2「陽だまりを歩いたモノノケたち」

 都会の喧騒、溢れる人々、眩き光沢に目を伏せる影たち。

 人の流れは波に攫われるのと同じ、自然と決められた方角に従って蠢く黒や藍の中、この横柄な男は波に逆らって一瞬の不自然を生み、そして去っていく。波はすぐに形を取り戻して、何もなかったように流れていく。

 歩行で作られた波を潜るように、建ち並ぶビルの隙間を抜けて風もまた通る。


「あ、ぐあ……あぁぁぁぁっ!!」


 波を離れた男はひとり、苦しみ悶えてうずくまった。

 風が吹く。男が苦しみ手で覆った顔から、立体が砂と消えていく。男から鼻を取り上げて、風は遠く、吹いていった。



      ◇



 電車を降りて改札の外へ出ると、東京オペラシティの地下へと繋がっている。

 黄朽葉色のコートに身を包んだは、ファクシミリで印刷された地図を頼りに歩き、やがて喫煙所に着くと中へ入った。


「久しいな」

「あ、先輩! お久し振りです! お待ちしていました!」


 中では煙草を咥えた、皺の無いスーツを着た好青年が立っていた。雑誌記者の岩崎である。

 簡単な再会の挨拶を終えると、岩崎は煙草を揉み消し灰皿へと捨てて、探偵に付いてくるように言った。

 オペラシティを出ると、首都高とビル群の、一面灰色に覆われた初台の町並みが現れた。人通りのあまり多くない午後、車の音だけが響くこの町は探偵には蕭条に映った。


「この辺りだったみたいです」

「ビル風が強いな……ぶわっくしゅいん!」

「わっ! 寒いですか?」

「いや、花粉症だ」


 ティッシュで軽く鼻を拭くとポケットにしまった。鼻を人差し指で摩っている探偵を見て、岩崎が話始める。


「平日の午前中だったので男の目撃はあったのですが、何しろ忙しない時間のことですから、はっきりと顔を覚えている人は全くいないんですよ」

「腕や肩が触れ合っても他人、ただの通りすがりだからな。それで、混雑を抜けてここまで来て、被害に遭ったと?」


 地面を見ていた探偵が顔を上げて、遠くない所に位置する東京都庁を見る。


「新宿から南通りを真っ直ぐ歩いてきたようですね」

「職場がこっちだったのか」

「いえ、無職だそうです」

「そうか……」


 日差しと風を浴びる度に探偵は鼻を押さえて、声が鼻声になる。

 岩崎は小さな大学ノートを取り出してパラパラとページを捲っていき、「鼻攫い」と題が振られたページで手を止めた。


「今年に入って3件の噂が立っているんです」

「噂?」

「ええ、鼻を取られたと言う当事者と思われる人たちは皆、家に籠りきりになってしまい、僕の方では事実確認が出来ていないんです」

「春に連れられてきた、風の噂か、現代によみがえった妖怪か……ぶわっくしゅいん!」

「わっ。と、そ、そうなんです! 妖怪だって話もあるんですよ! 風と共に身体を切り裂く、妖怪かまいたち!」

「辺りの地面を見る限り出血も見られない。かまいたちの仕業と言っても、確かに過言ではないな」


 ノートに顔を付けるように覗き込み、岩崎は話を続けた。


「ウチの雑誌に幾らか投稿があったうち、噂と一致するのがちょうど3つ。『かまいたち』『鼻攫い』『転倒事故』、どれも目撃証言ではないので信じるには難いのですが……ふたつ目です」

「鼻……サライ?」

「そうです。現象の名前として一番キャッチーなので、僕もこの名称を使って調査しているんですけれども昨日、見てしまったんですよ! 現場と言われている辺りを張っていたら、ひとりの刑事が『鼻攫い』という言葉を使って聞き取り調査をしていたんです!」

「ほーう。すると明るみにはされていないが、事件があったことは本当のようだな」

「そうなんです!」


 岩崎は指パッチンして言った。


「その鼻攫いが発生した場所が、初台、松原、新宿住吉、とどれも京王線、都営新宿線沿線なんです。それも都心からは少し逸れた、人が比較的少なくなりやすい場所で発生しています」

「目撃者がいないのも無理がない。しかしそうなると、人通りが少ない所で行われた人為的な犯罪とも取れる」

「そこなんですよ。警察が動いているのも、その可能性が少なからずあるから、と思われます」


 岩崎が指でノートをなぞっていき、やがてページの最後に辿り着いて止まった。刑事が話していた内容を、単語で区切って殴り書きされた項目だった。


「真相は恐らく、丁子に」

「チョウジ、丁子、丁子市のことか」

「え、ええ、かなり小さな町なのですが……よくご存知ですね先輩」

「ああ、調布の近くの丁子とはよく言うもんで、ハ団扇豆の隣町だ。ここからならば1時間と少しあれば行けるだろう」

「先輩」


 ノートを閉じて、岩崎が先輩である探偵の目をしっかりと捉える。

 探偵は頷いたように見せて、くしゃみを抑えるべく顔を俯かせていた。


「行きましょう、丁子市へ!」

「……その前に、昼食がまだなんだ。何か食べないか?」

「あっ。じゃあ、ひとつ戻って新宿でお弁当でも買っていきましょう」


 ふたりは来た道を戻って、電車へと乗った。



      ◇



 調布からバスに乗り換えて、丁子市へと入る。

 山が広がる景色を窓から眺めて、ふたりが降りたバス停は寺の前だった。


「ああっ! あの人ですよ!」

「そうか。……警察にしては、随分と草臥れているな」

「僕らには分からない苦労があるんですよ」


 男の顔が動くのに反応して素早く、ふたりは木陰に身を隠す。

 目線の先には寺の入口で煙草を吸っている姿があった。吸い殻を地面に落とし、光沢のない革靴で押し潰した。


「お寺の中に真実を知る者、或いは、重要参考人かがいるようだな」

「やった! これで、雑誌の連載コーナーも盛り上がるぞ……!」

「連載、噂に迫る物、だったか?」

「いえ、怪奇事件を取り上げる専門ですよ」

「限定的だな……」

「いつか先輩にも戻ってきてもらって、連載に参加して欲しいですから」

「俺の為なのか?」

「もちろんです!」

「すまないな、感謝する」

「いえいえそんな! ……あ! 刑事が去っていきますよ!」


 木陰から見ている間で、3本目の煙草を吸い終えた男が寺を見上げてから立ち去っていく。

 ふたりは姿がなくなるのを確認してから木陰を出て、寺へと入った。

 境内は、石床に落ちた葉などが簡単に掃除されてあるだけで、本堂も長く手入れのされていない古めかしい物であった。

 戸の閉まっている本堂に近付き岩崎が、すいません、と呼び掛ける。辺りは静かで、声が境内に響く。


「静かだな」

「すいません! 誰かいますでしょうか!」

「人がいれば声は聞こえているだろう。しばらく待ってみよう」

「そうですね。……と、では失礼して」


 岩崎がズボンのポケットからルピナスリュペーの煙草を1本取り出して、指先で葉を詰める。その間に周りを見渡していると、黒ずんだ立札に「禁煙」の文字が見えて、またケースに煙草をしまった。

 時々種類の分からない鳥の声が響くのを聴いて、ふたりは本堂の前で待つ。他にも、風の音、木々の揺れ、落ち葉が触れ合う音が淡々と響いていく。

 人でないものの音を遮って、ようやく声が返ってくる。


「申し訳ありません。お待たせしました。重ねての謝罪になり申し訳ありませんが、御用でしたらこちらではなく信号の先にある町役場へ行って頂けないでしょうか?」


 本堂の戸が小さく開かれて、顔を出してきたのは30代前後と見られる女性だった。女性は警戒した表情でそう言った。


「あの、僕、こういう者でして、少しお話を聞かせてもらないかという相談なのですが……」


 岩崎が名刺を手渡す。

 女性は受け取らない。


「申し訳ありません。心苦しいのですが、当寺院では取材や迷いの人は……」


 女性が言い終える前に、戸が大きく開かれた。

 女性の作務衣姿が露わになり、その奥からは壁伝いに歩いてくる老人の姿があった。女性は老人の下へ駆け寄って支える。


「おじいちゃん!」

「大丈夫じゃ、大丈夫」


 探偵は老人の姿を見て、岩崎に耳打ちする。


「目が見えないようだ」


 老人は閉じた目を探偵へと向けた。


「ええ、もうかなり前に失われました。しかし人に纏い、人が放つ波動は盲でも感じられます。ささ、どうぞ中へ」

「……申し訳ありません。ご案内致します」


 ふたりは靴を脱いで本堂へ入り、外陣へと案内された。


「謝らせてばかりでこちらこそすまないな」

「いえ、私にはまだ見えない、それだけですので」

「おおー! これは凄い仏像だ」


 岩崎が思わず声を上げる。

 外陣より見ても、内陣の先に居る仏像は圧巻の物であった。探偵も息を吐く。


「俗世を見られては、御本尊様は絶望なされるでしょう。そう思い、本堂の戸は滅多に開かないのです。そうした内に町は廃れ、後はおふたりが見た通りです」

「なるほど」


 探偵は古びた寺の姿を浮かべて納得するも、岩崎は理解出来ていないようだった。

 背の低い老人に目線を合わせてしゃがんだ探偵が言う。


「せっかくだから礼拝を」

「ええ、ええ。有難いことです。是非に、よろしくお願い致します」

「岩崎クンも」

「あ、はい」


 ふたり目を瞑り、手を合わせる。

 現世を離れて生きてきた仏像は、異質で、威厳があり、何より不思議そうに現代人を見下ろしている。


「ありがとうございます」

「こちらこそ」


 老人が探偵に向かって手を合わせ、軽くお辞儀をした。

 それから女性に連れられて外陣を離れ、縁側へと案内された。

 縁側には湯気の立っているお茶が3つ置かれている。探偵は端に座ると、戴きます、と言ってひと口飲む。


「美味い。良い、お湯出しの烏龍茶だ」

「麦茶です」

「そうか……」


 女性以外が座ってお茶を飲む。

 ひと息つくと、老人がふたりに顔を向けて話す。


「何か、外でありましたかな?」

「そうでした。……都心周辺で今年に入ってから、噂だけでも3件、人の顔から鼻が無くなるという事件が発生しています。僕達は『鼻攫い』と呼んでいるのですが、何かご存知ではありませんか?」

「鼻、攫い、ですか……」


 老人と女性が顔を見合わせる。


「今年は、とても風が強いと聞きます。辺りの風が、街まで流れていったのかもしれませんな」

「風が?」

「そうです。風には神様が住まいます。風は邪気を飛ばし、清らかな空気を与えてくださります。風が……神様が、人を邪と見て、罰をお与えになっているのでしょう」

「罰、ですか……?」

「そうです」


 話を聞くと、探偵が岩崎に尋ねる。


「岩崎クン。確か初台の男は、無職だったな。他はどうだったんだ?」

「あ……。全員、無職でした……」

「なるほどな。罰、天罰か」


 探偵は老人の目を見てそう言った。

 老人は視線を受けると少し顔を下げ、閉じたままの目に触れて口を開く。


「……昔は奔放に生きておりました。今よりも人と神様が近かった時代、風に吹かれて、邪心を持っていかれるのです。そのことは『華砂亡衣はなさない』と呼ばれておりました。衣より亡くなりて、砂となるは華である、と、そう言われておりました」


 探偵と岩崎は言葉を返せなかった。

 やがてふたりが帰る時、外陣を通る際には仏像に一礼をして、女性と老人が本堂の入口まで連れ添う。そんな時に、強い風が外へ出たふたりに当たる。


「それじゃあしつれ……ぶわっくしゅいん!」


 探偵が大きなくしゃみをした。


「御朱印なら出来ますよ」


 女性に言われ、探偵は御朱印帳を貰ったのだった。

 バスに乗って調布へ、京王線で新宿駅まで戻る道すがら。弁当を頬張る探偵と、大学ノートに文章を纏めている岩崎が会話をしている。


「もし神様もあの仏像のように町に居続けたならば、今を知らずにいられたのでしょうかね? 木枯らしと一緒に吹く風でいられたのでしょうかね?」

「どうかな。風は気ままとも言うし、目を背け続けることは人であれ何であれ無理なんだろう。300年以上休火山の富士山だって、いつかは目覚める」

「あの仏像もいつかは、大衆の目に晒される日が来るかもしれませんね」

「そうだな」


 岩崎のノートの題には「鼻攫い」の文字に2本の取り消し線が引かれて「」と書かれていた。



      ◇



 草臥れた背広、光沢のない革靴、こけた頬、春の晴天に当てられても輝くことはない。雑誌を片手に持って口には煙草が咥えられ、人通りを抜けていく。

 細い1本の歩道はガードレールの反射で分断され、自然と端を歩くようになる。

 風が吹く。正面から真っ直ぐ衝突するように、風が吹いていく。

 そしてそれは呻き声に続く。歩道の光から影へと倒れたその顔から、鼻が失われていた。

 風はまた空へ上がり、そして地上へと吹き続けるのだった。



      ◆

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薺鷺とう短編集「ナズナにサギ」 薺鷺とう @nazunasagi_10

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