えられなかったのは、私が弱虫だったからです。

 伝えてしまったらこの関係性が変わってしまうような気がして、いつ言おうか悩んでいる内にあの日になってしまいました。

 智佳ちゃんと積み重ねて来た日々を考えれば、そんなこと心配する必要なかったのに……智佳ちゃんが怒るのも当然だと思います。

 あの時は、本当にごめんなさい。


 実は、最近ロストフラワー・プロジェクトを使って、記憶の中の智佳ちゃんと逢うことができました。

 あの頃の智佳ちゃんと過ごす日々は勿論楽しかったけれど、だからこそ現在いまの智佳ちゃんに逢いたいです。

 だって、私達はまだ幸運にも同じ世界にいるのだから。


 もし智佳ちゃんが嫌でなければ、逢いに行ってもいいですか?

 素直な気持ちを聞かせてください。お返事お待ちしています』



 その文字達は優しい熱をはらみ、いつしかそれらはぐらぐらと揺れ、崩れて行く。

 視界がにじんで、手紙にひとつ、またひとつと染みを作っていった。


 ――謝るのは、こっちの方なのに。

 みなみはこれっぽっちも変わっていない。私が意固地いこじになっていただけだ。


「――さぁ、本物の彼女に逢いに行こう」


 顔を上げると、榊先生が私に手を差し伸べている。

 その顔には、初めて見る微笑が浮かんでいた。

 私はゆっくりとその手を掴む。


 途端に、足を締め付けていた感触がさらりと溶けていった。

 一瞬バランスを崩した私の身体を、榊先生が優しく抱き止める。初めて感じるその力強さに、私は思わずどきりとした。


「大丈夫、このまま俺につかまっていればいい」


 まっすぐに見つめられた私は、ただうなずくことしかできない。

 夕暮れに沈んでいた空が割れて、差し込んだ光が世界をほの白く染め上げていった。

 その明るさに思わず私は目を閉じ、そして――



 ――目を開くと、見知らぬ天井が映っていた。


「……あれ?」


 思わず声をらす。身体を起こそうとしたところで、頭が随分と窮屈きゅうくつなことに気付いた。められたヘッドギアを外して、枕元に置く。

 まるで長い夢から醒めたような――そんな心持ちで、小さく息を吐いた。

 その時――


「――智佳ちゃん、おはよう」


 聞き慣れた声が私の鼓膜を揺らす。

 私はゆっくりと声のした方に顔を向けた。

 そこには、つい先程まで一緒にいたような――そんな不思議な懐かしさを纏った存在が立っている。


「――おはよう、みなみ」


 私は笑顔で、親友の名を呼んだ。


 ***


 ――あれがもう3年前だというのだから、時の流れは速い。


 病院で眠り続ける私の元を訪れたみなみは、あの後私が退院する前にアメリカにとんぼ返りしてしまった。

 それからもなかなかタイミングが合わなかったけれど、来週みなみの一時帰国に合わせてようやく逢えることになった。


『日本で何か食べたいものある? お店探しとくよ』


 SNSでみなみにメッセージを送ると、すぐにありがとうの札を持った猫のスタンプが返ってくる。

 そして――思い直して、私はもう一件メッセージを追加した。


『ちなみに、みなみとどうしても行きたいお店があって』


 そこまで打ったところで、乗っていた電車が会社の最寄り駅に着く。

 私はメッセージを慌てて送信してから、スマホをポケットにしまった。



 就職してもうすぐ半年が経つ。まだまだわからないことだらけで勉強の日々だけど、毎日が充実しているのはとても嬉しい。

 自分のデスクに着き、カスタマーセンターから届いたメールを開く。今日は午後に1件、先輩と出張の予定が入っていた。

 依頼人クライアントの状況を確認しておかなければ――そう思いながら朝ごはんのレーズンパンを取り出したところで、背後から「三浦、おはよう」と声が響く。

 振り返ると、そこには先輩が立っていた。


「榊せんせ――じゃなくて榊さん、おはようございます」


 やばい、思わず言い間違えてしまった。

 そんな私に、榊さんがその鋭い眼差しを少しだけやわらげた。


「随分懐かしい呼び方だな」

「すみません、ちょっとあの頃のことを思い出しちゃって」


 そう――私は今、ロストフラワー・プロジェクトを作った会社で顧客対応の仕事をしている。あの時榊さんに私が救われたように、私も過去に囚われてしまった人達を助けたいと思ったのだ。

 人生には色々なことがあり、時には過去の思い出に癒されたくなることもある。だからこそ、この製品は爆発的に売れたのだろう。

 しかし、それが使用者の健康を害したり、誰かを不幸にすることがあってはならない。


「榊さんのお蔭で、今の私がいますから」


 正直にそう伝えると、「俺はそんな大したことしてないよ」と榊さんが隣の席に腰を下ろした。


「今の三浦がいるのは、三浦の中にかけがえのない思い出があったから。大切な記憶は現在いまを生きる力をくれる――だから俺は、一度羽を休めた人達がまた羽ばたけるように、ほんの少し手助けをしているだけだ」


 確かにそうかも知れない。

 大切なものは、いつもその人の中に在る――それは私も、みなみも、そして他の人達だって。


 ポケットの中のスマホが震えた。取り出してみると、みなみからの返信だ。


『うん、私も行きたいお店あった。パフェを食べる約束、遅くなってごめんね』


 私は小さく笑って、OKの札を持った猫のスタンプを送り返す。

 すると、隣から榊さんの落ち着いた声が響いた。


「――ほら、9時からミーティング。朝ごはん食べるなら、急いだ方がいいぞ」

「えっ、もうそんな時間!?」


 慌ててレーズンパンを食べ始めると、榊さんがふっと笑う。

 何だか恥ずかしくなって、私はもぐもぐしながら榊さんを少しだけ睨んだ。


「……なんですか?」

「別に。俺、先行ってるから」


 榊さんが荷物をまとめて立ち上がる。

 遠ざかる背中を見ながら、私は口の中のパンをりんごジュースで流し込んだ。


 ――ふと、記憶の世界から戻る時、私を力強く抱き止めた榊さんのことを思い出す。

 あのまっすぐな瞳に見つめられて、私の心は囚われてしまった――


「――なんて、思ってないんだから」


 そう小さく呟いて、私は立ち上がる。

 今日の出張、頑張ろう――決意を新たに、私はその背中を追いかけた。



(了)

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