第3話 The sustainable tranquility
地上において悪魔がより十全に近い力を振るうには、人間と契約を結ぶことがもっとも手っ取り早い手段とされる。通常の悪魔憑きの場合、人間の身体を無理やり制圧する都合上、どうしても宿主の抵抗を抑えるために力を使う必要がある。それに対して“契約”は、悪魔と人間の合意が取れているため、制圧に用いるはずだったリソースを魔術行使に回すことができるというわけだ。ここまではメリットの話。
デメリットはふたつある。ひとつは、契約者が死亡した際にその遺体を悪魔が占有できてしまうこと。もうひとつは、死亡した契約者の逝く先が黄泉――すなわち、地獄となることが確定的になってしまうことだ。矢伏間理介は、このルールを把握していない。彼は単に宿主としての立場を継いだだけで、悪魔契約を行なっていないからだ。何も知らぬまま契約を結ぶ可能性がある以上、羽々木は迅速にラメエルを祓う必要があった。
「それで、どうする? 私を殺す? それとも、そこのおじさんみたいに私も“お姉ちゃん”にするつもり?」
注意を自分に向けさせるべく、羽々木は得意の軽口を叩く。
対して、理介は冷めた口調で答えた。
「羽々木さんには何も求めませんよ。ただ、僕たちを放っておいてほしいだけなんです」
自分でなく中年男性が“姉”の素体に選ばれた事実に内心ムッとしながらも、羽々木はさらに会話を続けた。気にしていない風を装わなければ、そのまま理介に一発“お祈り”をかましていたかもしれなかった。
「聞けない相談だね。君も分かっているんだろ? そこの男は遠からず幻惑魔術にあてられてイカれるだろうし、君もいずれ悪魔に身体を乗っ取られる身だ」
「僕は平気です。今もこうして自分を保っているし、ラメエルも協力的だ」
「そうだろうさ。悪魔は人間を堕落させるのがライフワークだからね。君が拉致監禁に手を染めながら、家族ごっこをやっている内は表向き従順だろう――まったく悪魔を自分の身体に招き入れるなんて、お姉さんもさぞお喜びのことだろう」
「うるさい!」
理介が怒鳴った瞬間、燃え残っていた家財が音を立てて吹き飛んだ。
彼の眼には、本来の瞳のほかにもうひとつ、琥珀色をした別の瞳が現れている。複数の瞳孔がある眼球――いわゆる“重瞳”は悪魔による憑依が深化している証だ。これほどの速さで進行する憑依はとても珍しい。悪魔が強力なためか、あるいは理介の肉体に宿主としての特別な素質があったためか。いずれにせよ、尋常な事態ではない。
理介の声には既に、ラメエルの嗄れた声色が混じり始めていた。
「ははは、羽々木さんの言ったとおりでした。悪魔は物知りですね。あなたに関する知識が、流れ込んできましたよ。羽々木音依、二十四歳、A型Rhプラス。大学中退後、非正規の祓魔師として活動を開始。方々から恨みを買っているためセーフハウスを幾つも持っており、現在はロイヤルパレス毛塚という
「興信所の方がもうちょいマシなネタを提出してくるよ。他に面白い話は知らないのかな、大悪魔さまは?」
「知っていますよ。たとえば、あなたもまた死後に黄泉へ堕ちることが決まっていることとかね。その原因が何か、ラメエルに訊いてみましょうか?」
「必要ない。私が教えてあげるよ」
羽々木の視線が、真っ直ぐに理介の目を捉える。てっきりたじろぐものと思っていた理介、あるいはラメエルだろうか――いずれにせよ彼は逆に動揺することになった。
「私はね、実の親を黄泉に送ったんだ」
「……は?」
「だから、君を悪魔ごと殺すことになったとしても、私は些かも躊躇することはない」
再び、羽々木がスレッジハンマーの構えを取ったのを見て、理介は小さく舌打ちする。
依然として、接近戦となれば羽々木の有利は揺らがない。だからこそ、理介は先の会話のなかで羽々木の動揺を誘うことで形成の逆転を図ろうとした。それが失敗した今、理介は遠距離からの攻撃に専念する他ない。
「肉親を地獄送りにするなんて。羽々木さんの方がよっぽど悪魔じゃないですか」
「そうだね、そうかもしれないね」
飛来する火球を叩き落としながら、羽々木は感情の薄い顔で応える。
きっと彼女は慣れているのだろう。悪魔による精神的な揺さぶりにも、自身の罪を告白することにも。慣れで打ち消せないのは、声音に滲む僅かな憂いの色くらいだろうか。
そこを突き崩そうとするように、理介がさらに言葉を継いだ。
「ラメエルが持つ知識と力があれば、死者との思い出をやり直せるんですよ。独りで死ぬよりも万倍マシな生き方だと思いませんか?」
「思わねーよ。良いか、理介くん。よく考えて答えな。君は文香さんに言えるのか。『代わりを作ったから、もう本物の姉さんのことはどうでも良いんだ』って。『死んでいる本物より、生きている偽物の方が良いんだ』って、彼女の墓前で言えるのか?」
「……姉さんはもう死んだんだ。ぼくを叱ることはない。悲しむこともない」
「だから、軽んじるのか。怒りも泣きもしないから、想うことすら止めるのか。大した家族愛だね」
「黙ってよ!」
「黙らせてみろ」
もはや語るに及ばず。
「〈
「〈遊蕩児、異端の羊に、路傍の銀〉〈惑乱もて慈悲を成せ〉」
片や、内的聖性を増幅する破魔の祈り。
片や、空間をも上書きする幻惑の呪い。
性質も威力も異なるが、まず影響範囲が違う。先に効果を現したのは、幻惑魔術だった。身の毛もよだつ瘴気の波が足下を這い回り、そして唐突にそれは実体を得る。氷の牢獄という形をとって。
格子状に形成された
「散々ぱら殴ってくれた礼だ」
氷像のように突っ立っている羽々木を見て、理介が暗い笑みを浮かべる。
依り代たる矢伏間文香の遺影を取り戻し、聖水鉄砲も弾切れさせた今、彼は己の勝利を確信していた。次はどんな幻を作り出そうか、などと思案するだけの余裕すら持ち合せていた。しかし、それは脆くも崩れ去ることになった。
「――じゃあ、これで恨みっこなしってわけだ」
祈りが成り、羽々木の肉体は清め高められていた。
祝福された上腕二頭筋が、大腿四頭筋が、氷塊による戒めを内側から爆散させる。
「バケモノめ」
パンプアップした羽々木の肢体を、ラメエルは畏怖のまなざしで見つめた。
その眼には、理介自身が現した驚嘆の色も混じっているように見える。
「そんな腕で殴られたら、この少年は確実に死ぬぞ」
「だから言ったろう。殺してでも祓うって」
「くそっ」
再びラメエルは室内の湿度と気温を改竄し、氷塊の群れを形成する。鋭利に研ぎ澄まされたそれは、足止めではなく仕留めることを目的としている。
「僕は殺したくなんかないのに。あなたがこうさせるんだ」
渦を描く氷雨は、さながら海魚の作る
自分から仕掛ければ、守りが薄くなったところを衝かれてしまうということを理介は分かっていた。しかしそれは当然、羽々木も理解するところだった。
「はは、殺せるって口振りだね」
言うや否や、羽々木が床を蹴った。いや、正確に言えば蹴った音だけが室内に響いた。姿は見えない。壁や天井を跳ね回る音と、鋭い風切り音だけが理介の耳に届く。
ソナー代わりに氷の粒子を散布しても、羽々木の居場所を推し量ることは容易ではなかった。なにせ、粒子に衝撃が加わったと知覚した瞬間には、羽々木は遥か先の地点を通過している。僅かに捉えられる残像も、足音も、氷への衝撃も、異なる結論を導くばかりで役に立たない。
ゆえに、理介は持久戦を選択した。羽々木の脚が止まるまで、氷塊の回転を維持することを決めた。魔術戦の心得のない一般人にしては、模範的な回答と言える。実際、それは正しい判断だった。
「あらら?」
脆くなった壁面に、羽々木が足をめり込ませた。攻撃を誘うための演技なのか、それとも純粋なミスなのか。理介は逡巡することもなく、攻勢に打って出た。生成した氷解の群れを一散に差し向けたのだ。
羽々木は拳打のラッシュでこれを迎撃する。彼女が手傷を負うことはなかった。氷の切っ先を指輪の中石部分のみで叩くよう、ミリ単位の調整がなされていたためだ。一体どれだけの修練を詰めば、そのような芸当が可能になるのだろう。どれだけ悪魔を憎めば、それほどまでに鍛え上げられるのだろう。
理介は、今度こそ完全に恐怖を露わにした。自分はこの祓魔師には勝てない。殺されるのは自分の方だ。そんな恐怖が、絶望じみた確信へと変わり始める。精神的動揺がラメエルを意識の表層から締め出していく。
「くそおっ!」
残った氷塊を手元に束ね、理介はまっすぐ突撃する。もはや、策も何もない。最大の質量を最大の速度に乗せて、羽々木に向かって叩きつける。氷と銀が硬質な衝撃音を立てて、ぶつかった。
飛散する氷晶のなかで、羽々木がまだ壁の傍に立っているのが見える。理介は勢いそのままに突進した。手には、鋭く研がれた氷のナイフが一振り。容易く防がれるかに思われたその一刺しは、しかし羽々木の腹部を貫いていた。
「な、なぜ――」
なぜ彼女がされるがままにしたのか、理介には理解できなかった。彼はただ手を染める鮮血に目を奪われ、自分が人を刺したという事実に怯えていた。後退ろうとする理介を抱き込んで、羽々木はそっと訊ねる。
「どうだ、怖いだろう。こんなこと、いつまでも続けられると思うか。人を殺して、傷つけて、姉のニセモノに縋りながら命を擦り減らし、最期は悪魔に乗っ取られて地獄行きだ。そんなのって、堪えられるか?」
「でも、でも他にどうしろって言うんですか。泣いて暮らせって言うんですか」
そうだ、と羽々木は頷く。彼女の手は依然、ナイフの柄を掴んだままだった。
二人の足元には小さな血だまりが生じつつあった。
「泣いて、苦しんで、受け入れろ。辛いことだが、不可能じゃない。掛け替えのない存在をそれと認めるだけだ。替えの効かないものに代わりを求めるな」
「無理だ、無理だよ」
「君にとっては他人を犠牲にする方が楽なのかな? もしそうなら、このまま私を切り裂けば良い。それで一旦は、君は邪魔する者はいなくなる。そら、手伝ってあげよう」
羽々木が心臓に向かってナイフを引き上げる。理介が慌ててそれを押し留める。
ザクザクと波打った傷跡が羽々木の腹に刻まれ、流血がさらに勢いを増した。
「何してるんですか、あなたは!?」
気付けば、理介はそれと意識せず幻惑魔術を行使していた。
羽々木の皮膚は、内臓は、血管は切り裂かれた事実を忘却し、“無傷であること“を上書きされている。手にした刃も初めから存在しなかったかのように掻き消えていた。困惑する理介に、羽々木は柔らかな笑みを向ける。
「これで、君が人を殺せないことが証明された」
「おかしいですよ、羽々木さん。どうかしてます」
「“自分を保っている”と言ったのは君だろう? 私はそれに賭けただけだ」
「賭けただけ、って。あのまま僕が刃を突き上げたらどうするつもりだったんですか?」
言われて羽々木は、いま初めてその可能性に思い当たったような顔をした。
そうして少し考えこんだのち、彼女は事もなげに答えた。
「ま、その時はやっぱり力づくで祓うしかなくなるんだろうね。たぶん、さっきの状態でも私にはそれができる。できてしまう。こんな体質だからね」
ほら、と羽々木が手についた小さな切り傷を見せる。それらは急速に塞がって、周りの体色に溶け込みつつあった。回復しているのだ。それは、理介のかけた幻惑魔術によるものでもなければ、マニフィカトによるものでもない。羽々木の肉体自体が引き起こしている現象だった。
「これは……」
「呪いだよ。母親を黄泉に送ったせいかな。あの日から、私は死ねない身体になった。まあ、そんな話は良いや。それより、それ。渡してくれるかな?」
羽々木が遺影をしゃくって見せると、理介は少し顔を曇らせて、
「頭のなかでラメエルが喚いています。そんな女の口車には乗るなって」
「なあに。私の住んでいる、地味で壁の薄いセーフハウスに比べたら、よっぽど静かなものだろうさ。我慢しなさい」
「……もしかして怒ってます?」
「怒ってないよ。悪魔祓いをしていると、色んな人間の秘密や醜聞を耳にすることになる。今さら、物件の低評価レビュー程度で怒ったりなんかしない。怒らないさ。全然、まったく、これっぽっちもね」
発言の内容とは裏腹に、羽々木の声音には不満感が漂っている。というより、これでもかというくらい満載されている。その様子に理介は思わず吹き出してしまって、それから羽々木も釣られように笑い出した。
ひとしきり笑った後、理介は意を決した様子で姉の遺影を差し出す。
「頼みます、羽々木さん。終わらせてください」
「よく言った」
床に転がっていた鍋に遺影を納めて、油を注ぐ。そうして手持ちのライターで火を灯すと、羽々木はラテン語による祈禱を始める。祈りの内容も謂われも知らぬ理介は、ただただ手を合わせていた。炎に炙られ形を失っていく写真入れを見詰めながら、静かに涙を流していた。
それは、彼が今まで積極的に避けていた行為だった。追悼も、慰霊も、彼にとっては姉の死という現実を認めるものだったからだ。だが今この時にあっては、死を否定することがその者の生をも否定することだと理介は気付いていた。
ゆえに、彼は祈ることを止めない。もう、ラメエルを必要としない。
矢伏間文香の遺影がすっかり灰と化すと、理介の重瞳は元のひとつの瞳孔に戻った。悪魔は去ったのだ。理介は急に気が抜けて、その場にとへたり込む。
とその時、さっきまで床で失神していた男――ラメエルによって矢伏間文香に仕立て上げられていた男がゆらりと立ち上がった。
悪徳祓魔師・羽々木音依の巡礼 庚乃アラヤ(コウノアラヤ) @araya11
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