第2話 Mercy Killing
矢伏間理介は恐怖していた。眼前の姉の似姿をした何かに、ではない。
祓う祓うと言いながら、得物を手に殺気を放っている自称祓魔師に対してだ。羽々木音依は、明らかに
羽々木の“祈り”には淀みがない。隙がない。そして恐らくは慈悲もない。
「待ってください、あれは姉さんですよ。それで良いじゃないですか!」
そう言って理介は、羽々木の前に立ち塞がる。
理介は自分が何をしているのか、よく分からなくなっていた。彼の記憶は、姉は交通事故で死んだと言っている。しかし、彼の本能はこの戦闘狂から姉を守れと言っている。相反する二つの思考によって、彼は冷静さを失っていた。
「いないものをいると言い張っていると、善くないものを引き寄せる。ちょうど、今のようにね。本当はもう分かっているんだろう?」
机に置かれた遺影を羽々木がしゃくって見せると、理介は首を横に振って答える。
「分かりません、分かりたくありません」
「……そっか」
羽々木が祈りの手をほどく。理介が安心したのもつかの間、その手は懐から黒々とした拳銃を掴み出していた。うわっと悲鳴を上げて、理介が頭を下げる。間髪入れずに羽々木がトリガーを絞った。
銃口から射出されたのは銀の弾丸でもなければ、鉛弾でもない。
弾体の正体は、ジハイドロゲンモノオキサイド。酸性雨の主成分であり、人体に過剰投与すれば中毒症状を引き起こす無味無臭の科学物質。またの名を“水”という。
水と言っても単なる水道水などではなく、アローアームズ社お抱えの司祭によって聖別された儀式用の聖水だ。普通の人間であれば害はない。普通の人間であれば。
「やっぱりね。お肌に水が合わないみたいだ。見てみなよ、理介くん。本当にアレが君のお姉さんかい」
羽々木お手製の水鉄砲から射出された聖水は、矢伏間文香の顔面に命中していた。着弾部からはしゅうしゅうと湯気が立ち上り、爛れた皮膚が顔を出している。
それは、清浄なる存在への拒絶反応。悪魔による憑依の証。
聖水によって暴かれた文香の“中身”は成人男性の顔をしていた。それを見た理介は、げえっと悲鳴とも吃驚ともつかない珍妙な声を上げる。
「皮膚の具合からして、死体を動かしてるって感じじゃないね。誰かな、君は?」
「矢伏間、文香」
問いに対して、悪魔は焼けた頬を引きつらせながら答える。
それを聞いた羽々木は、ゆらゆらと頭を振った。
「ああ、違う違う。訊き方が悪かったね。別にお前が誰の身体を操っていようと、ガワを誰に似せようとどうでも良いんだ。私が知りたいのはお前自身のことだ、悪魔。名前を言え。そうすれば、痛い思いをせずお家に帰れる」
「矢伏間――」
と言いかけたところで、悪魔の顔面に横凪ぎのスレッジハンマーが叩き込まれた。
シルバー925製のメリケンサック――もとい、聖別された銀細工の指輪がひび割れがちな表皮を粉砕する。一体どれだけの肉体鍛錬を積み重ねれば、それが可能になるのか。羽々木の拳打は、人ひとり分の重みを十メートル近く弾き飛ばしていた。
吹っ飛んでいく悪魔のあとを、青黒い血飛沫が彩る。
人間離れした膂力を見せながら、羽々木は何か不満そうな表情で両の手を見詰めた。
「……んん? 芯で捉えたはずだったが、そうか。幻視でインパクトの瞬間をズラされたか。本当なら、そのガワぜんぶ引っぺがすはずだったのに」
「お前のような出来損ない祓魔師に我が輩が倒せるものか。我が名はラメエル。
もはや口調も声音も取り繕うのをやめたのか、その悪魔――ラメエルは嗄れた老人のような声を居丈高に張り上げる。悪魔祓いにおいて、
少なくとも羽々木は、認識していないと踏んだようだった。
彼女はまた例の、威嚇に先祖返りしたような笑みを浮かべて挑発を始める。
「へえ、それはそれは。随分なビッグネームだ。でも妙だね。悪魔ってのは大物ほど狡猾で、知識が多い傾向にある。その傾向に照らしてみると、お前は下っ端にしか思えない」
「…………なに?」
「居着いた文化圏のことをろくに知らないから、容易く幻惑魔術を見破られてしまう。分かるかな。お前が見せるビジョンは、ディティールのなってないバッタモンなんだ。他人の目をどうこうする前にまず自分の目を磨くんだな、下級悪魔」
羽々木が言い終わるや否や、ラメエルの頭上で電灯が弾け飛んだ。
部屋中の家具家電が音を立てて揺れ出したのを見て、理介は直感的に理解した。あの悪魔を怒らせてしまったのだと。
「殺してやるぞ、羽々木音依」
喩えや錯覚などではない。明らかに、居間全体の室温が急低下を始めていた。これが悪魔による魔術行使の前兆であることを、羽々木は経験から察知していた。
「〈遊蕩児、異端の羊、路傍の銀〉〈惑乱もて慈悲を成せ〉」
「〈
ラメエルの呪文を打ち消すように、羽々木は聖書の一節を詠唱する。
内容は「ヨハネによる福音書」第一章第一節。悪魔の力に由来する奇跡の発生を妨害・減衰させる効果がある。ラテン語で唱えることで最大の効果を発揮すると言われているが、悪魔が口にする魔術詠唱についてはこの原則は当てはまらない。
悪魔にとっては、ラテン語も日本語も借り物の言葉だ。慣れ親しんだ天使の言語――通称・エノク語は堕天の折、口にする権利を失った。もはや言葉に拘りを持たない彼等は、ただ効率だけを求める。秒間で八音節を発声することができる日本語は、魔術戦において最速な武器となりうる。またそれが持つ曖昧性や多義性も、悪魔たちにとっては魅力的だったのだろう。故に彼らは、日本語による詠唱を好んだ。
「――〈幻惑魔術・
己の身の上を呪うように、ラメエルが呪文の最終節を締め括る。
瞬間、凍てついた空気が爆ぜるように温度を上げた。居間は一瞬で火の海と化し、辺りの景色は陽炎のように揺いだ。右往左往する理介が、羽々木にぶつかって床に転がる。
「こ、これも幻覚だなんて言いませんよねえっ」
悲鳴じみた声で訊ねる理介に、羽々木は落ち着きはらった様子で答える。
「幻覚だよ。触れれば燃えるし、煙は肺を傷めるがそれでもこれは幻だ。ラメエルの権能は、あくまでも幻惑にまつわる物に限定されるからね。大方、
「その通り、これらは全てまやかし。しかし、高度に練り上げられた幻惑魔術は本物以上の効果を発揮する。生物・非生物の別を問わず、この炎は“熱”を錯覚させる。さあ選べ、祓魔師。焼かれて死ぬか? それとも、我が輩に慈悲を乞うか?」
指先に火炎を集束させながら、ラメエルは口元を歪ませる。
答えの如何に関わらず、焼き殺すつもりなのだろう。形成された火球は、おあずけを食った狗のように解放の時を待ちわびている。
対する羽々木は聖書の暗唱も祈りもせずに、ただ一言を口にした。
「死んでも御免」
火柱が空間を横凪ぎした。
羽々木の姿は青白い炎に呑み込まれ、吹き抜ける熱波が灰と煤とを巻き上げる。灰色に塗りつぶされた部屋の中で、悪魔の高笑いが木霊する。
悪魔と言っても、それは神話的存在のことではない。たとえばそれは枯れ尾花が幽霊に見えるような、そんな錯覚じみた現象。脳が人間に幻視させる妄想の産物。つまるところ、それは笑い方が絶望的におっかないだけの羽々木なのであった。
「ひへへ。そうだよな、お前が言ったんだもんな。『生物・非生物の別を問わず』って。なら、一個だけ無事なものがあるのは可笑しいもんな?」
濛々と立ち込める煙のなか、羽々木は無傷の状態で佇んでいる。そして彼女の手には、さっきまで机上に置かれていた矢伏間文香の遺影があった。
「ありがとう、ラメエル。単細胞なお前のことだ。挑発したらきっと乗ってくれるだろうと踏んでいたが、予想以上の暴れっぷりだったよ。お陰で“依り代”が何か直ぐに分かった。なあラメエル、この遺影を壊したらどうなるんだ? 黄泉へ還るのか、それとも存在ごと消えるのか?」
「……貴様」
「そう怒るなよ。私はただ訊きたいだけだ。『今ここで斃れるか、それとも私に慈悲を乞うか』ってね」
先の質問をそっくりそのままお返しされて、ラメエルはとうとう逆上した。己の依り代を取り戻そうと、ただ一直線に羽々木めがけて突進する。
しかしこのとき、ラメエルは忘れていた。
飛び込んだ先が、彼女の“祈り”の間合いであることを。
一度として、その拳に反応できていなかったことを。
「〈
ラメエルの注意が上に逸れた瞬間、狙い打つ形で羽々木がスレッジハンマーを見舞った。
「余所見すんなよ、寂しいだろう」
「このっ」
ラメエルが炎で反撃に出ると羽々木は依り代を盾にして躱し、また依り代を宙に放る。そしてすかさず二挺の聖水鉄砲を放っては、今度はその片割れを宙に放る。
さながら、それはジャグリングであった。
銃を放っては殴り、殴っては依り代を盾にし、また聖水の銃撃を加える。
幻惑の悪魔が、逆に幻惑された瞬間だった。
「さて、頃合いかな」
倒れて動かなくなったラメエルを見下ろしながら、羽々木は念入りに聖水を注いだ。悪魔が弱るほどに、その依り代は魔術的な強度を失っていく。遺影の放つ邪な気配が薄れていったことから、ラメエルの存在が消えかかっているのは明白だった。
空になった水鉄砲を懐に仕舞うと、羽々木は儀式用の聖油が入ったスキットルと依り代を手にする。緊張の面持ちで理介が訊ねた。
「どう、するんですか?」
「依り代を灰にして、この男の身体から出て行ってもらう。黄泉への強制送還だな。すまないが、灰皿か何か――って何をしてるのかな、理介くん?」
「やっぱり駄目なんです。家族がいなくなるのは嫌なんです」
「……そっか」
羽々木の声に動揺はなかった。初めから分かっていたのだ。
どれだけ悪魔を祓おうとも、元凶を潰さない限り事態の終息はない。矢伏間家に巣食う魔を退けるには、理介が姉との離別を受け入れるしかないということを。
「思い出したんですよ、羽々木さん。この悪魔を
理介が手で触れるとラメエルの宿主はびくりと身体を震わせ、それからまた動かなくなる。途端に依り代が邪気を取り戻して、羽々木の手から飛び出した。
霊性エネルギーの源たる
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