第16章 夏の終わり
数日後の昼下がり。上高地バスセンターの食堂でアズサとマイコがカツカレーを食べている。
「アズサ、タカシくんのカツカレーは何杯食べたの?」
「まだ6杯。せっかくタカシさんのオゴリの10杯なのに、これじゃ消化できないよー」
「まだ10日くらいあるじゃない。1日1杯食べなよ」
「えぇー。そんなに毎日食べたらありがたみがさー」
バスセンターに新しいバスが到着する。
村営ホテルの従業員食堂で、アズサがお茶を飲んでいる。タカシが入ってきてアズサの前に立つ。
「ごめん、カツカレー全部おごれない」
「なんで?」
「さっき手紙がついてさ、南カリフォーニア大学から。大学入れてくれるって」
アズサはお茶をおいて笑顔になる。
「よかったじゃなーい。おめでとー」
タカシが浮かない顔をしている。
「でもさ、来週の新学期までに来いって言うんだよ」
アズサがビックリする。
「来週って、じゃ、早く日本立たなきゃダメじゃない」
「そうなんだ。でも、行かなきゃしょーがないよね?」
「そらー、疑問の余地なんかないよー。せっかくのチャンスじゃなーい」
タカシがうなづく。
「だから、明日出発しようと思うんだ。急いで」
アズサがしんみりする。
「そっかー。ずいぶん急ねー」
タカシもしんみりする。
「でもさ、君にカツカレー10杯オゴリきれないのが心残りでさ、、、」
アズサが少し微笑む。
「うん。あたしも心残り」
少し沈黙が流れる。アズサが視線を感じる。タカシがじっとアズサを見つめている。アズサ、キョトンとする。タカシが思い切ったように話出す。
「だ、だからさ、南カリフォーニアにおいでよ。来年の夏にでも。アルバイトとカツカレー用意しとくからさ、、、」
アズサはビックリした顔になって、少し黙り込む。タカシが目をそらす。
「ダメかな。そしたら楽しいと思ったんだけど、、、」
アズサは何かに気づく。
「うん。行くよ。行く。楽しそうだね。博士とアニューカにも会えればいいね」
タカシ、明るい顔になる。
「それいいね。それいいよ。二人も呼んでみるよ。またみんなで楽しい夏を過ごせるね」
アズサ、美しく笑う。
昼下がりの河童橋。わりと人が歩いている。
バスセンターの食堂に、アズサとマイコが座ってカツカレーを食べている。
「あーあ、タカシ君も博士もアニューカも帰っちゃって、なんか寂しいねぇー」
とマイコが嘆くと、アズサが同調する。
「寂しいねぇー。寂しいの、やだねぇー」
うしろの方から松電社長の声がする。
「おーい、アズサくーん」
向こうから松電社長が歩いてくる。アズサとマイコが手を振る。
「タカシ君、アメリカ行っちゃったんだって?大変だねー。忙しくない?」
社長はマイコの横に座りながら尋ねる。
「何とかなってます。夏休みももうすぐ終わりで、お客さん減ってるし」
アズサが答えると、社長が尋ねる。
「そう?アズサくんはいつまで?」
アズサが微笑する。
「ヒミツです」
社長が面食らう。マイコが横から口を出す。
「寂しいから見送られるのヤなんだって。だからタカシ君のことも博士とアニューカのこともお見送りしなかったんだって」
社長が残念がる。
「そしたら、送別会はナシか?松本のおいしい中華食べさせてあげようと思ったんだけど、、、」
マイコが笑う。
「ダメダメダメ。アズサは静かに上高地に別れを告げるのよ。オジさん達にまどわされずに」
社長がいじける。むこうで社長を呼ぶ声がする。
「ほら、社長、有本さんが呼んでるよ」
「なんだよー、もー、じゃ、アズサくん、気をつけて帰ってな。来年の夏もおいでよ。松電でいいバイト用意するから」
アズサが苦笑して一礼する。マイコが言う。
「いーから、いーから、行って、行って」
「なんだよー。マイコ。社長にそんなに冷たくするとクビにするぞー」
社長が笑いながら去って行く。マイコが一口カツカレーを食べてから、しんみりした顔でアズサを見る。
「でもさー、今日でお別れなんだねー。今年の夏は面白かったなー」
アズサもカツカレーを食べながら、シンミリした顔でうなづく。
「うん。面白かった」
上高地バスセンターに濃尾バスが入ってきた。
次の朝。
河童橋を大きなリュックを背負ったアズサが歩いている。
よく晴れていて、穂高岳が美しい。
河童橋を渡ったアズサはバスセンターの方に向かいながら、道の脇の木々を眺めている。もう紅葉を始めている葉がある。秋が、音を忍ばせて近づいてきている。アズサはあたりをジックリと見回しながら歩いて、バスセンターに到着する。
もうバスは到着してドアを開けている。
アズサは、バスに乗り込んで、一番後ろの席に座る。
バスが出発する。
うしろの窓から、アズサが外を見ている。
バスセンターがどんどん遠くなる。
帝国ホテルを通り過ぎる。
大正池を通り過ぎる。
釜トンネルに入る。
バスのうしろの窓から見える上高地の風景がだんだん小さくなり、光の点になり、真っ暗になる。
昭和42年の8月終わり、東京の目白には、まだ江戸の名残のような古い小さな家がたくさん並んでいる。高い建物がポツポツと建っているが、空は広く、夕焼けがよく見える。
夕焼けが、真新しい木造二階建ての家があたっている。大きくはないが、たたずまいが良い。
玄関の前の道に、黒い浴衣で黒ぶちメガネをかけたおとーさんが腕を組んで立っている。玄関から、白い割烹着のおかーさんが出てくる。
「おとーさん、おとーさん、外で待ってることないじゃない。ご近所の手前があるのにぃ」
「何がご近所だ!可愛い一人娘がはじめての長旅を終えて帰ってくるんだぞ。おまえもこっちこい!」
おかーさんがしょーがないなという顔で道まで出てくる。
「はいはいはい。おとーさんさんは、もー、あの娘のことになると、、、」
おとーさんが不機嫌そうにつぶやく。
「違う」
おかーさんが苦笑する。
「はいはいはい」
おとーさんが不機嫌そうにつぶやく。
「そーじゃない。「あの娘とおまえのことになると」だ。正しくは」
おかーさんが少しビックリしてから笑顔になっておとーさんの腕に絡みつく。おとーさんビックリ。
「やめろ、なにやってんだ。アズサが帰ってくるだろ!見られちゃうだろ!」
おかーさんが笑っている。
「見られたっていいでしょー。夫婦なんだからー」
おとーさんが小声で連呼する。
「やめろ!やめろ!」
3軒ほど先の角から、アズサが上半身を出しておとーさんとおかーさんを見ている。
「まーた腕なんか組んじゃってー。ご近所の目があるのにぃー」
おとーさんがアズサに気づく。
「アズサ、アズサ、、、」
小走りに近寄ってきて、アズサの目の前に立つ。上から下までジロジロ見る。アズサが困惑する。
「な、なんですか?」
後からおかーさんが小走りにきて、アズサの頭から脚までなぜる。
「ケガしなかった?だいじょぶだった?」
アズサが苦笑する。
「だいじょーぶだよー。貴重な体験してきたんだから」
おとーさんが少し感極まりながら尋ねる。
「そうか。楽しかったか?」
アズサがうなづく。
「はい。すごく、、、」
そして、陽気にハキハキと言う。
「だから、来年の夏はカリフォーニアに行きまーす」
おとーさんが「ガーン」という顔で静止する。おかーさんは、そんなおとーさんを見て笑う。アズサがリュックを置いて本を取り出す。
「ほら。これ、エルデシュ博士とあたしの同僚だった人が書いた本なんだって。その人、まだ21歳なのに、すごいのよ。上高地から南カリフォーニア大学に行ったの。それに、色んな人に会ったの。みんなにサインしてもらったの。すごく楽しくて、すごく勉強になったの」
おとーさんは渋々受けとって、サインに目をやる。タカシ、エルデシュ、アニューカ、主任、ナオミ、マイコ、ジロウ、松電社長、シゲル、松本記者のサインが所狭しと記されている。おとーさんが苦しげに声を出す。
「男か、、、その同僚は、、、」
おかーさんがたしなめる。
「おとーさん、もうアズサちゃんも18歳なのよ?男友だちくらい、いないとウソよ」
おとーさんが少し泣きそうになっておかーさんを見て、渋々うなづいて本を返し、ガックリうなだれながら家の方にトボトボと歩き出す。それを見て、アズサとおかーさんがニヤニヤしている。
「さ、お家入りましょう。今夜はアズサちゃんの大好きなすき焼き!」
アズサは「うっひょー」と叫んで、リュックを背負い直し、小走りにおとーさんの腕にからみつく。反対の腕には、おかーさんがからみつく。
3人の背中に夕陽があたっている。
「たしかに、無限に豊かだ」
とアズサは思った。
昭和42年の夏が終わっていく。
(了)
上高地にポール・エルデシュが来たら ジユウヒロヲカ @hirooka10
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